説教強盗Click!の逮捕に、警視庁は三度失敗している。最初は1927年(昭和2)10月26日の午前3時ごろ、上板橋村119番地の米穀店へ押し入り、約35円の入った木製金庫を盗んで逃走をはかったときだ。説教強盗対策で、深夜に張りこんでいた私服の警官がこれを発見・追跡し、捕縛しようとしたところを金庫で殴られ逃げられている。
もっとも、この取り逃がしに関する警察の発表は、「米穀店の息子」が説教強盗を追尾したが途中で見失ったという経緯にすり替えられている。追跡したのが板橋署の白木巡査であり、彼はこの失態がもとで密行係の私服刑事から平の制服巡査に降格され、王子署へ左遷されたことは秘匿された。
二度目の説教強盗の取り逃がしは、翌1928年(昭和3)6月26日の深夜、午前2時30分ごろの下落合で起きている。この日、下落合830番地の島田鈞一邸(警視庁記録の下落合836番地の島田欽一宅は誤り)に押し入った説教強盗は、雑司ヶ谷道(旧・鎌倉街道)を東へ歩きながら、山手線の下落合ガードClick!に差しかかった。懐には、盗んだ現金40円と金鎖付きの懐中時計が入っていた。ちょうど山手線のガードをくぐり、学習院の東側に通う椿坂Click!へ抜けようとしたとき、高田署の警官による不審尋問にひっかかった。
そのときの様子を、2010年(平成22)に出版された礫川全次『サンカと説教強盗―闇と漂泊の民俗史―』(河出文庫版)所収の、『警視庁史』の記述から孫引きしてみよう。
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当日の午前四時ごろ、同署の一外勤巡査部長が、自転車で巡視の途中、このガード(下落合の山手線ガード)付近で一人の男に行き会った。時間的に怪しいとにらんで、型のごとく不審尋問をしてみると、答弁は実にはっきりしているが、年格好も人相も、特にはなはだしい「ガニ股」の点など、手配中の説教強盗に酷似している。幸い本署も近いので、厳重に取り調べるため同行することにした。/…あと十二三メートルで、本署の玄関というところに来たとき、この男は突然からだをぶっつけてきた。/…とたんにだっとのごとくに逃げ出したその男は、垣を乗り越えて学習院の森の中に姿を消してしまった。…同署では直ちに当番員を非常招集して、院内の捜索を開始し、続いて非番員まで召集して、文字通り草の根を分けて捜したが、男の姿はついに見当らなかった。
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このあと、特別捜査本部や高田署員には箝口令が敷かれ、説教強盗の取り逃がしが秘匿されたことは『警視庁史』でも明かされている。
さらに、その次の取り逃がしは下落合のすぐ北側、武蔵野鉄道・椎名町駅近くの長崎神社横に張られた非常線で起きている。時期は明らかにされていないが、説教強盗を追いつづけ深夜の非常線を片っ端からわたり歩いては取材していた、東京朝日新聞の三浦守記者によって記録されている。おそらく、説教強盗は長崎町エリアで“仕事”をした帰途だったのだろう。同書から、三浦記者の記述を引用してみよう。
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非常線が毎晩張りめぐらされている時のことであった。長崎の椎名町の神社横の非常線に説教がひっかかった。捕まえた高田署(今の目白署)の巡査部長は、捕まえてい乍ら、まんまと飛ばされてしまった。その時の説教の逃げっぷりは超人的で、横っ飛びに飛んだ(ママ)のだが、その歩幅は、普通人の三倍もあった。刑事たちは、翌朝、その現場で、犯人の足あとに合せて飛んでみたが、迚も、一躍や二躍では、彼の一歩の歩幅を跳べなかった。…/こんな点から誰言うことなく「説教はサンクワではあるまいか」という風評が起こったらしい。私もこの噂を、どこからともなく耳にした。
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この逮捕失敗で、説教強盗の犯人は犯行の手口や逃亡の鮮やかさから、運動神経が極端に発達したサンカ(おもに山地で生活する流浪民)ではないかという疑いが、警視庁に生まれていたのがわかる。だが、この想定は結果的にまったく見当ちがいであり、犯人の妻木松吉はサンカとは関係のない人物だった。この事件を機に、「サンクワ(山窩)」に興味を持つようになった東京朝日新聞の三浦記者は、のちに雑司ヶ谷(字)金山Click!へ住み「三角寛」という筆名で、サンカに関する民俗学や小説などの著作を次々と発表することになるのだが、それはまた、別の物語……。
犯人の追尾も、当時の警察より新聞記者のほうが優れていたようだ。説教強盗が逮捕される2ヶ月ほど前、1928年(昭和3)12月末には、三浦記者は犯人の自宅を突きとめて記事を書いている。しかし、さすがに警視庁の面目を丸つぶれにしてしまうのはマズイので、記事の文章はあくまでも警察が犯人の自宅を絞りこんで、逮捕は時間の問題……というような表現にとどめている。このとき、三浦記者には説教強盗こと妻木松吉が住む、西巣鴨町(字)向原3340番地(現・東池袋4丁目)の自宅がすでにわかっていた。以下、1928年(昭和3)12月30日発行の東京朝日新聞の記事を、同書から孫引きしてみよう。
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新事実を握つた 説教強盗の足跡
捜査の範囲だんだん狭つて 年内に捕縛の意気
まだ正体を現さぬ説教強盗の検挙に躍起になつてゐる警視庁では廿九日払暁管下の大警戒を行ふと共に中村捜査課長、出口同係長等は彼のなは張りになつてゐる淀橋、中野、杉並、戸塚、高田、池袋、板橋、大塚の八署を巡視して新材料に基きち密な調査を遂げたがその苦心の結果廿九日に至つて突然犯人の住居してゐる範囲が判明し、これがため大いに捜査範囲が狭つていよいよ近く捕縛の見込がついたと、こ踊りしている。/即ち去る九月十六日四十六回目に府下高井戸町中高井戸青山師範学校教諭赤沢隆明氏方に押いつた際、彼は犯行後高円寺駅から一番電車に乗つて目白駅に下車し、目白学習院前を通過して鬼子母神前から王子電車で大塚駅に下車した事実並に……
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この記事を読んだ、高田署(現・目白署)にある特別捜査本部の刑事たちは驚愕しただろう。この時点で、説教強盗が妻木松吉の犯行であることを、警察側でも三浦記者からの聴取などを通じて、ようやくはっきり認知したと思われる。だが、翌1929年(昭和4)2月23日まで、警察は内偵を進めるだけで妻木を逮捕していない。犯人の妻木も、警察の内偵を察知したのだろう、同年に入ってからは事件を1件も起こしていないようだ。
捜査本部では、なぜ説教強盗が妻木の犯行であると規定しえるのかの、捜査上の“裏づけ”を懸命にこしらえていたフシが見える。この間の事情については、礫川全次『サンカと説教強盗』に詳しく述べられている。警視庁では、説教強盗を追跡した新聞記者からの情報が、犯人逮捕へ直接つながった……という発表はありえないので、妻木を逮捕する合理的かつ必然的な理由をデッチ上げなければならなかったのだ。そこでは、さまざまな「証拠品」づくりや「指紋照合」のトリックなど小細工が行なわれているようなのだが、詳細は同書を参照していただきたい。
説教強盗の逮捕まで、警視庁ではのべ12,000人の警察官を動員して捜査にあたった。逮捕された妻木松吉は、1930年(昭和5)12月18日に東京地方裁判所で無期懲役の判決を受けている。だが、戦後の日本国憲法が発布される際の恩赦で、1947年(昭和22)12月16日に出所したあと、妻木のもとには全国の警察署や自治体、各種社会団体から防犯講演の依頼が次々と舞いこみ、彼は「防犯講師」のような活動をつづけ、新たに人生を踏み出していくことになる。
◆写真上:説教強盗が高田署の巡査から不審尋問を受けた、下落合の山手線ガード。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる山手線ガードから椿坂にかけての連行ルート(左が北側)。中は、椎名町駅前の非常線が張られた長崎神社横の道。下は、妻木松吉の自宅があった西巣鴨町向原3340番地界隈の現状。
◆写真中下:上左は、1937年(昭和12)作成の「火保図」にみる椎名町駅前と長崎神社。上右は、犯人を追跡した東京朝日新聞記者の三浦守(のち三角寛)。中は、いまも雑司ヶ谷に残る三角寛邸。下は、1929年(昭和4)の地図にみる妻木松吉が住んでいた西巣鴨町向原3340番地界隈。巣鴨刑務所(現・池袋サンシャインシティ/造幣局)の南側に拡がる街角で、何度か火災が発生し妻木自身も焼け出された経験を持っている。
◆写真下:上は、1929年(昭和4)2月24日の説教強盗逮捕を伝える東京朝日新聞。下左は、2010年(平成22)に出版された礫川全次『サンカと説教強盗―闇と漂泊の民俗史―』(河出文庫)。下右は、逮捕された直後の妻木松吉。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>s-penginさん
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
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pinkich
Marigreen
ChinchikoPapa
いずれにしましても、1種住専で14m・5階建てはありえない仕様ですので、「特例」認定されたとしても違法性の高い建物ということになりそうです。先に記しました新宿区建築審査会も含め、周辺住民の方々はきちんとした対応をされたほうがいいように思いますね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>トレンダー櫻井さん
ChinchikoPapa
説教強盗事件の証拠品ねつ造は、学習院キャンパスから押収しすでに入手済みだった下落合の被害品=金鎖時計が、あたかも犯人の家から発見されたように記述している箇所、過去の判別不可能な指紋と犯人の鮮明な指紋とをすり替え“証拠”として記述した箇所など、起訴状にはデッチ上げが随所にみられるようですが、犯人が「わたしがやりました、まちがいありません」と罪状を認めているがゆえに、裁判で証拠品の信憑性は争点になりませんでした。詳細は同書をご覧ください。
戦後の証拠品ねつ造は、例の松川事件や平事件など、連続した米軍や警察による謀略事件で、次々と暴かれてますね。
ChinchikoPapa
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古田宙
ChinchikoPapa
旧・国鉄(JR)が付けた名称は「新井薬師道ガード」で、東京都が下落合の鎌倉街道に付けた新たな名称が「新井薬師道」ですね。
ただ、地元の方々は「下落合(の)ガード」と呼ぶ方が圧倒的に多く、こちらでもその呼称を踏襲しています。おそらく地域の方から「諏訪通りガード」や「百人町ガード」と呼ばれるガードも、旧・国鉄名称は異なるのでしょうね。同様に、鎌倉街道についても地元の呼称「雑司ヶ谷道」「中ノ道」「下ノ道」「中井通り」など、地場・地元の呼称を優先しています。このあたり、地域の名称や呼称を無視して、勝手に「お役所」が押しつけてくる。京都を愛する『京都ぎらい』の著者と同じような感覚でしょうか。w
下落合村と下高田村の境界は、江戸期の入会地(共有地)なども絡みとても複雑ですね。たとえば、切手博物館のビルはエントランスの住所は確かに目白なのですが、展示物を見ながら西寄りのフロアへいくと下落合になります。ビル全体が、下落合と目白の境界上に建っていますね。
雑司ヶ谷道(新井薬師道)は、鎌倉期に拓かれた街道筋ですが、おそらく清戸道(目白通り)もほぼ同じような時期に通っていたのではないかと思っています。それは、「和田山(和田氏館跡=井上哲学堂)」「和田(中野)」「大和田(長崎)」「和田戸(戸塚・戸山)」と中野から下戸塚にまたがる広い周辺域に、鎌倉幕府の有力御家人・和田氏の伝承が色濃く残っていますので、鎌倉期あるいはそれ以前から、なんらかの交通路が拓けていたのではないかと考えています。自性院に残る資料には平安期の事績が見られ、また平安から鎌倉にかけての住居跡も、中野区や新宿区ですでに発掘されていますね。
sig
犯罪人がその後官憲に起用されて、その犯罪防止の啓発という社会活動で貢献するという例は日本でもあるんですね。説教強盗のお話、面白く読ませていただきました。
ChinchikoPapa
なんだか、現代の優れたハッカーが一転して、セキュリティガード側にまわるような感じでしょうか。あらゆる手口を知ってるがゆえに、すべてのセキュリティホールを先回りしてふさいでいく、スバ抜けた手腕がありそうですね。
ChinchikoPapa
古田
例のガードですが、両サイドに表示があるので、新会社になってからも変えてないようです。
ChinchikoPapa
江戸期に「清戸道」と呼ばれている道筋が、鎌倉時代からあったかどうかは、あくまでもわたしの推測です。江戸期の資料に、雑司ヶ谷道(新井薬師道)から北へ源頼朝(鎌倉幕府)が拓いたといわれる七曲坂の記録がありますので、坂を南北に通わせるには、もちろん北側に道筋がすでにあったのだろうという想定です。
ところが、七曲坂の突き当りは、江戸期に「鼠山」と呼ばれていた未開の武蔵野原生林に突き当たりますので、その手前に道がないと七曲坂からの道筋を接続できない・・・という考え方ですね。言い換えますと、先が行き止まりの坂道を、わざわざ開拓するとは思えません。ただ、縮尺が不正確な江戸期(以前)の絵図では、現在の目白通りの位置に街道がそのまま存在したかどうかは確実に規定することは不可能ですね。
ひとつ、目白通り沿いでいいますと、長崎地域の古老にうかがったお話では、清戸道から練馬方面へと抜ける旧街道は、現在の長崎バス通りではなく、もう少し東側にある通りが古い街道筋だったというのが記憶にあります。
ChinchikoPapa