金川(カニ川)の流域を概観してみる。

戸山公園人工湧水.JPG
 先日、目白不動Click!幸神社(荒神社)Click!の北側を流れていた金川(弦巻川)について書いたので、旧・平川(現・神田川)をはさみ、南側を流れていた下戸塚の金川Click!(江戸後期から別名カニ川とも)について書いてみたい。先日、金川の湧水源である番衆町(現・新宿5丁目)から東大久保(現・新宿6丁目)の西向天神、和田戸山(戸山ヶ原Click!=現・戸山3丁目)の尾張徳川家下屋敷Click!から早稲田大学の大隈邸(現・大隈庭園)Click!へとつづく、金川の流れを追いかけてみた。
 もちろん、これは金川の流れのひと筋にすぎず、もうひとつの湧水源としては江戸期に作成された「御府内場末往還其外沿革図書」によれば、西向天神前で合流する水源を西大久保(現・歌舞伎町)あたりまでたどることができる。また、最近の調査によれば角筈まで水源がたどれるそうなのだが、わたしはそれをいまだ確認していない。
 早大の大隈邸から、旧・神田上水へと注ぐ小流れが明治初期の地図で確認できるけれど、本流は早稲田田圃Click!を横断するように東へ向かい、ひと筋は大堰Click!(現・大滝橋Click!あたり)の下流で江戸川(現・神田川)に合流し、もうひと筋は江戸川橋の下流で合流している。大隈邸から旧・神田上水へと注ぐ流れは、大隈庭園の庭池が造成された明治以降に掘削されたものかもしれない。
 また、新宿区の地形をご存じの方が、上記の金川の流れをご覧になれば、その下流域に“人工的”な匂いを強く感じるだろう。番衆町(現・新宿5丁目)の湧水池や、西大久保(現・歌舞伎町)から湧き出た水流が、東大久保(現・新宿6丁目)にある西向天神の谷間で合流し、戸山ヶ原を経て現在の早大キャンパスの記念講堂の南側を貫通するぐらいまでは、地形通りの谷間や斜面を流れ下っているので、あまり不自然さを感じない。
 しかし、旧・神田上水の南岸に拡がっていた低地になると、いきなり金川は妙な蛇行や流域を形成することになる。これは、金川の流れを灌漑用水に使うため、江戸期以前から行われていたとみられる土木工事によるものだろう。古代の金川が、旧・平川(現・神田川)へと注ぐ流路を想定すれば、現在の早大文学部キャンパスの中ほどを横切った流れは、早稲田中学校のある斜面をそのまま流れ下り、大隈庭園の東側から一気に旧・平川へと合流するルートが自然なのだ。
 少し横道へ逸れるが、番衆町(現・新宿5丁目)に箱根土地Click!堤康次郎Click!が建設した遊園地「新宿園」Click!の池は、江戸期に形成された金川の湧水池のひとつ、すなわち松平志摩守の下屋敷(のち“新宿将軍”と呼ばれた浜野茂邸)にあった庭園池をそのまま活用したものだろう。また、西大久保(現・歌舞伎町)の湧水源(のち大村純英邸の庭園池)は、先の「御府内場末往還其外沿革図書」と重ね合わせてみると、旧・新宿コマ劇場の前にあった噴水池あたりまでたどれるのが面白い。ここが金川(カニ川)の湧水源、あるいは「大村乃森」の庭池だったという、なんらかのいわれや由来を知っている人物が、劇場前に噴水池を設置した可能性が高い。
金川1947.jpg
番衆町.JPG
西向天神.JPG
 金川(カニ川)の流れを旧・平川(現・神田川)までたどってみると、そこここに崖地や急斜面のある地形であるのは、雑司ヶ谷と目白台の間を流れる神田久保の金川(弦巻川)と同様だ。おそらく、鎌倉期以前から拓けていた一帯であることは、鎌倉街道の存在もさることながら、野方村や長崎村と同じように、和田氏Click!(下戸塚では「和田戸氏」と伝えられることが多い)の事績を伝承しているとみられる、戸山ヶ原の「和田(あるいは和田戸山)」の地名に残されている。金川沿いの崖地や急斜面では、旧・平川(現・神田川)の流れをさかのぼっていった大鍛冶集団が支流域へと入りこみ、あちこちで森林を伐採し傾斜地を利用したカンナ流し(神流)や、タタラ製鉄を行っていたと思われるのだ。
 おそらく、古い時代の金川(カニ川)流域を丹念にたどると、荒神社(後世の習合により庚申にまつわる社)や、江戸期の農業神にしては由来が古くて田畑のあった平地ではなく、斜面に建立されたいわくありげな鋳成社(稲荷社)、さらに荒神谷遺跡を見るまでもなくタタラ製鉄には優れていたとみられ、出雲から関東のクニグニへと亡命した人々Click!が奉ったと思われる出雲神(スサノオ/クシナダヒメ/オオクニヌシ=オオナムチ/タケミナカタなど)由来の社が、随所で発見できるかもしれない。
 ちなみに、江戸東京総鎮守である神田明神の主柱が、オオクニヌシ=オオナムチというのは非常に意味深い。日本語の地名転化に特徴的な言語学の「たなら相通」にならえば、神田明神はそのまま神奈(カンナ)明神へと直結する。もともと、神田山の南麓・芝崎村にあったものが神田山の山頂に移され、さらに江戸期に入ると神田山Click!を崩して土砂が海岸線の埋立てに使われたため、さらに北側の外神田へと移されている。そして面白いことに、神田明神で奉納される出雲神の「国譲神楽」が、別名「荒神神楽」と称されていることだ。大鍛冶と神田(=カンナ)明神が、まさに直結する痕跡といえるだろう。
金川跡1.JPG 金川跡2.JPG
駒留橋と金川.jpg
金川跡3.JPG
 さて、大久保から下戸塚を流れ下る金川(カニ川)に話をもどそう。現在の金川跡をたどろうとしても、ほとんど上流域全体が新宿に建つビル群の下になっており、元の姿を想像することすらできなくなっている。かろうじて、リアルな流れを地形とともに想定できるのは、江戸期に尾張徳川家の下屋敷跡であり、明治以降は陸軍の施設が林立していた戸山ヶ原Click!、現・都立戸山公園Click!の一帯だ。尾張徳川家の下屋敷時代、ここには金川の流れと近くの崖線からの湧水を利用して、大きな庭池(東海道五十三次のうち琵琶湖に見立てたもの)が造成されている。
 江戸期の「御府内場末往還其外沿革図書」では、この庭池から流れ出た金川は、そのまま北へと流れ下り旧・平川(現・神田川)へと注いでいるわけだが、その沿岸には前方後円墳の富塚古墳(高田富士)Click!をはじめ、羨道や玄室らしい洞窟が数多く見つかっており、古墳らしい史跡Click!がいくつか散在している。そのような視点で金川沿いを眺めてみると、戸山公園の造成に活用された尾張徳川邸の庭石には、かなりの確率で房州石Click!が混じっていると思われるのだ。もちろん、江戸期に多く用いられた伊豆地域一帯の石材(小松石や根府川石など)も多いのだろうが、古墳の結構に用いられた房州石の数も、決して少なくないように見える。
 そう考えてくると、下戸塚地域に伝承された「百八塚」Click!の故事は、旧・平川(現・神田川)沿いばかりでなく、下戸塚から南側の金川沿いにまで拡がっていた可能性を強く感じるのだ。つまり、金川沿いに上流へとさかのぼる沿岸もまた、大鍛冶たちのタタラ遺跡とともに、古墳が密集する地域ではなかったかというリアルな仮説が成り立つ。西向天神の天神山Click!には、江戸期からつづく「大久保富士」が存在している。しかし、この「富士」の下がどうなっているのか、過去に調査された記録はない。
房州石公園1.JPG 房州石公園2.JPG
房州石箱根山1.JPG 房州石箱根山2.JPG
金川(カニ川)の流れと、その流域に拡がる風景や痕跡を駆け足で見てきたけれど、現在は暗渠化されてしまった同河川をたどるのは容易ではない。ましてや、多くの流域がオフィスビルやマンションの下になってしまっているので、地形の観察さえおぼつかない現状となっている。もし機会があれば、金川の流域をたどって大鍛冶にまつわる社あるいは祠の史跡や、現代まで語られ記録された物語の伝承を探ってみたいと思っている。

◆写真上:金川(カニ川)の風情を再現したとみられる、戸山公園内に造られた人口の渓流。尾張徳川家の下屋敷が建てられた当初は、いまだ金川と呼ばれていただろう。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の地形がよくわかる焼け跡の空中写真に金川(かに川)を描き入れたもの。は、地上からでは風景全体が捉えられないためビルに上って眺めた各湧水源。は、西大久保(現・歌舞伎町)と番衆町(現・新宿5丁目)の湧水が合流していた、東大久保にある西向天神社の参道下。
◆写真中下は金川の川筋跡で、戸山公園に隣接する早大の学生会館()を貫いたあと、記念講堂の南側から文学部キャンパスを横断し早稲田通り沿いの宅地()へと抜ける。は、昭和初期の雪の日に撮影されたとみられる金川(かに川)と駒留橋。は、とても同一場所とは思えない駒留橋の現状。金川(かに川)は右手のドトールコーヒー店脇から流れ出て、早稲田通りの手前あたりに架かっていた駒留橋下をくぐり抜け、蕎麦屋「三朝庵」Click!の東側から早稲田中学へと抜けていた。
◆写真下:戸山公園に散在する、旧・尾張徳川家下屋敷に配置されていた庭石だが、中には同屋敷の建設と庭園の造成時に出土したとみられる、古墳の羨道や玄室の結構に用いられた房州石らしい石材も混じる。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    「努力」という言葉が苦手なのですが、好きな対象があってこそ「努力」は生まれるもので、キライなものに「努力しろ」といわれてもできないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
    2015年10月21日 10:45
  • ChinchikoPapa

    2万円/年間という会費は、収穫量+αやその他も含めて考えると微妙な「値ごろ」ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
    2015年10月21日 10:52
  • ChinchikoPapa

    ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
    2015年10月21日 10:54
  • ChinchikoPapa

    DECCAのレーベル盤は、LP時代もレトロなアルバムジャケットの宝庫で、壁に飾っておきたい秀逸なものが多かったですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
    2015年10月21日 10:59
  • ChinchikoPapa

    美味しくないですね、山口グミ。w
    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
    2015年10月21日 11:29
  • ChinchikoPapa

    1980年代の予測を見ると、想定以上に進化が速いものと、意外に障害が大きくて研究開発が進まない分野とがありますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
    2015年10月21日 13:13
  • ChinchikoPapa

    チームのアジア大会への進出で、初代監督は安心して後進に任せられると感じられたのではないでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ねねさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2015年10月21日 13:56
  • skekhtehuacso

    金川(カニ川)のことは全く知りませんでした。
    しかし、記事を拝読しながら学生の頃の記憶をたどってみましたが、たしかに早稲田通りでも三朝庵から東西線早稲田駅辺りにかけてのあたりはちょうど谷底になっていますね。
    2015年10月21日 22:58
  • ChinchikoPapa

    まだ近くの森は、葉が青々としていますね。本格的な紅葉は、11月に入ってからでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>U3さん
    2015年10月22日 10:26
  • ChinchikoPapa

    どこかの予約は、案外リアルタイムですぐに済む電話でしてしまいます。銀行の手続きなどは、ほとんどネットになってしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>eva-chinさん
    2015年10月22日 10:29
  • ChinchikoPapa

    おや、近くにおいでですね。w 永青文庫の刀剣展は、少し前までガラガラだったのですが、最近は若い“刀女子”が多くて混んでいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>SILENTさん
    2015年10月22日 10:31
  • ChinchikoPapa

    高等数学の「特異点」理論というのは、懐かしいですね。1980年代に「特異点の解消」ブームがありました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>makimakiさん
    2015年10月22日 10:33
  • ChinchikoPapa

    このところ、午後6時をすぎると急に気温が下がりはじめますね。
    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okin-02さん
    2015年10月22日 10:36
  • ChinchikoPapa

    マツヨイグサやオオマツヨイグサは、潮の香りとともに懐かしい花です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
    2015年10月22日 10:37
  • ChinchikoPapa

    日本代表のメンバーたちは、あちこちで引っ張りだこのようですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2015年10月22日 11:00
  • ChinchikoPapa

    ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>mangaharaさん
    2015年10月22日 11:01
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>sterling.hide.jさん
    2015年10月22日 11:02
  • ChinchikoPapa

    いつも、ご訪問と「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>ネオ・アッキーさん
    2015年10月22日 11:07
  • ChinchikoPapa

    ソニー・クラークのリーダー・アルバムは手もとに揃っていますが、晩年をリアルタイムで聴いたビル・エヴァンスは60年代以前の作品が中心で、ディスコグラフィーの半分ほどしかないのではないかと思います。70年代の作品は、まず聴かないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>lequicheさん
    2015年10月22日 11:26
  • ChinchikoPapa

    いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>nandenkandenさん
    2015年10月22日 11:28
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>コミックンさん
    2015年10月22日 11:29
  • ChinchikoPapa

    skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
    わたしは、「カニ川」という名前は戸塚の郷土資料などで知っていたのですが、それが江戸期に「金川」が転訛したものだとは、つい最近知ったことです。地形どおりの谷間や低地を追いかけると、それが金川(カニ川)の流れ筋に当たるのでしょうね。
    2015年10月22日 11:32
  • ChinchikoPapa

    他ネコのクシャミは、どんな音に聞こえているんでしょうね。w
    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>mentaikoさん
    2015年10月22日 11:59
  • ChinchikoPapa

    ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>宝生富貴さん
    2015年10月22日 13:22
  • ChinchikoPapa

    もう25年も前の映画になるんですね、懐かしいです。
    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>モグラたたきさん
    2015年10月22日 15:06
  • ChinchikoPapa

    「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>shingekiさん
    2015年10月22日 15:10
  • ChinchikoPapa

    東アジアのモードっぽい演奏ですね。w
    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dougakunenさん
    2015年10月22日 16:20
  • ChinchikoPapa

    亀戸は、商店街を歩くのも楽しいですね。
    「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>大和さん
    2015年10月23日 09:46
  • ChinchikoPapa

    マルバルコウはかわいいですね。夏はオシロイバナで、秋はマルバルコウが目立ちます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>沈丁花さん
    2015年10月23日 14:01
  • ChinchikoPapa

    ネコも寒がりなので“かまくら”を買ってあげましたが、なぜかそこへは入らず人間の膝上や寝床で丸くなってますね。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
    2015年10月23日 14:08
  • T.itoh

    PaPa 様、こんにちわ。
    久しぶりでこちらに書き込ませていただきます。
    カニ川の流れが何処をどう通っていたのかは私も大変関心が深く、資料を探しておりましたが最近郷土史でもある方(情報誌にもご紹介させていただいている平木さんという方の持っている地図にかなりはっきりと記載がありました。江戸後期のものと思われるものですが、まだ忙しくてよく見ておりません。PaPa様のいつもながらの資料や映像の多さとその関心の的は、とても的確でなるほどとつい引き入れられます。最近謀殺されて訪問が出来ない事が多いのですが、後少しで余裕も出てきますので、ゆっくり読ませていただきたいと思います。
    2015年10月24日 08:22
  • ChinchikoPapa

    T.itohさん、コメントをありがとうございます。
    カニ川の流れは、「御府内場末往還其外沿革図書」を参照しますと、湧水源が番衆町(新宿5丁目)と西大久保(歌舞伎町1丁目)あたりになっていますが、最新の研究では西大久保へさかのぼる流れにもうひとつ支流があって、角筈の添地町(新宿通り北側)あたりまでたどれるというのを聞いたことがあります。なんだか、もう少しで玉川上水に合流しそうな位置ですね。
    また、江戸期には灌漑用水としてずいぶん手が入れられているようで、西向天神北側の屈曲部にも人工的な匂いを強く感じます。室町期以前は、はたしてどのような流れを形成していたのでしょうね。
    2015年10月24日 13:44
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん
    2015年10月24日 17:06
  • アヨアン・イゴカー

    西大久保富士、大久保富士、新宿富士などがあったのですね。神社があって、富士がある、と言うことでこれらは皆古墳だったのでしょうか?
    2015年10月25日 08:44
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
    富士が築かれたのは江戸期で新しい事蹟ですが、それ以前の社の境内にされた台地状の地形がなんだったのかは、改めて本殿や拝殿を壊すわけにはいきませんので、残念ながら不明なところが多いですね。
    2015年10月25日 20:40
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>sigさん
    2015年10月26日 11:50
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
    2015年10月26日 15:43
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
    2015年10月27日 15:42
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>Ujiki.oOさん
    2015年10月31日 22:55
  • 樋木 唯史 ひき ただし

    かに川、
    西武新宿線ホーム下から大久保病院下、歌舞伎町交番前、新田裏、天神小学校、西向天神、職安通り超えて、盛り土した大久保通りをくぐるあたり 古い地図に "砂利場" とありますね。 川に洗われて砂利がたくさん採れたのでしょうね。
    2017年12月15日 19:01
  • ChinchikoPapa

    樋木唯史さん、コメントをありがとうございます。
    1895年(明治28)の地形図に、すでに字名として「砂利場」が掲載されていますので、ひょっとすると江戸期から採取していたかもしれないですね。神田上水の面影橋近くにあった「砂利場」も、相当古くからの字名です。
    質のいい玉砂利は、千代田城内の広場や通路などに敷かれたといいますから、カニ川や神田上水に由来する玉砂利が、いまでも城内に残っているのかもしれません。
    2017年12月15日 19:20
  • 三河

    こんにちは三河です。たびたびの投稿で恐縮です。
    今回のテーマの金川(カニ川)!
    実は私もこのあたりの地名と地形からタタラとの関連性を考えておりましたのですが、なかなか資料にめぐり合わずにおりました。
    まさかここまで詳細に研究をされていらっしゃった方がいたとは。
    ChinchikoPapaさんにまたまたビックリです!

    ・戸山の「戸」は鉱脈の蓋を意味する岩盤
    ・金川は文字通り「金」属に関わるカンナ流し
    ・穴八幡の横穴から金の仏像の逸話
    ・宝泉寺から発見された大量の小判の逸話
    ・水稲荷神社の霊水
    ・諏訪神社(旧松原神社)の霊水、祭神:建御名方神
    ・稲荷鬼王神社の「鋳成り」、「鬼」=鍛冶師
    などの可能性を考えておりました。
    今ある寺社は金属神を祭る聖なるマーキングだったのでは?と。

    タタラ遺跡が見つかると盛り上がるのですが(゚∀゚)
    2018年01月22日 22:07
  • ChinchikoPapa

    三河さん、コメントをありがとうございます。
    もうひとつ、目白台から金久保沢、雑司ヶ谷あたりにかけ、あるいは戸塚から戸山、大久保界隈にかけて、ひょっとこ(火男)の伝説あるいは祭事での踊りなどを探しています。
    ひょっとこ(火男)は長い年月、利き目で炉の炎を見つめていたせいで片目が不自由になり、ふいごを用いる前段階で炉の火起こしのために口が尖ってまがり、足踏みふいごを踏みつづけたせいで、片足が萎えて文字どおりタタラを踏んで歩くという、古代からのタタラ職人の姿そのものを象徴してますね。
    東北では、タタラ場の神として「アラハバキ」が知られていますが、やはり片目片足が不自由な姿の像が、社や祠に安置されています。江戸期の文献で、ひょっとこ伝説をずいぶん探したのですが、まだ行き当たっていません。
    2018年01月22日 23:47
  • 三河

    ChinchikoPapaさん、たびたびお返事ありがとうございます。
    また面白いお話を伺わせていただきました(^w^)
    火男ですね!世間ではドジョウ掬いと言われますが、実は土壌掬いで砂金掬い、容貌もタタラ鍛冶師にそっくり。
    民間伝承、私も探してみますのでまた新たな発見がありましたらぜひお願いします。

    ちなみにこのあたりだと稲荷鬼王神社さんが11月8日のふいご祭りで賑わったとか聞いております。

    そういえば先日ご教示いただいた中井駅北のタタラ遺跡をはじめ、都内のタタラ遺跡の分布をまとめたような資料ってあるのでしょうか?
    もしご存知でしたらばよろしくお願いします<(__)>
    2018年01月23日 23:03
  • ChinchikoPapa

    三河さん、コメントをありがとうございます。
    稲荷鬼王社のふいご祭りの発祥は、タタラの「大鍛冶」ではなく、刀鍛冶や甲冑鍛冶、野(農)鍛冶の「小鍛冶」祭りではなかったでしょうか。「小鍛冶」のふいご祭りは、火床ないしは竈の三宝荒神を奉る11月8日の祭事ですが、江戸期にはおもに刀鍛冶の習慣が市内の家庭にまで入り込み、最寄りの稲荷社(鋳成社)で実施されるようになりました。
    タタラ遺跡の都内分布の地図があれば、わたしも真っ先に欲しいところです。w 弥生時代から、きわめて重要な原料としての金(かね=てつ)にもかかわらず、その史的な研究は非常に遅れていますね。この「鉄の歴史」では、ニッチな刀剣史の分野がもっとも進んでいるでしょうか。
    ただ、刀剣史の分野からですと古代刀(古墳刀)は日本刀の範囲外となりますので、反りのある日本刀が発明された東北の舞草地域(岩手県の南部といわれています)などが、もっとも古い「製鉄の史的研究」ということになります。おそらく、古墳時代の末期あたりに、反りのある日本刀が東北から関東にかけて誕生していますので、それ以前の「鉄の歴史」「タタラの歴史」は、ようやく研究の端緒についたところですね。
    従来は、クニの勢力を左右する武器や農作業に必須な金属だったにもかかわらず、軽視されてきた分野でもありますので、東京都内といえども満足な資料がのこってないのが現状です。
    2018年01月24日 00:07
  • 三河

    いつもお世話になっております!
    鬼王神社、そうですね、ご神職に伺ったときも同じようなお返事でした。
    ChinchikoPapaさんご指摘の「小鍛冶」の方なんだと思います。
    ただ、ご神職がおっしゃったのは、何があったかわからないけれども、江戸以前から当地が大久保村(もっと限定的な意味での)聖地だったことは間違いないとのことでした。

    タタラ遺跡の分布図、そうですよねw
    おっしゃる通り「鉄の歴史」こそ各地の勢力争いや作農における重要なファクターなはずなのに軽んじられてきた気がいたします。
    私はまったくの門外漢ではありますが、ぜひ今後研究や発掘が進むことを願っています。
    ・・・中井の遺跡、本当に惜しかったです(´・ω・`)
    2018年01月24日 16:12
  • ChinchikoPapa

    三河さん、コメントをありがとうございます。
    実は「ク・ホ(kut-ho)」という原日本語には、「湧水源」という意味があります。
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2010-07-12
    つまり、クホの上に「大」が付く大久保は、かなり古くからの清廉な泉が湧く重要な湧水源であり、またタタラ製鉄をするにはもってこいの、斜面や森林などが形成されている、製鉄集団にとっては「聖地」だったかもしれませんね。
    そういう意味からしますと、鬼王社のふいご祭は、もっと以前の段階ではタタラの鋳成祭(荒神祭)であり、それが江戸期にふいご祭と習合して身近な火床や竈の荒神と結びついてしまった……と疑うことができます。ただ、そのような謂れの断片でも、たとえばひょっとこの伎楽面とかが残っていれば、その仮説はとたんに現実味を帯びてくるのですが。
    ひとつ前のコメントでも触れましたが、おもに刀剣史とタタラ製鉄の分野から、金(鉄)を研究した書籍を少しピックアップしておきますね。よろしければ、ご参照ください。
    ・「古代刀と鉄の科学」石井昌國・他(雄山閣/1995年)
    ・「倭人と鉄の考古学」村上添通(青木書店・1998年)
    ・「刀鍛冶の生活」福永酔剣(雄山閣/1995年)
    ・「鉄と日本刀」天田昭次(慶友社/2004年)
    ・「鉄の考古学」窪田蔵郎(雄山閣/1973年)
    ・「鉄の民俗史」窪田蔵郎(雄山閣/1986年)
    ・「鉄と俘囚の古代史」柴田弘武(彩流社/1989年)
    ・「日本刀の科学」臺丸谷政志(SBクリエイティブ/2016年)
    ……まだまだあったと思いますが、刀剣を中心に「鉄」本を読んでいましたので、目につくのはこれぐらいでしょうか。
    2018年01月24日 18:31
  • 三河

    すばらしい情報をありがとうございます!
    次々にリンクするお話しに驚くばかりです。地名の記事も読ませていただきました。
    ク・ホ、窪、久保・・・湧水源。
    なるほど、古い言葉(発音)からそうした忘れ去られた意味や記憶を辿れるのですね。私も大いに賛同するものであります!
    また鬼王神社の話しにしても、そういえばご神職から「水」のお話も出ていたのを思い出しました。
    もともと「大久保」は大きな窪地の「大窪」であり、大久保氏がやってきて「大久保」になった説があるとも。
    いずれにしてももう少し何かしらのエピソードを探してみます。

    また製鉄に関する資料のご紹介もありがとうございます!
    刀に関しては私はてんで素人なのですが(^^;)
    「俘囚」については私も調べており、柴田弘武氏がまとめられた分厚い上下巻の事典を中央図書館で読んでおりました。
    挙げられた「鉄と俘囚の古代史」ような気がしますが、俘囚に「鬼王丸」という名の名工がいたという件があって、平将門、それこそ鬼王神社との関連を考えてしまいましたw
    ぜひ他の書籍も読んでみたいと思います(*´∇`)
    2018年01月24日 22:35
  • ChinchikoPapa

    三河さん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
    「鬼」とか「国栖(くず)」、「蜘蛛」とかいうのは、日本の先住民(原日本人)に対するヤマト側からの蔑称ですので、そのような伝説や地名が存在するところは、古代からの物語が眠っている可能性が高いですね。ちょうど、魏へ使者を派遣した、古モンゴロイド系ポリネシア文化が色濃く感じられる原日本の巫女王に、「卑弥呼」などという卑賤な漢字を当てはめ、彼女の行う政治(まつりごと)を「鬼道」と蔑称した、新モンゴロイド系文化の中国のような感覚でしょうか。
    また、なにか金(てつ)に関する面白い本がありましたら、ご紹介します。
    2018年01月25日 11:04
  • 三河

    早速のお返事ありがとうございます!
    確かに古代から卑しい言葉で表現されたものには何かありますよね。
    「鬼」「蜘蛛」「一本だたら」「ひょっとこ」なんていうのはたたら鍛冶師に対する蔑称ですし(^^;)
    鉄に関する資料、またお聞かせください。
    次はまた別の記事で登場するかと思いますがご了承くださいませw
    2018年01月25日 12:47
  • ChinchikoPapa

    三河さん、コメントをありがとうございます。
    上記の件、了解しました。なお、仕事が多忙なときはリプライが遅れるかもしれません。その点、ご了承ください。
    2018年01月25日 13:12

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