以前、清戸道(せいどどう:『高田村誌』1919年より)や清土(せいと)などの街道名あるいは地名の音(おん)にからみ、街道沿いに展開する齊(塞)ノ神にまつわる火祭りの神事Click!について書いたことがある。それは、おもに室町期から江戸期にかけ各地に設けられた、道標を兼ねる庚申塚や道祖神などにより、村々へ厄病神が入りこまないよう、また道中で疫病に罹患しないように祈念する、素朴な“防疫結界”への信仰から生まれている。
毎年、正月すぎの小正月(1月15日)になると、家々で飾られていた厄除けの注連縄や松・竹飾り、守り札、破魔矢などを持ち寄り、それをできるだけ高く積み上げて燃やす火祭りが、いまでも全国各地で行われている。江戸東京では、この火祭り神事を「どんど焼き」(おもに旧・市街地=江戸市内の方言)、あるいは「さいと払い(祓い)」(おもに江戸郊外の方言)と呼ばれている。「さいと」の「さい」は、疫病や厄を封じこめる齊(塞)ノ神の「齊(塞)」だと思われるのだが、「と」は「戸」あるいは「土」の字が当てられていたものだろうか。つまり、齊(塞)ノ神(の依り代)によってふさがれ、封じこめられていた疫病神や厄病神たちを、年に一度の火祭りによって一気に“神送り”する、つまり“厄払い”をすることから、「さいと払い」と呼ばれるようになったのだろう。
ちょっと余談だけれど、鉄板の上へ小麦粉に混ぜた具を盛りあげ、焼いて食べる“お好み焼き”のことを、東京の神田・日本橋・浅草界隈(本所・深川もかな?)の方言では「どんど焼き」と呼んでいた。これは、明らかに小正月に行なわれる、正月に用いた縁起物の品々を高く盛りあげて焼く、火祭りにちなんだ名称だと思われる。うちの親父は決して食べなかったが、それはどんど焼きやもんじゃ焼きは、子どもがオヤツ代わりに食うものであって、大人が食事の代わりにするなどもってのほか……というような、戦前の(城)下町Click!の食文化に関する美意識や慣習が厳と色濃く残っていたからだろう。小腹が空いたので、わたしがお好み焼きを作って食べていると、「どんど焼きはガキの食いもんだ」とバカにされたことがある。
さて、どんど焼きに関するもうひとつの呼び名として、東京地方には「さいと払い(祓い)」というのがある。ただし「さいとばらい」は本来の意味を含む正式名称であって、おそらく江戸期以前からだろう、この地方特有の方言から「さいとばらい」は「せいとばれえ」と呼ばれるようになる。「払い(祓い)」の「はれえ」または「ばれえ」への転訛は、「あそかぁさ(あそこはさ)はれえ(払い)が悪(わり)いからな」と現在でもちょっと品のない東京弁Click!でつかわれているように、容易に元の意味が想像できるのだが、「せいと」のほうはいつしか本来の音はおろか意味さえも忘れ去られ、さまざまな異なる文字(漢字)が各地で当てはめられているのではないか?……というのが、わたしのコアにあるテーマなのだ。
さて、そんな街道沿いの齊(塞)ノ神を奉った多彩な石像(道祖神・庚申塔など)や、小正月の「せいとばれえ」の火祭り神事を意識しつつ周囲を見まわしてみると、江戸期までに落合地域のあちこちで「せいとばれえ」が行なわれていたことがわかる。まず、江戸時代の寛政期(1787~1801年)における、下落合の氷川明神社Click!で行われていた火祭りの様子を、金子直德『和佳場の小図絵』(『若葉の梢』)から引用してみよう。ただし、原文は非常に読みにくいので1958年(昭和33)に出版された、海老沢了之介の解題による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
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正月十三日など往来に縄を張って、齊の神とて銭を往き来の者から乞うて、〆縄などを焼いて祭りをする。/左義長(さぎちょう)は正月十五日に行われる。三毬打とも書く。松竹・〆縄などを積んで、はやしたてながら焼く。また爆竹ということも十五日に行われるが、これは竹を焼いて邪陰の気を祓うのである。爆はヒバシルと読む。竹が火に焼かれて、大きな音を立て、疫気を祓い除くということが、『荊楚歳時記』に見えている。/祭神は稲田姫命(奇稲田姫命)であって、女体の宮と称している。
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現在の氷川明神社では、特に「せいとばれえ」の火祭りは行われていないが、その代わり焚き火をする直径1mほどの大きな鉢を拝殿脇に設置し、1月の間じゅうそこで火が焚けるようにしてある。わたしは、正月の三ヶ日に破魔矢をそこで焼いてしまうが、おそらく故事を踏まえた近隣の地付きの人たちは、小正月(1月15日)になると松や竹、注連縄、守り札などを持ち寄っては積み上げ、火をつけて「せいとばれえ」をしているのだろう。毎年、ちょうどその時節になると、焚き火鉢の周囲には4本の笹竹が立てられ、注連縄をわたした結界が張られている。


落合地域の西部でも、江戸の寛政年間まではこの火祭りが行われていたことがわかる。イザナギとイザナミの第七天神Click!が奉られていた、下落合の御霊社(中井御霊社)の近くに設置されている道祖神の前で、「せいとばれえ」は行われていた。つづけて、海老沢了之介『新編若葉の梢』から金子直德が記録した、寛政年間の様子を引用してみよう。
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この村に御霊の社があって、上下の御霊の宮には、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二神が祀られている。またこの辺に道祖神(さいのかみ)がある。その前で正月のお飾りを焚くのが例である。次にいう齊の神は無授道祖神であろう。
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ここで留意したいのは、御霊社の主柱(祭神)が江戸期と明治期以降とではまったく異なっている点だ。おそらく、1870年(明治3)に発布された大宣教令Click!=神仏分離・廃仏毀釈のとき、あるいは1906(明治39)の神社合祀令の信条弾圧Click!が加えられた際のいずれかに、政府による圧力や脅しで社(やしろ)自体が廃止される存立の危機をかわすために、あえて主柱を“全とっかえ”したケースではないかとみられる。
また、江戸期にはイザナギとイザナミの2柱ほか、どのような神々が伝わっていたのかに興味が湧く。関東では、西日本の「御霊伝説」とは本質的に異なり、「御霊」は後世の当て字とみられ、もともとは鎌倉と同様に「五郎伝説」にからんだ五郎社Click!ではなかったかという、かなり説得力のある説が以前から存在するからだ。
さて、「せいとばれえ」の火祭りだが、おそらく江戸期以前のはるか昔から、街道沿いの村落や寺社などの聖域でつづけられていたとみられるため、疫病や厄を除ける縁起のよさも手伝って、街道の通称として、あるいは神事がおこなわれるその地域や土地の字(あざな)として、「せいと」または「さいと」の音が用いられることはなかっただろうか。
「せいと」や「さいと」には、その時代ごとにさまざまな漢字が当てられ、「成都」「西都」「清戸」「清土」「青戸」「青砥」「勢井戸」……など多彩な地名が形成されているのではないだろうか。そして、ひとたび漢字が当てはめられると、字のもつ音(おん)や意味がひとり歩きをはじめ、現在では別の音に転訛しているか、あるいはおもに江戸期にほどこされた付会により、まったく別の地名由来になってしまっている可能性もありうる。そして、落合地域を通る現・目白通りの旧名は「清戸道」であり、雑司ヶ谷と関口の間を抜ける現・不忍通りもまた、「清土道」と呼ばれていた。
◆写真上:江戸寛政期には境内で「せいとばれえ」(どんど焼き)が行われていた、祭神がクシナダヒメ1柱だった落合総鎮守・下落合氷川明神社。
◆写真中上:上は、綾瀬までつづく古道で「清戸道」と呼ばれていた現在の目白通り。下は、長崎の清戸道分岐(右側)で「練馬街道」とも呼ばれている。
◆写真中下:上左は、幕末に作成されたとみられる「下落合村絵図」。上右は、小正月に行われる典型的などんど焼き(せいとばれえ)の様子。下は、1880年(明治12)に作成された「実測東京全図」に描かれている清戸道(現・目白通り)。
◆写真下:上は、下落合氷川明神の拝殿で焚き火鉢は青いバケツが見える左手に設置されている。下は、江戸期の祭神は第七天神だったとみられる中井御霊社。
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この記事へのコメント
dendenmushi
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tweet_2さん
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全国に展開する“神送り”の火祭りは、由来が知れないほど古いようですので(もちろん後世の付会らしい事跡もありますが)、九州の地名にも「さいと」ないしは「せいと」はあるのかもしれませんね。
昨夜は深夜まで、広島からの中継を見てしまいました。
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道祖神と「性の神」はどこかで集合していますから、「さいと」が「せいと」ないしは「せえと」へ転訛したとき、「性」と結びついているのかもしれませんね。江戸期には、市内のそこかしこで行われていた“どんど焼き”ですが、明治以降は山手ではすたれ、下町に連綿と受け継がれてきているのがわかります。ただ、氷川明神の焚き火鉢のように、いまだ山手にも火祭りを記憶している地元の方がいらっしゃるようですね。
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「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
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Marigreen
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「おみおつけ」は東京・神奈川をはじめ、わたしの知る限りでは南関東で共通の方言です。男はともかく、地付きの女性が「味噌汁」というのを、わたしは聞いたことがありません。
それから、御本にわたしが登場しているようなのですがw、Marigreenさんの書棚から石原吉郎の作品を抜き出して読んだりしましたっけ? 当時、シベリア抑留について興味があったものでしょうか。
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