
「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS(和名:グリンコート・スタヂオ・アパートメントClick!)」を調べていると、面白いことがわかる。ほとんどの住民たちが、同アパートの正式名称を名のっていない。それは、自己申告である年鑑や会員名簿、紳士録などを見ると歴然としている。頭の「グリン」だけ残して、省略しているケースも多い。
仕事部屋にしていた林芙美子Click!は、同アパートをなぜか「グリン・ハウス」と呼んでいたようだが、洋画のアトリエにしていた志賀直哉Click!は特に固有名詞を用いず、単に下落合の「アパートメント」と表現している。同アパートに住んでいた住民で、もっとも多いのは名称の下部をすべて省いた「グリンコート」、あるいは大半を省略した「グリンコート・アパート」だ。それに、「Green」はそもそも「グリーン」のはずなのだが、当初よりアパートのネーミング自体が長音符「―」を無視して省略していた。昔の国鉄(現JR)が「グリーン車」を設置したあと、長音符がどこかに消え失せ「グリン車」と呼ばれるようになったのと同じ、日本語による発音特有の現象だろうか。
また、同アパートの住所もまちまちだ。わたしが調べた資料類では、その60%超が下落合2丁目722番地となっているが、残りの40%弱は下落合2丁目721番地となっている。これは、同アパートが竣工した1938年(昭和13)の時点では下落合2丁目722番地だったものが、戦争をはさむいずれかの時期に721番地に変更されたものと考えていた。しかし、大きめな敷地自体に721番地と722番地の双方が混在していたとすれば、郵便物はいずれの番地でも配達されていたのかもしれない。なお、1971年(昭和46)に行われた下落合4丁目への住所変更時には、敷地全体が721番地になっていた。
同アパートを設計したのは、米国帰りの建築家・鷲尾誠一だが、彼はアパートの竣工時から敗戦後の1960年代まで、一貫して住みつづけている。彼は1939年(昭和14)の時点で、すでに自宅住所を「下落合2丁目721番地」としており、722番地は使用していない。戦後、彼は同アパート内に「鷲塚建築設計事務所」を開設しているが、同事務所も721番地でとどけでている。1960年代の初めは、すでに長ったらしい旧・アパート名は廃止され、「グリン亭」と表記されていた時代だ。
少し余談だが、鷲尾誠一は戦前から戦後にかけ、日米協会(The America-Japan Society, Inc.)の正会員になっている。おそらく、米国から帰国した直後に加盟しているのだろう。したがって、1941年(昭和16)12月に日米戦争がはじまると、さっそく特高Click!の事情聴取と同アパートのガサ入れを受けているのではないだろうか。
さて、以前の記事で目白文化村Click!の第三文化村に建っていた、目白会館文化アパートClick!(下落合3丁目1470番地)の住民たちClick!について書いたことがあったが、今回は聖母坂沿いに建っていた昭和期の新しいモダンアパート「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」には、どのような人たちが部屋を借りていたのかを調べてみたい。
1938年(昭和13)春から入居者を募集していた同アパートは、先の小説家を廃業宣言して洋画アトリエに使用していた志賀直哉をはじめ、執筆の仕事部屋として利用していた林芙美子、アレクサンドル・モギレフスキーの門下生で滞仏からもどったヴァイオリニスト・鈴木共子、東京音楽学校のディーナ・ノタルジャコモに師事した声楽家の島本富貴子、同アパートの設計者で建築家の鷲塚誠一、文部省の雇用外国人でフランス語講師のオルトリ・ジャンジョセフ・ルイ、物語作家・翻訳家で戦時中は南洋映画の宣伝課長になる長谷川修二(楢原茂二)、映画女優の志賀暁子、東京帝大文学部を卒業し作家志望だったらしい無職の青山健二など、明らかに芸術分野の匂いがする住民が多く部屋を借りていたのがわかる。



そしてもうひとり、ほんの一時的だが谷崎潤一郎Click!も滞在している。1939年(昭和14)に、娘の谷崎鮎子が同アパートを借りていたからで、佐藤春夫Click!の甥にあたる竹田龍兒との結婚式および披露宴に出席するため、神戸市の住吉から帰京してしばらく逗留している。谷崎潤一郎が下落合にやってきたのは、同年の4月だった。当時の様子を、1942年(昭和17)に創元社から出版された谷崎潤一郎『初昔・きのふけふ』から引用してみよう。
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ちやうどその月の廿四日に、龍兒と鮎子との結婚式が東京会館で挙げられることになつたので、私達は再び上京し、二人が新婚旅行を終へて下落合のグリーンコートスタヂオアパートに家庭を営なむのを見届けるまで滞在してゐたが、我が子の幸福さうな新婚生活ぶりを見るうれしさは、そのこと自体のめでたさの中にあるし、そのことに依つて自分達夫婦の間にも春が回つて来るやうな感じを受ける所にもある。
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谷崎がグリンコートと短縮せず、アパートのエントランスに嵌めこまれた英文のネームを見ているのだろう、「グリーンコート」と長音符を入れて几帳面に読んでいるのがわかる。娘夫婦のアパートは下落合にあったが、谷崎が関西での生活を引き払い東京にもどってくると、同じ目白崖線の斜面に建つ目白台アパートClick!(現・目白台ハイツClick!)で暮らしている。その当時まで、娘夫妻が下落合に住んでいたかどうかは不明だが、グリンコートと目白台アパートはわずか3kmほどしか離れていない。クルマなら10分足らず、歩いても30~40分でたどり着ける距離だ。
グリンコートが竣工した直後は、芸術分野にかかわる人々が同アパートを利用していたが、戦争が近づくにつれ、徐々に住民たちの職業も変わっていく。公務員や会社員などが増え、美術や文学、音楽に関係する人物の名は見えなくなる。たとえば、今橋鼎(戸塚相互自動車社長)、北郷弘市(日本鉄道会社社員)、下平謙也(パイロット化学工業社員)、阿部光寛(農林省農務局農村対策部)、柴田敏夫(朝日新聞東京本社政治経済部記者のち社長)、深尾立雄(内科医師)、芝三九男(東亜研究所員)などの人々が、同アパートで暮らしていた。



グリンコートの賃貸料に限らず、当時のモダンアパートは住みこみで受付管理人(コンシェルジュ)Click!の常駐が普通で、ちょっとした一戸建ての貸家を借りるよりも家賃は高かった。したがって、比較的収入が高めな人々が部屋を借りて住んでいたのがわかる。また、戦争が激しくなるにつれ軍隊への召集や工場などへの勤労動員が増え、あるいは山手空襲Click!が予想されるようになると、故郷や親戚を頼って疎開する住民もいただろう。1940~1945年(昭和15~20)には、だいたい上記のような人々が住んでいたが、この傾向は戦後もそのままつづいている。
空襲からも焼け残ったグリンコートには、敗戦直後から以下のような人々が暮らしていた。住宅不足が深刻な時期であり、また戦後のインフレも加わって賃貸料はかなり高額になっていただろう。宮田文作(大蔵省専売局経理部)、奥山正夫(著述業)、新居俊男(日本専売公社製造局)、辻原弘市(社会党衆議院議員)、奥山誠(明治製菓総務部)、平垣美代司(全日本教職員組合書記長)、稲村耕男(東京工業大学無機化学教室助教授)、萩原正雄(会社経営)、安東富士夫(職業不詳/大分県県人会会員)などの人々だ。
特に気づくのは、政治家や官公庁など公務員が目立つことだろう。住宅難で住む家が確保しづらかった当時、市街地にあった議員宿舎や公務員宿舎も焼け、おそらくグリンコートの何部屋かを政府が借りあげていた可能性が高そうだ。
さらに、1960年(昭和35)前後になると、グリンコート・スタヂオ・アパートメントという長ったらしい名称は廃止され、なぜかレストランのような「グリン亭」というネームに変更されている。また、1960年(昭和35)をすぎると都心へのアクセスが便利なせいか、企業の事務所としても使われはじめている。先にご紹介した、鷲塚誠一の「鷲塚建築設計事務所」もそのひとつだが、北区東十条に本社のある池野通信工業の新宿出張所もアパート内に開業している。
また、下落合駅へ徒歩2分(当時は十三間通りClick!が存在しない)という立地条件から、賃料も高かったせいか会社員でも取締役クラスの住民が多い。たとえば、秦藤次(日本コーヒー取締役)、竹内誠治(プロパン会社社長)、坂井喜好(協和銀行本所支店次長)といった人々だった。だが、それも1962年(昭和37)までで、同年を境に住民の記録はプッツリとなくなる。グリン亭の全体がリフォームされ、室内もすべてクリーニングがほどこされて、新たに「旅館グリン荘」として生まれ変わったからだろう。けれども、グリン荘が繁昌したかどうかは不明だ。戦後の旅行や旅館関係の資料にも、グリン荘の記録や広告は掲載されていない。



同アパートがグリンコート時代あるいはグリン亭時代に、小説家の清水一行は部屋を借りていたか、あるいは誰かを訪ねて頻繁に出入りしていた可能性がある。住民でなかったとすれば、彼が共産党員だった戦後の時代に、同アパートで暮らしていた社会党の代議士・辻原弘市を訪問したか、あるいは日教組左派の平垣美代司を訪ねたものだろうか。彼の作品に登場する、「東京郊外」にある「S駅」近くの「グリーン荘」は、明らかに下落合駅から2分のグリンコートをイメージしたものと思われるのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:1941年(昭和16)に撮影された、水蓮プール(蓮池)のあるパティオ。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)竣工時のグリンコート・スタヂオ・アパートメント。中・下は、1941年(昭和16)と1956年(昭和31)の同アパート。
◆写真中下:上・中は、玄関および外壁と窓。下は、谷崎潤一郎と長女・鮎子(AI着色)。
◆写真下:上は、同アパートの廊下。中は、画家や写真家をターゲットに設計されたとみられるアトリエ(スタヂオ)タイプの部屋。下は、十分な採光が期待できる大きな窓の室内。
この記事へのコメント
ぼんぼちぼちぼち
貴重な写真がたくさん遺されているのでやすね!
ChinchikoPapa
谷崎潤一郎が、1939年4月にグリンコートに滞在したのは間違いないのですが、どの部屋が娘夫婦の部屋だったのかが気がかりです。そこまで調べられると、より詳しいことが分かるのですが……。