子どものころ、よく木登りをした。下が砂地の地域がらClick!、クロマツの木が多かったのだが幹がザラザラしていて瘤や枝葉も多く、子どもにとっては非常に登りやすい樹木だった。ときに樹液(マツヤニ)を触ってしまい、石鹸をつけてごしごし洗ってもとれず、親にベンジンで拭いてもらったことも再三あった。ただし、夏になるとクロマツは7~8cmほどの太い毛虫(スズメガの幼虫)だらけになり、木登りはできなくなった。母親から、たびたび「オバカほど高いところに登りたがる」といわれた。
よく、子どもたちは樹上に板や木材をわたして、トム・ソーヤやスタンド・バイ・ミーのような「秘密基地」をつくりたがるものだが、クロマツClick!の樹は脂分が多くて枝がしないやすく、「基地」づくりにはまったく適さなかった。だから、茶色に枯れて落ちたクロマツの葉を高く積みあげ、樹の根本に「基地」をつくっては遊んでいた。あたりの様子を「偵察」したければ、「基地」の中心にあるクロマツに登って、周囲や空を見わたせば済むというわけだ。でも、クロマツは防砂林として密生していることが多く、樹上に登っても周辺はマツだらけで見通しがきかず、「偵察」はあくまでも「基地」遊びのポーズのひとつにすぎなかった。
一度、クロマツに登る途中で樹脂に足を滑らせ、背中から地面に墜落したことがある。2~3mほどの高さだったのだけれど、人間は背中や胸を強打すると息ができなくなる。10秒ほど息がつまり、呼吸ができなくて死ぬかと思ったが、意識して力むと少しずつ空気が吸えるようになった。下が砂地だったのでクッションがわりになり、窒息をまぬがれたのだろう。体重が重い大人で、下がコンクリートやアスファルトなどの固い地面だったりすると、墜落と同時に気を失ってそのまま窒息する事例もあるだろうか。「全身打撲」という死因のうち、いくばくかは窒息死のケースがあるのかもしれない。
木登りのほか、小学校の前にあった古河電工の敷地で、4m前後はあるコンクリートブロックの擁壁をよじ登っては、飛び下りる遊びも流行った。いま風にいえばボルダリングということになるが、中には足をくじく子も出て、最終的には学校で禁止されたように記憶しているけれど、木登りと同様にスリルのある面白い遊びだった。そういえば、戸山ヶ原Click!にあった陸軍戸山学校Click!の校庭に、巨大なコンクリートの人工絶壁が構築され、兵士たちの山岳登攀訓練に使われていた。戦後、このコンクリート崖はそのまま残され、山男や山岳部の学生たちのフリークライミング訓練施設として、あるいは周辺の子どもたちの遊び場として使われていたようだ。(冒頭写真)
小説や物語では、主人公が大きな樹木(神木のような大樹の場合が多い)から落ちると、未来や過去へタイムスリップしてしまう……というプロットをよく見かける。芥川龍之介Click!も、そのようなSF的またはオカルト的な木登り作品『仙人』を書いている。彼は晩年、自身が木登りする姿を自死する直前に映像へ残している。菊池寛Click!や子どもたちと映る同フィルムは、おそらく初夏らしい装いなどから芥川が睡眠薬で自殺する数ヶ月前に撮影されたと思われるのだが、彼の異様な眼光が強く印象に残る映像となった。
芥川龍之介が、なぜ庭先で木登りをする姿を映像に遺したのかは不明だが、庭木に登ったあと屋根の庇伝いに歩き去るところをみると、外から2階の書斎へ入ってみたくなったものだろうか。“木登り小説”の『仙人』は、無心で地道にコツコツと努力をつづけていれば、ありえないような大望もかなえられることがある……という、芥川にしてみれば相対的に明るいテーマの小説だと思うのだが、最晩年の映像は眼の光りの異常さとともに、とても子どもたちと明るく楽しい木登りをしている映像には見えない。
1922年(大正11)に発表された『仙人』から、ちょっと引用してみよう。
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「それではあの庭の松に御登り。」/女房はこう云いつけました。もとより仙人になる術なぞは、知つているはずがありませんから、何でも権助に出来そうもない、むずかしい事を云いつけて、もしそれが出来ない時には、また向う二十年の間、ただで使おうと思ったのでしょう。しかし権助はその言葉を聞くとすぐに庭の松へ登りました。/「もっと高く。もっとずっと高く御登り。」/女房は縁先に佇みながら、松の上の権助を見上げました。権助の着た紋附の羽織は、もうその大きな庭の松でも、一番高い梢にひらめいています。/「今度は右の手を御放し。」/権助は左手にしっかりと、松の太枝をおさえながら、そろそろ右の手を放しました。/「それから左の手も放しておしまい。」/「おい。おい。左の手を放そうものなら、あの田舎者は落ちてしまうぜ。落ちれば下には石があるし、とても命はありゃしない。」
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子どものころの木登りで、ことさら強く印象に残っているのは、鎌倉の極楽寺Click!の境内にあるサルスベリの木だ。クロマツとは異なり、幹がスベスベしていて最初は取っつきにくいのだけれど、子どもでも容易に登りやすい樹木のひとつだろう。実際に登ったことのある方ならご存じだろうが、サルスベリは横へ張りだす枝が多いため、足がかりが多くてスルスルと登れる楽な木だ。しかも、非常に堅い幹や枝をしており、クロマツのように足をかけた枝がたわんで、登る途中の身体がグラグラと不安定になることが少ない。
わたしは小学生のとき、極楽寺の山門を入って本堂へと向かう、参道正面のやや左手にあるサルスベリに登って遊んでいたのだが、さっそく当時の住職に見つかり叱られたのを憶えている。このとき、親もいっしょにいたはずなのだけれど、本堂内を拝観していたのか、あるいは方丈で話しこんでたものか、境内の別の場所を散歩してでもいたのだろうか、木登りをしているわたしはひとりだった。1960年代半ばごろのことで、当時、極楽寺界隈はもちろん鎌倉全体でも観光客や散策する人は少なく、舗装されていないほとんどの住宅街では、表に人っ子ひとりいないこともめずらしくなかった。まさに、小津映画Click!に出てくる鎌倉の風情がそのままの時代だったのだ。
なぜ、極楽寺のサルスベリへ登ってみようと思い立ったのか、いまとなってはまったく憶えていないが、きっとクロマツにはない幹のスベスベした感触と、登りやすそうな枝ぶりが気に入って、迷わず取っついたものだろう。当時の極楽寺は、別に参道と両脇の庭園との間を仕切る柵など設けられておらず、特に立入禁止にもなっていなかった。だから、参道を歩いていくと本堂の手前で、サルスベリが眼前に現われて「登ってみな~」と、子どもにはいかにも誘われているように感じられたのかもしれない。
先年、カメラワークともども21世紀の小津映画のような『海街diary』Click!(2015年/是枝裕和監督)を観ていたら、わたしが登ったサルスベリが3倍ぐらいに巨大化して、拡げた枝が大きく参道まではみだしているのを見つけた。近所にある食堂のオバさんの葬儀で、4人姉妹が立ち止まって話しはじめるシーンだ。ちょうど、綾瀬はるかや長澤まさみの右手に映っているのが、木登りで叱られた想い出のある信じられないほど大きく成長したサルスベリだ。同作には梅酒づくりのために、青梅が実るウメの木へ登るシーンも挿入されており、よけいに木登りの記憶を刺激されたものだろうか。
そういえば、『海街diary』では鎌倉市街地を東側から一望できる、ラストシーンに近い衣張山Click!の情景も懐かしく、このサイトでは1960年代半ばの山頂ハイキング写真を掲載している。数年前にも歩いた衣張山のハイキングコース(全長は山道4kmほど)は、浄妙寺ヶ谷(やつ)から少し急な山道を登り、尾根筋を南へ大町方面(長勝寺)へと抜けなければならず、いまも昔も、散策する人はあまり見かけない。
◆写真上:戸山ヶ原に戦後まで残されていた、陸軍戸山学校の山岳登攀訓練用のコンクリート人工崖。戦後は、山男たちのクライミング訓練施設として使われた。
◆写真中上:上は、1927年(昭和2)の初夏に撮影された子どもたちと木登りをする芥川龍之介で眼光が異様だ。中は、芥川が服毒自殺した滝野川町田端435番地の自邸跡。下は、1923年(大正12)のおそらく関東大震災Click!直後に撮影された田端駅。
◆写真中下:上は、枝が多く子どもたちにも登りやすい下落合に残るクスの木。下は、昭和30年代の半ばごろに撮影された極楽寺の茅葺き山門。
◆写真下:上は、『海街diary』の極楽寺シーンで右手に見えているのが巨大化したサルスベリ。わたしが登ったときは、小学生低学年でも登りやすい半分以下のサイズだったはずだ。中は、杉本寺前の“いぬかけ橋”から滑川をわたり山道を20分ほど登るとたどり着ける衣張山山頂。左手に稲村ヶ崎、中央には江ノ島が尾根筋から突き出て見えるが、曇っているので箱根・足柄連山や伊豆半島、富士山などは見えない。下左は、衣張山の北麓にある杉本寺。子どものころ駆けあがった石段は、磨耗・風化のために立入禁止となって久しい。下右は、同じく東麓の報国寺脇にある旧・華頂宮邸。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ままさん
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
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kei
(写真とは思えない!)
縄が投げられたタイミングで、よく撮れましたよね。しかし、陸軍は変なものを造っていたのですね(笑)
木登りする芥川龍之介は、端的に怖いですw あの眼光で登られても。^^;
そしてパパさまも木登りがお好きだったとは!(そして落ちられたとは!)
2~3mってかなり高いですよ。。生還なされてほんとうに良かったです。;;
どうぞお気をつけくださいませ。
(って、もう登りませんよね^^;)
sig
私も昔、冬に郷里に帰省した折、小学入学前の長男をスキーに連れて行き、昔取った杵柄でいいとこ見せようと小高い雪庇をジャンプしたところ、着地で思い切り両ひざで胸を打ち息ができなくなった経験があります。意識ははっきりしていて、どうなることかと思いました。笑
ChinchikoPapa
冒頭の写真は、戦後の週刊誌に掲載されていたものですが、ちょうど登山ブームが起きていたころで、あちこちに「山小屋喫茶」が開店していたころでした。「♪小さな~日記に~綴られた~」という歌も、そういえばずいぶん流行りましたね。w
左テーブルのバナー「わたしの落合町誌」でも予告しています通り、明日から飛びとびで数週間にわたり、キナ臭い下落合の「謀略」記事がつづきます。^^; ご笑覧ください。
実は今度、極楽寺へ出かける機会があれば、くだんの右手に写るサルスベリに登って、また住職に叱られてみたいと思っています。(笑) すでに、当時の住職はとうに亡くなり、代替わりをしているでしょうね。
ChinchikoPapa
胸や背中を強く打って窒息する、あの感覚は思い返すと不思議で怖いですね。おっしゃるとおり、意識は非常にハッキリしているのに、息が詰まって呼吸だけできないというのは、子どものころの出来事ですが、強烈な印象として残っています。一瞬、胸や背中の筋肉が、外部からの強打によってマヒしてしまうのでしょうか。
再び息ができるようになるまで、ずいぶん時間がたったように思えるのですが、ほんの10秒ほどの出来事なんですよね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
Marigreen
ChinchikoPapa
毎年、お送りいただいてる八朔や酢橘、青梅などは、それではMarigreenさんが木登りして採っているのですか? 改めて、ありがとうございます。<(_ _)>
くれぐれも、落ちないでくださいね。わたしはてっきり、連れ合いさんかお嬢さんの仕事だと思っていました。気をつけて、無理をしませんよう。
ChinchikoPapa
サンフランシスコ人
http://www.dw.com/en/venice-film-festival-opens-with-hirokazu-kore-edas-the-truth/a-50213842
ベネチア国際映画祭....是枝裕和監督『真実』を上映した.....
ChinchikoPapa
『海街diary』は中国で大ヒットしたとかで、『スラムダンク』の鎌倉高校に加え、今年の夏は七里ヶ浜や由比ヶ浜に中国からのお客さんが急増したかもしれないですね。