1908年(明治41)に戸田康保は、目白駅近くの雑司ヶ谷旭出41番地(のち42番地=現・目白3丁目)へ自邸を建設しているが、戸田邸Click!は1933年(昭和8)ごろに解体され、その跡地には尾張徳川家の徳川義親Click!が自邸Click!(現・徳川黎明会+徳川ドーミトリーClick!)を建設して転居してきている。戸田家は、1938年(昭和8)の『高田町史』によれば雑司ヶ谷旭出から下落合に引っ越したことになっているが、実は子女のひとりが病気に罹患し、急遽、海岸近くの大井町へ転居している可能性が高いことはすでに記事Click!へ書いた。原因不明の発熱がつづく病気だった娘は、その後に全快しているようだ。
『高田町史』が編集されていたころ、戸田邸の解体した部材を活用し改めて建設された住宅が下落合に残っている。タヌキの森Click!の近く、オバケ坂Click!を上りきったところにある、昔日の夏目貞良アトリエClick!や九条武子邸Click!が建っていた斜向かいにあるA邸Click!だ。おそらく、明治建築の移築や部材活用の事業を積極的に展開していた、隣接する服部政吉の服部土木建築事務所Click!の仕事ではないかとにらんでいる。
このA邸に、昨年の秋から「売り家」のポスターが貼られているのが気になっている。東日本大震災で、東側の屋根が傷んだものかビニールシートで覆われていたけれど、修理する様子もなくそのまま売り家になってしまった。
戸田邸は、大温室が自慢の大きな木造西洋館だったと思われるが、その柱や窓の部材を活用したと思われるA邸は、外観が独特な意匠をしている。明治期の上質な木材をふんだんに使ったとみられる戸田邸なので、おそらくA邸の内部にもその部材が用いられているのだろう。買った方が、邸の傷んだところを修復してそのまま住んでくださればいいが、上物を解体してしまい、まったく新しい住宅を建設することになると、またひとつ明治期の面影を宿す住宅が下落合から消えてしまうことになり、ちょっとさびしい。宝くじにでも当たれば、わたしが引っ越して住みたいぐらいなのだが……。
A邸の西側、道路に面したファサードは木造に漆喰の西洋館で、東側の半分は伝統的な和館の造りとなっている。おそらく、玄関を入ると南側の生垣に面して応接室か居間があり、建設当初の昭和初期には白い布カバーがかけられたソファーセットや、大きなラッパのついた蓄音機が置かれていたかもしれない。乃手Click!らしくアップライトピアノが置かれ、休日などにはショパンのエチュードが流れていただろうか。まちがっても、三味の音Click!は聞こえてこなかっただろう。居間や応接室の目につくところには、丸善の洋書や文学全集、美術全集などが並べられていたのかもしれない。
居間や応接室、書斎などにさまざまな全集本を並べるブームは、昭和初期ばかりでなく1960年代にも起きている。出版各社は競って名作文学全集や美術全集、大百科事典などを刊行したが、それが飛ぶように売れた時代だった。わたしも近所の家へ遊びにいくと、通された居間や応接室などには必ず「世界名作文学全集」とか「日本近代文学全集」、「日本の美術全集」、「日本近代洋画全集」、「現代日本文学全集」、「日本古典文学全集」、「世界哲学思想全集」、「世界大百科事典」……といった類の全集が並んでいた。また、ステレオ(ときに4chシステム)がある家には、「世界名曲全集」や「世界作曲家全集」といったレコード全集までも置かれていた。
現代の感覚からすると、好きな作家の作品や音楽だけ買って揃えればいいのに……と、まことに奇妙な光景に映るのだが、当時は「宅はなによりも教養を重んじてますの」とか、「うちは知的水準が高いんですのよ」、「宅は高尚でもなんでもございませんの、主人が好きで並べてるだけですのよ、ほほほ」といった一種の訪問者へのポーズ、ときには訪問客へのささやかな「知的威嚇」の意味合いもこめて、せっせと全集を並べていたのかもしれない。また、敗戦の貧困や混乱からようやく立ち直り、生活に余裕が出てきたこと、やっと生活水準が戦前の状態を超えはじめていることを、家内で視覚的にも物質的にも実感したかったのかもしれない。
この60年代の全集ブームで、どれだけ出版社や作家、批評家が助かったのかわたしは知らないが、当時の全集セットを古書店で見かけて開いたりすると、ページとページの間が薄っすらつながったままの状態で、とても読んだとは思えない新品同様のものが出ていたりする。きっと、当時から長い長い期間にわたり応接室や居間に置かれ、“文化の神器”としての役割りを終えたものなのだろう。ブームに乗って、当時は大量に出版されたせいか、いまにしてみれば文学にしろ美術分野にしろ、全集本の価値は大暴落して驚くほど安価だ。
さて、このサイトの記事を書くにあたり、過去のいろいろな新聞や雑誌などのメディアを調べ参照していると、1930年代と1960年代のものに必ず頻出する特徴的な媒体広告がある。もちろん、「全集本」の出版案内だ。特に60年代の広告は、わたしも近所のお宅で一度は実物を目にしたことがあるせいか、どこか懐かしい感触をおぼえる。かくいうわたしも、「少年少女世界の名作文学全集」Click!を親に買ってもらったが、半分も読まずに放置していた前科があった。文学全集や美術全集は、月1回の配本で少しずつ“部品”を組み立てていくパズル的な、あるいはプラモデル的な楽しみのダイナミズムや、全巻揃ったときの達成感が面白いのであって、隅々までていねいに読むものではないらしい。
売り家になってしまったA邸だが、昔日のよき乃手生活を味わうには、静寂で、野鳥の声とピアノの音色がときおり聞こえ、庭先にはタヌキが出没するもってこいの環境であり、意匠に明治の香りが宿るいまや貴重な住宅物件だと思う。おそらく居間か応接室、書斎には窓の下までの低い書棚を設け、レコード(CDではなく)や全集本を並べるととてもよく似合いそうだ。建物を少しだけリフォームして、そんな生活に憧憬をおぼえる奇特な方は、どこかにいらっしゃらないだろうか。
A邸から北へ30mほどのところにある、九条武子Click!が住んでいた邸跡もいまだ空き地のままになっている。このサイトをご覧になり、にわかに下落合に興味をおぼえ好きになった方にはピッタリな、いかにも下落合らしい住宅への転居をお考えの方、一度散歩がてら歩かれてみてはいかがだろうか。山手線の目白駅と高田馬場駅、そして西武新宿線・下落合駅の3駅が徒歩10分以内で利用可能だ。マンションのような集合住宅では得られない、下落合の臭いや音、眺望、空気感を存分に味わえる住まい環境だと思われるのだが、近代建築のため厳冬期には少々重ね着が必要かもしれない。(ブルブル) さて、わたしはいつから、不動産屋のまわしものになったものだろう?w
◆写真上:売り家のポスターが貼られた、戸田邸の一部移築とみられるA邸。
◆写真中上:上は、1960年代にはよく全集本が並べられていた応接室(左)と書斎(右)。下は、昭和初期の全集ブームのときに文藝春秋から出版された「小学生全集」。
◆写真中下:上は、昭和初期のブーム時には主婦向けの百科全集も出た主婦之友「実用百科双書」。下左は、1960年代に講談社から出版された「日本現代文学全集」(全108巻)。下右は、同社から60年代に出版された「20世紀を動かした人々」(全16巻)。
◆写真下:同じく、講談社から60年代に出版された「日本近代絵画全集」(全24巻)。
この記事へのコメント
NO14Ruggerman
解体されずに済むような結果を期待します。
Marigreen
それにしても「少年少女世界の名文学全集」を完読しなかったとは、勿体無い。私ならウヒャウヒャ涎を流しながら喜んで読んだでしょうに。
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>大和さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
近代建築が好きで、理解のある方に購入されるといいのですが、もう少し売れずにそのままの状態だと、不動産会社が購入して解体し建て売り一戸建てで売り出しそうですね。
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
うーん、おカネないですね。(爆!) それでなくても、A邸の近くにある“タヌキの森”を緑地公園化するために、ご近所の人たちが基金へいくばくかのおカネを支出していますので、余裕がないのではないかと。^^;
わたしも、いまになって親に棄てられたらしい「少年少女世界の名作文学」は惜しいと思うのですが、当時はなによりも外で遊んだり、図鑑シリーズを眺めたりするほうが、よほど面白く感じていた少年時代でした。
ChinchikoPapa
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>Ujiki.oOさん
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讃岐人
文学全集のようなものと同時に「応接間」を造る文化も消えてしまったような気がします。
今は、どんなに高価であっても、分譲住宅の間取りに「応接間」のような造りを見出だすことができなくなりました。
家は家族の生活の場でありますが、バッファゾーンである「応接間」を造ることで、こどもなどは私人と公人の連続した境といいますか、幾分かグレーな部分を持ったお付き合いの仕方といいますか、そういったものを学んでいたように思います。
世間の住宅から「応接間」を造らなくなってから、過度な個人主義がはびこるようになったように思います。
ナカマはすぐリビングに通すけれど、タニンは玄関にも入れない。その事が他者との関係のありように影響しているように思いました。
ChinchikoPapa
大正から昭和初期に造られた、いわゆる和洋折衷住宅には、必ず「洋間」の応接室が付随していましたね。たいがい、玄関脇のかなり日当たりのいい部屋で、お客はまずそこに通され、親しくなると居間のほうへも通される……といったような、人間関係の距離感をはかれるような佇まいがあったように思います。
もっとも、いちばん日当たりのいい南向きの快適な部屋を、訪問客のための応接室にしておくのはもったいないというような、そこに住む家族を中心に考慮するコンセプトが浸透していき、また戦後は訪問客を案内する女中の部屋の消滅とともに、応接室もその存在が薄れていったようにも見えます。
応接間は、玄関からすぐに外部へとつながる空間へ出るのではなく、どこか外部との関係性にワンクッションをおいた「家内のよそ行きの空間」として機能していたのかもしれませんね。
訪問客にしてみれば、その家の様子をうかがい知れる窓口が応接室だったはずで、必然的に応接室にはイスとテーブルの応接セットのみならず、いろいろなものを飾る習慣が生まれたものでしょうか。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dougakunenさん
sig
ChinchikoPapa
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
わたしも、当時の有名な洋画家が挿画を担当していることもあって、以前から「小学生全集」が気になっています。第35巻「外国歴史物語」と第68巻「児童工業物語」は手に入れたのですが、古書店でもけっこういい値がついおり、また人気のある巻は高値になっていますので、今となっては気軽には揃えられないですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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