
三遊亭圓朝の噺をはじめ、ときに芝居や講談、映画、TVの時代劇などに登場した『怪談乳房榎(かいだん・ちぶさえのき)』は、いまの若い子はともかく、中年以上の方はご存じではないだろうか。その舞台となった南蔵院Click!は、下落合の山手線ガードClick!をくぐって目白崖線の麓、神田川(当時は神田上水)沿いを歩いて直線距離約900mほどのところにある。そして、南蔵院の天井画を描いていた絵師の殺害現場は下落合だ。
圓朝の怪談噺は明治のことで、もちろん実際に聴いたことはないが、『怪談乳房榎』の芝居はときたま上演され、映画やTVの時代劇などでもたびたび取りあげられ制作されているので、子どものころから何度か観た記憶がある。この7年ほど前にも、歌舞伎で中村勘九郎や中村獅童、中村七之助らが演じているが、TVやネットでも夏がくると三大怪談とともに繰り返し放映されている。親の世代だと、2代目・實川延若(えんじゃく)が当たり役の正助を演じた「十二社滝の場」Click!が有名で、「南蔵院」や「落合蛍狩り」の場よりも一幕上演の機会が多かったのではないだろうか。
『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』の舞台となったお岩さんClick!の家は雑司ヶ谷四谷町(四家町)Click!にあり、『怪談乳房榎』の舞台となった大鏡山南蔵院は高田氷川社の斜向かいの砂利場と、この超有名な怪談資産をふたつも抱える隣りの高田町がうらやましくてしかたがない。ロンドンの怪談ツアーのように、ぜひ豊島区のイベントで「怪談散歩」か「怪談美術展」、「怪談映画祭」でも企画していただきたいものだ。
『怪談乳房榎』をご存じない方のために概略を記すと、因果はめぐる式のオドロオドロしい物語だ。子ども(真与太郎)が生まれたので、梅若詣でに出かけた人妻のお関(怪談噺では「おきせ」と語られることが多い)に、ひと目惚れした浪人の磯貝浪江はお関に近づくため、その亭主である絵師の菱川重信へ弟子入りする。重信は、南蔵院から天井画を描く注文を受けたため、下高田村まで出張して仕事をはじめる。その留守の間に、浪江は赤子の真与太郎を殺すと脅して、無理やりお関と密通してしまう。
浪江は、下男・正助(圓朝噺では正介)を馬場下町の飲み屋へと誘い出し、菱川重信を殺そうと持ちかけるが、正助が断ると「殺す」と脅して殺害計画へ無理やり引き入れる。正助は、菱川重信を落合の蛍狩りClick!へと連れだし、「落合土橋」のあたりで待ち伏せた浪江に斬り殺されてしまう。正助は、最初の手はずどおり南蔵院へと駈けもどり、菱川重信の遭難を報告するが、住職は絵師なら先ほどもどり本堂で仕事をしていると答えるのを聞いてゾーッとする。「そんなはずは……」と、正助が本堂をのぞきにいけば、血だらけの物凄い菱川重信の亡霊が、龍の絵に最後の目を入れ消えていくところだった。
このあと浪江とお関は夫婦になるが、今度は重信の子の真与太郎が邪魔になるので正助に殺してこいと命じる。そして、浪江の悪仲間である“うわばみ三次”(芝居のみに登場)に、裏を知りすぎた正助も殺害するよう依頼する。以下、1953年(昭和28)に白水社から出版された戸板康二『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』から引用してみよう。
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重信を殺して、その妻のお関をわが物にした浪江は、邪魔になる子供を滝へ捨てて来いと下男の正助に命じた。十二社の大滝まで来た正助は、赤子の無心な顔を見ると、どうにも殺せない。とつおいつしてゐると、滝壺に重信の霊が現れ、この子を育てて自分の恨みを晴らしてくれれば、一旦悪人に加担した罪は許してやるといつて消える。正助が行きかけようとする所へ、うはばみ三次が匕首をかざして切りつける。この幕は、正助と三次とを、何度も替る、手のこんだ立ち廻りの面白さと、滝に使ふ本水の涼しさとによつて、独特の夏芝居の雰囲気をもつてゐる。
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落語では、正助は真与太郎を滝壺へ投げこむが、重信の亡霊が赤子を助けて正助に仇討ちを命じるくだりになっている。さて、このあとまだまだ話はつづき、正助は板橋でひそかに真与太郎を養育して、浪江の妻となったお関は乳に腫れ物ができ、浪江は誤ってお関を殺してしまい、最後には重信が真与太郎に憑依して仇討ちを果たす……といった筋立てだ。


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『怪談乳房榎』は、三遊亭圓朝がゼロからこしらえた創作怪談ではなく、そのベースとなった怪談が南蔵院に代々伝わっている。圓朝は、この伝承のエピソードを思いっきりふくらませて「実話怪談」に仕立てたのだろう。江戸期の南蔵院が、天井画を絵師に依頼したのは事実で、幽霊が描いたとされる牡竜と牝竜の画が、台風(あるいは火災という説もある)で本堂が消失するまで実際に存在していた。古典落語や芝居では、菱川派の絵師となっているが、南蔵院が依頼した絵師は狩野派と伝えられている。
1929年(昭和4)4月20日に、南蔵院へ実際に取材した江副廣忠のレポートが残っている。同年に三才社から出版された、『高田の今昔』Click!から引用してみよう。
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嘗て狩野朱信(あけのぶ)と云ふ絵師が此の天井へ「雄竜、牝竜」を描きに来て居るうちに、留守の妻が武家出の弟子と密通して、其の発覚を恐れ、或夜夫の朱信に蛍狩を勧め、わざわざ落合村の田島橋へ誘ひ出して姦夫と協力して殺して了つた。其の時絵はまだ牡竜の晴を入れて居なかつたので、朱信の幽魂が来て之を描き入れた。其の為に幽霊の描いた方の眼は、特に凄味があつて色が変つて居たと云ふ事である。しかし其の本堂は今から八十二年程前に頗る古かつたので大風で倒れて了つて、因縁附きの天井絵も跡方(ママ)も亡くなつたのは惜しい事である。(カッコ内引用者註)
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地元の伝承では、ねんごろになった武家出の弟子と妻が共謀し、下落合の「落合土橋」ではなく田島橋で絵師を謀殺したという、ありがちな痴情のもつれによる殺人事件ということになっている。この伝承では、絵師の幽霊はむしろ話を盛りあげるための添え物であり、妻と弟子が共謀して師匠を殺したというセンセーショナルな出来事のほうが、人のウワサにのぼりやすい事件として記憶され、今日まで語り継がれてきたように思える。
また、狩野朱信は天井画のほか4枚の杉戸にも絵を描いており、それらは大風で本堂が倒壊したあとガレ木の整理の際に見つかって、南蔵院でたいせつに保存されていた。同寺で火災があったとすれば杉戸も燃えているはずで、大風でバラバラに倒壊したという伝承のほうにリアリティを感じる。江副廣忠は、実際に4枚の杉戸を拝観しているが、塵埃で薄汚れてはいたものの、枝ぶりのいい松が描かれていたのを確認している。
寺側の証言がかなり具体的であり、本堂の倒壊が1929年(昭和4)の時点から82年ほど前の大風というと、1847年(弘化4)に江戸を襲った台風とみられる。調べてみると、同年7月に日本列島を縦断したとみられる台風が各地に被害をもたらしており、南蔵院本堂の倒壊はこの台風に起因しているのかもしれない。南蔵院は1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で全焼しているため、現在では江戸期由来の本堂部材はまったく残っていない。



さて、地元の伝承では殺害現場を田島橋Click!としているが、怪談噺や芝居では「落合土橋」としているケースが多い。この落合土橋とは、田島橋より上流の妙正寺川(北川・井草流)Click!の出口に架かる、江戸前期の1690年代に了然尼Click!が普請した比丘尼橋Click!のことと思われ、江戸後期の1788~1791年(天明8~寛政3)にかけて幕府普請奉行所が編纂した『上水記』によれば、まさに比丘尼橋の位置に架かる橋名が落合の「土橋/西橋」と採取されている。1808~1811年(文化5~8)に、幕府が編纂した「御府内場末往還其外沿革図書」には、残念ながら橋名は採取されていないが、幕末に作成された「下落合村絵図」や「上落合村絵図」には、すでに「西橋」(西ノ橋)とのみ記載されている。
幕末になると、妙正寺川と神田上水が落ち合う湿地帯がホタル狩りの名所となっており、江戸市街から多くの夕涼み客を集めたとみられ、この橋も土橋から欄干のある木橋へ架け替えられていた様子は、三代豊国・二代広重によって描かれた『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』第30景「落合ほたる」Click!から推定することができる。ただし、江戸市内あるいは明治期の東京市内で発行されていた既存の名所案内では、新しい橋名の西ノ橋ではなく「落合土橋」のまま記載されていた可能性が高い。
つまり、圓朝の噺や芝居の演目に『怪談乳房榎』が取りあげられたころ、幕末から明治にかけての落合ホタル狩り名所は、すでに神田上水に架かる田島橋周辺ではなく、さらに上流の妙正寺川に架かる西ノ橋(旧・落合土橋/比丘尼橋)周辺へと移動しており、田島橋よりは落合土橋のほうが聴衆や観衆には馴染みがあって響きやすく、またホタルが舞う名所でのリアルな殺人現場として、怪談噺の上でも舞台上でも効果的で格好のロケーションだったのではないだろうか。夏に演じられる怪談噺や芝居を観聴きして、実際に下落合の「殺人現場」へホタル狩り(肝だめし)にやってきた、明治期の人たちも数多くいたにちがいない。




南蔵院に伝承された怪談話の田島橋は、現在では目の前にエステー本社や東京富士大学のキャンパスがある一画で、落語や芝居の『怪談乳房榎』に登場する落合土橋(西ノ橋)のほうは、西武新宿線の下落合駅前になっている。両橋とも、1935年(昭和10)前後に行われた神田川や妙正寺川の直線整流化工事で、多少は架設位置を変えているけれど、いずれにしても江戸期の絵師の亡霊がさまようには、あまりにも賑やかすぎる風情となっている。
◆写真上:妻と弟子に謀殺された、狩野派の絵師による天井画があった南蔵院。
◆写真中上:上は、1857年(安政4)に作成された尾張屋清七版「雑司ヶ谷音羽絵図」の南蔵院界隈。中は、幕府普請奉行所が天明から寛政年間にかけて編纂した『上水記』(1788~1791年)より。下は、幕末に作成された「下落合村絵図」。
◆写真中下:上は、戦前から2代目・實川延若の当たり役だった正助の「十二社大滝の場」。中は、戦後まで新宿でも有数の花柳界となっていた十二社大池周辺。下は、1936年(昭和11)に撮影された高田南町の南蔵院とその周辺。
◆写真下:上左は、1958年(昭和33)に上映された『怪談乳房榎』(新東宝)。上右は、怪談噺が特異だった三遊亭圓朝。中・下は、映画『怪談乳房榎』のワンシーン。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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pinkich
ChinchikoPapa
先ほどまで、自衛隊によるブルーインパルスの低空飛行がうるさかったですね。家族たちが3階から眺めていましたけれど、1964年のときのように抜けるような秋の青空ではなく、雲が多くて五輪がよく見えなかったそうです。
広告代理店は、クライアントと制作会社との直接取引やネットビジネスが増え、大型イベントに依存して収益を上げるのに必死ですね。出版の取次店と同じ運命をたどるのでしょうか。
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
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大善士
金山这个地方是在上海的南郊,位于大海边。在上个世纪七十年代初,毛泽东和周恩来打算在金山这个地方建造一个石油化工厂,以解决当时中国人的穿衣问题。所以金山这个城市是一个化工城市,金山城市不大,但是配套设施齐全。我是在金山出生长大的,很多人觉得金山空气很差,因为这里有很多化工厂,对于环境是很污染的,所以金山地区的房价一直涨不上来。
ChinchikoPapa
金山は、化学プラントが建設されていたのですね。なぜ製鉄のことをうかがったかといいますと、日本で「金山」という地名は古くから山砂鉄や川砂鉄を溶かして、「タタラ製鉄」と呼ばれる鋼(はがね)づくりが行われていた場所に付けられた地名が多いからです。「金」はGoldではなく、古くからIronの意味で使われていた漢字です。それが山地であれば「金山」、平地の川であれば「金川(金沢)」と呼ばれ、およそ1700年ほど前から行われていた鉱業でした。
ChinchikoPapa
雨の木
かつて父によく歌舞伎を観に連れて行ってもらいましたが、時代物より世話物が好きで特に怪談の陰惨な殺しの場に何故か惹きつけられました。でも「怪談乳房榎」はChinnchikoPapaさんのブログで初めて詳しい筋書きを知った次第です。殺された女の執念で乳房のような瘤ができた榎が南蔵院にあり、それを乳房榎と呼んだ~などと勝手に思いこんでいました。
それにしても、何故「榎」なんでしょうか?「縁切り榎」もそうですけど。物知らずですみません。
ChinchikoPapa
わたしも芝居は時代物よりも世話物のほうが大好きで、特に好きな演目の七五調のセリフはリズミカルでいいですね。子どものころ暗記したセリフは(特に『青砥稿花紅彩画』や『三人吉三巴白波』が多いです)、いまでも口をついて出ます。
エノキは樹の幹に大きなコブができるものがあり、それが女性の乳房のように見えるせいで、結びつけられたのではないかと想像しています。ケヤキやイチョウにも、大きなコブができますが、イチョウの場合は下へ垂れ下がっているので、乳房というよりは北国のツララのようですね。
「縁切り榎」は、なぜエノキが選ばれているのかわかりませんが、そのエノキ(のある場所)になんらかの物語が付随しているのではないでしょうか。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
Marigreen
ChinchikoPapa
いえ、石原吉郎の函入りで厚めな本を読ませていただいたのは、ちがう友人の下宿だったかと思います。戦後、「シベリア帰り」=共産主義者というレッテルが貼られ、苦労した人が大勢いそうですね。わたしの友人にも、父上がシベリア抑留者ですが、幸運なことに戦後数年で釈放されて帰国できたようです。
ChinchikoPapa