
片多徳郎Click!が、名古屋の寺院で自裁する少し前に描いた、絶作『風景』(1934年)という作品が残されている。通常のキャンバスではなく、板に描かれ木目が浮き出ているから薄塗りで、かつ23.5×33.0cmの小品だ。収蔵先の大分県立美術館によれば、「自宅近くを描いたもの」と規定されている。
片多徳郎は最晩年、下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエから、目白通りをはさんだ長崎のアトリエ(地番不明※)に転居しているが、『風景』に描かれたような大規模なバッケ(崖地)Click!は、当時の長崎地域では地形的にも想定しにくい。長崎地域の西端、西落合との境には千川上水の落合分水Click!が流れていた崖地があるけれど、妙見山Click!の麓にあたる谷戸はV字型渓谷で、画面のような風情ではなかっただろう。おそらく、パレットよりも小さな板を携えて、片多徳郎は近所を彷徨しながらどこの情景を描いたものだろうか?
※以前にも、pinkichさんよりご教示いただいたのを失念していました。長崎の住所は、長崎東町1丁目1377番地です。ただし、片多徳郎が転居してすぐの1933年(昭和8)より、長崎東町1丁目90X番地に変更されています。詳細はコメント欄をご参照ください。
片多徳郎の下落合アトリエについて、鈴木良三Click!がこんな証言を残している。1999年(平成11)に木耳社から出版された、鈴木良三『芸術無限に生きて』から引用してみよう。なお、九条武子Click!の邸が出てくるけれど、これはまったくの方角ちがいなので、明らかに鈴木良三の誤記憶だと思われる。
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二瓶(等)さんのところを逆戻りして西の方へ五十メートルほど進むと九条武子夫人(ママ)の住居があり、その角を二、三軒行った左側に二階建ての庭もない、木戸を開けると直ぐ玄関がある、あまり大きくないサラリーマンの住宅といったところの二階に片多さんは下宿していたらしい。私は一度も訪ねたことはないが、中村研一さんの洋行中は初台のアトリエを借りていたらしく、それ以外はみな畳の上で制作していたそうだ。/研一さんが帰朝したので、下落合の家に移った。その頃江藤純平さんがその付近に住んでいたので、江藤さんの世話で移ったとのことであった。(中略) 二瓶さんはときどき訪ねてボナールの画集など見せたりして喜ばれたし、曽宮(一念)さんも近いし、美校の卒業だったから訪ねたり、訪ねられたりしたが、一度だけ酒を振る舞ったらたいそう意気投合して、色紙に榛名湖の絵を描いてくれたそうだ。/酒好きの牧野虎雄さんのところは勿論訪ねて杯を酌み交わした仲だったろう。(カッコ内引用者註)
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下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!まで、およそ東西の道のりで200m強。文中に登場している画家たちのアトリエは、下落合732番地の片多アトリエに下落合604番地の牧野虎雄アトリエClick!と、この東西の道沿いの両側に点在していた。また、片多とは西ヶ原以来のつき合いである帝展の江藤純平Click!と長野新一Click!も、それぞれ下落合1599番地と下落合1542番地の第三府営住宅Click!内にアトリエをかまえていた。
鈴木良三が「九条武子夫人の住居」と勘ちがいしているのは、下落合595番地の田中浪江邸(一時期は本田宗一郎邸Click!、現在の下落合公園Click!の敷地)のことで、住民の名前が女性らしかったのが誤記憶につながったものだろうか。田中浪江は、会計検査院に勤務していた男性だ。




さて、『風景』の画面を観察すると、家々や樹木に当たる光線と陰影の具合から右手が南か、または右寄りの奥が南東のように感じられる。手前は、平地に近いなだらかな斜面のように見え、傾斜は左から右へ微かに下っているようだ。画面中央から左手にかけては、明らかにバッケと思われる崖線が連なっており、手前に描かれた微妙な傾斜の様子を勘案すると、左手が丘になっていそうな地形であることは容易に想像がつく。左手につづく崖線の下、微かな傾斜地あるいは平地のように見える土地には、なにやら住宅には見えない横長の建物が重なるように建設されている。ことに、手前の建物の屋根向こうに大きく突きでて見える、空気抜きのありそうな青い屋根などの形状は、当時の大型倉庫か工場を連想させるような規模の建物だ。
垂直に近い崖地の下にも、家々の屋根らしいかたちがいくつか並んでいるが、こちらは通常の住宅ぐらいの大きさだろうか。この家並みに沿うようなかたちで、崖下には道路が通っていそうだ。画面全体は、樹木の葉が変色するか落ちたあとの晩秋ないしは初冬の景色のように見えるが、同作が1934年(昭和9)に描かれたものだとすると、片多徳郎は4月末には名古屋の寺で自死してしまうので、同年1~2月に制作しているのだろう。ひょっとすると、前年の秋か暮れ近くにスケッチしておいたものを、翌年になり改めて手を加えて完成させているのかもしれない。
『風景』にはたった1点、描画場所を特定できそうな大きなヒントが描きこまれている。それは、崖上の樹間にかいま見えている、白っぽいビル状の建物だ。小さく見えるビルのような建物には、窓が規則的に並んでいるのが確認でき、屋上の片側には大きな突起物が見てとれる。画面のような擁壁のない崖地に建つ、このようなビル状の建物は、1934年(昭和9)現在の落合地域をはじめ長崎地域や高田地域を含めても、わたしが思いあたる場所は1ヶ所しか存在しない。白いビル状の建物は、崖上に開発された近衛町Click!の42・43号敷地Click!にあたる、1928年(昭和3)に下落合406番地へ竣工した学習院昭和寮Click!の寮棟Click!のひとつだ。
より詳しく位置関係を規定すると、見えている寮棟は丘上から南側に張りだしている、第四寮棟ないしは第二寮棟のうちのどちらかだろう。そう規定すると、手前に見えている赤い屋根の建物は石倉商会の包帯材料工場であり、その向こう側に見えている横長の青い屋根や大きな建築群は、甲斐産商店(大黒葡萄酒)Click!の壜詰め工場や倉庫、あるいは事務所の建物群である可能性が高い。画面手前が少し高まって見えるのは、近衛町のある丘から張りだした等高線が、まるで半島か岬のように崖下まで舌先を伸ばしているからで、崖下に沿うように通っている雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)も、この時期にはいまだ切通し状の場所が、いくつか残っていたかもしれない。



おそらく、片多徳郎はこの場所を下落合に住んでいたころから、近所の散策などでよく知っていただろう。彼は転居してきたばかりの長崎のアトリエから、画道具と小さな板切れを持って目白通りをわたった。下落合側に入ると、いずれかの坂道を下り、目白崖線の麓に沿って鎌倉期に拓かれた雑司ヶ谷道へと出ると、東に向かって歩いている。下落合氷川社Click!から相馬孟胤邸Click!のある御留山Click!をすぎると、崖上の色づいた樹間から白亜の学習院昭和寮Click!が見えてくる。高い建物が存在しなかった当時、丘上の寮棟Click!はかなり目立っただろう。
工場の建屋の向こう側、画面右手には山手線の線路土手Click!が斜めに望見できてもよさそうな位置だが、あえて省略されたのか、あるいは昭和期に入ると工場や倉庫などの建物の陰で実際に見えにくくなったのかは不明だ。片多徳郎がイーゼルを立てたのは、雑司ヶ谷道の南側で下落合45番地あたりの敷地だ。この敷地は、もともと山本螺旋(ねじ)合名会社伸銅部工場が建っていたところだが、昭和初期の金融恐慌あるいは大恐慌で倒産したのか1934年(昭和9)現在は更地になっていたとみられる。(1936年の空中写真でも、更地のままに見える) この敷地の南側にあったのが、昭和初期の地図類に採取されている硝子活字工業社目白研究所ということになる。
さて、同空き地にイーゼルをすえた片多徳郎は、近衛町42・43号の崖地が大きく左手に入るアングル、北東の方角を向いて画面に向かいはじめた。学習院昭和寮の南側を囲む、背の高い樹木の間から寮棟の3階から上の部分がのぞいている。おそらく、完全にアルコール依存症になった最晩年のことだから、ポケットの中には日本酒の入った小壜か、ポケットウィスキーが入っていたかもしれない。彼は、それをときどきグビッとあおりながら、少し震える筆先で風景を写しとっていったような気がする。ひょっとすると、ときおりなんらかの幻覚でも見えていたのかもしれない。
指先の震えをカバーするためか、筆づかいは風景を大胆に大づかみにして切りとり、局所的で微細な描写は避けているように見える。従来の作品にみられる、厚塗りで繊細な筆致とはかなり異なるマチエールで、どことなく投げやりな筆づかいさえ感じとれる仕上がりだ。画面を綿密に仕上げる根気が奪われているのは、もちろん身体から抜けきらないアルコールと、この時期に陥っていた精神状態のせいだろう。これまでの片多徳郎とは、かなり異なる別人のようなタブロー画面となっている。


それでも、制作をつづけようとする意欲は残っていたらしく、長崎地域から下落合の近衛町下の工業地まで、最短で往復3km強の道のりを画道具を抱えてやってきている。絶作となる『風景』の出来が不本意だったのか、あるいはなんらかの別の要因から絶望のスイッチが入ってしまったものか、このあと片多徳郎は数ヶ月しか生きなかった。
◆写真上:自死する数ヶ月前、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に掲載された片多徳郎。中は、1932年(昭和7)に制作された片多徳郎『春畝』。下は、1926年(大正15/左)と1929年(昭和4/右)に制作された片多徳郎『自画像』。
◆写真中下:上は、『風景』に描かれた崖上の拡大。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『風景』の描画ポイント。下は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町に建つ学習院昭和寮。右下には甲斐産商店の工場が見え、点線は片多徳郎の描画方向。
◆写真下:上は、空襲で工場街が焼けた1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。中は、現在の学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の崖地。下は、集合住宅の建設のために解体中の学習院昭和寮(現・日立目白クラブの寮棟)でGoogle Earthより。



この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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pinkich
ChinchikoPapa
また、長崎東町の住所「長崎東町1-1-377」もありがとうございました。長崎東町は、1932~1939年(昭和7~14)まで、わずか7年間しか存在しなかった住所です。1932年以前は長崎町、1939年以降は長崎1丁目と椎名町に分割されます。そして、長崎東町は旧・長崎町の地番をそのまま引きずっていますので、「長崎東町1丁目1377番地」ではないかと思います。同町は、広い長崎町の1200番地~1500番地のエリアへ、1932年に設定された結果的には暫定的な町名となってしまいました。そして、1377番地は長崎アトリエ村のひとつ、桜ヶ丘パルテノンの中の住所だと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
わたしもウッカリしていましたが、同じようなコメントを下記の記事でも差し上げていましたね。そして、そのときに「長崎東町1-1-377」の住所は、すでにご教示いただいていました。(爆!)
とんだ大ボケをしてしまいました、すみません。<(_ _)>
pinkich
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
いろいろなことが、わかってきました。豊島区の読者の方からメールをいただき、いつかのコメントと同じリプライをして、大ボケするな!…と叱られました。^^;
まず、長崎東町1丁目1377番地という住所は、わずか1年間しか存在しなかったことがわかりました。1932年(昭和7)に豊島区が成立し、「長崎東町」が誕生しますが、地番は旧・長崎町のままでした。ところが、翌1933年(昭和8)には早くも地番変更が行われ、1377番地には900番台の番地がふられています。つまり、片多徳郎は転居したときは長崎東町1丁目1377番地だったのが、すぐに「長崎東町1丁目90X番地」へ変更になっているはずです。
晩年の住所として、「長崎東町1-1377」と記録されているということは、片多徳郎が出した手紙か転居届けかなにかの記載だったのではないでしょうか。彼が名古屋で自死するときには、すでに「長崎東町1-90X」になっていたはずです。
それから、片多アトリエの位置ですが桜ヶ丘パルテノンではなく(同アトリエ村の建築スタートは1935年ごろですね^^;)、その南東側にあたるエリアです。記事末に、1932年(昭和7)現在の地図(赤丸のところが1377番地です)、および1947年(昭和22)の空中写真を掲載しました。このあたりは空襲による延焼はしていませんので、丸で囲んだ建物が片多徳郎のいた家なのかもしれません。
現在の住所でいいますと、長崎1丁目18番地ということになります。Googleマップでいいますと、同地番の長崎アパートが建っています、西へ入る行き止まり路地の左手(南側)ですね。
吉岡憲は、山手線をはさみ高田南(東側)から学習院昭和寮を描いていますが、片多徳郎は逆の下落合(西側)から同寮をとらえていて、ちょうど対照的な感じですね。吉岡憲のほうが、昭和寮まで距離があるため、寮棟全体がよく見えています。
『郊外の春』に惹かれましたので、ちょっと画像を探してみます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
pinkich
ChinchikoPapa
長崎東町には、その町名の成立時(1932年)から消滅時(1939年)までの7年間、「1丁目1番地(377号)」というような地番は存在しません。図録に書かれている数字を尊重しますと、長崎東町1-1377以外の選択肢は考えられない…ということになります。
・1932年10月1日~ 豊島区長崎東町1丁目1377番地
・1933年1月~1939年 豊島区長崎東町1丁目90X番地
記事末に、1933年1月に地番変更が行われた直後の長崎東町1丁目地図を掲載しました。赤丸印が、旧・1377番地です。ご参照ください。この地番変更は、旧・長崎町の地番を基盤にした変更ですので、変更後も長崎東町1丁目に1番地は存在していません。
ChinchikoPapa
新聞の「死亡記事」で旧住所が書かれていたとすれば、その理由は当時の美術年鑑あるいは美術雑誌への、片多徳郎自身による地番変更あるいは告知がなされていなかったか、または彼が転居した当初の資料を記者が参照してしまった……と解釈することができますね。ちょうど、村山知義が、自宅のリニューアルが完成して上落合のアトリエにもどっているにもかかわらず、美術年鑑への届け出を忘れたため、かなり長く下落合のアトリエ(片多徳郎アトリエの隣接区画です)に住みつづけていたことになってしまったのと、近似するケースが考えられます。
残念ながら、1933年版の美術年鑑が手もとにありませんので、確認のしようがないのですが…。
きょうの午後、さっそく『郊外の春』所収の『片多徳郎傑作画集』を古書店サイトで参照したのですが、1935年出版ですのでけっこう値が張りますね。ちょっと、迷っているところです。w
pinkich
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
『郊外の春』を、ますます観たくなりました。長崎町で大きな邸宅といいますと、長崎バス通り(現・ニコニコ商店街の通り)沿いの岩崎家がありますが、少し東へ歩けば1933~34年(昭和8~9)ですと、戸田邸跡に引っ越してきた真新しい徳川邸がありますね。
下落合も西のアビラ村へ出れば、野原が多い風情で庭に大樹が繁る大きな邸(旧家)が、当時はいくつか散見されたでしょうか。ますます、画面を観たくなりましたね。
pinkich
ChinchikoPapa
なんだか、おねだりしてしまったみたいで申しわけありません。わたしも、1988年の片多徳郎展の図録がどこかにないか、探してみます。
pinkich
ChinchikoPapa
また、わざわざ資料をご用意いただき、たいへん恐縮です。近々、「いのは画廊」へうかがいます。ありがとうございました、重ねてお礼申し上げます。
ChinchikoPapa
画廊主と、しばらく楽しいお話もさせていただきました。正宗得三郎の淀橋浄水場を描いた、『淀橋風景』が売れずにいたのは意外でした。かなり安い値づけのはずなのに、それだけ油絵のニーズが低下しているということでしょうか。
pinkich
ChinchikoPapa
正宗得三郎の『淀橋風景』は、関東大震災前の淀橋浄水工場の機関室と煙突を描いたものですが、いまとなっては貴重な画面ですね。おそらく、西大久保207番地にアトリエをかまえていた、大正前期の作品ではないかと思います。おこづかいの余裕があれば、わたしが欲しいくらいですが…。w 板キャンバスの表と裏を撮影させていただきましたので、近々、こちらもご紹介したいと考えています。
片多徳郎の『風景』(1934年)は、ちょっと描画位置の特定が難しそうですね。いただきました資料によれば、秋の風景ということですので、同作も1933年の秋にスケッチしておいたものを、翌年の自死する直前に仕上げたものでしょうか。晩年に住んだ長崎東町にも、画面と同じような風景があったはずですが、邸内の大きなケヤキとみられる樹木をヒントに、じっくり考えてみたいと思います。いろいろ、ありがとうございました。
Marigreen
私は自分にとって好きな絵かそうでない絵かくらいしか分かりません。
うちの娘が、Papaさんが葉書に描いてくれた絵を気に入って、私が「やっぱりプロには劣るでしょ?」と言ったら「そんなことないわ。美大目指していただけのことはあるわ」と感心することしきり。また葉書をくれることがあったら絵を添えて下さい。
娘に見せたらどれ程喜ぶことか。
ChinchikoPapa
そして、一昨日とどいた梅の実もありがとうございました。梅酒かジャムにしたいと思います。ところで…、わたしがハガキに描いた絵というのは、ちなみになんの絵でしたっけ?(爆!)
お嬢さんに、よろしくお伝えください。
ChinchikoPapa
いただいた資料では、挿入されている画面に「風景(昭和九年絶筆)」というキャプションが添えられていますが、この作品が現在では書かれているように「郊外の春」と改題されているものでしょうか? pinkichさんが一貫して、「郊外の春」と書かれているので気になりました。
pinkich
papaさん 「郊外の春」は、片多徳郎傑作集にも「郊外の春」として掲載されております。この作品は昭和9年10月の第15回帝展に遺作として出品されたそうで、水原秋櫻子が「草萌をいのちさびしく見し人か 枯草を白く描きたる風景なりき」(第三句集秋苑、帝展における2つの遺作片多徳郎氏「郊外の春」)の2句をこの作品に寄せて作ったとされています。
pinkich
pinkich
ChinchikoPapa
上記の件、了解いたしました。この記事の作品『風景』は、長崎地域に10m前後と思われる垂直に近い崖地は存在しませんので、おそらく目白崖線を描いたものだと推定できます。
ただ、いただきました資料の風景画は、ご子息が書かれている通り長崎地域にも、また落合地域にも残っていた農村の面影を残すありがちな風景ですので、場所の特定はかなり難しそうですね。落合地域ばかりでなく、長崎地域にも目を向けて探してみたいと思います。長崎東町の近辺だとすれば、案外すんなり見つかるかもしれませんね。
いろいろご教示いただき、ありがとうございました。しばらく、じっくり取り組んでみたいと思います。
ChinchikoPapa
カラーの画像がないのは、返すがえすも残念ですね。モノクロ画像を見る限り、手前の明るい色が帯状に描かれた原っぱは枯草かもしれませんし、大きな家屋のケヤキと思われる樹木は、茶色に変色しているのかもしれません。山下鐵之輔が書いているように、「秋」の雰囲気が色濃く漂います。
ケヤキは、葉を落として冬を越しますと、次の春に若葉が芽を出すのは案外遅く、サクラが咲いたあとの4月初旬から中旬にかけてですのて、画面のケヤキと思われる樹木はよけいに「秋」のような感触が強くします。
とりあえず、描画場所の特定に季節は関係ありませんので、ちょっといろいろ調べてみようと思います。ありがとうございました。
pinkich
ChinchikoPapa
未完の可能性はおしゃるとおり、大いにありそうですね。いただいた資料のモノクロ画面『風景』(1934年)をみますと、それなりに絵の具は載っていますし、描写もこの記事の絶作『風景』(1934年)よりは、よほど細かいような気がします。
ひょっとすると、写生から帰りアトリエに置いたまま、最後の仕上げをしないうちに自死してしまった作品かもしれません。つまり、目白崖線の下でザッとスケッチし、絵の具が早く乾くよう薄塗りの状態で持ち帰ったままの画面が、絶作『風景』なのかもしれませんね。
ChinchikoPapa
pinkich
「片多徳郎の長崎アトリエから徒歩15分前後、東長崎駅からですと徒歩5分前後の大農家で、戦後すぐのころまで大ケヤキが残っていました。」との書き込みをいただきありがとうございます。片多徳郎の『晩年の珠玉の傑作』の描画ポイントをついに発見されたわけですね。記事を楽しみにしております。papaさんの偉業だと思います。このあたりの豪農と言えば岩崎家しか思いあたりません・・・
ChinchikoPapa
長崎地域の最南部で有名なのが「岩崎家」なのですが、現在の千早や千川などまで、つまり板橋区との境界までが長崎町だった時代に、その中部から北部にかけて一族で大きな屋敷を20ヶ所ほども展開していたのが「田嶋家」でした。おそらく、岩崎一族の10倍以上の規模だったのではなかったかと思います。その田嶋家の屋敷を追いかけて、見つけることができました。 ついでに、左手に描かれているモダンな切妻の家も、特定することができました。
pinkich
papaさんのおかげで、片多徳郎が晩年、落合地域や長崎地域を歩き回り、スケッチや油彩の作成していたことがわかりました。
そういえば、片多氏の晩年の代表作に中出三也をモデルにした作品がありましたね。北九州の美術館が所蔵しているようです。先日、いのは画廊で甲斐仁代の作品を見て思い出しました。片多氏が帝展つながりで、バッケのまだ先にある中出三也&甲斐仁代宅を訪問し、中出三也をモデルにスケッチを描かしてもらったのかもしれませんね。
落合地域や長崎地域のあちらこちらを往来する晩年の片多氏の様子が垣間見れておもしろいです。
ChinchikoPapa
落合地域に住んだ画家たちの作品で、描画場所を見つけるのは面白い作業なのですが、それとは別に画家がどのようなルートで画題を求めて付近を散策していたか、あるいは画家同士でどのような交流があったのかが、画面を透かして見えてくることがある点ですね。上記の片多徳郎と中出三也もそうですし、松下春雄と有岡一郎、佐伯祐三と曾宮一念、清水多嘉示と中村彝、宮本恒平と耳野卯三郎など、従来はあまり触れられていなかった落合地域における画家たちの“動き”が、具体的に見えてくることでしょうか。
1934年の長崎地域を描いた絶作『風景』も、片多徳郎はこんなところまで足を伸ばしていたのか……という感じで面白いです。最晩年の片多徳郎は、空に枝を拡げる大農家のケヤキの大樹を眺めながら、いったいなにを感じていたのでしょうね。
pinkich
ChinchikoPapa
福富太郎といいますと、よく11PMに出演していたのを思い出します。そのコレクションは、国内外の美術品や民芸品を含めますと相当な点数にのぼるのではないでしょうか。確か、コレクションを収蔵しておくオフィス兼展示場(倉庫?)が、東京と熱海の別荘にあったような記憶があります。でも、片多徳郎の作品も含まれていたとは、初めて知りました。
収蔵品には、いわくのある作品もあったようで、彼の収蔵作品をめぐる怪談話は、わたしの高校時代から有名でしたね。11PMや昼の番組などで「怪談特集」があると、所蔵している美術品や民芸品を持参しながら、「怖い話」や「あなたの知らない世界」の逸話を紹介していたのを憶えています。亡くなったのも初耳ですが、確かに記念美術館のような施設ができないのであれば、コレクションのゆくえが心配ですね。
pinkich
ありがとうございます。
福富太郎コレクションの行く先が気になりますね。先日、片多徳郎の作品の行方について書き込みましたが、戦争?で「焼失」の引用は、1988年の片多徳郎展の図録ではなく、1970年代の片多徳郎、遠山五郎展の図録(北九州市立美術館)でした。失礼しました。
こちらの図録では片多徳郎の作品が比較的大きな画面で見ることができます。
ところで、中出三也の肖像画は、制作途中では、フォービズムの影響を受けたかなり尖った作品だったようですが、完成に至る過程で尖った部分かなり抑えらようです。曽宮一念の「いはの群れ」に記載があります。
たしかに、肖像画の上半身部分はかなり色合いを描き変えた跡があります。
この記事にある「絶筆」もフォービズムの影響を受けた作品なのかもしれません。そう考えると完成作とも考えられます。
左下に「徳」のサインの痕跡のようなものがあり、いったんサインしたものを消した可能性があるように思います。
ChinchikoPapa
『いはの群』(1938年)の「晩年の畫」に、そのいきさつが書かれていますね。曾宮は実際に訪ねて、50号の画面を観ているようなのですが、「古典派の先輩」が「フオウブの理解」に進んでいるように解釈していますね。曾宮一念の“動き”が貴重なのは、彼の周辺にいた画家たちのもとを積極的に訪ね、かなり正確な得がたい記録類を残しているからですね。ただし、晩年はその明晰な記憶力もややにぶったものか、若いころの証言と食い違うケースもままありますが、頭脳がしっかりしている時代の著作やインタビュー記事は非常に重要です。
『中出三也像』は観たことがありませんが、片多徳郎にとっては1930年をすぎて、いろいろ表現上の模索をしたくなったものでしょうか。画家は、習作や実験作にはサインを入れたがりませんので、同作もそのような位置づけだったのかもしれません。
pinkich
また、2人とも時期は違えどセザンヌから多大な影響を受けていたようで不思議な縁を感じます。
ChinchikoPapa
わざわざ収蔵先をご教示いただき、恐縮です。『N氏の像』は、以前に画像をご紹介したときに、実は北九州市立美術館のサイトから画像を拝借していましたね。もちろん、実物は一度も観たことがありません。東京で、大正~昭和期の「文展・帝展洋画家」のような催しがあれば、ひょっとすると展示されるかもしれないです。
考えてみますと、美術館にはかなり足を運んでいるほうだと思うのですが、まだ画像や写真でしか知らない未見の作品がゴマンと存在します。特に、地方の美術館や資料館に収蔵されている作品は、なかなか観られる機会がないですね。