きょうは、以前にpinkichさんClick!よりご教示いただいた、上落合に住んだ洋画家・今西中通(ちゅうつう)の連作「落合風景」について少し書いてみたい。高知県生まれの今西中通が、里見勝蔵Click!に師事していた同郷の大野龍夫を頼って、家を飛びだすように東京へとやってきたのは1928年(昭和3)1月12日のことだ。当初は川端画学校へと通っているが、すぐに同期の仲間たちと代々木山谷160番地にできたばかりの、1930年協会洋画研究所へ移っている。
当時は今西中通の画号ではなく、いまだ今西忠通(ただみち)と本名で絵を描いており、1930年協会Click!展への出品も本名が使われている。同展には、1930年(昭和5)1月17日より上野の東京府美術館で開催された第5回展から出品しており、『白い壺とネギ』(展示番号784)と『風景』(同875)の2点が入選し、展覧会の最終コーナーである第15室へ架けられている。
ちなみに、今西は東京へやってきた当初から、代々木の1930年協会洋画研究所Click!で行われた講演会に参加しているが、1928年(昭和3)5月20日に代々木山谷小学校で開かれた、1930年協会第1回講演会の記念写真にも、20歳の今西らしい人物が里見勝蔵の右隣りにとらえられている。今西の右隣りは、同郷の大野龍夫だろうか。
今西中通が、渋谷の道玄坂から川端画学校などで知り合った赤堀佐兵、赤星孝、坂本善三らが住む上落合へ引っ越してきたのは、おそらく1930年(昭和5)の早い時期のようだ。住所は上落合851番地で、蛇行を繰り返す妙正寺川の南側であり、美仲橋と新杢橋のちょうど中間にあたるエリアだ。当時の下宿の様子を、1997年(平成9)に高知県立美術館から刊行された「没後50年今西中通展」図録所収の、鍵岡正謹『今西中通 人と作品』から引用してみよう。
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上落合の下宿は二階建で広い土間と奥の六畳を借り、二階に早稲田の学生が二、三人居て中通と共同炊事をやっていた。画家の仲間もよく訪れて、彼らから「中さん」と呼ばれ「純情一途」と誰もが云う性格は、周囲の先輩や同輩に愛された。彼らとよく酒を飲み、取っくみあいの議論をしては、夜を徹してキャンバスにむかう生活がはじまっていた。
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これによれば、今西は広い土間をアトリエがわりに使用し、奥の六畳を居間兼寝室のように使っていたのだろう。当時の落合地域に住む画学生たちと比較すると、スペース的にはかなりめぐまれた環境ではなかったろうか。
1930年(昭和5)5月になると、今西中通の下宿がある敷地の北隣りに、やはり画家をめざす手塚緑敏Click!が引っ越してくる。手塚の妻・林芙美子Click!の友人だった尾崎翠Click!が大家に夫妻を紹介し、当時は妙正寺川の岸辺に建っていた上落合850番地の2階家を借りたのだ。尾崎翠Click!は、夫妻の引っ越しを手伝い障子の張り替えまでやっているので、今西中通は尾崎翠にも出会っているかもしれない。上落合850番地の借家は、もともと1928年(昭和3)6月まで尾崎翠と松下文子が借りて住んでいた家だった。当時の様子を、前掲の『今西中通 人と作品』から引用してみよう。
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上落合に住んでいた中通のすぐ近くに、林芙美子が画学生であった手塚緑敏と結婚して移り住んできたのは、中通と相前後している。画家志望の手塚との関わりからか、中通は友人と一緒に林家を訪ねることになる。林芙美子の『放浪記』が刊行されベストセラーとなり、一躍女性新人小説家として躍り出たのは1930(昭和5)年7月のことであった。中通は林家にお祝いとして『春景色』を贈り、林家からは今西が結婚した時に鉄瓶を贈ったりするほどの仲であった。そのころの中通を緑敏は、「田嶋家から仕送りがあり、生活に困っているような感じのない、ボンボンのように見えた」と云っている。
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当時、手塚緑敏は落合地域のあちこちを写生してまわっていたので、同様に周囲の風景をスケッチしていた今西中通とは、早くから顔なじみだったのだろう。朝になると、画道具を抱えて出かける近隣の画学生同士が、親しくならないはずはない。ときに、今西と手塚緑敏は連れだって、同じポイントで「落合風景」を描いていたのかもしれない。この当時から、手塚緑敏が制作していた膨大な「落合風景」の大部分は、のちに庭の焚き火へくべられて燃やされ、現存しているのはわずかな点数にすぎない。
上掲の一文にもあるとおり、手塚の妻である林芙美子がベストセラー作家になると、金銭的にも余裕ができたので、夫妻は1932年(昭和7)8月に五ノ坂下に建っていた大きな西洋館Click!、林芙美子がいうところの通称“お化け屋敷”Click!へと転居していった。また、今西中通はその後もしばらく上落合851番地の借家に住みつづけるが、故郷からの仕送りが途絶えたのを機に、1934年(昭和9)にはニワトリ小屋を改造した井上哲学堂Click!の北西にあたる、中野区江古田1丁目81番地へと引っ越していった。
さて、今西中通が連作とみられる「落合風景」を描いたのは、1930年協会が解散し独立美術協会Click!へと移っていた時代だ。その代表的な作品が、1932年(昭和7)に制作された『落合風景』なのだが、おそらく今西のイメージや構成が加えられたフォーヴ調の画面だと思われ、落合地域のどこを描いたものかを特定するのは困難だ。また、当時の落合地域に建っていた家々の屋根に、これほどの確率で赤い瓦が多用されていたとは思えないので、今西の理想的な色彩イメージが加味されているのだろう。
『落合風景』に比べ、まだ同年に描かれた『秋の丘』のほうが、地形的にわかりやすい構図となっている。明らかに、下落合側に連続している目白崖線を、東側から西側に向けて眺めた「下落合風景」だと思われる。崖線の途中、北へと切れこんだ手前の谷戸は、制作年からすると下落合西部に展開していた風景の可能性が高い。改正道路(山手通り)工事により、全的に消滅してしまった矢田坂の谷間Click!か、あるいは蘭塔坂(二ノ坂)Click!や五ノ坂Click!の“切れこみ”をイメージした画面だろうか。いずれにしても、これほど赤や緑の原色が連なる、西洋館らしい家々が建てこんだ谷間は、当時の下落合に存在していない。
同じ1932年(昭和7)ごろに制作された、『風景(赤い屋根)』や『風景』にも同じことがいえる。今西中通は、付近の「落合風景」を描きながら主観的な理想の風景をイメージし、画面を自由に構成し彩色していた可能性が高いと思われる。そこには、同じフォーヴィズムとはいえ多少のデフォルマシオンは加味されても、色彩も含めてかなり忠実かつ正確に風景をとらえ、切りとっていった佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!とは異なり、より自由でフレキシブルな新しい時代の画面表現を試みていると思われるのだ。
佐伯祐三も、赤い屋根のバーミリオンにこだわってはいるが、それはモチーフとして選んだ赤い屋根の邸(たとえば八島さんちClick!や納めさんちClick!)をバーミリオンで輝かせているのであり、灰色の屋根や青い屋根を無理やり赤く塗ってしまった事例は、いまのところ見あたらない。今西中通が描く家々は、おそらくさまざまな色合いをしていたのだろうが、それを赤で統一したり、あるいはときに緑で塗りつぶしているところに、あえて実景にはとらわれない今西ならではの“暴れる筆先”を感じるのだ。
今西中通は、1934年(昭和9)ごろからキュビズム的な傾向が強くなるが、上落合へ転居したころから親しい今西宅から北北東へ500m、下落合1995番地にアトリエをかまえていた川口軌外Click!や、独立美術協会の画家たちからの影響が少なくないのだろう。今西は、ほかにも「落合風景」と思われる作品を1930年代前半に残しているが、より構成的な傾向が強い作品も見られる。また機会があれば、それらの作品について触れてみたい。
◆写真上:1932年(昭和7)に制作された今西中通『落合風景』で、掲載の作品画像はいずれも高知県立美術館から刊行された「没後50年今西中通展」図録(1997年)より。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合851番地。すでに妙正寺川の整流化工事はスタートしており、上落合850番地の家々が消滅している。下左は、1930年(昭和5)1月17日から東京府美術館で開催された1930年協会第5回展。背後には、病床の前田寛治の大きな写真が掲げられている。下右は、今西中通のポートレート。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)5月20日に代々木山谷小学校で開催された1930年協会の第1回講演会記念写真。下は、1932年(昭和7)制作の今西中通『秋の丘』。
◆写真下:1932年(昭和7)ごろに描かれた、今西中通の『風景(赤い屋根)』(上)と『風景』(下)。いずれも、どこを描いたのかポイントの特定はむずかしい。
この記事へのコメント
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今西中通にはまだ何点か、上落合時代と重なった気になる作品がありますので、とりあえず(1)としてみました。また近々、別の作品について書いてみたいと思っています。作品のご紹介を、ありがとうございました。
カフェの画面も見ましたが、やはり中井駅前の「ワゴン」ではないですね。調度品や空間の様子からしますと、もっと広い本格的なカフェのような雰囲気です。上落合の住まいの位置からすると、東中野へ出る途中か、高田馬場前あたりにあったカフェでしょうか。また、「画家仲間」と繰り出したモダニズム文化まっさかりの、新宿駅周辺の可能性もありそうですね。
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後期印象派やフォーブ、キュビズムにシュルレアリズム、そしてアブストラクト……と、いろいろな表現法が日本の洋画界にもたらされますけれど、およそ劉生以来、まるで通奏低音のようにつづいていたのは、日本にとっての「油絵とはなにか?」という一貫した問題意識がありますね。
油絵具のような鮮やかな色彩を用いて、日本の風景や静物、人物を描くことにどのような意味があるのか?……という、美術表現としての本質的なテーマです。これは美術界ばかりでなく、音楽界でも西洋のコードやモードを用いて、「日本の音楽」をどのように表現できるのか?……という課題にも通じるものですね。
それは、別にアジア主義やナショナリズムといった偏狭な側面からではなく、表現としてのオリジナリティをどう担保するのかという、かなり深刻なテーマに隣接している課題であるように思います。
ChinchikoPapa
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pinkich
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1964年(昭和39)の東京オリンピック前後に、日本橋や神田など下町の住環境の悪化から、新宿や渋谷方面に転居していった人たちは、残念そうに「郊外へ引っ越す」という表現をしていました。彼らにしてみれば、戦後でさえ新宿や渋谷は「武蔵野」だったのかもしれません。「東京行進曲」の4番、「♪変る新宿あの武蔵野の~月もデパートの屋根に出る~」の印象が強かったものでしょうか。
うちの親父が「武蔵野」と思っていたのは、もう少し西の小金井や国分寺、つまり大岡昇平『武蔵野夫人』の舞台となった地域のようでした。わたしが子ども時代に訪れた小金井や国分寺は、まさに「武蔵野」のイメージにピッタリでしたので、かなり長い間わたしもそのようなイメージがありましたね。
sig
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屋根と壁の色を変えると、とたんに日本の風景に見えなくなるから不思議ですね。松本竣介の作品にも、バタ臭くて日本の風景とは思えないものがあります。
ChinchikoPapa
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pinkich
ChinchikoPapa
よく、このサイトに登場している若死にした洋画家たちが、1930年代後半から40年代を迎えてたら、果たして戦争画を描いたか描かなかったかを想像してみることがありますね。中村彝はおそらく進んで描いたでしょうが、岸田劉生や佐伯祐三も配給の絵具やキャンバス欲しさに、描いたのではないかと思います。
この人は、案外描かなかったかもしれないなぁ……という人に、三岸好太郎がいますね。画会でも、どこか風見鶏のようなところがあり、奥さんに「ウソつき」とさえ呼ばれてしまういい加減さが垣間見える三岸ですが、そんな性格であるがゆえに、のらりくらりと描きたくないものには手を出さず、かえって福沢一郎と同様に「非国民」的な作品を描いて、検挙されていそうな雰囲気がします。
もっとも、奥さんの節っちゃんが「戦争画など描かないでよ!」といえば、それだけで手を出さなかったのかもしれないのですが。
pinkich
ChinchikoPapa
食べるためのみならず、当局からの恫喝や画会(戦況の悪化とともに報国会化で消滅しますが)からの圧力を受け、配給品の画道具の停止を覚悟のうえで、それでもクビを横に振りつづけた画家がいたことは、もう少し語られてもいいように思います。むしろ、戦争画を描いた画家のほうが、いまでは目立っている印象を受けますね。
美馬勇作
ChinchikoPapa
上記の件、了解いたしました。拙サイトの文章や画像でよろしければ、ご自由にお使いください。記事中にも書きましたが、手塚緑敏と今西中通はほぼ隣人同士ですので、ひょっとすると庭で燃やされてしまった手塚作品の中には、今西中通の肖像画などがあったかもしれません。数多く描いた「下落合風景」の作品群も含め、手塚作品が焼却されたのは返すがえすも残念です。