落合地域における関東大震災の証言ふたつ。

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 1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!における落合地域の被害は、屋根瓦でケガするなど負傷者はいたかもしれないが、犠牲者の記録には目にしたことはない。建物が2軒倒壊したという記録を読んだ憶えがあるけれど、その2軒とも江戸期に建てられたとみられる、農家の道具類や農作物を収納する納屋だったという。
 この記録は、下落合437番地の目白中学校Click!が刊行していた校誌Click!か、上落合470番地の吉武東里Click!に関連した資料か、あるいは岩本通雄Click!が著した『江戸彼岸櫻』(講談社出版サービス)で読んだものだろうか、記憶がさだかでない。ちなみに、上落合の吉武東里邸Click!がそうだったように、下落合の近衛町や目白文化村などに建っていた近代住宅群は、ほとんど被害を受けていない。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)にも、関東大震災のことはほとんど触れられておらず、特記すべき被害がなかったからだろう。また、当時の住民が大震災について語った資料にも、死傷者の話は出てきていない。
 これが、落合地域の周辺町村になると大規模な建物の破損、たとえば西巣鴨町池袋にある立教大学Click!本館中央塔の壁面レンガ破損、小石川町にある日本女子大Click!校舎の一部大破、戸塚町にある早稲田大学Click!の大講堂の崩落と演劇博物館破損、早大および学習院Click!にある化学薬品を常備していた理科教室の全焼などが記録されている。また、やや大きめな火災は学習院の特別教室1件のみで、ほかに住宅などの火事は少なくともわたしの知るかぎり目にした憶えはない。
 下落合の関東大震災について、めずらしく証言している資料を見つけたのでご紹介したい。以前、麹町区麹町で15歳まで育ち、そのあと母方の実家も近い下落合へと転居してきた、青木初という方の記録だ。彼女は、21歳のときに下落合で建築の建具師と結婚し、母親の実家近くで新家庭を営むことになった。おそらく、新居は見晴坂下の下落合(3丁目)1794番地(現・中落合1丁目)の、中ノ道Click!(現・中井通り)に面した敷地だと思われる。1922年(大正11)のことで、その翌年に関東大震災を経験している。1993年(平成5)に新宿区立婦人情報センターから刊行された『新宿に生きた女性たちⅡ』収録の、青木初『二人三脚の建具屋の暮らし』から引用してみよう。
  
 次の年に関東大震災があって、家は焼けなかったけど、電気は止まる、ガスは出ない、精米所も機械が動かなくなって、玄米しか食べられないものだから子どもがわあわあ泣いてましたよ。電気もガスも出なくなったものだから、当座は野宿して、雑木林の木から木へ蚊帳を釣って寝ました。お腹に子どもがいましたから、冷えないようにって主人が気を使ってくれましたね。通りを焼け出された人がぞろぞろ歩いて行きましたよ。/井戸に毒が投げこまれたってデマが飛んで、水が飲めませんでした。在郷軍人が見回っていましたよ。
  
 この証言をみると、目白崖線の坂下ではすでにガスが引かれていたことがわかる。同時期の丘上にあった住宅街である目白文化村Click!アビラ村Click!には、いまだガスが引かれておらず高価な海外製の電気コンロ・レンジClick!を使った調理が行われていたが、見晴坂の下に位置する青木邸の台所にはすでにガスがきていたのが確認できる。
 やはり余震の心配から、震災直後には野宿をしているのは、上落合の吉武東里一家Click!が近くの竹藪へ避難し(竹林は地盤が強固と信じられ、当時は避難する人々が多かった)、そこで夜を明かしているのと同様だ。まだ夏の暑さが残る9月の初めだったせいで、野宿をしても身体を壊す心配がなかったのも不幸中の幸いだった。
 震災から半日ほどすると、大火災Click!が発生している市街地から逃れてきた、疲弊した避難民の行列が目白通りを次から次へと通り抜け、下落合ではその救護に忙殺されることになる。また、ありもしないデマゴギーに翻弄され、在郷軍人会などを中心に「自警団」Click!が結成された経緯は、かなり前に拙サイトでもご紹介したとおりだ。
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 もうひとつ、西落合で関東大震災に遭遇している記録が残っている。近くの野方村江古田から、落合村葛ヶ谷(現・西落合)の江戸期からつづく農家へ嫁いできた女性の証言だ。同資料に収録された、伊佐アキ『落合に農家の暮しを守りぬいて』から引用してみよう。
  
 昔の家は百年位経ってたっていうけど、昭和三十三年に建て直したの。まだ壊す程には傷んでなかったんだけど。萱があればよかったんだけどね。西落合ではうちだけが江戸妻造りの二棟になってる家だったんだよ。太い梁があって、太い大黒柱で、天井も縁の下も鴨居のところも太い欅が縦横十文字に通ってて、くい込みは深いし、壊すのに仕事師がずいぶん骨が折れたらしいよ。今のこんな家なんか関東大震災位のがあったらひとたまりもないよ。関東大震災の時には、長男がやっと立つか立たないか位だったのを縁側から腹んばいで抱えて、そこの櫟の木の所まで逃げたよ。それでもって、大黒柱が五寸位傾いちゃったんだもの。古い家の大黒柱は、しめ縄をはって玄関の所にとってあるよ。
  
 伊佐アキという方は、太い梁や大黒柱のある堅牢な家の造りだったから倒壊しなかったとしているが、近衛町Click!や目白文化村に建っていた新興の住宅街も、特に大きな被害は受けていないので、落合地域は住宅の仕様いかんではなく、地面の揺れかたが市街地に比べて弱かったのだろう。これは、先の東日本大震災でも感じたことだが、東京の平地と丘陵地とでは地盤のちがいから、明らかに震動の伝わり方が異なっていたとみられる。
 また、落合地域とその周辺域で火事がほとんど起きていないのも、被害を最小化できた要因だろう。市街地で家屋の倒壊により、その下敷きになった犠牲者Click!は約5,000人と推定されているが、残りの犠牲者はすべて延焼による焼死だった。
 先の建具師と結婚した、青木初という方の証言にもどろう。大正後期から昭和初期にかけ、落合地域はあちこちで住宅の建設ラッシュがつづいていた。だから、住宅の内装(戸やドア、襖、障子、欄間、窓、雨戸、鎧戸など)を手がける建具師は引く手あまただったのではないか。当時は、ひと仕事終えるとすぐに支払いとはならず、“掛け”(月末や年末などにまとめて決済すること)がふつうだったので、その掛取りには苦労をしたようだ。
 彼女の証言には、大晦日に掛け取りへ出かける苦労話が語られている。建具師といっても、工務店と同様に住宅建設を丸ごと引き受けることもあり、家では掛け取りの帰りを大工やガラス屋、電気屋、左官屋、材木屋などが待っているので、一家のマネジメントを任されていた彼女は必死に掛け取りへまわっていたようだ。下請けの店や職人たちに、支払いを済ませなければ正月を迎えられないわけで、除夜の鐘が鳴り響く深夜から夜明けまでかかって決済業務を行っていた。
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 同家では、“若い衆”(社員・店員のこと)を常時4~5人は使っていたので、その面倒も常に見なけばならなかった。仕事で羽織る半纏の裁縫や、彼らの食事や弁当の世話、給与計算、藪入りClick!には持たせる故郷への土産なども彼女が一式手配したのだろう。うちの父方の実家は建築関係ではないが、やはり“若い衆”が残された記念写真類を見ると常時20~25人ほどいて(戦争がひどくなるにつれ急減していく)、経営やマネジメントのいっさいは祖母が指図して仕切っていた。
 戦時中、青木家ではふたりの息子に20日ちがいで赤紙がきて兵隊にとられている。長男と次男の出征を、相次いで見送った彼女は口惜しさと怒りとで(もちろん当時はそんなことを表立ってはいえないが)、半ばヤケになったのだろうか。つづけて、同資料より引用しよう。
  
 もう、何でも来い!という感じでした。親戚の疎開先から来るようにと言ってきたけど、「お気持ちはありがたいけど、聖戦に二人とも取られて明日をも分からぬ命なのに、私だけがのんきに疎開なんかしていられません。」とお断りしましたよ。私は強情でしたからね。直ぐ近くに焼夷弾が落ちた時は、リュウマチで寝ていた母親をかかえて、娘と二人で逃げたんですけど、離れ離れになっちゃって「二人の息子が死んだも同然なのに、娘まで死んだらどうするんだ!」って主人に叱られましてね。次の日遠くの崖の下で会えた時は本当にホッとしました。目白から長崎の方まで真っ赤になって、家も全焼してしまったけど、実家が隣の貸家まで焼けたのに奇跡的に助かったんです。そこへ子どもと二人で入って暮らしましたよ。主人は座間へ徴用に出かけてたんですよ。
  
 1945年(昭和20)の4月13日Click!および5月25日Click!山手大空襲Click!は、両日とも深夜になってからB29の大編隊が来襲しているので、一家で逃げても混乱の中ではぐれてしまった家族が多くいたようだ。再会できた「遠くの崖の下」とは、目の前にバッケが原Click!が拡がる中井御霊社Click!目白学園Click!のあるバッケ(崖地)Click!の下のことだろうか。山手空襲のとき、下落合の西部では空襲の激しさから防空壕での退避をあきらめ、中井御霊社やバッケが原をめざして避難した方たちが大勢いた。
 敗戦のあと、彼女は息子たちの安否を確認しようと稲毛の復員局へ出かけているが、ふたりの消息は復員局でも不明でまったく知ることができなかった。だが、1946~1947年(昭和21~22)にかけ、ふたりともなんとか無事に生還している。
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 この記事でも少しご紹介しているが、野方村江古田に生まれて1921年(大正10)に落合村葛ヶ谷(現・西落合)の農家へ嫁いできた伊佐アキという方の証言は、地域農家の民俗や風習が描かれていてたいへん貴重だ。機会があれば、また別の記事としてぜひご紹介したい。

◆写真上:地割れで市電や車両が通行不能となった、東五軒町あたりの目白通り。左手は江戸川(1966年より神田川)で、対岸は西江戸川町のビル群。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる青木邸界隈。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同邸界隈。は、左手が北方向の1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸あたり。
◆写真中下は、1923年(大正12)11月2日に目白駅前で撮影された日本女子大の本所救援に向かう女子学生たち。は、同女子大キャンパスにおける救援物資の消毒作業。は、震災で倒れた薬品棚から出火して全焼した学習院の特別教室。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮影された青木邸界隈。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同邸界隈。は、中井通り沿いにある同所の現状。

この記事へのコメント

  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。関東大震災の記事を大変興味深く拝見しました。地震の対策は、建物の強度も必要ですが、地盤の強度がやはり重要ですね。埋め立て地などはいくら建物が頑丈でも被害は避けようがないですね。海沿いのタワマンがお金持ちのステータスなんだそうですが、武蔵野大地の戸建てのほうが、よほど価値があるように思いますね。価値観は、人それぞれですけれどー
    2023年11月08日 21:05
  • ChinchikoPapa

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    江戸期からの埋め立て地に建てられた、高層ビルやマンションの揺れは想像を絶しますけれど、比較的地盤が強固な淀橋台に建っているとはいえ、新宿西口の高層ビル群も怖いですね。先の東日本大震災で、最上階に近い位置に入っていたラウンジだかレストランの映像を見ましたけれど、大きな揺れに合わせてグランドピアノがフロアを隅から隅まで横断するように滑っていました。ちょうど、地震が起きたのが昼間のお客が少ない空いている時間帯でしたが、あれが夜間の混雑時で、しかも同時に停電したりしたら目も当てられない状況になるのではないかと思います。
    2023年11月08日 21:37