明治期に困窮する刀鍛冶たちのその後。

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 江戸時代(おそらく前期)に、雑司ヶ谷金山Click!で鍛刀していたという石堂一派Click!のテーマにからめ、これまで大鍛冶(タタラ製鉄)Click!小鍛冶(刀鍛冶)Click!について、さまざまな角度から事例Click!地域の特性Click!をここで取りあげてきた。
 金山稲荷にいた石堂派は、石堂孫左衛門Click!(おそらく末代)を最後に刀鍛冶を廃業しているとみられる。この石堂一派の初代が、江戸初期に江戸へやってきた石堂守久(秦東連)Click!だと仮定すると、3代ほどで途切れているので、刀剣の需要が極端に落ちこんだ江戸中期には廃業するか、道具鍛冶(野鍛冶)Click!に転向したのかもしれない。そして、最後の人物名が「孫左衛門」Click!として記録されたのではないだろうか。
 江戸後期から幕末に剣術道場が隆盛を迎えると、再び刀剣(新々刀期)の需要が増大していく。だが、歴史学者・平川新の研究によれば、関八州(関東地方)に存在した剣術道場の94%が庶民(町人・農民・職人の道場主)によるものであり、武家の道場はわずか6%にすぎなかったことが判明している。つまり、本来なら脇指しか指して歩けないはずの庶民が、刀剣ブーム(武芸と美術鑑賞Click!の両面から)の招来とともに、大刀の剣術稽古を熱心にしていたことになる。日本橋の呉服商の家に生まれた、長谷川時雨Click!の父親・長谷川渓石Click!が、北辰一刀流の免許皆伝だったのは有名な話だ。
 もちろん、大っぴらに指して出歩かなければ、大刀を所有するのは庶民の勝手であり、江戸後期の刀剣需要はおもに町人や農民たちが支えていたことになる。以前にも触れたが、戦災に遭わなかった京の刀屋の大福帳では、江戸後期の注文や販売の7割以上Click!が町人からのものであり、おそらく大江戸でも大差ない営業状況だったとみられる。しかも、本来なら禁止されているはずの苗字Click!を、これらの道場主たち(農民・町人・職人を問わず)は公然と名のっており、剣術家を紹介する本(『武術英名録』など)では、すべて氏名入りで出版されていたにもかかわらず、幕府はまったく取り締まろうとはしていない。
 このあたり、江戸幕府の“触書(ふれがき)政治”を象徴するような一例でたいへん興味深い。凶悪犯罪はまったく別だが、庶民生活に関する禁止事項を触書で公布し、それに従わない場合は繰り返し何度か触書を発布する。それでも、よほど目にあまる違反行為には、その代表例をスケープゴード的に取り締まるものの、細かなことは自治組織(町役や村役)にまかせるか“自己責任”で……というような感覚だ。
 江戸期は封建主義であり、ガチガチな身分制度のもとで圧政と取り締まりに苦しんだというイメージは、最新の研究では明治につくられた虚像の側面が強く、多種多様な記録や最新データをもとに江戸時代の姿が大きく覆りつつある。その代表が、「士農工商」の身分制度など存在しなかったにもかかわらず、一部の中国思想に忠実な儒学者が唱えた用語で江戸期の封建制を強調したいがため、薩長政府がデッチあげていたのが好例だ。現代では小中高校の日本史の教科書から、「士農工商」の虚構は丸ごと排除されつつある。
 苗字・帯刀・武芸禁止など生活上のさまざまな“御触”(禁令)も、およそ庶民は遵守していない。むしろ、明治期のほうが警察組織による暴力的取り締まりが過酷で厳しい事例が多かったという。圧政や高税に苦しみ怒りを爆発させる農民一揆は、江戸期より明治期のほうが発生件数が多かったという史実は、すでにこちらでもご紹介Click!していた。
 もっとも、明治期の農民一揆は資本主義政治思想の基本理念(議会制民主主義)を踏まえた「自由民権運動」と結びつくケースも多く、時代錯誤な王政復古と公家+藩閥政府に対する反発・抗議運動の性格も強かっただろう。江戸期の“触書政治”の様子を、2008年(平成20)に小学館から出版された『日本の歴史』第12巻より、平川新の文章から引用してみよう。ちなみに、同書はいまから15年以上も前の記述(論証)であり、現代では江戸期(特に都市としての大江戸市内)の研究・分析がさらに進捗している。
  
 幕府による百姓や町人の武芸禁止の触(ふれ)など、ほとんど効果がなかった。そもそも幕藩制国家は、こうした事態に対応できる取り締まり装置を十分にもっていなかったといってよい。これまで幕藩体制は、むきだしの暴力国家として描かれてきたが、最近では、教諭国家としてのイメージを強めつつある。触書だけをみると、庶民に対して、いかにも厳しい取り締まりをしているかのようにみえるが、実際はそれほどでもなかったからである。武芸禁止も、まさに教諭にとどまっていたのであった。
  
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 さて、新たにスタートした薩長政府では、行政の実績やノウハウを備えた人材がまったく足りず、結局は江戸幕府に閣僚や役人として勤務していた幕臣たちを大量に採用して、各領域の事業・業務の継続や新設をはかることになる。拙サイトでは、郵政の前島密Click!や西洋医学の松本順Click!などのケースをご紹介したが、同様に刀鍛冶も幕府からそのままスライドするように雇用が継続している。源清麿Click!の弟子だった栗原信秀は、戊辰戦争ののち1869年(明治2)にさっそく新政府の兵部省から招聘されている。
 また、1873年(明治6)にはウィーン万国博覧会のために、幕府の御用鍛冶だった石堂運寿是一Click!や固山宗次に、美術工芸品としての大刀を各2振り発注している。ふたりのうち、固山宗次は早々に政府から鍛冶の技量をかわれ、目黒火薬庫Click!で鉄砲鍛冶に就任していたという伝承も残っている。また、栗原信秀は刀身彫刻の名人だったので、政府をはじめ日本各地の社(やしろ)から神具や鏡などの制作も依頼されている。
 だが、1871年(明治4)の脱刀令(太政官第399号)につづき、1876年(明治9)には太政官布告38号、いわゆる廃刀令が布告されると、刀鍛冶たちは文字どおり飯の食い上げとなった。それでも、同布告に強く反発した士族からは、しばらく注文がつづいただろうが、刀鍛冶の仕事が先細りなのは目に見えていた。士族たちの反発は根強く、腰に指さなければいいと大刀を手にもって歩いたり、杖やステッキなどに反りの浅い刀を隠して外出したりと、刀剣に対する執着は長期にわたってつづいた。
 余談だが、現在の刑法ではなんらかの明確な目的をもち、登録証とともに美術工芸品として刀剣を携帯・外出するのは適法だが、仕込み杖や仕込みステッキはハナから違法であり、手にして歩いているのが見つかれば銃刀法違反に問われる。
 廃刀令で失業した刀鍛冶の中には、下落合ではおなじみの相馬家Click!中村藩の藩工Click!だった慶心斎直正のように、将来の生活を悲観して自刃した人物もいた。また、源清麿の弟子だった斎藤清人は、故郷の山形県庄内へともどり実家の温泉旅館を継いでいる。だが、先の栗原信秀のように、刀を制作できなくなった多くの刀鍛冶たちは、自身の技術が活かせる別の職業を模索することになる。目白(鋼)Click!の扱いに習熟し、それを加工する高度な技術を修得していることから、道具鍛冶(野鍛冶)へと転身する刀鍛冶も多かった。
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 たとえば、2代・加藤綱俊は、当初は政府の工部省器械場に雇用されたが、仕事がつまらなかったものか辞職し、包丁や小刀などの刃物鍛冶に転身している。石堂運寿是一の次代、8代・石堂是一も同様にハサミや小刀を鍛造する刃物鍛冶に転向し、9代・石堂秀一は大工道具鍛冶になって現代でもその名が知られている。長運斎綱俊(2代)の息子・千代鶴是秀は、優れたカンナやノコギリ、ノミなどの大工道具を鍛造して高名になった。また、左行秀は廃刀令のあとしばらく鉄砲鍛冶をしていたが、やはり仕事がつまらなかったものか大阪、次いで横浜で刀剣商を開業し、同時に刀の研磨Click!も引き受けている。
 また、さまざまな伝法(刀の鍛造法)に通じた腕のよい刀鍛冶たちの中には、偽名刀を制作して密かに刀剣商へ流す人物も現れている。大慶直胤Click!の弟子だった細田平次郎直光(通称「鍛冶平」と呼ばれる)や月山貞一は、その抜群の技量から古刀に似せて刀を打ち、茎(なかご)に偽名を切り錆つけをしては古刀に見せかけ糊口をしのいでいた。これらの偽名刀は、刀の目利きでも見分けがつかないほどの精巧な出来だったようだが、月山貞一はその卓越した技量をかわれ、のちに「帝室技芸員」に任命されている。
 さらに、廃業した刀鍛冶の末裔には、美術分野と緊密な関係を築いた人々もいた。明治期になると、西洋から洋式の彫塑・彫刻表現がもちこまれたが、その彫刻刀を鍛造する仕事で、朝倉文夫や高村光雲Click!光太郎Click!らに重宝された刀鍛冶たちだ。2016年(平成28)に東洋書院から出版された伊藤三平『江戸の日本刀』から、その一部を引用してみよう。
  
 彫塑家の朝倉文夫はブロンズで製作していたにも関わらず、<千代鶴>是秀の仕事に惚れ込み、植木の手入れ道具から、釣果を調理する包丁、印を彫る時の篆刻刀まで、身の回りの刃物のほとんどを注文している。(中略) 栗原信秀の娘婿の信親は、明治一二年に大正天皇の誕生を祝して刀剣を献上したが、その後は彫刻刀の製作に関わり、高村光雲、光太郎の親子に高く評価される。高村光太郎が『美について』の中の「小刀の味」で「わたくしの子供の頃には小刀打の名工が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重されていた。切出の信親、丸刀の丸山。(中略) 信親、丸山などになると数が少ないので高い値を払って争ってやっと買い求めたものである。」(< >内引用者註)
  
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 2014年(平成26)に豊島区立郷土資料館から刊行された紀要「生活と文化」第24号には、江戸東京でヤスリ(鑢)を代々鍛造しつづけた、池袋本町の「稲田鍛冶店」についての記録が収録されている。稲田家の家系もまた、江戸期よりつづく刀鍛冶の系譜なのかもしれない。ちなみに、「稲田」というネームは出雲神のクシナダヒメ(櫛稲田姫)Click!と同様の苗字であり、古代の産鉄技術集団(タタラ製鉄)Click!との深い関連も大いに気になるところだ。

◆写真上:明治期に記憶画として描かれた、江戸期の上覧剣術稽古の様子。
◆写真中上は、1897年(明治30)制作の周延『千代田之表 武術上覧』。千代田城内で、武術稽古を見物する将軍を描いている。中上は、栗原信秀の刃文で荒錵(あらにえ)が混じる相州伝の技法を踏襲している。中下は、栗原信秀の刀身彫刻で玉追龍(不動明王)。は、石堂運寿是一の錵の強い互(ぐ)の目のたれの相州伝刃文。
◆写真中下上左は、石堂運寿是一(7代・石堂是一)の肖像。上右は、横浜で刀剣商兼研師になった左行秀。中上は、自刃した相馬中村藩藩工の慶心斎直正の刃文。丁子(ちょうじ)ごころで、小錵のついた広直(ひろすぐ)を焼いている。中下は、生活に困窮し偽名刀を多数手がけたといわれる月山貞一の刃文。匂(におい)出来の小丁子を焼く備前伝だが、のちに「帝室技芸員」となった。は、同じく偽名刀を数多く手がけた細田直光(鍛冶平)自身による偽作押形(おしがた)。専門家でも見分けがつかないほど完成度の高い偽名刀で、鍛冶平自身が公開した本書により、かろうじて彼の偽名刀が識別できる。
◆写真下は、石堂仙寿斎是一のカンナ。は、いまも人気が高い千代鶴是秀のカンナ。下左は、2008年(平成20)出版の『日本の歴史』第12巻(小学館)。下右は、江戸期の刀鍛冶について詳しい2016年(平成28)出版の伊藤三平『江戸の日本刀』(東洋書院)。

この記事へのコメント

  • サンフランシスコ人

    「触書だけをみると、庶民に対して、いかにも厳しい取り締まりをしているかのようにみえるが、実際はそれほどでもなかったからである..」

    2024年の中国政府が最新技術を使用しても、厳しい取り締まりが困難ですから、コンピューター無しの江戸時代の状況は想像に難くないですね...
    2024年06月27日 01:01
  • ChinchikoPapa

    サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
    わたしは、いまだに江戸幕府が規定したと教科書で習った、「士農工商」の身分制度がアタマから離れませんが、教育による「洗脳」というのは恐ろしいものです。書かれているとおり、凶悪犯罪はともかく街中の細かな生活上の“禁止”事項を取り締まる、組織や人員がほとんど存在しませんので、町役・村役、より身近なところでは大家や差配たちの自治に任せるしかなかったのでしょうね。うっかり摘発しようものなら、町役や村役の責任も問われますので、組織的には慎重にならざるを得なかった側面もあるかと思います。
    2024年06月27日 10:23