
今回は、これまで参照してきたグラフ誌Click!や写真集Click!から離れ、関東大震災Click!時には中堅の出版社となっていた本郷区駒込坂下町の大日本雄弁会講談社が、1923年(大正12)10月1日に発行した『大正大震災大火災』(当時価格1円50銭)より、あまり見たことのない写真類をご紹介したい。
同社は本郷区という立地のせいか、大震災直後からカメラマンと記者を被害地域へ派遣しているので、震災直後の市街地の様子をとらえた写真も多い。のちに発生する大火災で、全域が焦土と化してしまう街並みや、余震や火災に追われて逃げまどう人々の様子が撮影されており、記録写真としてはきわめて貴重だ。
同書の巻頭では、哲学者で国粋主義者の三宅雄二郎は、こんな「序」を寄せている。
▼
維新以後、長足の進歩を遂げ、文明の設備も、旧幕時代と比ぶべくもないと見え、幾階の高楼を指し帝都の誇りとしたが、安政位の地震で、見渡す限り焼跡となり、仲秋の月も、焼跡より出で焼跡に入るといふ状態である。これと云ふのも、前にそれぞれ用心し、後に耐震耐火で丈夫と思ひ、井戸をつぶし、火除地を除いたのに因ることが多い。今少しその辺を考へ、設備を整へたならば、大災害を幾分一に止め得たであらう。従来の如き設備では、安政の如き地震で、安政以上の災害を免れることが出来ぬ。或る人は予め之を明言したが、一般に何とも思はず、且つ地震学者は、早晩、断層の危険があると知り、之を公にすれば、世間が騒ぎ、有識者側より注意させようとして手を控へたやうなわけとなり、予想よりも早く震災に遭遇し、如何ともすることが出来なくなつた。識者の眼が何処までとゞくか、その手が何処まで及ぶか、旧幕時代に較べて、人智に何程の進歩あるかを怪しまねばならぬ。
▲
三宅は金沢育ちなので知らなかったのか、震災にみまわれた市街地で江戸期の「井戸」をつぶした事実はなく、廃止されたのは膨大な水道(すいど)網Click!だ。今日から見れば、直下型の活断層地震とみられる江戸安政大地震を、相模トラフの海洋プレート型地震の関東大震災とを同一に考えるなど、ピント外れな表現も多いけれど、文中の「安政位の」「安政の如き」大地震を、「関東大震災」に置き換えたような文章が、おそらく次に東京を襲う大震災のあとにも書かれるであろうことは想像に難くない。
三宅が指摘しているように、「一般に何とも思はず」の状態が、特に1964年(昭和39)の東京オリンピック以降は恒常化しており、水道(すいど)の竪穴を埋めるどころか、重要な防火・消火用水として使用できたはずの河川や運河を次々に埋め立て、避難場所として設置された広場や火除け地を高速道路の橋脚用地として破壊したりと、防災インフラの食いつぶしになんの危機感も抱かなくなってしまった状況がある。




三宅は、あたかも大震災を口にする地震学者が、「之を公にすれば、世間が騒」ぐので公表を手控えたように書いているが、もちろん科学的な事象を積み上げながら大地震を正確に警告した地震学者はいた。関東大震災が起きる18年前、水道管の破断で消防機能がマヒし、地震直後に発生する大火災で、「東京市内各地の被害推測したら、全市焼失なら十万、二十万の死人も起こりうる」と予測した地震学者の今村明恒だ。だが、彼の警告は不安をあおる妄言(たわごと)として非難を浴び、提言のほぼすべてが各界から敵視され無視されている。
さて、同書には震災直後の街角をとらえた写真が目につく。いまだ大火災が市街地全体に拡がらず、中には火事場を見物している“余裕”さえあった、9月1日午後の情景だろう。大火災(大火流Click!が生じた地域もあった)は、同日の夜から翌日にかけ急激に拡大していくことになる。同書でも、日比谷交差点近くで発生した火元のひとつとなるビル火災をとらえている。地震で倒壊した住宅の中で、4階建てのビルから出火している様子が写っているが、ここから拡がった火災は南からの類焼と合流して、麻布区や赤坂区のほうまで延びていくことになる。同じく、日比谷公園から同じ火災の拡がりを眺めている人々をとらえたスナップも残っている。
また、神田駅の近く神田今川橋の通り沿いを、迫りくる火災から逃げまどう人々をとらえた写真も現場に居合わせるようでたいへんリアルだ。最初の強震で、比較的広くて幅員のある今川橋通り(電車通り)へ避難した人たちは、すぐそこまで迫っている大火災に愕然としただろう。余震の中、あわてて家内にもどり貴重品や家具調度品を持ちだして、火災とは反対方向へ逃げる様子が写っている。




大火災による被害が甚大だったため、語られることが少ないけれど、建物の倒壊による死傷者の数も多かった。東京市の推定によれば、5,000~6,000人が崩れてきた建物の下敷きとなって圧死している。震災直後に倒壊した建物の写真も、同書には記録されている。赤坂の住宅街で起きた惨状は、当時の重たい屋根瓦を葺いた日本家屋が、いかに危険でもろかったのかを証明するような写真だ。日本橋の白木屋Click!も丸善Click!も、また上野精養軒Click!も倒壊して多数の死傷者を出している。中でも白木屋と丸善は、ほどなく延焼してきた火災が迫り、建物の下敷きになって救援を待っていた多くの生存者が、大火災にのまれて焼死した。
同書の「序」を執筆している幸田露伴は、東京の建築について次のように書いた。
▼
今回の大災禍も其地震は地殻の理学的理由によつて、或部分の陥没と、或部分の隆起とを惹起したのぶある。火災は地震によつて起されたものであるが、此の方には大に平時の防火準備及び方法、訓練等に関する考慮の不足であつたことを見はして居て、若し今少し平時に於て深い考慮が費されて居たなら、同じく災禍を受けるにしても、今少し災禍を縮小し得たらうと思はれる。地震の方も、一般家屋の建築が、今少し外観の美を主とせずに、実際に耐力の有るものであつたなら、即ち虚飾を少くして実質を重んずる建築法が取られてゐたならば、同じ程度の震動を受くるにしても、今少し軽い程度の災害で済んだことだらうと思はれる。市街の通路の広狭、空地の按排等も、今少し好状態であつたら震災火災によりて惹起された惨事を今少し軽微になし得たであらうし、又水道のみ頼る結果として、市中の井を強ひて廃滅せしめた浅慮や、混乱中を強ひて崇高な荷物を積載した車を押通して自己の利益のみを保護せんとした為に愈々混乱を増大し、且其荷物に火を引いて避難地をまで火にするに至つた没義道な行為や、さういふ類の事が少かつたなら、今少し災禍を減少し得たらうことは、分明である。
▲
この文章は、現在の東京にもそのまま当てはまる内容だろう。見栄えをよくするために、旧「白木屋」(現・COREDO日本橋)をはじめ、全面をガラス張りにしたビルが東京のあちこちに建設され、震動が激しく消防のはしご車さえとどかない死傷率がきわめて高そうな、高層マンションの上階に住むのをステータスとしているようなおかしな感覚が、関東大震災からわずか100年足らずで東京に蔓延している。





震災で水道管が破断することなく、また停電することもありえないことを前提に、火災が発生したらただちに天井のスプリンクラーから消火水が散布され、エレベーターを使って避難できると思っている、根拠のない楽観論(というかもはやおめでたい空想論だ)を唱える人間こそ、天災をより大きな人災へと変える元凶そのものにちがいない。
<つづく>
◆写真上:建物は倒壊せずに建っているが、内部は全焼した日本橋三越。
◆写真中上:1923年(大正12)10月1日発行の『大正大震災大火災』(大日本雄弁会講談社)より。上から下へ、日比谷の火元となった4階建てビルの火災、その火災の拡がりを日比谷公園から見守る人々、神田駅近くの今川通りに迫る火災から逃げまどう人々、震災と同時に崩壊した赤坂地域の住宅街。
◆写真中下:上から下へ、地震で倒壊したあと火災が襲った日本橋白木屋の残骸、同じく日本橋丸善の残骸、地震で崩壊した上野精養軒、品川駅に殺到する避難民。
◆写真下:上から下へ、全滅した廃墟の銀座通り、同じく壊滅した八丁堀、全焼の歌舞伎座、下左は、浅草寺の本堂と五重塔、仁王門を残して火に包まれる浅草を描いた横山大観の『大正大震災大火災』裏表紙。右下は、崩落した二重橋濠に架かる正門石橋の石垣。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
サンフランシスコ人
2011年3月、日本の大地震の時に、サンフランシスコは絶対安全だと思った人々が(サンフランシスコに)いました.....ピント大外れ....
ChinchikoPapa
おっしゃるとおりですね。太平洋に面してる地域は、どのエリアでも海洋プレートに起因する大地震の脅威にさらされています。チリ沖の大地震で起きた大津波が、日本を襲うぐらいですから(1933年の三陸大津波)、どこで起きる地震にせよ警戒してしすぎないことはないですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
原発のことを直ぐに思い出しました。経済優先、利権優先であると、良識、見識、知恵が黙殺されてしまうことが、嘆かわしく、憤ろしく思われます。
当時の日本橋丸善は、鉄筋コンクリート造りだったのですね。
ChinchikoPapa
今村明恒は、当時の経済界はおろか学会からもひどい扱いを受け、ほとんど孤立していますね。ちょうど、原発の事故を警告しつづけた学者たちが、「何重にも安全管理がなされている原発が、事故を起こすことなどありえない」と、政府や東電の御用学者たちから嘲笑されていた構図とまさにそっくりです。
ただし、実際に関東大震災が起きると、その膨大な被害を謙虚に受け止め、次の被害を最小化する施策を練った当時の政府や学者たちとは異なり、原発事故による被害をできるだけ小さくみせようと、数字を捏造したり多種多様なウソをつきつづける現在の政府とは、質的にまったく異なるようです。
コンクリート建築は、大正初期からけっこう街中に造られはじめていますが、それまでの脆弱なレンガ建築(特に銀座通りの煉瓦街)は、関東大震災でほぼ全滅状態ですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>soramoyouさん
ChinchikoPapa
サンフランシスコ人
1906年のサンフランシスコ大地震の時に、大被害をもたらしました....
http://legionofhonor.famsf.org/exhibitions/earthquake-genthe
来年, 写真展がサンフランシスコ美術館でありますねぇ....
ChinchikoPapa
サンフランシスコの大地震は有名ですね。カリフォルニアを舞台にした、近未来の地震映画を観たことがあります。
ChinchikoPapa