少し前に、夏目漱石Click!の『坊っちゃん』Click!にからめ、愛媛県尋常中学校(=旧制松山中学校)の卒業生だった安倍能成Click!の随筆「くにことば」(『朝暮抄』収録/1938年)をご紹介していた。そもそも、なぜ夏目漱石は東京を離れ、松山へ赴任することになったのだろうか? “灯台下暗し”とはこのことで、その答えがごく近所に眠っていた。
当時、松山市北京町に住んでいた愛媛県参事官の浅田知定は、尋常中学校(のち松山中学校)の校長・住田昇から英語教師に欠員ができたので、後任を誰にしようかという相談を受けていた。従来は、1年契約でC.ジョンソンという外国人教師を雇っていたのだが、いわゆる“御雇い”外国人とあって、給与が150円/月と高めだった。当時の150円は、現在の物価指数で換算すると60万円前後になる。そこで、浅田知定は月給80円ぐらいで、誰か英語を教えられる日本人教師はいないかと、同郷(福岡県久留米)の出身で当時は東京美術学校Click!の教授(ドイツ語)をしていた菅虎雄に相談した。
美校の菅虎雄は、東京のあちこちで普及しはじめていた電球が頭の上でピカッと点灯するように、就職試験に失敗してブラブラしている、学生時代からの友人の顔がひらめいたのだろう。その友人とは、当時、高等師範学校の英語教師を悩んだすえに辞職し、英語新聞社を受けて不採用になり途方に暮れていた夏目金之助(漱石)のことだ。なにをする気も起きず気力が萎えて、いわゆる神経衰弱の症状にみまわれ鎌倉に参禅するなどしていた夏目漱石は、今日の用語でいえば鬱状態だったのだろう。
ちょっと余談だけれど、わたしが子どものころは英語の新聞のことを「英字新聞」と呼ばれることが多かったけれど、「英字」という文字は存在しないので正確には英語新聞が正しいのだろう。英語に使われている文字は、ローマ時代に発明されたローマ字のアルファベットであって、イギリスで発明された「英字」ではない。ほかに、ローマ字のアルファベットを基準に採用している国の新聞のことを、「フランス字新聞」や「ドイツ字新聞」と呼ばないのと同じだと思うのだが……。
菅虎雄は、松山の英語教師の職を彼に奨め、また漱石自身も環境が変われば気分も変わると考えたのだろう、松山赴任を承諾している。、1987年(昭和62)に筑摩書房から出版された『夏目漱石全集』第2巻の『坊っちゃん』では、こんなふうに描かれている。
▼
三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立(ママ)ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。/卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。
▲
愛媛県参事官の浅田知定が提示した英語教師の月給は80円だったが、『坊っちゃん』の数学教師ではさらに半額の賃金ということになっている。40円は、今日の給与に換算すれば15万円前後になってしまう。まあ、『坊っちゃん』の設定は学校を卒業したばかりということで、東京帝大卒で師範学校の英語教師を勤めていた漱石のキャリアとは異なる新卒だから、当時の給与としては半額ぐらいがリアルな数字だったのだろう。
1895年(明治28)3月30日に、漱石の送別会が神田の学士会館で開かれ、4月7日に新橋駅Click!を出発し9日に松山に到着、10日から中学校嘱託の英語教師に着任している。おそらく、松山では参事官の浅田知定と住田昇校長らが出迎えたのだろう。
当時は、愛媛県の教育参事官をつとめていた浅田知定は、1861年(文久元)に久留米藩の奥御勝手役80石の家に生まれ、1880年(明治13)に東京へくると東京大学予備門文科に入学している。1887年(明治20)には東京帝大法科大学政治学科を卒業し、内務省に勤務したあと1894年(明治27)には愛媛県の教育行政をになう参事官に就任した。つまり、浅田自身も漱石が赴任する前年に、愛媛県へ着任したばかりだったことがわかる。
また、漱石を浅田に紹介した菅虎雄も、1864年(元治元)に久留米藩有馬家典医の家に生まれ、東京にきて東京帝大文科大学独逸文学科を卒業している。浅田知定より3歳年下の菅虎雄だが、同郷人ということで帝大時代に仲よくなったのだろう。また、菅が独逸文学科3年のとき、漱石が英文科1年に入学している。当時の文科大学(のち文学部)は、1学年の学生が30名前後しかいなかったというので、全員が顔見知りだったのだろう。漱石と菅虎雄が親友になるのは、在学中ではなく大学を卒業したあとのことだ。
こうして、尋常中学校(松山中学校)に赴任した夏目漱石だが、松山の水があわなかったらしく日々ストレスがたまる一方だったようだ。そんな漱石を落ち着かせようとしたのか、浅田知定は漱石に何度か縁談(見合い話)をもちこんでいる。浅田は、漱石がなんとか松山で長く英語教師をつとめてくれるよう、地元の嫁さんを世話しようとしていた。それが、「マドンナ」のような女性だったら少しは漱石も心動いたのかもしれないが、どうやらまったくちがうタイプだったらしく、漱石はますます憂鬱になっていく。
そのときの浅田知定と夏目漱石の様子を、2003年(平成15)に岩波書店から出版された『漱石全集』第13巻の付録月報に掲載された、原武哲『漱石を「坊っちゃん」にした2人―菅虎雄と浅田知定―』から引用してみよう。
▼
浅田は漱石を何とか長く松山に落ち着かせたいと思い、あれこれ縁談を持ち込んだ。夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思ひ出』によると、「県の参事官の或る方」(浅田知定)宅で若い女と見合いをしたが、馴れ馴れしくやって来てしゃあしゃあと相手をし、他愛もないことに手放しでげらげら笑う謹みのないのに閉口したという。
▲
おそらく浅田は気をまわし、江戸東京育ちの漱石へできるだけ趣味があうよう、ざっくばらんで少しじゃじゃ馬がかった利発かつ活発な、明るい性格の女性を紹介したつもりなのだろうが、日々のストレスが鬱積している漱石にしてみれば気障りで、「閉口」する以外になかったのだろう。浅田の思惑とは裏腹に、漱石は縁談を断りつづけた。松山に赴任して1年がすぎたころ、漱石は熊本にいる菅虎雄へ松山での不平・不満をぶちまけている。
浅田知定は、1896年(明治29)に愛媛県の参事官から岩手県の書記官へと転勤し、盛岡市鷹匠小路へ居住している。つづけて、1898年(明治31)には青森県へと転任し、同年には貴族院書記官として東京へもどっている。1901年(明治34)になると、浅田は台湾澎湖庁長に転出し、1903年(明治36)には臨時台湾糖務局課長に着任、そのとき局長をつとめていた新渡戸稲造Click!をサポートしている。新渡戸が転任したあとは、そのまま横すべりで台湾湾糖務局の局長に任命された。
その後、浅田知定は官吏をやめ、1910年(明治43)ごろに大倉喜八郎Click!らが出資した台湾の新高製糖の専務に就任し、台湾では実質的な社長として製糖事業を展開していったようだ。下落合473番地(現・下落合3丁目)に自邸を建設したのは、ちょうど同社に在職中の大正初期ではないかと思われる。1916年(大正5)に作成された1/10,000地形図を参照すると、同年に竣工する下落合464番地の中村彝アトリエClick!はいまだ採取されていないが、その西並びにあった広大な浅田知定邸はすでに採取されている。
1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」には、中村彝アトリエ(のち鈴木誠アトリエClick!)の西100mほどのところに、広大な浅田邸がフルネームで記載されている。現在でいえば、オープンレジデンシア目白御留山やメゾン浅田などのマンション群から、アダチ版画研究所のある一画まですべて含め、七曲坂Click!筋に面した正方形に近い敷地が、すべて浅田知定邸だったことになる。ただし、「下落合事情明細図」が作成されたのと同年、浅田知定は下落合の自邸で死去している。65歳だった。
1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、同地番に住んでいた長男の浅田俊介が紹介されている。短いので、同書より引用してみよう。
▼
従六位/外務事務官 浅田俊介 下落合四七三
氏は福岡県士族浅田知定氏の二男(ママ)にして明治二十七年九月を以て出生。大学卒業後外務省に出仕 現時通商局勤務たり、家庭夫人澄子は大分県人朝倉菊三郎氏の二女である。
▲
浅田俊介は、戦前戦後を通じての外交官であり、その名を知る方も多いかもしれない。
1896年(明治29)ごろ、なんとしても松山に定住させたい浅田知定と、熊本にいた菅虎雄に「もうイヤだ!」と泣きつき、熊本での職探しを依頼する漱石「坊っちゃん」先生との間には、もっといろいろなエピソードが眠っていそうだ。特に、地元の松山では語り草になっている、浅田「いくな!」と漱石「やだ!」の伝承が残っている気がするのだが。w
◆写真上:すでに建て替えられてしまったが、正面の近代建築だった住宅も左手の道路も、その向こう側の住宅街もすべて浅川知定邸の敷地内だった。
◆写真中上:上は、手軽に読める夏目漱石『坊っちゃん』で新潮文庫版(左)と集英社文庫版(右)。下は、角川つばさ文庫版(左)と講談社BOOK倶楽部版(右)。
◆写真中下:上は、1916年(大正5)作成の1/10,000地形図に採取された下落合473番地の広大な浅田知定邸。いまだ建設中だった、下落合464番地の中村彝アトリエは採取されていない。中は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に収録された同邸。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に収録された浅田邸。すでに現在の道筋ができており、相続の関係からか浅田邸は本来の敷地の30%ほどまで縮小している。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる浅田邸とその界隈。もともとの敷地では、浅田邸の北隣りは目白福音教会Click!のメーヤー館Click!で、同写真撮影時の南隣りの古畑邸は古畑種基Click!邸、東隣りは大正末に中村彝アトリエの北側から西側へ移転した一吉元結工場Click!。中は、七曲坂筋の左手(東側)全体が浅田知定邸の敷地だった。下は、主人公(竹脇無我)と米倉斉加年Click!(赤シャツ)でわたしがもっとも印象的で違和感の少なかった1970年(昭和45)のドラマ『坊っちゃん』(NTV)。背後に見える石碑は、下落合の安倍能成Click!が揮毫した早稲田駅2番出口近くの喜久井町1番地にある「夏目漱石生誕之地」碑。
★おまけ
1920年(大正9)に制作された中村彝『目白の冬』は、目白福音教会にあったW.M.ヴォーリズClick!設計の宣教師館(メーヤー館)Click!と、一吉元結工場Click!の干し場を描いたものだが、画面左手に見える木立の繁った敷地が、記事の主人公・浅田知定邸の北東角だ。
この記事へのコメント
pinkich
ChinchikoPapa
もちろん、小説ですのですべてが架空のことであり、描かれる情景や出来事も、誇張されたりカリカチュアライズされた描写なのでしょうね。夏目漱石と「坊っちゃん」とでは、「同郷」とはいえかなり性格や気質がちがうと思います。「坊っちゃん」とは正反対に、漱石はささいなことを気にする神経質で繊細な性格のように見えますね。ただし、松山の水が合わなかったのは「坊っちゃん」も漱石も同じでw、「坊っちゃん」はキレて気に入らない連中を殴り帰郷してしまいますが、漱石は熊本に赴任していた菅虎雄へ松山での不満をぶちまけ、転職の職探しを依頼しているのは事実です。
kazg
竹脇無我サン、懐かしいです。 加藤剛と共演した「大岡越前」、健全で美しい、安心して楽しめるホームドラマだったと思います。
ChinchikoPapa
わたしも、松山の地域性や文化をバカにしているようなニュアンスがあり、どうして松山でこの作品がウケて人気があるのか不思議に思ったことがありました。ただ、以前に書きました安倍能成の資料などを調べているとき、「漱石、大っきらい! 読みたくもない」という松山出身者がけっこういたことを知り、やっぱり……と思いましたね。
ただし、冷静に読んでみると、作中で気ざわりで嫌らしいことをする性悪な人間は、みんな別の地方から松山へ赴任してきている人物たち、つまり松山人からすれば地元民ではない他所者たちということになりますので、それほど腹を立てることもないのかなとも思います。
竹脇無我といいますと、森繁久彌と共演した向田邦子・脚本の「だいこんの花」を思い出してしまいます。ありシリーズは、けっこう好きで観てました。DVDが出ていますが、ちょっと欲しくなります。
サンフランシスコ人
大仰天....8/21のニューヨーク・タイムズに、福岡観光の記事が.....
http://www.nytimes.com/2023/08/21/travel/fukuoka-japan-a-guide-to-food-and-culture.html
In Japan’s ‘Gateway to Asia’: Street Food, Night Life and a Thriving Arts Scene
Fukuoka, known for its outdoor food stalls, is a popular destination for Japanese tourists. Now it’s starting to draw more international travelers, too.
Fukuoka’s yatai, or street-food stalls, typically have small open-air kitchens, a counter and limited seating.Credit...Andrew Faulk for The New York Times
A lively outdoor Japanese food stall has a small counter crowded with guests while a Japanese cook busily prepares food in the tiny kitchen. The stall is lit by red-tinted bulbs and paper lanterns.
By Erik Augustin Palm
Aug. 21, 2023, 5:00 a.m. ET
ChinchikoPapa
やはり米国の日本観光情報は、10年前後ほど遅れていると思います。福岡の屋台街が海外の観光客であふれはじめたのは、おそらく震災の影響で東北へのツアーが減ったころ(2011年~)からで、ヨーロッパやアジアからのインバウンドの人気スポットとして、いまや世界的にも有名です。東京・上野あたりでは、すでに今世紀に入ってから屋台で食事をする外国人(おそらくヨーロッパ諸国の人たち)を見かけていました。
サンフランシスコ人
米国と日本が今だに太平洋戦争を続行していると思っている人が多いですね...
「8/21のニューヨーク・タイムズに、福岡観光の記事が.........」
ニューヨーク市でもっと日本の行事をやってほしい....
ChinchikoPapa
>米国と日本が今だに太平洋戦争を続行していると思っている人が多い
↑この方が認知症でないとすれば、ライセンスを持つイタリアへ空母搭載用に追加開発・発注した改良型F35(おそらくエンジン部分の性能向上だと思いますが)の導入は、日独伊三国軍事同盟のけしからぬ動向だと見ているのかもしれませんね。w
サンフランシスコ人
日独伊同盟を知っている米国人は少ないですが、日本が中国と北朝鮮の軍事同盟国だと思っている人が多いです....
米国で、もっと日本の行事をやってほしい......
ChinchikoPapa
あまりにも無知で、教育水準が低すぎますね。
サンフランシスコ人
高畑勲監督の『火垂るの墓』の影響???
http://roxie.com/film/grave-of-the-fireflies/
9/7 サンフランシスコの映画館で上映...