めずらしく子母澤寛が怒る『味覚極楽』。

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 一昨年の記事につづき、「なにいってやがる」とイラついた人物の話をひとつ。意地きたないので、また食べ物の話になるが……。戦後、子母澤寛大森から神奈川県の藤沢に転居していた。そのころには、『味覚極楽』でインタビューした相手は、ほとんどが物故してこの世にいなかった。だから、戦前の光文社版ではなく、戦後刊行の龍星閣版(1957年)や中央公論社版(全集/1963年)、あるいは新評社版(1977年)などには、インタビュー時のリアルタイムでは書けなかった子母澤寛の率直な感想が、各人物ごと徐々に付属していくことになる。
 その中には、著者がめずらしく立腹している文章がある。東京日日新聞の掲載時には第15回の「長崎のしっぽく」で取材した、自称「南蛮趣味研究家」で「文士」の永見徳太郎だ。この人物については、わたしも読んでムカッ腹(ぱら)が立ったのだが、出身地である故郷の長崎料理について、そのままストレートに「美味しいんだよ」と褒めて推奨すればいいものを、江戸東京における料理や嗜好をいちいちケナしながら、ことさら長崎料理を持ちあげているのだ。東京で食べる料理の一部が、「どれもこれもなっていない」そうなので、今回はひとつ、わたしもこの人物の品格やレベルに相応の表現で書かせてもらおうか。
 こういう人間を、なんと表現すればいいのだろう? 長崎で暮らし地付きの人間として、東京へ旅行した際に味わった料理や食文化と、長崎の地元のそれとを比較して、やはり故郷の長崎料理のほうが水もあうし、その地域のデフォルトとして形成された味覚がいちばんに決まっているし、東京の料理はどうしても口にあわない……というような文脈や経験譚であれば、育った故郷の味覚文化=“母味・母舌”が美味しいと感じるのは当然のことで、しごくもっともなことだと理解でき納得もできるのだが、わざわざ東京地方にやってきては腰をすえて住みつき、当地の料理を「うまくない」と吹聴してまわる、本人にとっては“よその地方”の料理文化を好き勝手にケナし貶めるのは、はたしてどんな神経をしているのだろうか?
 いつかの記事でも書いたが、その逆を考えてみればこの人間にもわかるだろうか。わたしが長崎地方へ勝手に住みつき、刺身を注文して箸をつけたとたん、「なんで醤油が甘いんだよ? どれもこれもなってねえじゃねえか!」などと突っ返したら、長崎人はおそらく「おうち、なしてわざわざ長崎に住んでまで食べよっと!? ほんなこてぇ、故郷に帰って食べれ!!」と激怒するだろう。同じことを、わざわざ東京地方でやっていることに、ご当人はまったく気づかないのだ。自身の故郷の習俗・文化を自慢したいのはわかるし、わたしも故郷が好きなのでたびたびここに“お国自慢”を書いている。だが、よその土地にあえて住みつき、その地方のそれらをけなしながら故郷の食習慣・食文化を褒めそやすのは、どのような脳内構造をしているのだ?
 ふつうのオトナとして、なにが無神経でみっともないかをわきまえる感覚を備えた人間であれば、よその地方へ自身の都合や好みでやってきて住みつきながら、当地の料理や食文化をけなしたりしたら、無分別なガキ同然の人間として、周囲から忌避されるのは当然だろう。子母澤寛は「ガキ」とは書かないが、永見徳太郎を世間知らずで礼儀知らずな「旦那」で「病気」だと皮肉り軽蔑しているのが、感想の「旦那文士」からはありありと透けて見える。
 では、『味覚極楽』の永見徳太郎インタビューから、少し引用してみよう。
  
 東京でも赤坂田町の「ながさき」築地の「たからや」の二つだけがまず長崎料理らしいものを出すけれども、やはり東京人に好くように、だいぶ調子が変わってきている。「ながさき」の方は冬に入ると魚も長崎から取り寄せるし器物もすべて長崎物、板場から女中まですべて長崎ずくめだがそれでもどうも本当の長崎の味は出てこない。(中略) 水たきは博多が本場のようなことをいっているが、実は長崎から移ったもので、東京の水たきは、どれもこれもなっていない。水臭くもあるが、まず鶏が長崎のような訳にはいかないのである。烏森の「海月」、牛込の「川鉄」、銀座うらの「水月」など、感心しなかった。(中略) 江戸っ子が一枚着物を質に入れても食うという鰹は長崎島原にかけて実にうまい。これを大きく皮ごとぶつ切りにして砂糖醤油へ半日から一日つけておいて、それからうすく刺身に下ろして、からし醤油で食べる。東京のようにぴんぴんしたのを、そのままではないが、これもまたなかなかうまいものである。
  
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 東京の店で出す長崎料理は、「長崎料理らしいもの」であってホンモノではなく口にあわないようだし、東京の鶏の水たきは「どれもこれもなっていない」そうだし、せっかく刺し身になるようなカツオを、「砂糖醤油」(!?)に漬けておくのがいちばん美味(うま)い食べ方なのだそうだ。これを、長崎で暮らしている長崎人が現地でいっているのなら、そんな食い方もあるのかとめずらしがって聞き流せるが、それをわざわざ東京地方へ引っ越してきて住みつき、当の地元でケナしまくっているから呆れてひっかかるのだ。地元の人間が聞けば「てめぇ、ケンカ売ってんのか?」(職人言葉で失礼)というようにも受けとれる。
 こういう人間に投げる言葉は、ひとつしかないだろう。「そんなに江戸東京地方の料理が気に喰わなきゃ、故郷に帰って食やいいだろうが。仕事が東京だから? バカをいっちゃいけない。誰かに拉致・誘拐されたわけじゃあるまいし、自から主体的に好きこのんで選択し、気に喰わねえ土地に住んでんのは、どこのどいつだ? おきゃがれ!」。今日的にいえば、好きこのんでやってきて日本に滞在しながら、その料理や文化にケチをつけ傍若無人にふるまう外国人(だったらなぜわざわざ来日するんだ?)と、この地元ではさして変わらない感覚だろう。
 子母澤寛も、インタビュー時から相当アタマにきていたようだ。彼は江戸末期、祖父の代には薩長軍と戦うために江戸から函館まで出向し、子母澤寛の代になってようやく江戸東京へともどってきている幕臣の家柄だ。だから、家庭内で食されていた料理はまちがいなく江戸東京の味覚だったろうし、話されていた言葉は子母澤寛の口調から推察すれば江戸東京方言(城)下町言葉だったろう。永見徳太郎は、それを知ってか知らずか、子母澤寛にとってはことのほか腹の立つインタビューだったにちがいない。
 新聞社の仕事で忙しいさなか、永見徳太郎は子母澤寛を無理やり引っぱり出して長崎料理を押し食いさせている。イヤな「旦那」なので何度か断ったようなのだが、それでもゴリ押しで新聞社から連れだされた。インタビュー相手が推奨する料理については、めったに悪口を書かない著者だが、このエピソードではありのままの経緯や感想をそのままむき出しで書いている。同インタビューへ、戦後になってから付記した「旦那文士」から引用してみよう。
  
 「いや今日はぜひ君に食べさせたいものがある」/といって、はっきり覚えていないが赤坂へつれていかれて、御馳走になったのが、前の記事にもある鰹を皮のまま大きく三枚に下ろして、前の晩から砂糖醤油へ漬けておいたのを料理人が目の前でぶつぶつ切りの刺身におろして、とろりとしたからし醤油で食べさせる。/ 「どうだ、こんなうまいものはないだろう」 「いやあまりうまくない」 「そうか、おかしいね、君の舌はどうかしてるな」 「甘ったるくてね」/といったら、いきなり料理人を、/ 「これ少々砂糖が利きすぎてるじゃあないか」/と大声で叱りつけた。残った髪が白くて頭の真ん中の禿げた料理人であったが、/ 「へえ、相すみません」/と、ぺこぺこ謝った。永見さんはこの家の上得意だったらしい。そうそう、暖簾にひょうたんが斜めに染めぬいてあった家だ。
  
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子母澤寛「味覚極楽」1983中公文庫版.jpg 子母澤寛「味覚極楽」2004中公文庫版.jpg
 「こんなうまいものはないだろう」と、うまさを無理やり押し売りしているのが長崎地方ではなく、東京地方でやっているのだからもはや救いがたい。料理人を客の前で、これ見よがしに叱ってみせるのもキザ(気障り)で野暮で嫌味だが、江戸東京舌の人間に砂糖の入った甘い醤油に漬けた刺し身(江戸東京のヅケは生醤油に漬けたマグロの赤身にワサビ)を食わせること自体が、そもそもケタ外れでメチャクチャなことに、永見徳太郎は東京で暮らしていながら気づかないのだ。あるいは知ってても知らないフリをしたのか、それとも子母澤記者に無理やり「うまい」といわせたかったものだろうか。
 「せっかくの新鮮な刺し身ガツオを、甘い砂糖醤油なんぞに漬けやがって、なに考えてやがるこの大べらぼうが!」となる、そんな味覚の地方にやってきてうまさの押し売りをするから不可解千万なのだ。子母澤寛も、「人(料理人)のせいにすんじゃねえや、地方の味覚や食文化が丸ごとまちがってんだよ!」と、ノド元まで出かかったにちがいない。
 ことさら避けたいイヤな人物に、とびっきりマズイ「刺身」を食わされただけではなく、取材当時から腹の虫がおさまらなかったらしい子母澤寛は、永見徳太郎が「迷惑人間」で「病気」だったことを隠さず、あからさまに軽蔑をこめた文章を残している。
 つづけて、「旦那文士」から皮肉たっぷりな一節を引用してみよう。
  
 よく「なにか食べに行きましょう」と誘う。御馳走になるのはいいが、こっちは迷惑だったことが多い。交際しているうちに永見さんは妙にこう著作家扱いをされたがる人だなということが次第にわかってきた。世に「旦那文士」というのがある。ろくに物も書きもしないで、それで食ってでもいるようなゼスチュアをしたり、旅行をして宿屋へ泊ると宿帳に職業を「小説家」などとやっつける。無理にも文士交際をしたがりたい人がよくあるでしょう。私の知ってる人でも同じ風なのが二、三人いる。立派に財産があって、ねてても食えるというのになにを好んで文士仲間などに入りたいのか。わざわざ名刺に「伝奇作家」などという肩書をつけている人もいるし、文士の会などというとどこをどうするのか率先出席して一席ぶったりする。一種の病気だろうが、実に気の毒な病人があるものである。
  
 取材からおよそ30年ほどたっているが、子母澤寛は永見徳太郎への怒りを忘れていなかったようだ。“よその地方”へフラッとやってきては、そこに根をはり代々の骨を埋める覚悟もなく傍若無人にふるまい、その土地のさまざまなものをケナしては、居心地が悪くなるといつの間にか行方不明になっていなくなる。こういう不マジメで卑怯な輩はいつの時代にもいるもので、戦時中の寺々にいた「敵前逃亡」坊主たちではないが、昔ながらの「大江戸(おえど)の恥はかき捨て」、いま風にいえば他所で「持続不可能」な言動をやらかしては都合が悪くなるとトンヅラする、没主体的でいい加減な人間の典型を、子母澤寛は見いだしていたのかもしれない。
 確かに、長崎地方からわざわざ東京地方へやってきて住みつき、砂糖醤油の刺身を「こんなうまいものはないだろう」と地元の食文化で育った舌の人間に押し食いさせたりするのは、まったくもってあまりにも地域の食習慣に無知なのか、江戸東京地方の“食”を丸ごと無視してないがしろにしているものか、あるいは上記「旦那文士」のたとえでいえば、ほとんどビョーキの世界だろう。
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 その後、永見徳太郎は「どれもこれもなっていない」東京を引きあげて、温泉地の湯河原(神奈川県)や熱海(静岡県)に移り住んでいるが、そこでも旅館や料理屋に「文士」の名刺を配りながら、この地域には「うまい料理屋がない」と吹聴してまわり、料理人を叱っていたのだろうか? それほど関東あたりの食文化や味覚が不満なら、なぜ長崎へとっとと帰らないんだ? この男は晩年まで故郷には帰らず、最後は文字どおり行方不明になって終わっている。

◆写真上:永見徳太郎のような人間が、江戸東京の料理をけなしながら長崎料理を賞揚すると、長崎料理の品位が大きく下がると思うので蛇足を。長崎料理の東坡肉(とうばに)で、中国料理の東坡肉(トンポウロウ)に似ているが、まちがいなく美味だ。
◆写真中上は、大正期の撮影らしい永見徳太郎。は、「どこをどうするのか」「文士交際したがり」で参加したらしい記念写真。右から左へ「旦那文士」永見徳太郎、マジメな経済学者・武藤長蔵、マジメな小説家・芥川龍之介、マジメな小説家で編集者・菊池寛。
◆写真中下は、サルではなくイヌと写る若き日の子母澤寛。は、いまでも手に入りやすい中公文庫版の子母澤寛『味覚極楽』1983年版()と2004年版()。
◆写真下は、和食・中華・洋食が混ざりあった異国情緒が楽しめる長崎料理屋の卓袱(しっぽく)料理。江戸東京方言では、蕎麦にのせる長崎風の具とからめ「しっぽこ」と発音されることが多い。は、これもコクがあってまちがいなくうまい本場の長崎カステラ。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年05月14日 23:02
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも驚きましたが、いまのカーネーションはいろいろな
    バリエーションがありますね。
    2025年05月14日 23:15

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