
いまから7年前に、佐伯祐三Click!が残した「制作メモ」Click!に記載されている作品が、下落合(現・中落合/中井含む)Click!のどこを描いたものかを整理したことがあった。あれから、新たな情報(画像)が入手できたり、当時の下落合の街並みについてより詳しく判明したりと、新たに規定できた作品もあるので改めて整理してみたい。
まず、7年前には確認できる「下落合風景」シリーズClick!(タブローに限定)とみられるのが53作品あり、また落合地域の周辺を描いたとみられる作品が3点(『踏切』Click!/『戸山ヶ原』Click!/『絵馬堂』Click!など)という状況だった。ところが、現在は「下落合風景」とみられる画面が、新たに見つかったものや、キャンバスの重ね塗りされた“下”の画像Click!を想定できるものも含めると、つごう58点ほどに増加している。
ただし、前回も書いていたことだが、佐伯祐三の周囲にいた人々の証言や資料類、1926年(大正15)9月1日の二科賞を受賞する以前からスタートしていた「下落合風景」作品Click!の存在や、第2次渡仏の直前の少なくとも納三治邸Click!が竣工する1927年(昭和2)6月ごろまで描かれていた「下落合風景」作品Click!の確認などから、「制作メモ」に書かれた時期を前後に大きく超えて、おそらく58点どころではなくケタちがいの点数にのぼりそうなことは、これまでの記事でも繰り返し書いてきたとおりだ。つまり、佐伯は帰国後ほどなく自宅周辺の風景を描きはじめているのであり、また大磯Click!から第2次渡仏へと向かう直前まで、「下落合風景」を制作しつづけていたことになる。
佐伯祐三は、第1次滞仏から帰国した1926年(大正15)春から、下塗りした手製キャンバス600枚を準備(渡辺浩三証言Click!)したというが、1927年(昭和2)夏の第2次渡仏までの期間に描いた作品点数とまったく見あっていない。佐伯祐正Click!が大阪ではじめた佐伯作品の頒布会を通じて、おもに関西方面へと大量に販売された作品点数や画面が不明なうえに、東京での個展Click!や展覧会Click!、あるいは画商などを通じて販売された点数も不明のままであり、「下落合風景」作品が60点弱とするには、佐伯の制作スピードや確認できるタイトル数を踏まえるならば、あまりに少なすぎると感じるのだ。
さて、1926年(大正15)9月~10月の短期間に限定されるが、「制作メモ」にある「下落合風景」の描画ポイントを改めて整理してみよう。新たに確認できた作品や、別資料のデータから判明した描画位置、当時の街並みを踏まえ特定できた描画場所などの最新情報をもとに、佐伯祐三がたどった1926年(大正15)秋の足跡を見なおしていこう。
なお、当日の天候は東京中央気象台Click!(麹町区元衛町=現・千代田区大手町1番地)の過去データによるが、東京市街地と落合地域とでは天候がかなり異なるケースClick!があるため、あくまでも天気はめやすとしてお考えいただきたい。当時の東京中央気象台と佐伯アトリエは、直線距離でたっぷり7km以上は離れていたため天候の食いちがいがありそうだ。ちなみに、今年(2024年)の6月に電話をしていて、品川は快晴で下落合は大雨という経験をした。品川の通話先と、下落合のわたしの家は直線距離で11.5kmほど離れている。




▼9月18日(曇天) 「原」(20号)、「黒い家」(20号)
「黒い家」は、「くの字カーブの道」Click!の東寄りから射す逆光に浮かびあがる黒い屋敷(牧場も経営していた宇田川邸)の画面ではないかと考える。同日の「原」は、キャンバスが同じ号数のこともあり、「黒い家」が建っていたと思われる、六天坂上のギル夫人邸Click!や中谷邸Click!の周辺に拡がっていた、赤土山Click!つづきの原っぱのことではないだろうか。
▼9月19日(晴天) 「原」(15号)、「道」(15号)
「原」Click!と「道」Click!は、近接している描画位置だ。第二文化村の北に通う、葛ヶ谷(西落合)との境界の道筋で散歩中の佐伯の目にとまった2景。「原」は、勝巳商店地所部が1940年(昭和15)1月に「目白文化村」Click!と称して売りだす広い空き地だ。
▼9月20日(晴天) 「曾宮さんの前」(20号)、「散歩道」(15号)
「曾宮さんの前」は、まちがいなく曾宮アトリエClick!の南側に落ちこむ諏訪谷Click!のことを指している。秋と冬に何度か繰り返し描かれた、諏訪谷風景Click!に相当する1作だろう。一方、「散歩道」Click!は諏訪谷から南へとつづく久七坂筋を描いたものだ。当作品の発見で、諏訪谷から薬王院、久七坂にかけての佐伯の散歩コースが透けて見える。
▼9月21日(曇天) 「洗濯物のある風景」(15号)
下落合の西端、中井御霊社の山麓Click!まで出かけたせいか、この日はこれ1作しか描いてない。もう一度、雪が降った日に佐伯はここまで遠出Click!をして制作している。
▼9月22日(小雨) 「墓のある風景」(20号)、「レンガの間の風景」(15号)
諏訪谷の南にある、薬王院の旧・墓地Click!を描いたもの。同日の「レンガの間の風景」は号数が異なるので、アトリエへ一度もどっているのか薬王院の周辺とは限らない。当時の下落合には、レンガ造りの屋敷や門柱が多く、画面も描画場所も不明。
▼9月24日(小雨) 「かしの木のある家」(15号)
第二文化村Click!と、西側の「原」(勝巳商店による昭和期「目白文化村」)との境界あたりから、広い敷地内に3軒の母家が確認できる、旧家・宇田川邸の2階部Click!を描いたものだとみられる。宇田川家の前の道は、「道」や「看板のある道」の描画ポイントと重なる。
▼9月25日(小雨) 「曇日」(15号)
作品の画面も場所も不明のままだ。佐伯が描く画面の多くが曇り空なので、どれにも当てはまりそうだ。雨もよいの1日なので、アトリエの近くを描いたものか。
▼9月26日(曇天) 「上落合の橋の附近」(20号)
この作品は、該当する画面が1作Click!のみだ。描画場所は、昭和に入って妙正寺川の直線整流化工事で消えてしまった橋の付近、のちに架け替えられるプレ昭和橋の情景とみられる。佐伯の背後には、外山秋作邸Click!(外山卯三郎アトリエClick!)が建っている。
▼9月27日(晴天) 「夕方の通り」(20号)、「遠望の岡」(20号)
「夕方の通り」Click!は、おそらく城北学園(現・目白学園)北側の道筋を描いた作品だと考えている。また、同作品にはバリエーションのあることが、展覧会の写真Click!からも見てとれる。ただし、この日に描かれたのは「遠望の岡」のほうが先だ。アビラ村Click!付近で丘上から遠望のきく坂といえば、蘭塔坂(二ノ坂)Click!上から百貨店ほてい屋Click!(現・伊勢丹デパートClick!)が望める新宿方面を描いた画面だろう。
▼9月28日(晴天) 「八島さんの前通り」(20号)、「門」(20号)
この2作の描画位置は判然としている。佐伯アトリエから徒歩1分と離れていない星野通りClick!(旧・補助45号線Click!)と、八島知邸の門Click!の前を描いた作品だ。
▼9月29日(晴天) 「文化村前通り」(20号)、「切割」(20号)
「文化村前通り」は、道の形状から第二文化村南端の道筋Click!だと思われる。また、「切割」はその道を西へ進み、左折して下った蘭塔坂(二ノ坂)Click!だ。当時の住宅敷地は湿気防止のために土を高く盛るが、両側の切り割ったようなコンクリートの擁壁群を描いている。
▼9月30日(雨天) 「坂道」(20号)、「玄関」(15号)
この2作は不明のままだ。下落合は坂道だらけだし、また「門」を描いた作品は何点かあるが、「玄関」とみられるエントランス部を描いた画面は現存していない。ただし、六天坂を下から見上げたとみられる作品Click!があるが、「坂道」に該当するかどうかは不明。終日雨降りの1日なので、午後からアトリエの近所か自身の家の玄関を描いたものか?




▼10月1日(小雨) 「見下シ」(20号)
目白崖線から見おろす作品を佐伯は何点か描いているが、久七坂の斜面に建っていた旧・池田邸の鯱(しび:フィニアルClick!)が載る赤い屋根の作品Click!に比定できる。
▼10月2日(快晴) 「晴天」(20号)、「遠望」(20号)
快晴と思われる気象条件で描かれた作品は数えるほどしかないが、該当しそうな画像は第三文化村から銭湯「菊の湯」の煙突を入れて描いた画面Click!ぐらいしか思い当らない。また、快晴の丘上から眺めた遠望作品の画面も見たことがない。
▼10月7日(曇天) 「松の木のある風景(〇〇が畑/細道)」(15号)
松の木が描かれた作品は現存していない。病気の直後なので、自宅付近を描いたものか。
▼10月10日(小雨) 「森たさんのトナリ」(20号)
下落合630番地の森田亀之助邸Click!の隣りにあった、のちに里見勝蔵アトリエClick!として使われる家屋を描いたもので、佐伯アトリエから120mほどのごく近くだ。
▼10月11日(曇天) 「テニス」(50号)
第二文化村に設置されていたテニスコートClick!を描いている。戦前から落合第一小学校の校長室Click!に架けられていたが、現在は新宿歴史博物館に収蔵されている。
▼10月12日(晴天) 「小学生」(15号)
おそらく、落合第一尋常小学校Click!の界隈を描いていると想像できるが、小学生たちが登場するそれらしい画面は現存していない。また、『看板のある道』Click!の別タイトルではないかと検討してみたが、明らかに描かれた季節が異なるので不明作品。ただし、キャンバスの重ね塗りで影が残る、落一小の校舎を描いたかもしれない作品Click!は現存している。
▼10月13日(快晴) 「風のある日」(15号)
第一文化村の水道タンク近く、おそらく鎌倉期からつづく旧・宇田川邸界隈の風景Click!だ。いまでは山手通りと十三間通りClick!(新目白通り)の工事により、両道路の交差点となって地形が変わっており、現存していない消滅した住宅街の風景作品。
▼10月14日(快晴) 「タンク」(15号)
第二文化村の箱根土地社宅用地Click!の近くに設置された、水道タンクClick!を描いたもの。現在の、下落合教会Click!(下落合みどり幼稚園Click!)に隣接した一帯だ。
▼10月15日(曇天) 「アビラ村の道」(15号)
第二文化村をすぎて、アビラ村の尾根沿いの通りClick!を描いたもの。すでに佐伯が描いたときは、東京土地住宅Click!の経営破たんによりアビラ村開発Click!は中止されていた。
▼10月21日(快晴) 「八島さんの前」(10号)、「タテの画」(20号)
またしても病気の直後なので、佐伯アトリエに直近の通りClick!を描いている。
▼10月23日(晴天) 「浅川ヘイ」(15号)、「セメントの坪(ヘイ)」(15号)
2作とも、曾宮一念アトリエClick!のあった諏訪谷周辺Click!を描いている。「セメントの坪(ヘイ)」Click!は曾宮アトリエの南側の道筋を描き、「浅川ヘイ」Click!は道を隔てた東側の浅川秀次邸Click!を描いているが現存していない。また、「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言Click!する40号サイズと、1926年(大正15)9月以前に10号前後の作品Click!が描かれている。これまで、拙サイトで「セメントの坪(ヘイ)」と規定してきた作品は、同年9月以前のおそらく真夏に描かれたもの。
以上のように、作品の描画ポイントを規定していくと、佐伯が下落合を歩いた軌跡が、時系列とともに浮かびあがる。判明している描画地点と、1926年(大正15)9月~10月の作品タイムスタンプを、1936年(昭和11)に撮影された空中写真に記載してみよう。



「制作メモ」の作品タイトルは、拙サイトでご紹介してきた「制作メモ」には含まれない作品群を考慮すれば、記録されているのは1926年(大正15)秋に制作された、ごくごく一部の憶え書きにすぎないことがわかる。「制作メモ」の中だけで、現存する作品や写真画像には比定できない画面がすでに9点もあるので、それだけで「下落合風景」の作品点数は判明あるいは想定している画面も含めると、ゆうに70点を超えていることになるだろう。
◆写真上:1984年(昭和59)8月に撮影された、佐伯アトリエ母家の一部。
◆写真中上:以下、「制作メモ」にはないが『下落合風景』と規定できる作品群。上は、朝日晃が記録した個人蔵の作品Click!(タイトル不詳)。中上は、西武線の開通前の現・中井通りを描いたとみられる作品Click!(不詳)。中下は、目白文化村の“スキー場”を描いた『雪景色』Click!。下は、開業直前の中井駅前を描いた『目白の風景』Click!。
◆写真中下:上は、山手線に架かる雑司ヶ谷道上の旧・踏み切りClick!だった鉄橋Click!を描いた『ガード』Click!。中上は、諏訪谷の冬を描いた『雪景色』Click!。中下は、渋澤農園分譲地前の葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)を描いた作品Click!(タイトル不詳)。下は、「洗濯物のある風景」の描画場所を真冬に訪れた作品Click!(不詳)。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真に記載した、佐伯祐三の「下落合風景」制作日誌。
★おまけ
現存する作品や作品画像の有無にかかわらず、佐伯祐三の描画ポイントが特定あるいはおよそ推定できている、「制作メモ」に記載された『下落合風景』作品(▼)。

この記事へのコメント
サンフランシスコ人
サンフランシスコの東端から西端までの距離ですね....
ChinchikoPapa
このところの気象変動で、ますます東京23区の天気は地域によって異なっています。夏季は、特にちがいが顕著ですね。
ものたがひ
アヨアン・イゴカー
最近は、外でイーゼルを立てて絵を描く姿を見る事は全くありません(そういう場所に行かないだけなのか)が、『マダムと女房』などにはいかにも絵描きと言った人が登場し、また見掛けられるようになるといいと思います。
ChinchikoPapa
「制作メモ」に限らず、およそ写生場所が特定できる他の作品も含めて描画ポイントを鳥瞰してみますと、「空白地帯」がある程度見えてきますね。薬王院から目白駅にいたる東側はほとんど描いておらず、西坂上から西へつづく斜面のお屋敷街はパスし、目白文化村と府営住宅の内部は描かず、いまだ田畑が多かったアビラ村から西落合にかけての丘陵地も、現存する画面での判断ですが写生していません。多くの画面は、なんらかの宅地開発が進捗するか、おそらく当時は工事現場そのものだったと思われる、東京郊外の開発地らしい落ち着かない、殺伐としていそうなエリアばかりを好んで描いているように見えます。換言しますと、すでに落ち着きを見せるお屋敷街やモダン住宅街ではなく、より外周へ伸びていく新興住宅地のエッジ部分を好んでとらえて描いている……ということになりそうです。
ChinchikoPapa
ときどき、都内各地の公園などを散歩しますと、絵を描いている方に遭遇しますが、ほとんどが水彩画で、イーゼルを立ててキャンバスに向かい油絵を描いている方を見かけません。油彩によるタブローの人気が、あまりなくなってしまったせいでしょうか。佐伯がモチーフを探して逍遥した下落合ですが、ここに住んで以来、道端にイーゼルを立てて制作している方には、一度も出会ったことがありません。
ものたがひ
ChinchikoPapa
要するに、1日じゅう写生で外出していても、いつでもどこでもそこらの森や原っぱで、気軽に用足しができるエリア……ということになりますね。(爆!) 写生先でトイレを借りたことなど、あるのでしょうか。w
ものたがひ
ChinchikoPapa
「あのな~、描きたい風景見るとな~、わしババしとなんねん。そやさかいな~、すぐ用足しでけるとこばかりな~、選んで描いとんねん。…そやねん」という声が、どこからか聞こえてきそうな気がします。w