戦争の敗色が濃くなった1944年(昭和19)、学校の学生・生徒たちを学徒動員や女子挺身隊として組織し生産現場へ送りこんだ軍部は、花柳界の若い女性たち、つまり芸者・芸妓(げいしゃ)たちを「無為徒食」で暮らしているとして、勤労奉仕させようと狩り出している。それが彼女たちの仕事であり、さんざん軍人たちも宴会や会議の席などへ“勤労動員”しておきながら、いまさら「無為徒食」とはよくいったものだ。おそらく、何らかの理由から家庭内に残って勤労奉仕に出ていない、若い女性たちに対する見せしめの効果もねらっていたのではないか。
確かに彼女たちは、各流派の日本舞踊や三味Click!、小唄Click!、長唄Click!、清元Click!、新内Click!、芝居台詞、そしてお酌をすることしか知らなかったかもしれないが、酒席でそれら日本文化の披露あるいは継承すること自体が職業であり仕事なのだから、それをいまさら「三味線とお銚子以外に能のない白粉の女芸妓」とか「労働力のない存在」、「邪魔者・厄介者」などと侮蔑的に表現するのは、いくら負け戦つづきで尻に火が点いてアタマの中が錯乱していたとはいえ、とんでもない軍部の言い草であり日本の文化・伝統への冒涜だ。
芸妓たちが無理やり工場へ連れてこられ、慣れない製造ラインで働かされた記録は各地に残っているのだろうが、今回は江戸東京の花柳界Click!ではなく、わたしが子ども時代をすごした湘南・平塚の事例をご紹介したい。平塚は江戸時代からの宿場町であり、明治以降は神奈川県下でも有数の商業地として発展したため、旅館や料理屋の宴席へ呼ばれる芸妓の数も多かった。西隣りの大磯Click!は、避暑・避寒の別荘地Click!として江戸末期から発達したため、もう少し前から芸妓の需要があっただろう。ただし、大磯の別荘街へは江戸東京の芸妓が、わざわざ東海道線で“出張”してくるケースが多々みられた。
戦争の末期、平塚の花柳界には70名ばかりの芸妓が登録されていた。「芸妓挺身隊」の動員が軍部から通達された際、彼女たちに働いてほしいと手を挙げた工場は、ただの1ヶ所も存在しなかった。工場主にしてみれば、軽作業ならこなせるだろうと考えたかもしれないが、美しくて艶っぽく目立つ彼女たちが職場へ現れれば、男子工員たちの風紀を乱し、気が散って生産性が低下しかねないことを懸念したにちがいない。少しでも生産性を上げるために、軍部の指示によって組織された「芸妓挺身隊」だが、逆に現場が浮き足だって生産効率が落ちるのを怖れたのだ。確かに、悩ましい「湘南ガール」たちが突然職場に何十人も現れたら、学徒勤労動員の歌「♪我等学徒の面目ぞ~ ♪ああ紅の血は燃ゆる~」の男子たちは、別の紅の血に燃えてしまうだろう。
警察署が「芸妓挺身隊」を管轄していたが、どこの工場でも断られて引き受け手が現れないため、無理やり押しつけられたのが平塚市宮の前にあった守山商会Click!だった。同社の工場Click!では、いちおう軽作業をやってもらうことになったが、彼女たちは芸者を完全に廃業したわけではないので、お座敷や宴席など“本来業務”の連絡が入れば、おのおの作業を中断して帰ってしまう。このあたり、守山工場と平塚花柳界との“お約束”で、そのような勤務形態になっていたらしい。以下、1957年(昭和32)に出版された『守山乳業株式会社四十年史』(非売品)から引用してみよう。
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愈々作業にとりかかると、珈琲牛乳のレッテル貼り、牛乳箱の釘打ち、コンデンスミルクの箱の積み下ろし等々仕事は山程ある。馴れぬ仕事の不手際に社長も困ったが、俄仕立の女工さんもへとへとだ、最初は作業中も平気で煙草を喫い出して係長に注意されると、/「そうでしたの、作業中は煙草を喫っちゃいけないんですの まあ御免なさいね」、なまめかしい声での話のやりとりである。レッテルを逆さに貼って注意される、「釘がきいていない」などと……、係長が一番恐かったそうである。/工場長さん、電話がかかって来ましたからお暇を下さいね、/「なんだ、彼氏からお座敷がかかって来たのか」、/「そうなんですよ」、/こうした早退も屡々であった。月平均十五日工場で働けば精一杯であった。
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もう、絵に描いたような「非国民」Click!ぶりだが、当時は「ホタル殺し」Click!を叫んでいた自治体や町会の役員たちではなく、「非国民」や「アカ」Click!(資本主義的民主主義者・自由主義者含む)と呼ばれた人々にこそ、あたりまえの意識や感覚、事実を直視し筋道を立てて認識できる、まともな思考回路が残っていたのだ。近々書く予定でいるが、戦時中の内務省特高資料は吉野作造Click!の民本主義の流れでさえ、「アカ」=共産主義系運動に分類している。
「芸妓挺身隊」にはつらい工場勤めだったが、たまには楽しいこともあったようだ。それは守山商会の得意先や取引先を招いて接待をする宴席が、戦争末期にもかかわらずつづいていたからだ。特に大切な得意先のときは、馬入川(相模川)に舟を浮かべ舟遊びに興じていたらしい。ひょっとすると、当時の経営陣は「芸妓挺身隊」が馴れない仕事で疲弊してくると、彼女たちの慰労や息抜き、気分転換のために大口顧客を招待して、一席設けていたのかもしれない。芸妓たちは、とたんに水をえた魚のように活きいきと接待の仕事を引き受け、馬入川(相模川)の川面には唄や三味の音色が響きわたった。
なぜ料亭ではなく、宴会を馬入川の舟の上で催していたのかといえば、さすがに市街地の料亭から「非常時」にもかかわらず、賑やかな三味の音(ね)や唄が流れてきたら、戦争末期の時局がら非難が守山商会に殺到しかねなかったからだろう。つづけて、『守山乳業株式会社四十年史』から引用してみよう。
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「今日はお得意さま御招待だから、これから馬入川え(ママ)いっしょに行ってくれ」、この時ばかりは天下一の女工さんだ。お化粧も素早やく済ませ、舟の中には忽ち三味も、酒も料理も運ばれる、彼女達は、/「毎日お客様が来てくれるとよいな……」/とかすかに洩れる声に社長も微苦笑。こうした宴席になると社長も工場長もあったものではない、宴酣となるにつれ酔がまわるにつれて、下手な箱の釘打ちにお小言を頂戴している鬱憤晴らしと言う訳けでもなかろうが、/「さァあ社長さん、モウさん」/「何か唄いなさいよ」/「工場で叱るだけが人生じゃないでしょう 水の流れと葦切(鳥の名)が聞いているだけよ」 彼女達は全く有頂天である。/「呑平工場長さん、飲んでばかりいないで、お客様に下手な唄でもお聞かせしたらどう」/「このお客様は、話せるわ」/「私にもついで頂戴ね」、/三味の音と唄声は広い河原に吸い込まれて行くのである。
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こうして、たまにストレスが発散できた「芸妓挺身隊」の面々は、翌日からまた黙々と牛乳や乳製品の製造現場で働きつづけた。彼女たちは敗戦の1ヶ月前、1945年(昭和20)7月16日夜の2時間にわたる平塚大空襲まで勤務をつづけている。
同社史には、空襲による「芸妓挺身隊」の犠牲者についての記述がないが、おそらく深夜の空襲だったために芸妓の犠牲者は出なかったのだろう。記録では、最後まで守山平塚工場に残っていた工員のひとりが、焼夷弾の直撃を受けて即死しているほか、守山牧場で飼育していた数多くの乳牛が焼死している。守山商会は、国道1号線に面した宮の前の本社機能をはじめ、製造工場や研究所、乳牛牧場のすべてを一夜にして失ったことになる。
空襲の翌日、守山謙社長は焼け残った煉乳(コンデンスミルク)や粉乳などを集めると、平塚の罹災者へ分配したあと工場を解散した。工場が消滅しても、県内各地から送られてくる牛乳を処理するため、同じ平塚に工場があった森永乳業へ処理を依託している。
◆写真上:宮の前にある守山乳業の本社から、西南西へ直線距離で500m余の紅谷町公園内に残る、江戸期からつづく「番町皿屋敷」Click!のお菊さんの塚。
◆写真中上:上は、守山工場の「富士クリーム」製造ライン。芸妓たちは、これらのラベル貼りや牛乳箱づくりにまわされている。中は、当時は東洋一といわれたコンデンスミルク製造用の守山式真空蒸発煉乳機。下は、容器用の金属罐を製造するライン。
◆写真中下:上は、フランス製のホモゲナイザー(均質牛乳製造機)。中は、工場で行われた就業前の体操。下は、国府村寺坂(現・大磯町寺坂)にあった守山商会集乳場。中央左寄りにある電柱のうしろ、トタン屋根の白っぽい建築が集乳場建屋。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)7月16日深夜の平塚大空襲で壊滅した平塚市街地。小さな家々は、戦後の焼け跡に建ったバラック。中は、同空襲で全焼した守山商会本社。下は、同空襲で壊滅した平塚市街地。
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