戦後すぐに撮られた近衛町の丘。


西武鉄道モハ311形(昭和20年代).jpg
 おそらく、1950年(昭和25)前後に撮影されたとみられる西武線Click!を走る車両(2両編成)と、下落合東端の丘に連なる近衛町Click!の家々をとらえた写真が残っている。写っている丘の一帯は、二度の山手空襲Click!と敗戦まぎわの戦闘爆撃機による散発的な空襲からも運よく焼け残り、戦後もほぼそのままの姿をしていた近衛町の南端、学習院昭和寮Click!とその周辺の住宅街だ。
 まず、手前に写っている西武線の下り電車は「モハ311形」Click!と呼ばれた車両で、西武鉄道では国電の戦災車両「モハ50形」をベースに、再利用して走らせていた車両だとみられる。1954年(昭和29)には、「モハ501形」と呼ばれる新車両(当時の湘南電車=東海道線に“顔”が似ている)が登場してくるので、周囲の状況を勘案すると、おそらく1950年(昭和25)前後に撮影されたものだろう。画面の右下に見えているのは、西武線の旧・神田上水(1966年より神田川)をわたる鉄橋Click!であり、電車がくぐって通過しようとしているのは西武線の山手線ガードClick!だ。
 敗戦後すぐの車両について、2015年(平成27)に開催された「川越鉄道全通120周年記念企画展」図録(東村山ふるさと歴史館)から、一部だが引用してみよう。
  
 新宿線の車両モハ311形式(国電モハ31/50形式)
 (前略)第二次世界大戦において西武鉄道は自社の車両に被害は受けなかった。しかし慢性的な車両不足であったため、国鉄の被災車両(モハ50形)の台車を購入して作られたのがモハ311形である。また、このほか被災車両を復旧し導入することも行った。
 モハ501形、サハ1501形
 昭和29年製のモハ501形、サハ1501形は昭和20年以降に初めて製作された新車であり、西武独自の形式として誕生した。とくにモハ501形は当時流行していた湘南スタイルで、蛍光灯証明、放送装置などがついた最新形であった。(カッコ内引用者註)
  
 山手線の線路土手ごしに見えている、白いビル状の建物が1928年(昭和3)に竣工した、2階建ての学習院昭和寮第一寮だ。第一寮Click!は目白崖線の斜面に建設されているため、地下の南面にも寮室があり、南側から見ると3階建てに見える。その右手には、近衛町の南端斜面にあたる44号Click!の住宅地に建設された家々がとらえられている。
モハ311形クハ1411形.jpg
下落合上空1933.jpg
近衛町19450517.jpg
近衛町1948.jpg
 中でも特徴的なのは、F.L.ライトClick!が設計した自由学園校舎Click!を2階建てにしたような、大きな西洋館の佐野邸Click!だ。佐野邸は、大久保作次郎Click!がモチーフに採用して、1955年(昭和30)に制作された『早春(目白駅)』Click!では、佐野邸を南斜面から丘上へ「移築」した構成で描かれている。画角のせまい、やや望遠ぎみに撮影された写真だが、佐野邸2階部の三角屋根の突出しているのがとらえられている。
 佐野邸のほかにも、大庭邸や武尾邸、岸邸、今井邸、玉置邸、長瀬邸(花王石鹸Click!長瀬邸Click!とは別宅)とみられる家々の屋根が確認できる。1933年(昭和8)に、学習院昭和寮を斜めフカンから低空撮影した写真と比べてみると、その後、新たに建設された家々を除き、ほとんど家並みの変わっていないのが見てとれる。また、画面の右端、電車の“顔”の右横に架線柱で隠れるように、大きな建物がひとつとらえられているが、この位置に建っていた建物は戦後に改めて建て直された、学習院の校舎ないしは施設のうちの1棟だろう。拡大すると、屋根や窓の形状から西洋風とみられる大きな建築が、戦後になって学習院のバッケ(崖地)Click!上に建設されている。
近衛町44号拡大1.jpg
近衛町44号拡大2.jpg
高田馬場駅1957.jpg
 さて、100~135mmぐらいの望遠レンズで撮影したとみられる、冒頭写真のカメラマンは、西武線が急カーブを描き山手線のガードをくぐって、山手線土手と西武線の高架にはさまれた狭隘なエリア、当時の住所でいうと早稲田通りも近い戸塚町2丁目32~38番地(現・高田馬場2丁目)から、ほぼ北北東を向いてシャッターを切っている。空襲で焼け野原になった同エリアは、戦後すぐのこの時期には商店建築や木造アパートなどが建ち並びはじめており、それらの建物の2階に設置された北向きの窓、ないしはベランダあたりから撮影したものではないだろうか。
 1950年(昭和25)ごろといえば、朝鮮戦争が勃発して日本は戦争特需にわき、ようやく敗戦時の悲惨な食糧不足による飢餓状態から脱しようとしていた時期だ。だが、全国的に感冒(インフルエンザだとみられる)が流行り判明しているだけで18万人が罹患し、三原山の噴火やジェーン台風により336人の死者がでるなど、ことさら自然災害が目立つ年でもあった。この年、西武線では西武鉄道が経営していたユネスコ村と多摩湖ホテルClick!とを結ぶ、単線の「西武おとぎ線」が開通している。
撮影ポイント1956.jpg
高田馬場神高橋1991.jpg
撮影ポイント現状.jpg
 1950年(昭和25)前後に鉄道ファンが撮影したらしい西武線と下落合の丘だが、大正初期に撮影された薗部染工場Click!の写真と比べると、丘全体が住宅で埋めつくされているのがわかる。古い鉄道写真を参照すると、車両そのもの以外に周辺の風景までが写っているケースの多いことに気づいた。鉄道ファンではないので、写真の隅にチラリと見えている当時の街並みのほうへ惹かれてしまうわたしだが、落合地域の界隈で周辺の風景まで含めてとらえられた鉄道写真を見つけたら、改めてこちらでご紹介したいと思う。

◆写真上:1950年(昭和25)ごろに撮影された、西武線の電車と下落合の丘。
◆写真中上は、西武鉄道が保存しているモハ311形とクハ1411形の車体カラーリング。中上は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町の南端に位置する丘。中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機Click!から撮影された下落合界隈。は、戦後の1948年(昭和23)に撮影された焼け跡が拡がる近衛町。
◆写真中下は、冒頭の写真にとらえられた家並みの部分拡大と建物の特定。は、1957年(昭和32)の空中写真にみる撮影ポイントと画角。
◆写真下は、1956年(昭和31)の空中写真にみる撮影ポイントあたりで、商店やアパートと思われる建物が見える。は、1991年(平成3)に撮影された改修前の神田川に架かる斜めの神高橋Click!と西武新宿線。(新藤兼人『東京交差点』Click!より) 冒頭写真の撮影ポイントは、山手線土手と西武線高架にはさまれた画面の左枠外にある狭隘エリア。は、飲み屋街になっている狭隘エリアの現状で撮影ポイントにはもちろん立てない。
高田馬場仮駅1928.jpg

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    わたしが料理すると、どうしても肉料理が多くなるため、回数が重なると家族には不評ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>(。・_・。)2さん
    2020年04月26日 11:49
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
    2020年04月26日 11:49
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
    2020年04月26日 11:50
  • ChinchikoPapa

    『at the Donaueschingen Music Festival』は、シェップの代表作の1枚ですね。もっとも、疲れるので最近はほとんど聴きませんが。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
    2020年04月26日 11:54
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
    2020年04月26日 11:55
  • ChinchikoPapa

    近くの目白通りや新宿界隈では、すでにマスクが普通に売られているのですが、そんな中で「アベノマスク」がとどきました。大江戸の安永期(1770年代)、芝居小屋で生まれた言葉に「間抜け」というのがありますが、うまく“間”やテムポがとれず、芝居の流れからズレた舞台や役者をそう称しました。これだけの施策をするカネがあるなら、どうして困窮者や退学を考えざるをえない学生たちの救済を考えなかったのでしょうね。マスクが手に入るいまになって、まさに大マヌケ施策です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
    2020年04月26日 12:04
  • ChinchikoPapa

    子どもが、庭でできた大量の無農薬夏ミカンをいただいてきましたので、これまた大量のママレードをこしらえました。近所を歩くと、いろいろな果実を見かけますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
    2020年04月26日 12:08
  • ChinchikoPapa

    いつも、ご訪問と「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>ネオ・アッキーさん
    2020年04月26日 12:10
  • ChinchikoPapa

    人の優しい心と「見かけ」は、まったく比例しないですね。学生時代に乾ドックで、船の喫水下についた貝殻落としのバイトをしたことがあるのですが、いちばん親切で面倒見がよかった先輩は、いちばんの「荒くれ」でした。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
    2020年04月26日 12:14
  • ChinchikoPapa

    現在のシン・ゴジラからは想像もつきませんが、ゴジラの「シェー」は見てますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
    2020年04月26日 13:40
  • ChinchikoPapa

    PCやスマホの液晶画面を見つづけていますから、視力はかなり落ちていると思います。ただ、仕事には必須ですので、おそらく引退するまで目を騙しだまし使うしかなさそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ピストンさん
    2020年04月26日 20:02
  • ChinchikoPapa

    ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございます。>NO14Ruggermanさん
    2020年04月26日 20:03
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>takaさん
    2020年04月26日 20:04
  • ChinchikoPapa

    おおっ、ポークソテーがメチャクチャうまそうですね。わたしは、醤油にみりん、酒、生姜少々、三温糖をほんの少しという味付けで食べることが多いです。ときどき生姜を抜いて、辛子をつけて食べることもありますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
    2020年04月26日 21:20
  • suzuran6

    戦後の車両が製造され、それ以前の車両達があちらこちらの私鉄に譲渡されて行きました、車両によっては装備を外し客車になったものもありました(津軽鉄道に残っています)。
    西武線と山手線にはさまれた三日月形のこのあたり、通勤途中にいつも車内から見下ろす様に見ていましたが、いまだに足を踏み入れた事がありません。
    2020年04月26日 21:51
  • ChinchikoPapa

    もうすぐ3歳になるうちのオトメヤマネコは、写真の「マリモ」にどこか似ています。もう少し毛が短く、身体の色が濃いトラネコですが、明らかに洋ネコが入ってる感じがします。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>suzuran6さん
    2020年04月26日 21:54
  • ChinchikoPapa

    suzuran6さん、コメントをありがとうございます。ボタンのお礼と入れ違いになってしまいました。
    くだんの三角地帯は、すでにアパートや住宅はほとんどなく、食べ物屋さんと飲み屋さんで埋めつくされている状況ですね。行き止まりの路地ばかりで、不思議な雰囲気の街角です。夜ばかりでなく、昼は近所の会社に勤める人たちでごった返していますね。ただ、いまは閉めている店も多く、ひっそりとしているのでしょうが……。
    2020年04月26日 22:01
  • ChinchikoPapa

    今年のハナミズキは、4月の第2週から咲いていて早かったですね。いまはクリームもピンクの花も、ほとんど緑の葉に変わってしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
    2020年04月27日 10:00
  • ChinchikoPapa

    店頭にマスクが出まわるようになってから、一昨日、「アベノマスク」がとどきました。リスク管理の要諦は、情報を駆使したできるだけ正確な先読みと、危機事象の可能性への先まわり対策が基本だと思いますが、現政権ではまったくダメなようですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yu-papaさん
    2020年04月27日 10:12
  • ChinchikoPapa

    時計づくりは楽しいですね。子どもが小学生のときの図工かなにかで、卓球のラケットをダイヤルにした時計をつくっていました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ゆういちさん
    2020年04月27日 11:59
  • ChinchikoPapa

    わたしはICTシステムがらみの仕事をしていまして、普段からカタカナ用語ばかりと向き合っているのですが、新型コロナウィルスをめぐる行政のカタカナ用語乱発には、非常に不自然な感覚をおぼえます。それは、誰が聞いてもわかる用語をつかって患者に説明しなければならない医者が、英語やドイツ語の専門用語を交えて治療法を説明しているようなもので、お年寄りはなにをいっているのか意味不明な場合も少なくないのではないでしょうか。要するにインフォームドコンセントが不足し、アカウンタビリティが欠如してるということですね。(爆!) 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
    2020年04月27日 16:07
  • 日本科技大野球部員

    目白日立クラブの独身寮取り壊しになりましたね。
    2016年頃近くを通ったとき廃墟っぽくなっていて薄々取り壊されるのかな、と思っていましたがちょっと残念です。
    2020年04月27日 20:56
  • ChinchikoPapa

    日本科技大野球部員さん、コメントをありがとうございます。
    学習院昭和寮の解体については、同エリアの安全と緑を守るために結成された、「目白が丘幼稚園周辺の交通安全・環境を守る会」の方からさまざまな資料をいただき、記事を何度か書いています。寮は築90年以上ですので、老朽化などの課題もあったのでしょうが、膨大な緑の伐採がなんともほ惜しくてもったいないですね。
    同会の方より資料をいただいたのは、以下の記事です。
    https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2020-01-18
    https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2020-01-21
    また、同会の方からの呼びかけで書きましたのが、以下の記事です。
    https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2019-10-14
    https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2019-10-17
    2020年04月27日 21:28
  • ChinchikoPapa

    第2次改装前の、いまだ巡洋戦艦の面影が残る「赤城」ですね。1/700スケールのプラモでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ずん♪さん
    2020年04月27日 21:33
  • Marigreen

    「鉄道ファンでないので写真の隅にチラリと見えている街並に惹かれる」とのこと私も同じです。
    コメント欄にあった「人の見かけと優しい心は比例しない」、これも全く同感。
    2020年04月28日 06:53
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
    夕べは、タケノコを大鍋で甘辛煮にしていました。大量のタケノコを、ありがとうございました。<(_ _)>
    2020年04月28日 09:58
  • ChinchikoPapa

    聖路加から築地教会あたりを散歩すると、築地本願寺にも寄ることが多いのですが、寺の境内にカフェがオープンしてますね。最近、寺院が経営するカフェが流行のようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tarouさん
    2020年04月28日 15:57
  • pinkich

    papaさん
    昔の邸宅は風格がありますね。サラリーマンがローンを組んでやっとの思いで買った狭小住宅など電車の背景にあったとしても小さすぎてわからないでしょうね。笑。
    ちなみに中井には大日本印刷?の社長宅、西落合には本田の創業者宅が鎮座していますね。戦後、この地域にあれだけの土地をどうやって確保できたのか、もちろん財力のなせる技かと思いますが不思議なものですね。
    2020年04月28日 18:02
  • ChinchikoPapa

    7~8月卒業と9月入学は、関東大震災のとき壊滅的なダメージを受けた学校や、被災者支援のために学生たちの2~3学期を充てた学校では、特例として実施されていますね。今回も、特別な事態として1学期分をずらせばいいだけの話に思えますが…。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>step-iwasakiさん
    2020年04月28日 20:19
  • ChinchikoPapa

    ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>mwainfoさん
    2020年04月28日 20:20
  • ChinchikoPapa

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    当時は「東京郊外」という感覚が、いまだに強かったでしょうから、旧・東京市街地(15区エリア)に比べたら、それなりに地価が安くて広い敷地も入手しやすかったのでしょうね。バブル以降では、固定資産税を払うのさえタイヘンですが。w
    第二文化村の印刷会社社長宅は、およそ開放的な目白文化村の邸宅群とは対極の、高い塀に囲まれ随所に監視カメラが設置された、まるで要塞のような建物ですね。いつも前を通るたびに、目白文化村らしからぬ風情に違和感をおぼえます。近衛町でさえ、あれほどいかめしい邸宅はなかったですねえ。
    2020年04月28日 20:30
  • 古田宙

    目白通りでマスク売ってるのですか?とんと見かけないです。アベノマスクは1週間前に配達されましたが…
    2020年05月03日 13:05
  • ChinchikoPapa

    古田宙さん、コメントをありがとうございます。
    落合地域を西へ散歩しているとき、目白文化村の北側、長崎の二又交番がある手前にアダチという雑貨店があります。そこで先週、PM2.5まで防げる国産の高級マスクが山積みされていました。10枚で1,000円ですから、かなり高価なマスクですね。
    また、もう少し性能の低い安いマスクでしたら、いまはかなり出まわり始めていますね。大久保通の商店街には、中国製のマスクが山積みで店頭に並んでいました。これも、1週間ほど前の情景です。
    2020年05月03日 15:23
  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
    2020年05月03日 17:26
  • ひまぢん

    はじめまして。いつも楽しく拝読させております。
    貴殿がかつて記事にされた、西武新宿線高田馬場仮駅ホームらしきものを発見したのと、仮駅連絡通路について考察しましたので、今回コメントさせていただきます。
    場所は、山手線ガード直下・下り線側横となります。米軍航空写真1948年USA・M737-68,69,70にてホーム状の盛り上がりが確認できます。pp.地図・空中写真閲覧サービス より
    ここに作られた理由は以下の通りと推察します。
    ①完成していたと思われる下り線を営業開始時にそのまま使える
    ②ガード完成後も下り線を撤去・移設すること無くそのまま使える
    ③少ない追加予算で安価かつ早く容易にホームが作れる
    ④新設した現高田馬場駅で開業できる(後述
    銀座線万世橋駅よりさらに、速成仮駅的な位置づけとなります。営業は下り線・単線往復運転となります。
    また脱線事故は、線路建設が急で凸凹なのと、上り勾配カント上での停車が重なったためかと思われます。現在でも該当区間は、脱線防止ガード使用かつ低速運転で営業されています。
    次に連絡通路(桟橋以下略)は、本記事"写真上"にある完成して未使用の上り線上に作ったと推定します。
    理由は以下の通りとなります。
    ①昭和2年営業開始時には、ガード以外の設備は全て完成している可能性が高いため、現高田馬場駅及び神田川鉄橋を利用できる
    ②通路用地の確保が不要
    ③完成した上り線上に十分な広さの仮設通路が安価に短期間で作れる
    ④仮設通路全体を西武高田馬場駅構内として管理できる
    ⑤ガード完成後下り側単線を延伸し、継続営業が可能
    ⑥その後仮設通路を解体し、短期間上下線で営業開始できる
    現在改築中の銀座線渋谷駅のイメージに近くなります。
    問題点は山手線の横断方法ですが、2案を提案します。
    案①山手線ガード完成部に連絡通路をとおした。
    案②山手線に昇降設備をつけて仮設踏切を一時的に作った(踏切用地は工事作業用スペースを広げた)
    神田川の川道は今と異なり、別位置では仮設通路の設置はかなり困難であるため、以上の案を考察しました。
    宜しく御一考願います。貴殿の益々のご活躍をお祈りいたします。
    2020年09月03日 17:14
  • ChinchikoPapa

    ひまぢんさん、ごていねいなコメントをありがとうございます。
    高田馬場仮駅および連絡桟橋の位置につきましては、その場所および桟橋ルートが1928年ごろに地元で制作されたとみられる、多色刷りの「鉄道地図」に収録・記載されていまして、仮駅は山手線西側の線路土手近く、落合町と高田町のほぼ町境上(落合町の地番で下落合17番地、高田町の地番で高田1046でやや高田町寄り)にありました。
    整流化工事がスタートする直前の、旧・神田上水北岸の位置にあたりますね。地籍簿を確認しますと、反対側の神高橋周辺と同様に、鉄道省の軌道用地(鉄道用地)の多いエリアです。
    また、連絡桟橋は同「鉄道地図」によりますと、旧・神田上水北岸の仮駅にはじまり、川をわたってそのまま南下し、栄通りのすぐ東側(当時は高田馬場駅前派出所があり、現在の稲荷社があるあたり)、すなわち早稲田通りに面した戸塚町75番地へと抜けるように直線状に伸びていました。
    地図の記号表現によれば、連絡桟橋はいつでも解体・撤去できるよう、木製の連絡陸橋のような仕様だったようですね。
    記事末に、1928年の「鉄道地図」の拡大したものを掲載しましたのでご参照ください。また、仮駅と連絡桟橋につきましては2009年に記事に書いていました。こちらも、よろしければご覧ください。
    https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2009-06-14
    2020年09月03日 18:42
  • ひまぢん

    ChinchikoPapa様 御一考いただき有り難うございます。
    私が上記写真を仮設通路と推定したのは、神田川横断人道橋部の工事が、民間ではかなり困難ではないのかという考察から出た物です。
    しかし上記連絡橋を示した地図及び帝国陸軍鉄道連隊工兵隊なら工事可能であることから、地図と同じ位置であろうと得心いたしました。

    さて話しは変わりますが、「地図・空中写真閲覧サービス」に整理番号:R11,コース番号:C1,写真番号:147という撮影年不明の写真があります。
    写真の中央に戸山ヶ原射撃場写り、間違えなく下落合近辺の写真です。写真左に中央線のカーブと神田川が写っておりますので、西側から撮った写真という事が分かります。(上が北、右が東、下が南、左が西)
    このことから写真中央部に走る鉄道が山手線であり、上部にある駅が高田馬場駅ということが判明します。

    肝心なことはここからで、写真上部の高田馬場駅から左側に目を移すと、現さかえ通り付近の神田川が改修前であることが分かります。目白変電所の位置関係から、旧田島橋が現田島橋より下流側に写っています。

    神田川改修工事が現富士短期大学の横で終わっており、旧神田川の蛇行がはっきり記録されております。
    左下の番号が"33-D"と記録されていることから、1933年ごろではないでしょうか?
    旧下落合駅や高田馬場仮駅は写っておりませんが、なかなか貴重な写真と思われます。
    2020年09月07日 12:30
  • ChinchikoPapa

    ひまぢんさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    書かれているR11/C1/147の斜めフカン写真は、おっしゃるとおり東京電燈目白変電所の前にある現・田島橋が、十数メートル下流の位置に架かっていることから1935年(昭和10)よりも前に撮影されたもののようですね。拙サイトでもよく引用します、1936年(昭和11)に撮影されたR8/C1シリーズの空中写真よりも、それ以前の街の姿がとらえられています。
    そのほかにも、早稲田通り沿いのシチズン時計工場(現・シチズンボウル)に、いまだ古い工場建屋が残っていますし、1933年(昭和8)末までに建て替えられた藤川勇造・藤川栄子アトリエ(戸塚3丁目866番地/現・高田馬場4丁目18番地)も、建物の形状からすでに竣工しているように見えます。
    ただ、わたしには同写真が1933年(昭和8)の撮影かどうかまでは、はっきりと規定することができません。1つは、戸塚町の濱田煕が記録している「バッケが原」(現・高田馬場4丁目15番地一帯)周辺が、すでに家々で埋めつくされてかなり狭くなっていること。2つめは、早稲田通りのクラック部(現・高田馬場4丁目13番地あたり)が明らかに取り除かれており、なめらかなカーブ状の通りに修正されていることです。
    ただし、通りの南側の家々(少し前までは通り北側の家々でした)は、いまだ立ち退き前のような状態になっていますので、道路修正の真っ最中をとらえた写真のようですね。1933年(昭和8)現在の「淀橋区全図」には、いまだ道路の屈曲部が旧来のまま採取されており、道路際の土地買収と商店の立ち退きが予定されていた可能性が高そうです。
    まだ他にも、明治通りとクロスする諏訪通りの拡幅工事が、近衛騎兵連隊の兵舎前あたりまで進捗していそうなことなど、いろいろ併せて観察していきますと、もう少しあとの撮影(1934~35年)ではないかな?……という感触が残ります。フィルムに残された「J-〇〇33-D」という記号は、フィルム番号のような気もしますが、筑波の日本地図センターではどのように解釈しているのでしょうね。
    2020年09月07日 17:20
  • ひまぢん

    さっそくのお返事ありがとうございます。
    ChinchikoPapa様の1934~1935年の写真ではないかというご考察を、私としても確認したくR11/C1シリーズの写真をさらに調べた結果、より早い時期(1930年頃)の可能性があることを発見したため急遽ご報告させていただきます。

    「地図・空中写真閲覧サービス」にて整理番号:R11で検索するとこれらの写真群が、立川から新宿まで、甲州街道・中央線・目白通り上で一連に撮影したもののように表示されます。
    このうち新宿区関係のR-11/C1/(以下略)43,146と44,45,147をピックアップします。43,146は淀橋浄水場上空で撮影したもの。44,45,147は小滝橋もしくは東中野上空で撮影したものとなります。
    次に147の前番号である146に着目します。
    146は淀橋浄水場上空から西側を撮影したもので、淀橋浄水場および東京瓦斯のガスタンク(ガス溜)が写っておりますが、なんと5万m3タンクが基礎工事中です。そこで東京瓦斯の社史を検索すると昭和6年(1931)6月5日「淀橋供給所、ガス溜完工(五万六、五〇〇m3)」と記載されています。東京瓦斯の記載が正しいとすれば、タンク基礎工事は1930年頃である可能性が非常に高いことが予想されます。
    またこの写真には山手通り(改正通り)の工事が、甲州街道から玉川上水を挟んだ数百メートルであり用地買収も全く行われていないため、着手直後であることが分かります。これは45における東中野においても同様で、用地買収が全く行われておりません。このことからも1930年代前半と予想されます。

    以上のことからR11/C1シリーズは1930~35年内の西東京の写真であることが分かりました。全ての写真がJ-1-33Dという写真番号ですが、撮影時期は全く異なるのかもしれません。また有名建設物の建設時期が分かれば、より詳細に撮影日時を特定出来るかもしれません。
    2020年09月07日 23:40
  • ChinchikoPapa

    ひまぢんさん、貴重な情報をありがとうございます。
    さっそく、ご指摘のR-11/C1/146の写真を見てみました。新宿2丁目にあった“北側”の瓦斯タンクは、1933年現在も基礎工事のままストップしていたはずで、建設仕掛かりの状態だったと思います。1931年に完成しているのは、“南側”(新宿2丁目174番地)にあるタンク1基のことだと思うのですが。ちなみに、“北側”のガスタンクが竣工して地図に記載されるのは1935年からとなっています。
    山手通りの工事も新宿3丁目179番地あたり、写真でいいますと広大な山内邸の北側、京王電鉄の神宮裏駅の北北東あたりまでで、この状態が1933年現在もつづいおり北側は手つかずです。そこから北側の家々(用地)が買収・解体され、実際に山手通り工事がスタートするのはおそらく1934年のことで、翌1935年の地図には工事がかなり進捗している様子が描かれています。
    いずれにしましても、この斜めフカン写真は面白いですね。わたしも何気なく、戸山ヶ原の陸軍科学研究所/陸軍技術本部や陸軍中野学校などの記事で引用していましたが、「1935年ごろ」として掲載してきましたが、もう少し前の可能性があるのは確かですね。ありがとうございました。
    2020年09月08日 10:12