
先ごろ、下落合2118番地にアトリエをかまえていた椿貞雄Click!が、1925年(大正14)の春陽会第3回展に「下落合風景」とみられる画面をいくつか出品していることを書いた。その中で、『美中橋』と題する作品を2点出品しており、そのうちの1点は同年の『みづゑ』4月号(春陽会号)に画像が紹介されていることに気がついていた。でも、同号は稀少のせいか画面をいまだ確認できていないとも書いた。ところが、わたしの親しい友人が「みづゑ」の同号を探しだし、わざわざ『美中橋』の画面をコピーしてお送りくださったので、改めて同作について詳しく検討してみたい。
以前の記事で、『美中橋』は下落合(現・中落合/中井含む)の南を流れる、妙正寺川に架かっていた「美仲橋」ではないかと書いた。もっとも、大正期の美仲橋は現在の位置ではなく、蛇行を繰り返す妙正寺川のやや上流にあり、いまの美仲橋から60mほど西に架橋された簡易な木造橋だった。おそらく、画面が描かれた1925年(大正14)の当時、美仲橋は架けられて数年ほどだったろう。椿貞雄は、地元の人から橋名を「みなかばし」と聞いてはいたが、漢字表記はしっかり認識していなかったと思われる。
「みづゑ」掲載の画面を見たとたん、大正中期の落合風景だと直感できる作品だった。描かれた橋は、あまり手間をかけず間にあわせに架けられたらしい木製橋であり、橋下を流れているのは妙正寺川だろう。大正末には、蛇行する旧・神田上水Click!および妙正寺川Click!の整流化工事が、数年後(実際は昭和期)に実施される計画が広く知られていたとみられ、半恒久的な鉄筋コンクリート製の架橋工事は行われていない。
椿貞雄は、以前にもご紹介したように春陽会展へ『美中橋(1)』と『美中橋(2)』の2点を出品しているが、「みづゑ」に掲載された画面は価格が高いほう、すなわちキャンバスサイズが大きい『美中橋(2)』のほうではないかとみられる。ちなみに、『美中橋(2)』は250円だが『美中橋(1)』は120円と半額以下なので、後者はサイズも小さめな画面なのだろう。同展への椿出品でもっとも高額なのは、同じく下落合を描いたと思われる『江戸川上流の景』と、アビラ村(芸術村)Click!の道を描いたとみられる『晴れたる冬の道』の2点で、それぞれ500円の値がついている。
『美中橋』の画面は、後方左手から光線が当たっており、そちらが南側か南に近い方角と考えたほうが自然だろう。当初は、西陽が射している夕景かとも考えたが、妙正寺川の流筋やモチーフの陰影からすると不自然だ。仔細に観察してみると、手前の河原に生えた草叢が枯れて薄茶か黄色をしているらしいこと、遠景右隅に描かれたケヤキと思われる大木が落葉していることなどを踏まえると、真冬に描かれた風景だとみられる。冬の射光を前提とすれば、この画面は午前中に描かれたものだと想定できる。
画面の右手、なだらかな丘上に見えている大屋根は伽藍建築であり、明らかに大きめな寺院が建っているとみられる。橋下の川筋は画面の右手、すなわち北方向へ蛇行しているとみられ、右手から左手へとつづくなだらかな丘下の谷あいにも、小流れか灌漑用水路などがありそうな気配だ。その丘下の位置、画面の左手にはなんらかの施設と思われる建物群や数本の煙突、さらに農家か小屋のような建物が集合して見てとれる。その丘麓に生える樹木も、すべて葉を落としているのが判然としている。これらの画面情報を踏まえ、午前中の射光を考慮すれば、この風景に見あう場所は落合地域でたった1ヶ所しか存在しない。



椿貞雄は、当時は落合町葛ヶ谷御霊下872番地(のち下落合5丁目)あたりの妙正寺川に架けられた旧・美仲橋の東側から、南西の方角を向き上落合(左手)と上高田(右手)の丘上の寺町が拡がる風景を写生していることがわかる。
先述したとおり、昭和期に入ると蛇行した妙正寺川の流れをできるだけ直線に修正するとともに、美仲橋は五ノ坂つづきの道筋につながるよう、描かれた旧・美仲橋の位置から60mほど下流へ新たな現・美仲橋として建設されている。1929年(昭和4)には、美仲橋はすでに五ノ坂つづきの位置(現在地)へ架け替えが終わっているので、簡易な旧・美仲橋が架けられていた期間はおそらく6~7年ではなかったろうか。
右手の丘上に見えているのは、中野町上高田324番地に建つ江戸初期の慶長年間に創建された神足寺本堂の大屋根だ。神足寺は、1607年(慶長12)に行心和上によって江戸市街の木挽町(現・中央区銀座)に建立されたが、1910年(明治43)になると銀座地域の商業地化とともに、現在地の上高田へ移転してきている。実は、神足寺については拙サイトにも何度か登場しており、佐伯祐三Click!の『堂(絵馬堂)』Click!探しですでに同寺を訪問していた。また、神足寺が建つ丘の東斜面には古墳末期とみられる横穴古墳群が集中して築造Click!されており、上落合へ鳥居龍蔵Click!を招聘した月見岡八幡社Click!の守谷源次郎Click!が、考古学チームを組んで昭和初期に発掘調査を行った逸話もご紹介している。
その左手に見えている屋根は、上高田320番地の願正寺の屋根だろう。願正寺は、1912年(大正元)に上高田へ移転しているが、それまでは牛込区原町、その前は江戸の麹町、さらに以前は神田に建立されていた。拙ブログをお読みの方なら、すでにお気づきかと思うが明治期に建っていた牛込区原町3丁目25番地の願正寺Click!境内に下宿していたのが、三宅克己Click!に入門を断られた中村彝Click!だ。上高田の寺町は戦災をまぬがれ、願正寺は昔の面影が残る古建築なので、中村彝が見ていた本堂と同じものかもしれない。
神足寺を含む上高田の寂しい丘上の寺町は、大正期から昭和初期にかけ夜間に行われた町内パトロールの順路になっており、怖い思いをしながら金輪のついた鉄棒をジャラジャラ鳴らし、拍子木を連打しながら巡回した印象的な記録が残っている。少し横道へそれるが、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田の昔語り』(非売品)より、夜警の様子を引用してみよう。



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道順は、上高田本通りから原田屋さん前まで行く。次に宝仙寺の東側の墓道の間を抜け、願正寺や神足寺の間を抜け「洗い場」の雑木山を木の枝につかまりながら下る。下は耕地整理中の家一軒もない草っ原の所謂「ばっけの原」、これを抜けて氷川様前から、今度は東光寺の前から光徳院前まで行き、更に東光寺の裏手の狭い道を抜け、上高田小学校辺を一巡し、新井薬師駅辺から再び本通りら出て、詰所に戻った。
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地図を見れば、いまでも容易にたどれるパトロールの道順だが、大正期から昭和初期にかけては人家もないようなエリアが多く、夜警の当番を嫌がっていた様子も記録されている。ところで、上高田の地元民も最寄りの西武線・新井薬師前駅を、「新井薬師駅」Click!と呼んでいたのがわかる証言だ。この書籍に限らず、中野区教育委員会が編纂した資料類でも、駅名から「前」を抜いて「新井薬師駅」というのが地元では昔から恒常化していたようだ。ちなみに、別テーマで調べていた中野区刊行の戦後資料でも、多くが一貫して「新井薬師駅」と表記しているので(下段おまけ参照)、わたしも少し安心した。w
さて、なぜ上高田の町内パトロールがそれほど怖かったのか、その答えは椿貞雄『美中橋』の画面左手に描かれた施設群だ。この位置に見えるのは、のちに牧成社牧場Click!が開業する谷間の突きあたりにある、落語「らくだ」Click!でも広く知られていた江戸時代からつづく落合火葬場Click!だ。寺々の墓地中道をゆく夜警パトロールは、この火葬場が近くに見える寺町の丘がいちばん怖かったのではないだろうか。
描かれた煙突のうち、画面左のいちばん高い煙突が落合火葬場のもの、その右手のわずかに低めな煙突が大正期から営業していた銭湯「吾妻湯」(1935年ごろから「帝国湯」)、そして左端のいちばん低い煙突が最初は火の見櫓かと思ったのだが、1925年(大正14)現在は未設なので、火葬場に付属する焼却炉の煙突だろうか。
画道具を抱えた椿貞雄は、1924年(大正13)暮れないしは1925年(大正14)年明けの冬の朝、アトリエをあとにすると上ノ道=アビラ村の道Click!(現・坂上ノ道)を西へ60mほど歩き、五ノ坂を下って中ノ道Click!(=下ノ道/現・中井通り)へと出た。当時、五ノ坂下は丁字路になっており、南側は一面の水田が拡がっていたので、道を右折(西進)すると約60mで妙正寺川へと下る田圃の畦道にさしかかる。朝日はすでに高く昇っており、霜が降りた田圃や妙正寺川の土手は、キラキラと光を反射していたのかもしれない。
この畦道を南南東の方角へ95mほど歩くと、『美中橋』の描画ポイントである旧・美仲橋へとたどり着くことができた。椿貞雄は、旧・美仲橋をわたらず蛇行する妙正寺川の土手沿いを少し東へ歩くと、冬で水抜きされた田圃の葛ヶ谷御霊下900番地(のち下落合5丁目900番地)界隈にイーゼルを立てて、南西の方角を向きながら『美中橋』を描いている。朝早めにアトリエを出たせいか、制作時間はたっぷりあっただろう。午前中におおまかな構図を決め絵の具をざっとの薄塗りすると、あとはアトリエ内での仕事だったのかもしれない。



1925年(大正14)で第3回を迎えた春陽会展だが、会員の椿貞雄は同展で14点もの作品を展示している。その中に、故郷の米沢風景を描いた『置賜駅前風景』という作品がある。どのような画面かは不明だが、同年の中央美術展には『置賜駅前風景』のバリエーション作品とみられる「前」を抜いた『置賜駅風景』を出展している。こちらの画面は、『日本美術年鑑』(1925年版/中央美術)に残されている。「みづゑ」に掲載された『美中橋(2)』とみられる画面だが、バリエーション作品の『美中橋(1)』をはじめ、「下落合風景」と思われる他の作品の画面が、どこか異なるメディアに残されてやしないだろうか。
◆写真上:1925年(大正14)発表(制作は前年?)の、椿貞雄『美中橋(美仲橋)』。
◆写真中上:上は、画面右に描かれた大正期の神足寺とみられる伽藍大屋根の拡大。中は、画面左に描かれた建物群と煙突の拡大。下は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる御霊下900番地の描画ポイントと推定画角。
◆写真中下:上は、大正期から何度か改修されている神足寺本堂の現状。中は、なだらかな丘を麓から見上げた神足寺山門の現状。下は、西武線に断ち切られているが旧・美仲橋へ向かう水田の畦道跡は同線路の南側にいまも残る。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画位置とその周辺。中は、移築だとすれば中村彝も目にした源正寺の本堂。下は、1925年(大正14)の中央美術展に出品された椿貞雄『置賜駅風景』で『置賜駅前風景』(春陽会展)のバリエーション作品だと思われる。
★おまけ
五ノ坂下につづく美仲橋を南側から撮影したもので、『美中橋』に描かれた旧橋から60mほど下流に架かっている。中の2葉は現在の落合斎場で、昔の暗い火葬場の面影は皆無だ。下は、たとえば中野区刊行の『中野区勢概要』(1964年版)にみる西武線の「新井薬師駅」。この伝でいけば、「高輪G/W」駅はほどなく「高輪駅」Click!と表記されそうだ。w




この記事へのコメント
NO14Ruggerman
ほぼ同数であることに驚いてしまいました。
ChinchikoPapa
わたしも、中野駅のほうの乗降客が圧倒的に多いイメージがありますので、ちょっとビックリですね。大江戸線からの乗り換えで、利用客が増えたものでしょうか。
ChinchikoPapa
当時の東中野地域(旧・大塚/柏木地域)は、住宅がかなり密集していたエリアですので、いまと比べて人口も多かったものでしょうか。中野駅周辺には、住宅とは別に広い陸軍施設が多かったせいもありそうですね。ちなみに、現在の乗降客数を調べてみましたら、中野駅が約12万人/日で、東中野駅が約4万1千人/日と、中野駅が3倍に膨れ上がっていました。
RR
https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/togodb/database_top.php
そして、私は上記の類作で福岡市美術館に所蔵されいている《早春路上》1925年について調べています。千葉市美術館で2017年に開催された没後60年の椿貞雄展には、上杉博物館と同様の場所を描いた《新緑》1925年、千葉市美術館の2点が図録掲載されていまして、合わせると3点、同じ場所の風景画をえがいていることになります。
こちらの風景が、下落合のアトリエからの景色となると面白いのですが、このことについてもし、作品をご覧いただいてわかるかとなどありましたらご教示いただけたら幸いです。(メールでのやりとりなど可能でしたら、方法をお知らせいただきたく思います。)
ChinchikoPapa
『晴れたる冬の道』は、確かに坂道のある風景ですが、下落合あるいは上落合の風景のようには感じません。茅葺き農家が随所に見え、かなり鄙びた雰囲気は大正末にみられた落合地域の風情とは、少しちがうような気がします。椿貞雄のアトリエがあった「アビラ村」は、近くにオシャレな吉屋信子邸や大きな島津邸の西洋館、あるいは別荘風の洋館が建ち並んでいたエリアですので、同じ場所を描いたとみられる『早春路上』も、落合風景には見えないんですよね。
『晴れたる冬の道』は、草土社風の表現から仲間が住んでいた鎌倉あたりの坂道を描いたようにも見えます。ちなみに、鵠沼は海辺の平地で絵のような坂道はありませんので、わたしの感覚としては鎌倉風景のような気がします。