関東大震災Click!のとき、あるいは東京大空襲Click!のとき、大火災の炎が大川(隅田川)を水平に超えてやってきた……という伝承が、日本橋側や浅草側に残っている。うちの親父も話していたカタストロフだが、言葉では受け入れられても実際にどのような光景だったのかは、まったく理解できない。川幅が100m以上もある隅田川を、火災の炎が水平に吹きつけてくるなど、にわかに信じられないのだ。また、実際にそれを見た多くの人々が生命を落としているせいか、それがどのような状況だったのかを証言する記録もきわめて数が少ない。
先日、子どもが小学生のころに買って与えていた本を何気なく見直していたら、関東大震災の際に本所の被服廠跡Click!の空地へ避難して、奇跡的に助かった人の証言が掲載されているのを見つけた。被服廠跡には、近隣の住民や勤め人たちが警官に誘導されて約34,700人ほどが避難し、そのうち200名前後の人たちしか生き残れなかった場所だ。証言しているのは、被服廠跡の北側に位置する本所郵便局(現・震災復興記念館の北側)で、電信技手の仕事をしていた森竹一郎という職員だ。彼は夜勤と宿直の当番を終え、下宿のある二葉町(現・江戸東京博物館の東側)へもどってきた。そこで、食事の支度をしている下宿の主婦とともに、大震災に遭遇している。
下宿は潰れ、瓦礫の中から主婦を救出した森竹は、市街のあちこちで火災が発生していたため、避難しようと隅田川の方角に向かう。火災を消そうと出動した消防自動車は、水道管が地震で寸断されたために消火栓から水が出ず、消火活動ができない状況だった。運よく隅田川までたどりついたわずかな消防車が、川の水を揚げて消火にあたっていたが、すでに焼け石に水のような火勢だったらしい。幹線道路は地割れを起こしてクルマが通行できず、やがて路上には持ちだせるだけの家財道具を背負った避難民たちがあふれて、そもそも消防車両が火災現場へ向かうことさえできないありさまだった。
勤め先が気になった森竹一郎は、亀沢町の電車通り(現・清澄通り)をわたろうとするが、車輛や避難民がすし詰めになっていて身動きがとれず、すぐに横断することができなかった。本所郵便局は亀沢町の市電停留所のところにあり、すぐそこに見えているのだが、わずか40mほどの道路をわたることができないのだ。そのとき、彼は卒業した本所高等小学校の恩師だった、三好武彦先生に声をかけられている。
そのうち、巡査たちが避難路を誘導する声が聞こえてきた。1990年(平成)に金の星社から再版された、『世界のノンフィクション6:世界を驚かした10の出来事』(初版は1968年)所収の、「大正十二年九月一日」から引用してみよう。
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「先生は、いまでも根岸のほうにおすまいでしょうか。」/「上野の山下だ。とても、家まで帰れそうもない。土曜で、授業はおしまいにしようと話していたところ、ぐらぐらっときたので、少し地震がおさまるまで、生徒たちを学校へのこしておいたところ、そこここから火が出たので、いそいで家へ帰らせたんだ。高等科の子は、錦糸町のほうからも来ているから、五班にわけて、それぞれ教師が引率して帰したのだ。こんなことで、にげおくれてしまったんだ。」/亀沢町の電車道に、巡査がたくさんいて、/「うまや橋付近は火事です。そっちへいってもだめです。被服廠のあとへはいってください。」/と、どなっています。/被服廠のあとというのは、もと陸軍の被服本廠のあったところですが、それが赤羽へひきうつったので、いまは、あき地になっていました。亀沢町のかどから両国駅の裏手までひろがった七万平方メートルもある、ひろいあき地でした。
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このとき、本所や相生の警察署では当初、人家や中小工場が密集している本所側から、避難民を火災が少ないとみられる日本橋側へ、つまり隅田川を渡河して西岸へと誘導する計画を立てていたようだ。ところが、隅田川に架かる橋が、すべて避難民で埋まり、同時に火災の延焼スピードが速いために、陸軍の被服廠跡地へ避難民を誘導する決定を下した。それが、本所区の死者約50,000人のうち、実に70%にあたる約34,500人の犠牲者を出す結果になってしまった。
森竹一郎は、ようやく本所郵便局へたどり着くと、勤務していた職員たちとともに裏塀を乗り越えて、7,000㎡もある被服廠跡地へ避難した。同空地は、すでに避難民であふれており、森竹たちは人々の上や荷物を乗り越えて、空き地の中央近くまで避難した。そのときだった。
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相生町のほうから燃えてきた火が、総武線の鉄橋をくぐりぬけて、亀沢町へふきつけてきたのです。/火の旋風(章タイトル)/赤く焼けたトタン板が、ブーメランのようにくるくるとまわりながら、飛んできます。煙と炎のよじれた火が、火炎放射器からはき出されるようなすさまじさで、あき地に集まっている人びとにおそいかかりました。/「わあーっ。」/と、すさまじい悲鳴をあげて、人びとは、おくのほうへにげこもうとします。/そのものすごい力で、ぐぐっとおしつけられました。/二葉町から燃えてきた火は、亀沢町へもえぬけました。/火の粉と炎とが、電車道を越えて、ふきつけてきます。/被服本廠の表門のあったところにいた人びとは、どよめきながら、火にあぶられて、中へにげこもうとします。/火は本所郵便局にもうつりました。/横網の倉庫にも、とび火しました。/被服廠あとのあき地は、四方を火にとりかこまれてしまいました。/火におわれて、中へおしこんでくる人びとの力で、もう、広いあき地の人びとは、満員電車のようなありさまになりました。/午後四時ごろ、ごおーっというはげしい音がして、あき地の中央に、大きなつむじ風がおこりました。/まわりに燃えている火は、この風のうずにすいこまれ、被服廠の中を、火のうずにしたのです。(カッコ内引用者註)
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相生町というのは、総武線の南側にある竪川北岸にある街だ。そこで出火した火事の炎が、総武線の高架をくぐり抜けて、水平に亀沢町(被服廠跡)まで吹きつけてきている。距離にすると、200m以上の距離を炎が水平に走ったことになる。「火事旋風」あるいは「大火流」と呼ばれるこの現象は、大規模な火災で急激に膨張した空気が、風下に向かって烈風とともに吹き抜ける現象だとみられ、風下にいる人々は一瞬で空気中の酸素を奪われ、窒息死するケースもあったようだ。
このあとに起きた「つむじ風」、すなわち「火事竜巻」は隅田川を斜めに横断して蔵前・浅草側も襲い、多くの目撃証言を残している。人はもちろん、馬や大八車が荷物ごと空に巻き上げられ、風速は80~100m/sに達していたのではないかと推測されている。大規模な火災が起きているとき、なにも障害物や遮蔽物のない大きな川筋や広場へ逃れるのはかえって危険だという祖父母の世代からの伝承は、この空気の爆発的な膨張により、炎が数百メートルも水平に走る「大火流」や、渦状の火柱とともにあらゆるものを巻きあげてしまう「火事竜巻」を、身近に経験したことからきているのだろう。森竹一郎の貴重な証言を、つづけて聞いてみよう。
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熱風がふき通るたびに、悲鳴ともうめき声ともつかぬ苦しげなさけびが、うわっと、もり上がります。/焦熱地獄というのは、このような状態を想像してつくられたものでしょう。/やがて夜になりましたが、火勢は少しもおとろえません。まるで熔鉱炉の中にいるようでした。/空気中の酸素が、すくなくなったのでしょうか、それとも一酸化炭素のせいでしょうか、息がつまりそうです。/ときどき、火の子のうずが通りすぎていきます。一郎はとうとう気を失ってしまいました。/「森竹、しっかりしろ。夜が明けたぞ。」/つよくほほをうたれて、はっと目ざめた一郎は、白みはじめた空をみました。/あたりは寝しずまっているように、しーんとしています。/悲鳴も、うめき声もきこえません。/「おーい、夜が明けたぞ。火はおさまったぞ。」/三好先生は、思いきりつよくさけびましたがたおれている人たちの中から、五十人ばかりがむくむくと起きあがっただけです。/「夜が明けましたよ。にげましょう。」/一郎は、そばに寝ている人をゆすりましたが返事はありません。よくみると、たおれている人は、みんなもう死んでいるのでした。
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余震がつづく中で気がついた生き残りの人々は、数万人が倒れている周囲の惨状を眺めて愕然としている。東京の市街地における死者は、行方不明者を除き約60,000人とされているが、そのうちの実に80%以上の約50,000人が本所区内で死亡している。死者は川辺に多く、被服廠跡の34,500人をはじめ、竪川橋付近で6,000人、横川橋付近で3,500人、安田庭園の池端で500人など、避難者が集団で死亡しているケースが目立っている。
大火災が起きると、人は本能的に水のある方角へ逃げようとする。だが、22年前に起きた震災の教訓がまだ活きていたのだろう、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲の際、親父たち家族は大川(隅田川)へは近づかず、逆方向の西へと避難して難を逃れている。
◆写真上:約34,500人が亡くなった、陸軍被服廠跡地にできた横網町公園。
◆写真中上:上は、明治末の市街図にみる本所横網町の陸軍被服本廠と周辺の町々。下は、横網町公園内に建つ復興記念館(左)と東京都慰霊堂(右)。
◆写真中下:上は、火災が迫る一ッ橋の東京中央気象台(左)と針が振りきれた地震計の記録(右)。中は、1923年(大正12)9月1日の気象記録。台風の影響から15.3mmの降水があったことになっているが、この気象を記録した職員が無事だったかは不明だ。下は、桜田門近くの内濠通りにできた大きな地割れ。このような道路の地割れや亀裂あるいは避難民の殺到で交通が遮断され、消防車両は火災の現場へ到達できなかった。
◆写真下:上は、柳橋界隈を襲った火事竜巻の様子。右手に見えるのは両国橋で、中央やや右手に描かれているドームは本所国技館。下左は、上の絵図に描かれた大正期の両国橋プレート。下右は、約500人の避難者が亡くなった本所公会堂に隣接する安田庭園。
この記事へのコメント
うたぞー
Marigreen
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
東京の市街地には、関東大震災の教訓でつくられた防災施設があちこちありましたが、1964年の東京オリンピックの際にあらかた壊されて、あるいは埋め立てられてしまいました。防災の社会資本を食いつぶして実現したオリンピックですけれど、二度と元にはもどらないですね。
ChinchikoPapa
有名無名に関係なく、いい仕事をしている人は自然に残っていきますね。時間は「残酷」ですから、いい加減な仕事や流行を追いかけるだけの仕事をすると、ほどなく泡沫のように消えていく必然性にさらされると思います。特に貴重な記録は、歴史から捨象されることなく時代が変わっても、何度も掘り起こされて注目されますね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>宝生富貴さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ヨーコ
本所被服廠跡のお話を取り上げてくださり、ありがとうございます。
数年前、東京に住んでいた頃に、ふとしたことからこの悲惨な歴史を知り、現場まで足を運んでみたことがあります。
学校の授業では関東大震災についてさらっと触れますが(東日本の震災以来どうなっているのかは知りませんが)、ありえないくらい大勢の方がなくなっている被服廠の話は聞いたことがなかったので、衝撃を受けたのでした。
今も検索すると、十数年前にまだ生存されていた被災者の方のインタビュー記事が出てきますが、いまいちよくわからない状況だったので、興味深く読ませていただきました。
これからもがんばってください。
ChinchikoPapa
1945年3月190日の東京大空襲を、記憶しておられる方はまだ大勢ご存命ですが、1923年9月1日の関東大震災というと、ほんとうに証言者が少なくなってしまいました。
わたしは、父方の祖父からの伝承は親父を通じて、母方の祖父からは直接、震災当時の様子を聞きました。警察調書に残る、家の下敷きになった近所の人々の救出活動には、まだ20歳前後だった祖父の姿が出てきます。義母は、まだ幼児のころの出来事でしたので、ほとんど記憶がありませんね。
わたしも、親父がたびたび口にする「ヒフクショウアト」という言葉が理解できるようになったのは、小学生の高学年になったころからです。なぜ、空き地にそれほど多くの人間が「避難」できたのかを理解するには、もう少し時間がかかりました。親父に、被服廠跡地へ連れて行ってもらい、実際にその場所へ立ってからのことです。
現代の東京を見まわしてみますと、まるで関東大震災などなかったかのような、危うい街づくりがあちこちで見られて不安でなりません。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sig
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
このところ、東京周辺よりも西日本が気がかりですね。NHKのドキュメンタリーを見ましたが、南海トラフの津波が怖いです。次回、相模湾の津波の話を少し書きたいと思っています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
YOKO
ChinchikoPapa
わたしが小学生のときに体験した、チリ地震の「津波警報」のことを書いたとたん、再び現実化してしまいました。なにが起きるかわからない“明日”ですね。