いつも、拙記事をお読みいただきありがとうございます。気づかないうちに、のべ1,100万人の訪問者数を超えていました。ほどなく、東京都の人口を超えそうなのにビックリしています。
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先日、NHKから突然電話をいただいた。最初は、なぜわたしの電話番号を知っているのか不可解だったが、何年か前に妙正寺川の記事のことでお問い合わせをいただいたのを思いだした。また、そのときのO記者とは偶然、近衛町Click!の「花想容」Click!でお会いして、ご挨拶をしたこともあった。その際、落合地域の問い合わせ先のひとりとして、NHKの報道取材DBにでも登録されたものだろうか。
今回のお問い合わせは、NHKの「ニュースウォッチ9」Click!(月~金曜/午後9時~)の報道局K記者からで、演出家で劇団四季の創立メンバーである浅利慶太の実家は下落合のどこ?……というものだった。「う~~ん、突然そんなこといわれても」と、一瞬ボンヤリしてしまった。中村彝アトリエClick!の近くに、同じく演出家で俳優の蜷川幸雄が住んでいたのは、以前に近所の方からうかがって知っていたが、さて、舞台監督の浅利慶太邸はどこにあったのだろうと首を傾げたとき、わたしの記事を見て電話しているのだとK記者はいう。(爆!)
そのとき、わたしのもの憶えの悪いアタマでも、ようやく思いだすことができた。以前、下落合に多い医院や薬局をテーマに記事Click!を書いたとき、コメント欄へトロさんこと池田瀞七さんから貴重なコメントをいただいていた。それは、開通したばかりの改正道路(山手通り)Click!から、戦前は「翠ヶ丘」、さらに改正道路工事が近づき地面がむき出しの原っぱだらけになるころからは、「赤土山」と呼ばれていたらしい丘陵へ通う急階段を上ると、浅利慶太邸や津軽邸Click!があったという記述だ。ちょうど、六天坂Click!から見晴坂にかけての、眺めのいい丘上に展開する住宅街だ。わたしの大好きな、スパニッシュ風の中谷邸Click!のある近所でもある。
さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」と、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真、それに当時から変わらない印象深いと思われる中谷邸の写真を送ると、K記者は浅利監督といっしょに下落合3丁目(現・中落合1丁目)を訪れ、実家跡や付近を散策されている。そのときの様子は、9月7日(月)放送「ニュースウォッチ9」で観たのだが、浅利邸の所在地は旧・下落合3丁目1738番地に建っていた。ちょうど、六天坂を上りきった中谷邸の奥、戦前は津軽邸(旧・ギル邸Click!)の広大な敷地に隣接したすぐ北側の一画だ。
戦時中は、自邸のすぐ前、下落合3丁目1741番地の空き地に防空壕が掘られ、1945年(昭和20)4月13日Click!と5月25日Click!の二度にわたる夜間の山手空襲Click!は、落合第一国民学校(小学校)Click!へと通う当時12歳の浅利少年にとっては、戦争の原体験となったのだろう。番組では、馴染みのある六天坂上の風景が映り、わたしは「下落合の自邸跡を特定できてよかった」と安堵したとたん、もうひとつ非常に重要なテーマをすっかり失念していたのに気がついた。
創立した劇団四季を、昨年(2014年)に去った今年82歳になる浅利監督は、今年に入って「ミュージカル李香蘭2015」Click!の演出を手がけている。何度も舞台で上演された作品だが、特に今年は戦争を知らない現代を生きる若い世代に、戦争の悲惨さを少しでも実感してもらうため、特に思いをこめて演出しているという。戦後70年、「あの戦争を忘れた世代は危険だ」という浅利監督は、戦争を経験した世代としてその惨憺たる様子を伝える反戦の舞台へ、可能な限り挑みつづけるという。
さて、舞台のヒロインである当の「李香蘭」(山口淑子)Click!は、浅利邸から南南西へわずか100mほどのところ、目白文化村Click!の第二文化村からつづく振り子坂Click!を下り、丘下の中ノ道(現・中井通り)へと出る途中、下落合3丁目1725番地(現・中落合3丁目)の家に住んでいた。浅利邸からは、当時は工事中の改正道路(山手通り)の広い空き地を利用して向かえば、歩いて1分以内にたどり着けたかもしれない。
おそらくマスコミに公開している「公邸」ではなく、彼女の実質的な自宅ないしは家族の実家、あるいはプライベートな別邸だったのだろう、付近に住む人々が戦前、散歩する山口淑子(李香蘭)を頻繁に見かけていた。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、確かに目撃されたその場所には山口邸が採取されている。
ひょっとすると落合第一国民学校(小学校)へ通っていた浅利少年も、付近の丘を散策する美しい「李香蘭」こと山口淑子を目撃しているのかもしれない。1945年(昭和20)4月2日、第1次山手空襲(4月13日夜半)の11日前に、偵察機のB29が撮影した空中写真を確認すると、屋敷林に囲まれた西洋館らしい山口邸の屋根を確認することができる。だが、戦後の1947年(昭和22)に撮影された爆撃効果測定用の空中写真では、北に隣接する敷地とともに住宅の屋根を確認できないので、おそらく二度にわたる大規模な山手空襲のどちらかで焼失しているのだろう。
また、浅利慶太邸は1941年(昭和16)に陸軍航空隊が撮影した空中写真には見えないので、おそらく同年から物資が極端に欠乏する以前の1943年(昭和18)の2年間のどこかで、建設されていると思われる。
今年の9月7日は、昨年に死去した山口淑子の一周忌に当たっていた。「ミュージカル李香蘭2015」は、8月31日から9月12日にかけ、彼女の命日をはさみながら港区海岸1丁目の自由劇場で上演され、チケットは事前に完売するほどの大人気だったらしい。これからも、戦争の悲惨さや怖しさ、虚しさを伝える舞台を、ぜひ浅利監督には演出・上演しつづけてほしいと思う。
余談だけれど、新宿中村屋Click!と中村彝をはじめとする中村屋サロンに集った人々の物語を描く、劇団民藝の舞台「大正の肖像画」Click!が10月20日~11月1日にわたって紀伊国屋サザンシアターで上演される。彝をはじめ、中原悌二郎Click!やエロシェンコClick!、相馬俊子Click!、岡崎キイClick!、神近市子Click!ら、下落合ではお馴染みの人々も多く登場するのだが、近くにお住まいで知人の民藝女優・白石珠江さんは誰の役かと思ったら、ヒロインの相馬黒光Click!だそうだ。w 白石さんには、ぜひ三田佳子とは異なる「オンちゃん」こと佐伯米子Click!を、いつか演じていただきたいのだけれど……。
◆写真上:下落合3丁目1738番地にあった、浅利慶太邸跡(左手)の現状。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)の「火保図」(左が北)にみる浅利邸と山口邸の位置関係。まだ浅利邸は建設前だが、山口淑子邸はすでに採取されている。下は、1941年(昭和16)に陸軍が撮影した斜めフカンからの下落合3丁目界隈。改正道路(山手通り)工事が間近なため赤土がむき出しの空き地や丘の斜面が目立つ。
◆写真中下:上は、第1次山手空襲の11日前に撮影された浅利邸と山口邸。下左は、「李香蘭」を演じる山口淑子。下右は、「ミュージカル李香蘭2015」のポスター。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる浅利邸(左)と、空襲で焼失したとみられる山口邸跡(右)。下は、振り子坂に面した山口邸跡(左手)の現状。
この記事へのコメント
Marigreen
Papaさんは有名人だね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
番組の“本論”に関係のない、それほど重要な問い合わせではないと思うのですが。w ここの記事は「無銘人語録」であって、わたしは有名人ではありません。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
pinkich
ChinchikoPapa
落合地域が面白いのは、この近隣に登場する人々の軌跡や逸話・事蹟などを取り上げていると、限定的な地域史ではなく、すぐにも日本史そのもの、あるいは日本文化史そのものになってしまう……という点でしょうか。
そんな面白さに惹かれて、かんじんの郷土(城下町)そっちのけで10年以上もつづけてきたわけですが、いろいろな人々とのネットワークができて、さらに面白い物語が見つかるのではないかと、わくわく期待しています。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
ChinchikoPapa
NO14Ruggerman
山口淑子さんが落合地域に住まわれていたとは…
九条武子、柳原白蓮といい落合界隈は美人さんの宝庫だったのですね。
ChinchikoPapa
また、わざわざ恐縮です。
タイムマシンがあれば、各時代へちょっと出かけていって彼女たちに逢ってみたいですね。山口淑子は親父と同世代の女性ですので、なんとか話は合いそうですが、他のふたりはまったく生活環境がわかりません。矢田津世子にも逢ってみたいのですが、まっ先に「あなた、矢田坂なんて、やだ!」といわれそうです。ww
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
YOKO
ChinchikoPapa
今年の「ミュージカル李香蘭2015」は、NHKが稽古場風景まで取材していますので、そのうち舞台そのものを放送するかもしれませんね。
YOKO
ChinchikoPapa
URLは、名前とコメント本文の間にある入力窓にペーストされると、名前にジャンプ先のURLが設定されます。
さっそく、李香蘭記事を拝見しました。スケートが得意だったんですね。戦後、中国から帰国後も、一時的に下落合に住んでいたものでしょうか。この記事の目撃情報は、改正道路(山手通り)の工事が始まる前、振り子坂を往来する戦前の山口淑子の姿です。
「火保図」(1938年)には、すでに山口邸が採取されていますので、おそらくそれ以前から山口家は建っていたのでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
YOKO
李香蘭の自伝に、下落合にも借り住まいしたとあります。彼女は1920年生まれなので、終戦のときもまだ20代。その若さで女優業の傍ら、ばりばり不動産を買ったとは思えません。阿佐ヶ谷の家は彼女の名義ですが、その前の資産は父親まかせだったのではないでしょうか?というのも父親とは金の問題で相当にこじれたと書かれているからです。
落合道人
ChinchikoPapa
ということは、下落合の山口邸は実家、ないしはそれに準じる住まいだった可能性がありそうですね。振り子坂が、改正道路工事で広く分断されるのは1942~43年ごろですので、山口邸から振り子坂の目撃例を考えますと、少なくとも1942年以前ということになりそうです。ちょうど、国策映画に出演しはじめているのが、「火保図」に山口邸が収録されたのと同時期、1938年からですので、1940年前後にはかなり顔が広く知られていたのではないかと想定できます。
それから、ログアウトをして入力フォームのテストをしたのですが(上記参照)、特におかしなエラーは起きません。また、他のコメントをされている方も起きていなさそうですので、YOKOさんのPC環境におけるローカルエラーではないでしょうか。
ChinchikoPapa
YOKO
ChinchikoPapa
ついこの春のことですが、目白駅の橋上駅化が1922年(大正11)であったことが判明し、百科事典レベルにまで書かれている1919年(大正8)に橋上駅化という記載が虚偽であることが判明しました。下落合で暮らした当時の人々の目撃情報では、こちらで何とも繰り返し書きつづけてきたことですが、1921年(大正10)前後にも橋上駅化がされていないという事実が記録されていたにもかかわらず……です。一般化した「公式記録」よりも、地元の目撃情報のほうが正確だった、典型的なケーススタディですね。
ましてや、「自伝」ともなれば都合の悪いことや忘れたいこと、あるいは触れたくないことは省略してカットされるか、そもそも取り上げられない公算が高いと思いますので、地元の目撃情報を最優先させるわたしの姿勢としては、残念ながら山口淑子の「自伝」に記述があるなしに関わらず(あるいは百科事典に掲載されている情報であってもw)、なんらかの事跡が下落合1725番地の山口邸にはあるのだろう……と解釈します。
それが、このサイトを貫いている基本的なコンセプトであり、またそれによって新たに判明した、「公式記録」とは異なる事実がこれまで多数存在していますので、フィールドワークなしに「あそこに書いてある」というようなご指摘を受けましても、まったく納得できない所以なのです。ご了承ください。
ChinchikoPapa
YOKO
ChinchikoPapa
山口淑子の親父さんは、現代の芸能界でもときどき見かけるような、娘の収入をあてにして気が大きくなり、あれこれ失敗を繰り返す情けない親だったのですね。初めて知りました。
いま、ちょうど警視庁捜査一課が作成した「下山事件」の捜査白書(マスコミへ意図的にリークされたものです)を読んでいるのですが、“自殺”を主張する一課の「白書」の中身を、現場の目撃証言を地道にとって歩いた(フィールドワークと同じですね)、捜査二課の刑事がことごとく「白書」は虚偽・創作であり、「下山事件」は“殺人”であると否定しているのが興味深いですね。現場証言と、「白書」記述の大幅な乖離から捏造であるとまで表現していますが、「現場」の検証がいかに重大かがわかります。
……というような資料読みをしていた関係から、やや過剰に反応してしまいました。ご容赦ください。
YOKO
ChinchikoPapa
いつかもどこかへ書きましたけれど、自伝で面白いと思ったのは『マルコムX自伝』と『マイルス・デイビス自伝』ぐらいで、あまた読んだ自伝のほとんどは面白いと思ったことがないです。必要にせまられて読む……という、参考資料として読んだ自伝のほうが、むしろ多いでしょうか。
また、ひとつの特徴として、自身の「思い」や「感想」を書き綴る、すべて“わたし"が主体の自伝は「印象に残らない」という側面もありますね。人は、自分で自身を位置づけるのではなく、他者によって位置づけられるものだというのは、使い古されたフレーズですけれど、「自伝」の"弱さ"はそのあたりにあるように思うのです。
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
劇団四季の日下武、あの渋さが好きでした。浅利監督には、本当に戦争を知る人として、今のように世界中で危険な空気が漂っている時期には、頑張って欲しいです。
ChinchikoPapa
日下武史は、大好きな俳優のひとりです。滝沢修も好きでしたが、亡くなってしまいましたね。演出家や俳優で、戦争を知る世代がどんどん少なくなっていますが、積極的に発言し表現してほしいです。
fumiko
このところ、2か月に1度のペースで海外取材が続き、更新が停滞気味(反省)。ChinchikoPapaさんのこまめな更新はブログの基本ですね。
ソネブロの先輩のあとをきちんと追うべく、頑張ります!
ますますのご発展を!
ChinchikoPapa
このところ海外の記事をつづけさまに載せられているので、お忙しそうだと感じていました。実は、わたしも3週間にわたり休みがなかったのですが、ブログの記事はなぜか別ものでw、ちょっと睡眠時間を削りつつ相変わらずグズグズと書きつづけています。
海外は時差がたいへんでしょうが、風邪には十分お気をつけて。わざわざ、ありがとうございました。