
以前、pinkichさんからいただいた片多徳郎Click!の画集に掲載されている、長崎町の旧家の屋敷を描いた1934年(昭和9)制作の『郊外の春』Click!をご紹介したことがあった。片多徳郎が、名古屋で自裁する直前に描いたものとされ、実質上の遺作となった作品だ。同年秋に開催された、第15回帝展に遺作として出品されている。
そこで、どうしてもカラーの画面を観たくなったわたしは、帝展で発行されている展示品の記念絵はがき類に、片多徳郎の『郊外の春』が印刷されて残っていないかどうか、少し前から探しつづけていた。ところが、なかなか見つからない。どこの資料館や団体、古書店などのデータベースを検索しても、第15回帝展の絵はがきに「片多徳郎」は引っかからなかった。さんざん探しまわったあげく、絵はがきにならなかったのかとあきらめかけていたところ、念のために第15回の帝展でキーワードを「郊外の春」で探したところ、とある古書店で1枚がひっかかった。
さっそく、現物を手に入れて絵はがきを参照したのだが、画家の名前がなんと片多徳郎ではなく、「片田徳郎」となっている。これでは、いくら片多徳郎でサーチしても見つけられないはずだ。資料館や古書店では、とりわけ美術に詳しい人物でもいない限り、「これは片田徳郎ではなく、片多徳郎の誤植だぜ」と訂正することができず、「片田徳郎」のままデータを登録してしまうだろう。
以前から気になっていた、文展・帝展絵はがきに多い作者名の“誤植”については後述することにし、初めてカラーで目にする片多徳郎Click!の『郊外の春』について、ちょっと気になる点から見ていこう。まず、この画面はどう観察しても、「春」の風景には見えないのだ。中央の左寄りに描かれている、ケヤキとみられる大樹の葉が、どう見ても緑から茶色に変色しかかっているように表現されている。また、手前の畑地の枯れ草もそうだが、屋敷の奥まった位置に描かれている、やはりケヤキと思われる樹木の葉も、茶がかったモスグリーンで塗られている。
わたしの家の周囲は、樹齢100年を超えるケヤキが多いが、ケヤキがこのような葉の色に変色しはじめるのは、晩秋の11月中旬から下旬にかけてのことだ。そして、12月上旬を迎えるころから、樹木全体が完全に茶色へと変色し、少し風が吹くと膨大な落ち葉Click!が家々の屋根や庭に降り注いでくることになる。


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また、春先のケヤキは、空に向けて扇のように開く枯れ枝に、黄緑色の新芽や若葉を少しずつ増やしながら、鮮やかな新緑へと向かうのであって、画面のような葉のつけ方や色合いになることはまずありえない。おそらく、ふだんからケヤキの四季を見慣れている方は、すぐに「春」ではおかしいと気づくだろう。
この作品のタイトル『郊外の春』は、そもそも作者の片多徳郎がつけた題名ではないのではないか? どう観察しても、画面の風景はこの地域一帯の晩秋の風情であり、あえて『郊外の晩秋』がふさわしいタイトルのように思える。長崎東町1丁目1377番地(現・長崎1丁目)のアトリエに遺された本作は、片多徳郎によってタイトルがふられないまま、彼自身は1934年(昭和9)4月28日に自死してしまったのではないか。
1934年(昭和9)制作とされる同作だが、秋の第15回帝展が初出品なのでそう解釈されているにすぎず、ほんとうは前年1933年(昭和8)の暮れが近いあたりで完成している画面ではないだろうか。そして翌1934年(昭和9)の5月以降、アトリエに遺された本作を観た帝展関係者、または知り合いの画家、あるいは片多家の遺族のどなたかが、帝展で遺作を展示するにあたってタイトルが必要となり、画家が逝ったあと春のアトリエに遺されていた本作に、『郊外の春』とつけてしまったのではないだろうか。
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さて、片多徳郎の『郊外の春』は、「片田徳郎」の“誤植”で探すのにずいぶん時間がかかってしまったけれど、わたしは同じような経験を何度もしている。先日ご紹介Click!したばかりの「下落合風景」の1作とみられる、『芽生えの頃』(1920年)を描く下落合803番地にアトリエをかまえていた柏原敬弘Click!も、片多徳郎と同様のケースだ。第2回帝展に出品された『芽生えの頃』の記念絵はがきでは、作者名が「柏原敬孝」と誤って印刷されており、いくら「柏原敬弘」で検索してもヒットしないわけだ。
三宅克己(こっき)Click!も、“誤植”が多い悩ましいひとりだ。以前にご紹介した『落合村』Click!(1918年)や『諏訪の森』Click!(1918年)もそうだが、作者名には「三宅克巳」と印刷されている。彼の帝展絵はがきの場合、ほとんどが作者名を誤っているので、むしろ三宅克己よりは「三宅克巳」で検索したほうが数多くひっかかるぐらいだろう。ひょっとすると、美術年鑑のような基礎資料からしてまちがっており、それが延々と訂正されずにきてしまったのではないだろうか。この誤りには何度も遭遇してきたので、彼の作品を帝展絵はがきで探す場合は、最初から「三宅克巳」で検索するようになってしまった。


また、以前にご紹介した横井礼以の『高田馬場郊外風景』Click!(1921年)は、作者が「横井礼市」と印刷されていたが、これは「横井礼以」の筆名に変える以前の本名なので、東京美術学校の卒制データベースも含めて探しやすかった。でも、二瓶等Click!のように本名は二瓶徳松Click!なのだが、二瓶經松、二瓶義観、二瓶等、二瓶等観……と、しょっちゅう筆名を変える画家の場合は、もう途中で探すのがイヤになってしまうのだ。
◆写真上:1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『郊外の春』だが、前年の1933年(昭和8)の11月末あたりに描かれた『郊外の晩秋』ではないだろうか。
◆写真中上:『郊外の春』の部分アップと、キャプション「片田徳郎」の“誤植”。
◆写真中下:上は、1920年(大正9)制作の柏原敬弘『芽生えの頃』のキャプション「柏原敬孝」。中は、1918年(大正7)制作の三宅克己『落合村』のキャプション「三宅克巳」。下は、同年制作の三宅克己『諏訪の森』のキャプション「三宅克巳」。
◆写真下:上は、1922年(大正11)の第4回帝展に出品された片多徳郎『春昼』。(筆名は正しく印刷されているw) ボタンとネコは、当時の画因にはめずらしい組み合わせだが、かわいいのでつい購入してしまった。下は、筆名を横井礼以にする前の本名・横井礼市が印刷された『高田馬場郊外風景』の絵はがき(部分)。
★おまけ
今年は下落合へのウグイス飛来が遅いですが、聴いていると鳴き声もまだ拙いですね。
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この記事へのコメント
pinkich
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
誰かが、大きな勘ちがいをしていますよね。この画面を帝展で観賞した人の中には、「春? おかしいぜ、秋だろ?」と思った人も少なくないのではないかと思います。
もっとも、展示作品に添えられるタイトルも「秋」→「春」の誤植で、ついでに画家名のプレートも「片多」→「片田」の誤植だったりして、それを忠実に記念絵はがき化した結果だったりしますと、もう笑い話の世界ですが。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
skekhtehuacso
でも声は聞こえても姿は見えず。
姿を見せてくれるのは、シジュウカラばかりです。
ChinchikoPapa
ウグイスの姿を探すのは、けっこう大変です。ウグイス色ならぬ茶色の羽ですので、木々の間に溶け込んでしまいますね。ウグイスの声が聞こえると、ネコがにわかに殺気立ってたいへんです。窓の外を見やりながら、「ニャウニャウニャウ」と早口で鳴くのは「殺してやる」か「食べたい」ではないかと想像しています。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
pinkich
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
おっしゃる通り、田島邸の敷地外(左)の青屋根が平沢邸、塀の中の茶色い屋根2棟(藁葺きだと思います)が旧家・田島邸の母家と隠居屋敷、緑の2階建て屋根がちょっと悩ましいですが娘婿の弁護士・桑原邸で、そのほか向こう側に見えている新しい住宅の屋根は、田島家の子息(二男・三男?)か姻戚の家……などと勝手に想像しています。
きょう、部屋を整理していましたら、松下春雄も取り上げられている、2004年に開催された「サンサシオン展」図録が2冊出てきましたので、1冊をお送りいたします。
ChinchikoPapa
pinkich
けやきの木の右の緑の屋根は桑原邸の可能性大なのですね。片多徳郎はかなり忠実に写生しているようですので、桑原邸はかなり大きな建物だったわけですね。
ChinchikoPapa
緑の屋根は、田嶋鉄五郎邸よりやや離れて描かれているような表現ですので、おそらく細い路地を挟んだ西側の桑原信雄邸の敷地内に建っている建物ではないかと想定しました。フィニアルらしい突起のついた屋根の形状から、大きな2階建ての西洋館のように見えます。さらに想像をたくましくするなら、愛娘(長女かもしれません)と弁護士の娘婿が住む家を、田嶋家では奮発して建ててあげたのではないか……というような物語の情景まで浮かびますね。
先ほど郵便局から出しましたので、明日には図録がお手もとにとどくのではないかと思います。
ChinchikoPapa
pinkich
ChinchikoPapa
サンサシオンの画家たちは、西落合の松下アトリエと鬼頭アトリエを中心に、その周辺域に住んでいた人たちも多いようですね。まだ詳しくは調べていないのですが松下春雄アルバムを拝見してますと、「近所」から集まった画家たちが、松下邸の庭で遊ぶ様子が記録されています。
ただ、鬼頭鍋三郎はずいぶん以前から下落合にやってきていたらしく、1923年にはすでに『落合風景』(板橋区立美術館蔵)を制作しているのが気になっています。松下春雄が下落合に住む以前、すでに鬼頭はどこかにいたのかもしれないですね。
pinkich
ChinchikoPapa
松下春雄が油彩を始めたのは、関東大震災の直後ぐらいですから、1924年以降ということになります。ただし、展覧会などへ積極的に出品しだしたのは昭和に入ってからのようですね。水彩から油彩へ表現がシフトしたのは、おっしやるとおり最後の5~6年間でしょうか。
個展としての「松下春雄展」は、ほとんど開かれたことがありませんが、「サンサシオン展」や「愛知洋画展」のような枠組みを拡げた展覧会では、松下作品はよく展示されているようです。画集としては、1988年に芸林から出版された『幻の画家 松下春雄』がありますが、古書店でも見つけにくい1冊です。
新宿歴博は、長女・綾子様ご夫妻から寄贈された松下春雄作品(『文化村入口』)や松下春雄アルバムを収蔵していますから、一度企画展でも開いていただければいいのですが、知名度と集客の課題から難しいでしょうか。
pinkich
ChinchikoPapa
記事末に添付した、荻須高徳?『風景』1947年??の画面ですね。
これ、明らかに片多徳郎の作品『郊外の春』です。片多徳郎ではネームバリューが低いため、パリ在住の荻須高徳のサインと裏面に適当な書き入れをして、真っ赤な贋作に仕上げてしまった悪質なものです。右下にあった「徳」のサインも、緑の絵具の上塗りで消していますので、贋作の常習犯の犯行だと思われます。なんて、もったいないことをするのでしょう。
ChinchikoPapa
とある方からご指摘を受けましたが、荻須作の「風景」は片多作の「郊外の春」の複写かもしれないですね。屋敷の中を観察しますと、屋根の大きさや位置、庭木の数が微妙に異なっています。贋作者が、片多の画面を複写して、それに荻須サインを書き加えた可能性がありますね。
pinkich
ChinchikoPapa
片多徳郎の名前も作品も、それほど知られていないので、複写して当時は人気だった画家のサインを入れてしまった……、あるいは複写した人物とサインを入れた人物は別で、片多作品を複写した人物は自身の勉強のために模写したものが“ひとり歩き”し、のちに贋作者の手にわたってサインとキャンバス裏のタイトルが捏造された……のどちらかですね。
展覧会でのカラー絵はがきや、片多徳郎傑作画集が世に出ているにもかかわらず、あえてそんなリスクをおかす贋作者は、あまり美術分野に詳しくない素人の詐欺師のような気もします。
pinkich
ChinchikoPapa
荻須高徳の作品とは、似ても似つかない画面ですが、美術品の中でも絵画は古いそれなりの無名作品、あるいは古いキャンバスと絵の具さえあれば、それらしい贋作が作れてしまいますので油断ならないですね。それでも、専門家の眼から観ればデッサン力や筆運び、マチエールなどですぐに「おかしい」と気づくはずですが、精巧にできた贋作は素人目にはなかなか見分けがつかないです。
やはり、素性や伝来がハッキリしている作品や、専門家や遺族がまちがいないと保証している作品を求めるべきでしょうが、その専門家や遺族の「保証」を偽造する詐欺師もいますので、やはり勉強を通じて自身の観賞眼を養っていく以外に道はなさそうです。