街角や風景を描く佐多稲子の表現力。

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 佐多稲子Click!の文章を読んでいると、その街の様子の描き方や地形描写、風情や自然の写し方に舌を巻くことが何度もある。同じく、地形や街の描写で印象に残る作家に大岡昇平Click!がいるけれど、大岡が少しマニアックに古い地勢や地質・地層まで掘り下げて描くため(ときに新生代までさかのぼることがある)、現状の日常に拡がる風情と土地の様子、そしてなによりも書かれる物語自体から若干の乖離感が生まれるのに対し、佐多の文章は非常に的確かつ「ちょうどいい」表現なのだ。それでいて、地域の描き方に不足を感じさせない、類まれな描写力をもった作家だと思う。
 旧・神田上水(1966年より神田川)をはさみ、下落合とは対岸にあたる戸塚町(現・高田馬場)側に拡がる、北向きの河岸段丘斜面を描いた文章を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。ちなみに、文中で「吉之助」と書かれているのは、治安維持法違反で服役していた豊多摩刑務所Click!から出獄したばかりの、夫の窪川鶴次郎Click!のことだ。
  
 吉之助が刑務所から出て来ると間もなく私たちは、小学校上の崖ぎはの家から、小滝橋よりに移転してゐた。やつぱり大通りの北側で通りからちよつと入つた路地の奥であつた。この辺りは、小滝橋から戸塚二丁目のロータリー近くまで、神田川の流れる落合の窪地へ向つて横に長く丘をなしてゐる地形なので、そのまん中を一本広い道路が通つてしまふと、両側とも奥ゆきのない住宅地であつたが、暫くここに住んでゐるうちに、この土地の古い姿が、その後に建つた小さい借家の間に自づと見えてくるのであつた。その幹の周囲は二人で抱へる程もある大欅が屋敷の二方を取り巻いてゐるのは、この辺りの旧家であつた。同じ苗字の酒屋が大欅の邸からすぐの近さで大通りにあつたのも、他の酒屋とはちがつてどつしりとした家造りであつた。そのとなりの煙草屋もやつぱり同じ苗字で家作も持つてゐるし、その向ひの八百屋も同じ身内だといふふうである。
  
 佐多稲子が、「小学校上の崖ぎはの家」と書いているのが、戸塚第三小学校の坂上にあたる戸塚4丁目593番地(上戸塚593番地)にあった借家Click!のことだ。その次に、住所が不明だが「大通りの北側」、つまり同じ早稲田通りの北側である戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)に引きつづき住んでいることになる。
 この文章を読んだとたん、おそらく現・高田馬場4丁目の同地域に古くからお住まいの方なら、すぐに当時の情景が鮮やかによみがえってくるだろう。写真やイラストでしか知らないわたしでさえ、現在の街並みや地勢と重ね合わせてリアルに想像することができる。大ケヤキのある屋敷は、このあたり一帯の地主である戸塚4丁目589番地の中村兼次郎邸であり、酒屋と煙草屋は戸塚4丁目767番地の「升本酒店(中村商店)」と「中村煙草店」だ。向かいの青物屋は、中村家の親戚とみられる戸塚4丁目591番地の「森田屋青果店」のことだ。
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 ムダな描写や、不要な記述がひとつも存在しない、情景描写のお手本のような文章表現だろう。前後のストーリーに重ね合わせると、ジグソーパズルのピースようにピタリとこの位置にあてはまる。ふと、1930年代の戸塚地域を描いた濱田煕Click!の挿画で、佐多稲子の『私の東京地図』を読んでみたい……という妄想がふくらむ。おそらく、永井荷風Click!木村荘八Click!のコンビネーションのような、出版史に残る本ができあがるのではないだろうか。
 いや、戸塚地域に限らず『私の東京地図』で描かれる街々(彼女が若いころに住んでいた下町Click!方面が多いのだが)も、生きいきとした街並みや人々の様子が記録されている。おそらく、とてつもない努力を重ねて、彼女はこのような作文技術を獲得しているのだろう。わたしも、足もとにも及ばないながら見習いたい表現技術だ。
 このころの佐多稲子は、毎日「転向」という言葉と向き合っていた。思想犯として豊多摩刑務所にいた夫が出獄できたのは、「転向」して思想を棄てたからではないかという疑念を抱えながら、面と向かって夫には訊けずに日々をすごしている。上落合に住む中野重治Click!の妹・中野鈴子Click!と小滝橋を歩きながら、「転向」について考えつづける。再び、『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 私はあるとき、吉之助(鶴次郎)と同じに検挙されて前後して出獄してきた友達の妹と二人で小滝橋のきはを歩いてゐた。/彼女は兄のことを人に指摘されたのが辛い、と言つて、悲しい顔にうつむいて、口ごもりがちに言つた。/「兄は転向したのでせうか。だけど、刑務所を出るのにそれがみんな必要といふのなら、牧瀬(窪川)さんも、やつぱり転向をなさつたのですわね。」と、吉之助のことを言つた。/「転向?」/私は視線のおき場に迷ふやうにそれを聞いた。小林に供へた花を分けて差入れた私たちの気持は失はれてゐるわけではない。が、出獄してきた人にそれをただすことを私たちは忘れてゐる、といふよりは、疑ひを持たないでゐたのである。夫婦の間では、それは主観で語られる。また近しい周囲でもその主観を認め合つた。が、しかし、政府の宣伝に使はれたこの言葉は、お互ひ同士の胸に、しみとなつて広がつてゆき、逡巡させた。(カッコ内引用者註)
  
 「小林に供へられた花」とは、小林多喜二Click!の葬儀で供えられた花を分割して花束にし、豊多摩刑務所に「小林セキ」の名義で差し入れた、1933年(昭和8)2月下旬の出来事をさす。壺井栄Click!が、服役中の壺井繁治Click!へとどけたのも、佐多稲子らと相談して同時に行われていたことがわかる。
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 早く出獄して密かに非合法活動を継続したい人間も、合法的な抵抗をつづけるために“ウソも方便”で今後は政治活動をしないという文章に署名した人間も、またほんとうに従来の思想を棄てて釈放された人間も、ひとからげに「思想を棄てた転向者」として特高Click!は巷間へ宣伝しつづけていた。これにより、思想の中身を問わず政府へ反対の意思表示をつづける人々の間に疑心暗鬼を生じさせ、分裂・分断をはかるのがねらいだった。そして、1935年(昭和10)をすぎるころから、まるで「転向者」の本心を探る“踏み絵”のように、文章をなりわいとする人々は「従軍作家」として、前線へ次々と送られていった。
 この時期、佐多稲子は宮本百合子Click!とともに、同じく治安維持法違反で特高に逮捕・起訴されており、小さな子どもがいるので保釈されてはいたが、公判を抱えて裁判所へ通う身だった。同時に、夫の窪川鶴次郎が「仕事部屋」を借りて家を空けがちになり、浮気をしている様子がうかがわれた。佐多稲子が生涯において、もっとも精神的に不安定な時期だったのだろう。裁判所へ出かけると、支援のためにきてくれたのは柳瀬正夢Click!の「にこやかな顔」ひとりのみで、かんじんの夫は連れ添うどころか、公判の間際にあたふたと駆けこんでくるようなありさまだった。
 日米戦争がはじまった1941年(昭和16)12月8日以降、佐多稲子は上落合の友人たちが遊びにくれば深夜まで話しこんだ。
  
 「今に、米を喰はずに、ゴムを喰へ、と言ふだらう。」/「伊勢神宮に戦勝祈願をするやうな軍人だから、この戦争が起せたんだね。」/「今に、やられるから。」/「声が高くない?」/「群長などが、立聞きをするさうだからね。」/隣組はきびしくなつて、それに強制貯金などで私の組の長屋はいつも物議を起した。長屋の人々から投げられる目は、私の神経にこたへた。さういふ前後に、大通りにあつた時計会社は、どんどん増築して、この辺にたつた一つのコンクリートの大工場になつた。五銭コーヒーの店も通りに何軒も出来て、少年労働者や、若い娘たちの休息の場所になつた。戸塚キネマも改修して戸塚東宝に変つた。
  
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 「大通りにあつた時計工場」は、現在でもかたちを変えて営業をつづける高田馬場4丁目のシチズンプラザのことだ。「ゴム」どころか、配給される食糧も日々乏しくなり、「神頼み」ではじめた戦争で、完膚なきまでに叩きのめされる大日本帝国の破滅・滅亡は、すぐそこまで迫っていた。その直前、佐多稲子のいる戸塚一帯は二度にわたる山手空襲Click!で壊滅するのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戸塚4丁目767番地にあった、中村商店(升本酒店)と中村煙草店の現状。
◆写真中上は、濱田煕の記憶画による中村商店(升本酒店)と中村煙草店。以下、イラストは1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。は、戸塚4丁目591番地にあった森田青果店。は、森田青果店跡の現状。
◆写真中下は、戸塚4丁目856番地にあったシチズン時計工場(戦時中は大日本時計株式会社と改称)。は、現在もシチズンプラザとして営業をつづける同所。は、戸塚3丁目154番地にあった戸塚東宝(旧・戸塚キネマClick!)。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚4丁目界隈。は、戦後の1948年(昭和23)の焼け跡写真にみる同書。シチズン時計工場はコンクリートで焼け残り、早稲田通りの南側の一画が空襲被害をまぬがれているのが見てとれる。は、戸塚4丁目589番地にあった中村兼次郎邸跡の現状。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    浅野川の両岸は、かなりマンションが増えてしまいましたね。
    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>SILENTさん
    2017年04月04日 12:41
  • ChinchikoPapa

    ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>@ミックさん
    2017年04月04日 12:45
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
    2017年04月04日 12:45
  • ChinchikoPapa

    学生時代に出たアルバムですが、たぶん一度も聴いたことがないと思います。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
    2017年04月04日 12:47
  • ChinchikoPapa

    先日、東京写真美術館で江戸から明治にかけての写真展を観ましたが、当時の修復前に撮られた仏像写真に惹かれました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
    2017年04月04日 12:50
  • ChinchikoPapa

    新子安にある日産の横浜工場は、かなり古いですね。わたしの子どものころから、あったような記憶があります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
    2017年04月04日 12:57
  • ChinchikoPapa

    いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>やってみよう♪さん
    2017年04月04日 12:59
  • ChinchikoPapa

    空に尾を引きながら拡散しているのは、飛行機雲ですかね。穏やかな波の音しか聞こえない、美しい写真です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
    2017年04月04日 13:03
  • ChinchikoPapa

    70年代には考えられなかったことですが、近くの森にはカブトやクワガタが復活しているようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2017年04月04日 13:05
  • ChinchikoPapa

    夕べは、急に冷えましたね。東京はサクラが満開ということになっていますが、まだまだ7~8分咲きの樹が多いです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okin-02さん
    2017年04月04日 17:49
  • ChinchikoPapa

    一瞬、「源明朝」(みなもとのあきとも)なんていたかな?…と思ってしまいました。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>banpeiyuさん
    2017年04月04日 17:51
  • ChinchikoPapa

    クエは、こちらではあまり馴染みのない魚ですね。
    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
    2017年04月04日 17:53
  • ChinchikoPapa

    かわいがってたペットが死ぬと、しばらくはそこにいるような気配がしてますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
    2017年04月04日 17:56
  • ChinchikoPapa

    サクラに団子も風流でいいですが、再び桜餅(長命寺)が食べたくなってしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>AKIさん
    2017年04月04日 17:57
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>コミックンさん
    2017年04月04日 17:58
  • ChinchikoPapa

    和食によく合いそうな、料理の味を引き立たせる辛めの酒のようですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
    2017年04月04日 23:18
  • Marigreen

    佐多稲子は私も学生時代よく読んだけど、風景描写等には全く着目せず、最初の夫と結婚するまでの彼女の苦しい人生や、女の匂いのむんむんするような性関係や出産の描写が強い印象を与えた。私はあまり女臭い女性は嫌いなのだが、何故か好感が持てた。
    2017年04月05日 10:32
  • ChinchikoPapa

    知りませんでした、KDDIビルの近くにあるお店なのですね。機会があったら覗いてみます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん
    2017年04月05日 12:32
  • ChinchikoPapa

    いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>はじドラさん
    2017年04月05日 12:40
  • ChinchikoPapa

    子どもたちが通う義務教育の小・中学校からして、いまだに障がい者への対応がわからないという理由で特別支援学校へ「隔離」してしまうから、よけいに「わからない」「関係性が築けない」状況が改善されないのでしょうね。そうやって障がい者と関われない環境で育った子どもたちは、大人になっても「わからない」状態がそのまま…という繰り返しがつづいてしまいます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん
    2017年04月05日 12:49
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>nandenkandenさん
    2017年04月05日 12:50
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
    わたしは、どちらかというと子育て以降の彼女の作品が、妙に力んでおらず自然体で好きですね。結婚前あるいは結婚前後に書かれた作品に登場する(城)下町の描写よりも、この記事で取り上げている『私の東京地図』の時代に描かれた下町のほうがしっくりきます。おそらく、この地域に住んでいた女性作家の中で、佐多稲子はもっとも好きなひとりですね。
    2017年04月05日 12:58
  • ChinchikoPapa

    きのうまで気温が低かったせいか、きょうのこちらも5~7分咲きの樹が多いです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
    2017年04月05日 22:06
  • ChinchikoPapa

    鎌倉の山は花の季節になると、ガラッと雰囲気の変わるところが面白いですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
    2017年04月06日 10:30
  • ChinchikoPapa

    「どぜう」の、あのホロ苦さは嫌いではないですが、やはり「う」の蒲焼きのほうが圧倒的に好きです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
    2017年04月06日 18:12
  • kazg

    >街の様子の描き方や地形描写、風情や自然の写し方
    と言う視点から読んだことがありませんでした。読み返したくなりました。
    2017年04月07日 07:24
  • ChinchikoPapa

    そういえば「悟れ」の印形も、どこか両手で円形をかたちづくっているように見えますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
    2017年04月07日 10:27
  • ChinchikoPapa

    kazgさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
    彼女の初期の作品よりも、やはり円熟味が増してくる戦後のものに、惹かれる風景描写が多いですね。
    2017年04月07日 10:30
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
    2017年04月08日 19:26
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2017年04月09日 14:05

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