きょうは厳密にいえば、下落合4丁目(現・中落合4丁目)と西落合(葛ヶ谷)方面を描いた画家・中村忠二ということになる。外山卯三郎Click!の子孫である次作様Click!より、外山家に保存されていた中村忠二のスケッチ『落合風景』の画像をお送りいただいた。中村忠二は、妻である同じ洋画家の伴敏子が資金集めをして建てた、下落合のアトリエに同居しており、この作品は自身のアトリエからほど遠からぬ下落合から西落合、さらには哲学堂方面の眺めを描いたものだ。
中村忠二・伴敏子夫妻は、下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)のアトリエで暮らしていた。スケッチ画面の左下には、「落合 冬景 (忠)(52)」というサインが入れられ、また裏面には「落合風景 アトリエより描く 左側に哲学堂あり 1952/中村忠二 作」というメモが貼られている。描かれたのが1952年(昭和27)と明記されており、こちらでご紹介する落合地域の風景画Click!の中では、もっとも新しい時代の作品類に入る。
「アトリエより描く」と書かれているけれど、このスケッチが描かれる5年前に撮影された1947年(昭和22)の空中写真を見るかぎり、彼のアトリエから、あるいは屋根上からもこのような風景が見えたとは思えない。下落合4丁目2257番地のアトリエは、東側(小野田家の屋敷林)を除く三方(西・南・北)を空襲から焼け残った住宅で囲まれており、眺望がきかない位置に建てられたささやかなアトリエだった。「アトリエより描く」とあるのは、「アトリエ付近より描く」という読み変えが必要だろう。画面の左側に、井上哲学堂Click!があると書かれていることから、中村忠二のアトリエからやや歩き下落合4丁目あるいは西落合2丁目の田畑が見わたせるエリアに入り、北西を向いて描かれたスケッチだと想定することができる。
スケッチの視線は、描かれた風景に比べてやや高い位置にあることがわかる。つまり、中村忠二は前面の畑地が見下ろせる斜面に立ってスケッチブックを広げているのだろう。下落合の西端あるいは西落合は、昭和初期に耕地整理が終わり住宅が次々と建設されていたが、食糧増産を図るために戦時中は広い宅地へ田畑が復活し、戦後も田園風景を色濃く残した地域だった。奥の屋敷林と思われる緑に沿って家々の屋根が連なり、冬景色ということなので左奥に描かれた巨木とみられる逆三角形のかたちは、おそらく葉を落としたケヤキだと思われる。また、手前の収穫が済んだとみられる畑ないし空き地では、遊ぶ子どもたち5人(ひとりは大人?)の姿が描かれているようだ。
さて、この場所はどこだろうか? このように、哲学堂の森が画面左手(画面の左枠外の可能性もある)になる画角、そして、このように田畑が見下ろせる高い位置から写生できる場所は、彼のアトリエから西へ60~70mほど歩いたエリアで発見することができる。現在では、目白学園のキャンパス内に併合されてしまった、その昔は城北学園(研心学園)の北側にあった北向きの急斜面だ。そこからは、手前の下落合4丁目(現・中落合4丁目)から西落合2丁目にかけての田園風景を見わたせたはずだ。そして、スケッチの家々の配置によく似たポイントを、その北向き斜面に発見することができる。
この斜面には、空中写真で見るかぎり草木と思われる帯が東西に伸びているので、畑地の畔(あぜ)のような細い道が斜面と平行に通っていたと想定できるのだが、中村忠二はアトリエから徒歩1分以内のそのポイントから、北北西の方角を向き、哲学堂の建築やグラウンドを左手に意識しながらスケッチをしていたと思われる。中村忠二は、早朝に健康維持のためのランニングで、哲学堂の野球グラウンドまで走っていた。中村忠二・伴敏子夫妻が、昔日には下落合の通称「桐ヶ丘」(下落合字大上の一帯)と呼ばれていた、目白学園の丘付近に住むようになった経緯を、1977年(昭和52)に冥草舎から出版された伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。ちなみに、文中で「陽子」と書かれているのが伴敏子自身のことだ。
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目白の文化村の西端れに、友達の大泉秀太が自分のアトリエを建てるつもりで探してあった土地を、好都合にも廻して貰えたから、土地探しの苦労はいらなかった。/南に神田川の上流が緩く流れる中井の谷を挟んで向こうは東中野方面に続く高台で、此方は桐ヶ丘と呼ばれる古墳の地であった。その丘を越してやや北にさがり気味なのが少し難であったが、未だ四辺は昔からの農家が処々こんもりとした植込みや樹立ちに囲まれて、藁ぶきの屋根を残していた。/雅子の車で三人が初めて下見に行ったのだが、さすがの忠二も気に入ったらしいので、陽子(伴敏子)も重荷を下ろしたようにほっとした。/雅子も大満足で、/「兄さん、よかったわね。これでまあアトリエも建つというわけだわ」/「ふん、建つか建たないか、そんなもの建ってみなければ分かりませんよ。まだ金も全部出来たわけでもないし」/忠二は、まるでこう云ってやろうと待ちかまえていたように少しの間もおかず、例の突き放すような冷たい調子でぬけっと云い放った。こんなに骨を折ってくれている雅子に対しても、ひどく無礼な物の云い方であると陽子はその顔をあきれて見つめた。(カッコ内引用者註)
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この記述は、1935年(昭和10)現在のアトリエ周辺の様子を描写したものだ。「神田川の上流」は、もちろん妙正寺川のことで、伴敏子が資金を調達した小さなアトリエは、五ノ坂筋の道を北へとたどった丘上の右手(東側)に建つことになる。
昭和初期まで、城北学園(現・目白学園)の丘が「桐ヶ丘」と呼ばれ、古墳が多い地域であるという伝承のあったことがうかがえる。西落合にある自性院の境内西側から、羨道ないしは玄室と思われる洞穴が見つかっているので、そこもまた古墳地帯の一端だったのかもしれない。これらの古墳は、おそらく江戸期に行なわれた畑地の開墾で、ほとんどすべて崩されているのではないだろうか。目白学園は、「桐ヶ丘」にちなんで校章を「桐」のデザインとし、同学園が発行する広報誌もまた「桐」の名称を冠している。
再び、スケッチ『落合風景』の描画ポイントへともどろう。中村忠二・伴敏子夫妻は、「水彩連盟」と名づけた画塾をアトリエで開いていたが、その位置から西へ60~70mほど歩いた描画ポイントの「桐ヶ丘」急斜面は、下落合4丁目2236番地あたりだ。その位置から北北西を向いて、下落合4丁目から西落合2丁目の田園風景を描いているのだろう。この位置からの画角だと、哲学堂のグラウンドや建築群は、左端へ入るか入らないかの微妙な角度になるが、もちろん距離が離れすぎて(700~800m)いるので、哲学堂自体を視界にとらえることはできない。中村忠二が、かなり遠くてスケッチに描くことが不可能であるにもかかわらず、あえて「左側に哲学堂あり」と入れたのは、早朝のランニングをアトリエから哲学堂グラウンドまでつづけていたため、哲学堂にはことさら思い入れがあったせいではないかと思われる。
やや余談めくが、中村忠二アトリエの北側、西落合には創作版画誌「白と黒」とを発行していた、版画家であり古美術研究家でもある料治熊太のアトリエがあった。自身でも版画を制作するかたわら、版画誌「白と黒」を通じて谷中安規や棟方志功Click!など、新進の版画家たちの作品を次々と紹介している。西落合から下落合の西部には、美術界でも特に版画領域の作家たちが集まって住んでおり、いわば“創作版画村”とでもいうべき様相をていしていた。戦後、料治熊太は中村忠二や平塚運一Click!の版画集も出版している。
中村忠二のスケッチを、なぜ外山家が所有しているのかは不明だが、独立美術協会Click!を通じて外山卯三郎Click!と中村忠二はどこかで接点があるのではないかと想像してみる。あるいは、伴敏子と独立美術協会との関係なのかもしれないのだが、彼女の「下落合風景」作品が発見できたら、改めてこちらでご紹介したいと考えている。また、伴敏子の自伝的小説『黒点―画家・忠二との生活―』(冥草舎)は、美術分野の資料では見られない中村忠二像を伝えてとても面白いので、機会があればぜひご紹介したい。
◆写真上:1952年(昭和27)に描かれた、中村忠二のスケッチ『落合風景』。
◆写真中上:上は、中村忠二・伴敏子夫妻のアトリエ(路地の突きあたり)があった下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)の現状。目白学園キャンパス内の描画ポイントの斜面には、現在、5号館(中・高等部校舎)が建設されており立つことができない。下左は、『落合風景』の裏面に貼られた制作メモ。下右は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる中村忠二・伴敏子夫妻アトリエ。
◆写真中下:上は、1932年(昭和7)制作の伴敏子『中村忠二像』(左)と、制作年が不詳の同『忠二素描』(右)。中は、1960年(昭和35)の住宅明細図にみるアトリエ。「伴」の名前が採取され、夫妻が主催していた画塾「水彩連盟」のネームが見える。下は、1947年(昭和22)の空中写真から想定した『落合風景』の描画ポイント。
◆写真下:いずれも伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』(冥草舎/1977年)に収録された中村忠二の挿画で、アトリエ近くを描いたとみられるスケッチ『落合風景』と同様の田園風景(上)、下落合を自転車で帰宅中の中村忠二(下左)、旗竿地だった下落合4丁目2257番地のアトリエへと入る路地の門(下右)だと思われる。
この記事へのコメント
kiyo
まさに、以前住んでいたご近所です。
あの辺りの歴史を感じました。
亡き妻と暮らし始めたあの辺りは、直後に落合出張所に訪れた折に立ち寄りましたが、元気だった頃の妻との色々な思い出が思い出されて、涙が止まりませんでした。
思い出の地です。
本籍を移していなかった妻の最後の付票の地ともなりました。
どこの駅からは遠かったですが、中井駅だけでなく、地下鉄の落合駅や、お隣の新井薬師駅や、哲学堂公園にも、歩いてお散歩くらいな距離だったと思います。
懐かしいです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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nice!をありがとうございました。>one_and_onlyさん
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
いいところへお住まいでしたね。おそらく、住まわれていた当時は緑がいっぱいの環境だったのではないでしょうか。まだ、あちこちに柿の木が残っていて、秋になると鮮やかな柿色の実が、下落合を照らす夕陽に映えていたのではないかな……などと想像しています。落合公園に移植された、小野田家の庭に生えていた柿の巨木は、残念ながら枯れてしまったようですが……。
いまでは、寸分のスキもなく住宅が建ち並び、高いマンションなどもできていますけれど、kiyoさんご夫妻がお住まいのころは、ところどころに空き地があり、目白崖線ではもっとも標高が高い(37m)エリアですので、見晴らしもよかったのではないでしょうか。
あと1ヶ月ほどで奥様の1周忌の命日ですが、kiyoさんご自身、くれぐれもお身体に気をつけておすごしください。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>シルフさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sig
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>yamさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
Marigreen
ChinchikoPapa
……が、なんともリプライに困ったテーマです。今度は、自叙伝的かつ私小説的な作品ではなく、好きじゃない「親戚編」として、さまざまなエピソードを紹介されたらどうでしょう。先に出版された本では、誰でも作れる粗末なひと皿を、「料理」を称している小姑を紹介していましたけれど、もっと面白い逸話がたくさんありそうです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
栗山勝博
実は、私も鉛筆による落合風景のスケッチを1点持っております。(はがき大、1951 chuji のサインあり)
描画ポイントはどこか、探しております。画面中央に川が流れていて、その川が神田川か妙正寺川か分かりませんでした。今回、妙正寺川でほぼ間違いないと思いました。 スケッチには橋があり、画面右側に送電線が描かれていて、何となく電車の架線のように見えます。西武新宿線の中井駅あたりではないかと推測しています。もしそうであれば、描画ポイントは現在の中落合1丁目19か20あたりかと見当をつけました。落合道人様の記述が大変参考になりました。いずれ妙正寺川沿いを歩いて検証してみたいと思っております。
なお、落合様の分析で「アトリエより描く」は「アトリエ付近より描く」と読み替えが必要であろう-という分析は正しいと思います。スケッチの裏面のメモは忠二本人が書いたものではなく、他者が書いたメモではないかと思います。「中村忠二作」というサインは見たことがありませんし、不自然な感じがします。
落合様の記述、分析は大変参考になりました。あらためて感謝申し上げます。
ChinchikoPapa
中村忠二は、スケッチや素描などの小品に、周辺の落合地域を描いた作品が多いようですね。この記事のほかに、中井駅前の踏み切りと思われるスケッチなど、あといくつかの作品をこちらでもご紹介しています。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-05-24
書かれています送電線は、おそらく田島橋のたもとにある目白変電所へとつづく、東京電燈谷村線の高圧線鉄塔ではないかと思います。この谷村線の鉄塔にほぼ沿うかたちで、1927年(昭和2)に西武線が敷設されており、妙正寺川沿いの一部では、谷村線の高圧線鉄塔と西武線の通電鉄塔が統合されています。
この鉄塔の列は、佐伯祐三や林武、鈴木良三などもモチーフの一部に取り入れて、「落合風景」を描いていますね。拙ブログを「谷村線」で検索されますと、いろいろな画家たちの風景作品がひっかかるかと思います。ご参照ください。
栗山勝博
落合道人様の文章は、昭和22年当時の航空写真や住宅地図を使い調査、分析をされており、説得力があって感心しながら読んでおりました。
小生、昭和38年4月~39年3月と41年4月~42年3月、中野区野方に下宿し、西武新宿線で大学に通っていました。東京都区分地図を開いて「落合風景」を読み、学生時代の思い出に浸っていると脳が活性化してきました。あらためて感謝申し上げます。
ChinchikoPapa
平日が使えれば、もっといろいろ資料漁りや資料集めができると思うのですが、やはり休日の日・祝日だけですと、自由に動けず限界がありますね。近所の落合地域なら、すぐに出かけて写真も撮れますが、少し離れたところだと時間がなくて、空中写真に頼ってしまうところがあります。
こんな拙記事でよろしければ、お時間のあるときにでもご笑覧ください。よろしくお願いいたします。
まゆみ
6歳位の頃 短い期間だったと思いますが週末絵を習っていたのは こちらに書かれているアトリエだったのだろうと思います。覚えているのは先生の名前が"伴先生"という女性だったのと 先生のご主人も絵描きさんなのだと母から聞いた事くらいですが、当時住んでいた中井から坂を登って通った事を考えるとこちらにお世話になっていたのだろうと思います。よく覚えているのは とても印象的だったアトリエの様子です。教会の中のような天井の高い部屋で、いくつか並んだ大きな窓の外に木が見えました。家具は外国のものが主だったのか 又建物も洋館だったのではと思っていますが どうだったのでしょう? あれは異国に思いを馳せるきっかけになった不思議な空間でした。ふと思い出してはあの先生はどなただったのだろうと思っていましたので 謎が解けました。いつか伴先生の本のお話を伺うのを楽しみにしています。どうもありがとうございました。
ChinchikoPapa
まさに、伴敏子の絵画教室へ通われていたのですね。わたしも、子どものころ絵画教室へ通っていたのですが、小学校低学年だったせいか、先生やアトリエの様子はそれほど詳しく憶えていません。
伴敏子のアトリエは、その著書『黒点―画家・忠二との生活―』によれば、洋風の造りだったように思われます。いつもイスに座っている描写が多く、畳の生活ではない生活の雰囲気を感じました。上空から撮影した伴邸を見ると、家屋は"「字"型に曲がっており、北面するほうの建屋がアトリエだったものでしょうか。目白文化村の西に拡がるアビラ村(芸術村)ということで、アトリエ付き住宅をすべて洋風にしたのかもしれませんね。
伴敏子と中村忠二につきましては、このあと2つほど記事にしています。よろしければ、ご笑覧ください。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-03-28
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-05-24
まゆみ
先生の本に関するリンクありがとうございました。地図と一緒にゆっくりと読ませていただきます。
これからも面白い記事を楽しみにしています。お身体を大切に。
ChinchikoPapa
伴敏子の連れ合いさんだった中村忠二が、アトリエ内を描いた『落合のアトリエ』という作品が残っています。もっとも、伴敏子が建設したアトリエですので、中村忠二のアトリエではなく伴敏子アトリエということになるでしょうか。記事末に、その画面を掲載しましたので、ご参照ください。
板敷きの洋室で、おそらく北向きの窓辺にデスクとイスが置かれ、左手には本棚が、壁面の上部には小品が架かっているのが見てとれます。北隣りの住宅も洋館だったようで、窓外に下見板張りの家が描かれているようですね。画面右端に置いてあるサーフボードのようなものは、大きな姿見でしょうか……。
pinkich
ChinchikoPapa
わたしの手もとにも、先日カタログがとどきました。「新宿風景」は見られますが、「下落合風景」は残念ながら今回の展示会には含まれていないようですね。
ちょっと惹かれたのは、隅田川沿いにあったとみられる小型木造船の造船所を写した作品です、隅田川や東京湾での、小型運搬船の需要がなくなってしまったため、その後はヨットやクルーザーを造っていて、海外からも受注していたと聞きましたが、熟練工がいなくなるのと同時に閉業してしまったと聞いています。