和宮の身代りと目白の新倉家。(上)

新倉邸跡.JPG
 1862年(文久2)に、14代将軍・徳川家茂のもとへ嫁入りした皇女和宮が実は替え玉だったという説は、これまで幾度となく歴史本やドキュメンタリーなどで取り上げられてきているが、肝心の替え玉だったことについて有吉佐和子のもとへ直接、家伝を披露しに訪れた証言者(とその証言内容)の信憑性について、詳しく研究・分析した資料をわたしは知らない。かんじんの“仮説”を形成する基盤の証言部分について、掘り下げられていないのはなぜだろう? 案外、「名主の子孫の証言」という大前提のみで、証言した人物の存在の可否や内容の信憑性が、ほとんど顧みられていないのが実に不思議だ。「夏休みの自由研究」テーマだった第2弾は、この和宮にまつわる証言について考察してみたい。
 なぜ、いまさらこのサイトで場ちがいな和宮などを取り上げるのか? それは、この証言者が下落合の西に隣接した「高田村」(現・目白)の出身であり、彼女はそこの「豪農名主」だった新倉家の末裔だと名のっているからだ。さっそく、1978年(昭和53)に講談社から出版された、有吉佐和子『和宮様御留』の巻末「あとがき」から引用してみよう。
  ▼
 幕末、高田村の名主であったという豪農新倉家の一婦人が、私のところへ訪ねておいでになったのは、もう何年前のことになるだろうか。
 「和宮様は私の家の蔵で縊死なすったのです。御身代りに立ったのは私の大伯母でした。増上寺のお墓に納っているのは和宮様ではありません。このことは、戦前は決して他家の人の耳に洩らしてはならないと戒められてきましたが、時代も変ったことですし、何より、私の家で亡くなったお方の御供養がしたいと思ってお話しました。板橋本陣で入れかわったのです。新倉家には、薩摩の藩士がよく出入りしていたようですが。宮様が死なれて以来、家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています」
  
 おそらく、1960年代後半から70年代の初めあたりだろうか、「高田村」の「豪農新倉家」の子孫が訪ねてきて語ったこの証言が、有吉佐和子の空想による小説つづきのフィクションでないとすれば、その証言内容には時代的な齟齬や誤りがみられる。
 まず、証言した女性は「高田村」の「名主」であった「新倉家」と名乗っているが、和宮がのべ15,000人ともいわれる嫁入り行列を従えて中山道を通り、大江戸(おえど)Click!へとやってきた幕末期の高田村に、「新倉」という姓の名主はいない。新倉家は代々、高田村の北隣り雑司ヶ谷村の名主であって、江戸時代末期の高田村には存在しなかった。幕末から明治初年にかけ、雑司ヶ谷村および高田村の名主・年寄・組頭の村方書上げを収録した、1951年(昭和26)に豊島区役所刊行の『豊島区史』から引用してみよう。
  
 雑司ヶ谷村
 名主 柳下三郎右衛門、戸張平次左衛門、新倉四郎右衛門
 年寄兼組頭 柳下安兵衛、長島文左衛門、後藤七郎右衛門、新倉勝五郎、大野甚兵衛、渡邊善五郎、今井小右衛門、秋本六郎右衛門
 高田村
 名主 島田半兵衛、大澤吉右衛門、醍醐惣左衛門
 年寄兼組頭 醍醐平右衛門、醍醐利兵衛
  
 これでも明らかなように、名主の新倉家は雑司ヶ谷村の出自であって高田村(下高田村)ではない。また、雑司ヶ谷村の筆頭名主も柳下家であって新倉家ではなかった。有吉佐和子の『和宮様御留』に登場した、娘を顔なじみだった幕臣の嫁(実は和宮の身代り)に急遽提供することになる名主「新倉覚左衛門」が、実在した人物である新倉四郎右衛門の小説上の仮名だったとすれば、「高田村の新倉覚左衛門」ではなく、「雑司ヶ谷村の新倉覚左衛門」としなければ誤りだ。
 たとえば、ここで有吉佐和子が小説を執筆するにあたり、周囲への影響を考慮して雑司ヶ谷村をあえて「高田村」に置き換えたか、あるいは高田村の名主である島田家、大澤家、さらに醍醐家のいずれか、つまり有吉佐和子のもとを訪れた証言者の素性に配慮して、名主の姓だけ隣り村の「新倉」姓を借用してきた可能性は、あえて否定できない。では、証言者の話はまるでデタラメなのだろうか? 実は、そうとは断言できない事実が、明治期になってから急浮上してくることになる。
有吉佐和子「和宮様御留」1978.jpg 高田村誌1.jpg
徳川家茂・和宮墓.jpg
 時代が明治に移ると、雑司ヶ谷村の新倉家は急速に羽ぶりがよくなり家運の隆盛をみて、雑司ヶ谷村や高田村一帯の戸長に就任している。1878年(明治11)7月の太政官布告第17号(郡区町村編制法発布)をうけ、新倉四郎右衛門の子である新倉徳三郎は、一帯の戸長(のち村長)に任命されている。同時に、新倉家では雑司ヶ谷村ばかりでなく、隣りの高田村の土地(高田村高田)まで手に入れており、当時の土地台帳によれば現在の学習院キャンパス内の何ヶ所かにも、新倉家は土地を所有するにまでなっていた。つまり新倉家は明治期になると、雑司ヶ谷と高田の両村一帯にまたがる大地主に成長していたことになる。新倉徳三郎について、1919年(大正8)に高田村誌編纂所から出版された『高田村誌』Click!から引用してみよう。
  
 新倉徳三郎(戸長役場時代より勤続二十七ヶ年に及び)――明治三十八年六月柳下三郎右衛門氏就職勤務現今に至る。(中略) 又町村制施行以来二十幾ヶ年間村長の職に在りし新倉徳三郎氏に対する郡教育会の表彰ありたり。
  
 1889年(明治22)4月、東京府下で町村制が実施されると、高田村と雑司ヶ谷村、その他小石川西部などの周辺エリアが合併して新生「高田村」(現代からみれば、もっとも意識されやすい高田村のイメージ)が誕生する。5月に初代村長に就いたのは、戸長時代からそのままスライドした新倉徳三郎だった。つまり、幕末の旧・高田村の「名主」ではなく、新・高田村の有力者としての村長・新倉家が登場してくることになる。このとき、高田村役場の建設が村制移行に間にあわず、高田村高田若葉1443番地の新倉家屋敷内の1室が、とりあえず村役場のオフィスとして使われている。のちに建設される村役場も、新倉家の東側に近接している。では、新倉徳三郎について、今度は1933年(昭和8)に高田町教育会から出版された、『高田町史』Click!の「歴代の町村長」から引用してみよう。
  
 第一代 新倉徳三郎氏
 氏の家は、始祖四郎右衛門以来、系統の継続したる旧家で、江戸時代には、世々この地の名主を勤めた。徳三郎氏は、父祖の家を嗣ぎ、名主の任に当り、明治六年、区戸長制度の実施の際、高田雑司谷他四ヶ村の戸長に就任し、爾後十六年其の職に努めた。次で明治二十二年五月一日、村政施行の際、高田村々長の任に就き、自家の一室を村役場に提供して事務を執り、後ち役場庁舎及小学校々舎を新築して、範を近村に示した。斯く戸長時代より三十二年間、自治行政の任に当り、励精恪勤、克く其職責を尽くし、同三十八年五月退任した。其後は高田農商銀行を創立し、其の頭取に挙げられ、当町農商工業に貢献する所鮮からず。為人は温良誠実にして謙譲の徳ありし人、大正十二年五月八日病歿、年六十八。金乗院の瑩域に葬る、遺子は男三人、女三人あり、三男義雄家を嗣ぐ。
  
学習院正門.JPG
学習院空撮1933.jpg
 新倉家では、江戸期から父祖代々の名前が四郎右衛門であり、家督を継ぐと同名を名乗るようになっていたようだが、新倉徳三郎は新時代には合わない古臭い名前だと感じたものか、襲名はしなかったようだ。ここでは、新倉家を雑司ヶ谷村の名主と規定せず、「この地の名主」と抽象化しボカした表現にしている。ちなみに、「高田農商銀行を創立し、其の頭取」と書かれているが、同銀行の創立には参画したかもしれないが、取締役頭取に就任するのは村長退職後の、もう少しあとの時代だ。
 また、子どもが6人おり、1970年(昭和45)前後に有吉佐和子を訪ねてきた女性が実在するとすれば、この6人のうちのいずれかの娘、すなわち江戸期に雑司ヶ谷村の名主だった新倉四郎右衛門の曽孫にあたる女性だったと想定できる。それは、板橋宿で和宮の身代りになった四郎右衛門の娘を、祖父であったとみられる新倉徳三郎の姉、すなわち「大伯母」と表現していることからも明らかだ。
 ここで、最初の証言内容にもどってみよう。新倉家の出身である証言者の女性は、江戸期の雑司ヶ谷村における名主時代の新倉家と、明治期の隆盛をきわめた新・高田村における戸長から村長時代の新倉家とを、前後ごっちゃにして証言しているとすれば、どうやら話の辻褄が合ってくるのだ。また、新倉家の本家は雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)の参道沿い、高田若葉1443番地にあったのだが、証言者の生まれた分家がのちの学習院キャンパス内、すなわち旧・高田村時代に買収していた、新倉家の土地(高田村高田)に屋敷をかまえて住んでいたとすれば、「家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています」といういい方も、あながちウソとはいい切れない。
 さらに、明治維新前後と思われる時期に、「薩摩の藩士がよく出入りしていた」というのも、この地域では非常にリアリティのある表現なのだ。なぜなら、高田村や雑司ヶ谷村は上落合村や下落合村と同様に徳川幕府の“天領”Click!が多く、幕末から明治にかけては村の湧水流沿い、あるいは河川沿いの水車小屋で、火薬の製造を委託されていたと思われるからだ。以前、幕末に起きた淀橋水車小屋の爆発事故Click!について記事に書いたけれど、明治維新の直後は薩長軍に必要な戊辰戦争用の、あるいは火薬工廠(東京砲兵工廠)が1871年(明治4)に竣工するまでの間、火薬の製造・調達で薩摩の藩士がこの界隈の名主屋敷にこぞって出入りしても、決して不自然ではない状況だったからだ。
新倉家1926.jpg 選挙人名簿1919.jpg
高田村(町)役場跡.JPG
 事実、高田村の南東にあたる神田上水(現・神田川)沿い牛込矢来下にあった水車小屋で、幕末に火薬製造による爆発事故が起きている。有吉佐和子は、新倉家を「花火師」の家系として、火薬とのつながりをぼんやりと描いているが、もし名主の家に多くの薩摩藩士たちが出入りしていたとすれば、軍備には直結しない花火Click!用の火薬などではなく、幕末から徳川幕府の肝入りにより付近の水車小屋でつづけられていた、黒色火薬の製造・調達についての相談だとみるのが、当時の時代背景や状況からみて自然なのだ。
                                  <つづく>

◆写真上:鬼子母神の参道に近い、旧・高田村高田若葉1443番地の新倉家跡(左手)。
◆写真中上上左は、1978年(昭和53)出版の有吉佐和子『和宮様御留』(講談社)。上右は、新倉徳三郎が登場する1919年(大正8)に刊行された『高田村誌』の「行政一般」。は、1985年(昭和60)出版の鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会)に収録された芝増上寺の徳川家茂・和宮(静寛院)夫妻の墓。右が徳川家茂で左が和宮(静寛院)の墓所であり、背後には建設中の東京タワーが見えている。
◆写真中下は、明治期には新倉家の所有地が各所にあったとみられる学習院キャンパスの現状。は、1933年(昭和8)に撮影された学習院の空撮。目白通りを隔てた向かいには、旧・宮内省帝室林野局が買収した土地に目白警察署や高田町役場が見える。
◆写真下上左は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる高田若葉1443番地(地図では番地1445番地表記)の新倉本家。新倉徳三郎の三男である、新倉義雄の名前が採取されている。上右は、『高田村誌』(1919年)に掲載された選挙人名簿の新倉一族で×印は地主表記。は、鬼子母神参道沿いにあった高田村(町)役場跡の現状。

この記事へのコメント

  • 古田宙

    新倉さんというと、目白通りにあった自転車屋さんが思い出されます。きっと本テーマと関係が有るのだと思います。続編が楽しみです。
    それにしても豊富なデイタには感心するばかりで…
    2014年10月14日 08:12
  • ChinchikoPapa

    先日、お鷹の道を歩いていたら、足もとでカルガモから「食事の邪魔するな」と怒られてしまいました。w nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2014年10月14日 11:22
  • ChinchikoPapa

    チョウチョの羽が翔ぶ鮮やかな本アルバムは、なんだかインドネシアのガムラン音楽のような印象だった記憶があります。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2014年10月14日 11:26
  • ChinchikoPapa

    虫が好きで、子どものころはずいぶん採集しましたけれど、スケッチはほとんどしませんでした。nice!をありがとうございました。>simousayama-unamiさん
    2014年10月14日 11:28
  • ChinchikoPapa

    『MALENA』は、このサイトで知り合った方に勧められてDVDを持っていますが、『Summer of '42』より出来のいい反戦映画ですね。nice!をありがとうございました。>makimakiさん
    2014年10月14日 11:32
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>yohtamboさん
    2014年10月14日 11:34
  • ChinchikoPapa

    あまりにリアルな映像を見ると、ちょっとやってみたくなりますね。nice!をありがとうございました。>やってみよう♪さん
    2014年10月14日 11:37
  • ChinchikoPapa

    1日のとんぼ返りで時間がなく、松山城へ登らなかったのをいまだに悔いています。今度出かけたら、ゆっくりしたいですね。nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2014年10月14日 11:40
  • ChinchikoPapa

    池上本門寺の万灯練り行列は、江戸期には廃寺になるまで鼠山の感応寺(現在の目白3丁目)まで、明治・大正期は雑司ヶ谷の鬼子母神まで行列が来てましたね。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
    2014年10月14日 11:45
  • ChinchikoPapa

    台風の直撃で、畑の被害は出なかったでしょうか。
    nice!をありがとうございました。>okin-02さん
    2014年10月14日 11:47
  • ChinchikoPapa

    信州は、台風がすぎて「秋深し」の風情でしょうか。
    nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2014年10月14日 11:50
  • ChinchikoPapa

    先日、高田馬場にあったパチンコ屋が潰れましたけれど、少しは店数が減ってきているのでしょうか。nice!をありがとうございました。>hujinomagumaさん
    2014年10月14日 11:54
  • ChinchikoPapa

    半音階奏法のユーモラスなモンクも好きですが、チョコレートに粉砂糖をまぶしたような甘ったるいショパンも、ときどき聴きたくなりますね。nice!をありがとうございました。>ジョナサンさん
    2014年10月14日 11:56
  • ChinchikoPapa

    古田宙さん、コメントをありがとうございます。
    わたしの文章は、もちろん自分で資料当たりをしていろいろ調べていくわけですけれど、目白・下落合地域やその周辺にお住まいの友人知人、あるいは登場する人物の末裔のみなさんから、貴重な資料をお見せいただいたり、ご教示いただいて成立していますので、“合作”記事としたほうが事実に近いと思います。^^
    2014年10月14日 12:01
  • ChinchikoPapa

    台湾が、ポルトガル語に由来する「美麗島」と呼ばれていたのを初めて知りました。こちらのほうが、美しい語感ですね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2014年10月14日 16:46
  • ChinchikoPapa

    きょうは窓を開け放して、部屋へ風を呼びこみました。
    nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年10月14日 18:51
  • ChinchikoPapa

    わたしも、ゆっきり相模湾を散歩しながら、スケッチブックを拡げてみたいですね。nice!をありがとうございました。>e-g-gさん
    2014年10月14日 18:52
  • ChinchikoPapa

    これから木々の葉が落ちると、天守台(旧・天守閣)の上から360度、いろいろな風景が眺められますね。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2014年10月14日 19:43
  • ChinchikoPapa

    知ってて当然なことを、なにかの拍子に素通りしてしまい、あとでひょんなことから発見することがありますね。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
    2014年10月14日 21:29
  • ChinchikoPapa

    散歩に出て、あてにしていた昔なじみの喫茶店が潰れてるとガッカリしますね。nice!をありがとうございました。>八犬伝さん
    2014年10月14日 21:33
  • ChinchikoPapa

    きょうは青空でさわやかな風が吹きましたが、気候が真夏や真冬の地域もあったようですね。nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2014年10月15日 00:20
  • NO14Ruggerman

    古田宙さんのコメントに続きます。
    自転車店「新倉輪業」は今はもうありませんが
    「新倉マンション」としてピーコックの隣の隣に
    現存していますね。
    2014年10月15日 00:29
  • ChinchikoPapa

    NO14Ruggermanさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    自転車屋さんは、学生時代の記憶にうっすらと残っています。目白教会の隣りにあって、けっこう歩道のほうまで自転車を“張りださせて”いたので、記憶に残りやすいお店ですよね。確かに、いまは新倉マンションになっています。
    ひょっとすると、雑司ヶ谷にあった新倉家の末裔のおひとりかもしれませんね。
    2014年10月15日 12:30
  • ChinchikoPapa

    司法が行政の政策や“都合”で、左右されるようなことがあってはいけませんね。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2014年10月15日 12:35
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>.comさん
    2014年10月15日 12:36
  • ChinchikoPapa

    きのうの昼間は、こちらは27℃で暑かったのですが、そちらでは雪が降った地域もあったとか、風邪にはお気をつけください。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
    2014年10月15日 12:38
  • ChinchikoPapa

    日本の歴史を眺めてみても、同じ生産者でも「農耕」に従事しない人々、工芸や製鉄(産鉄)、探鉱、牧畜、狩猟、芸能などの技術者たちは、随所で差別的に扱われていますね。nice!をありがとうございました。>nikiさん
    2014年10月15日 12:53
  • ChinchikoPapa

    今週末から、いよいよ国体ですね。2週連続の台風で、練習が不足気味ではないかと少し心配しています。nice!をありがとうございました。>Mitchさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2014年10月15日 13:38
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>kaminews100さん
    2014年10月15日 17:48
  • ChinchikoPapa

    米沢に移った長尾(上杉)氏のほか、足利幕府の関東管領の上杉氏の可能性もありますね。nice!をありがとうございました。>nikoponさん
    2014年10月15日 23:04
  • ChinchikoPapa

    新潟空港の近くですね。絹雲の間を、旅客機が縫うように飛んでいる光景が浮かびました。nice!をありがとうございました。>モリガメさん
    2014年10月16日 10:50
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>Ujiki.oOさん
    2014年10月16日 21:05
  • ChinchikoPapa

    重ねて、nice!をありがとうございました。>Ujiki.oOさん
    2014年10月16日 21:05
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2014年10月17日 12:03
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2014年10月19日 11:33
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
    2014年10月19日 14:23
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2014年10月19日 23:00
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ちびっこライダーさん
    2014年10月22日 23:04
  • ChinchikoPapa

    少し前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>fumikoさん
    2014年10月24日 12:16
  • はな

    ブログを作り始めたばかりです。まだ情報を集めながらブログの作り方もこれから勉強しなければならない老婆です。和の宮の事件を調べているうちにここに辿りつきました。情報満載だし素晴らしいブログですね。恥ずかしくってとても気が引けているのですが、情報の一部を使わせて頂きたくて思い切ってメール致しました次第です。ブログのアドレスを載せますが、殆どアクセスのないことを良いことにメモ書きまで載せています^^;その中の 「謎の投書が語る和宮惨殺の物語」です。と云うか、もう取り入れさせて頂いて後はアドレスを入れさせて頂くだけなのです<(_ _)>
    取るに足らないブログですが、ルールはルールですので、報告です。
    私の亡き母の実家は下落合にありました。「おじいさんが騙されたって悔しがっていた」と云った言葉の意味がここに来て始めて分かりました。
    まだ、これからも貴方のブログを少しづつ読ませて頂くつもりです。
    曾祖母は高山と云って日本橋の馬喰町からお嫁に来ています。
    2014年11月19日 15:30
  • ChinchikoPapa

    はなさん、コメントをありがとうございます。そして、書かれたのに気づかずリプライが遅くなり、たいへん失礼いたしました。ちょうど仕事に忙殺されていた時期ですので、なにとぞご容赦ください。
    はい、記事はご自由に引用、アドレス、リンク含め使っていただいてけっこうです。
    「おじいさんが騙された」のは、箱根土地の堤康次郎が行った目白文化村建設事業でしょうか?^^; うちの親父以前は、日本橋馬喰町に限りなく近い両国橋西詰めの、日本橋米沢町(現・東日本橋)に家がありました。親父の昔からの知り合いに、「高山さん」という方がおられましたが、まさか……とは思います。w
    それにしても、日本橋と下落合の双方にご縁のある方に、初めてお会いできました。^^ こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます。
    2015年01月09日 18:15
  • はな

    レスポンス本当にありがとうございます。
    母よりも7つ年下の叔母(90歳)が健在なので、久しぶりに電話を掛けて話を聞いてみました。土地の事については知らないと云っていましたが、「高山のおじさんが来た時に・・・」と、云う話の中で叔母が「ここの家は京都の公家の流れをくむ家柄で・・・と話を始めた所で、人が来てしまい、話は途中になってしまった」と、云うので、私は「母に、昔は醍醐と云って後醍醐天皇の末裔だと聞いている」と話をしたら「そう言えば、醍醐と云っていたと聞いた事がある」と、話が繋がり、他にもいろいろ長話をしてしまいました。私が聞いたのはある有名な所、名前を出して良いか分からないのと、母が話した時に、私は耳を疑ってもう一度確かめたくって聞き直したのですが、黙ってしまったので100%の確信がないからです。でも間違いないと思っています。明治政府が庶民の口を閉ざさせてしまったのでしょう。他の話は又、別の所で訪問させて頂きます。宜しくm(__)m
    2015年01月11日 03:13
  • ChinchikoPapa

    はなさん、コメントをありがとうございました。
    親父の知り合いの「高山さん」とは、どうやら別人のようですね。親父が親しくしていた高山氏は根っからの江戸東京(関東家系)で、関西方面とはまったく縁がなかったんじゃないかと思います。親父が存命中、もっといろいろと訊いておけばよかったと、いまになって思いますね。
    こういうサイトをやってますと、地域の方々の記憶や記録をつなぎ合わせていったとき、明らかに1本の筋道が見えてくることもありますが、そのような例はきわめて稀で、たいがいは断片的なエピソードや現象が散りぢりになってあちこちに落ちているだけ……というケースがほとんどです。
    でも、なにかのきっかけ(地元からは離れたところにある資料など)で、それらの断片が瞬間的につながり、ひとつのかたちに見えてくることがあります。そこが、史学の醍醐味であり、面白いところでもありますね。
    2015年01月11日 22:17
  • はな

    私がここを知ったのは和宮事件を調べている過程でしたが、まずはじめに驚いたのは「醍醐さん」と云う家があるのを知った時です。亡き母の旧姓は「宇田川」ですが、母の話によると、「その昔は醍醐と云っていたが、周りが皆、宇田川だったので、自然にそうなってしまった」と、おかしな話と母自身でも思っていた様ですが、それ以上は分からなかった様でした。その昔を辿れば皆『同族』だったのでしょう。これは母方の話ですが、父方の歴史を辿ると、400年以上前に敵味方だった相手と結婚していた事が分かりました。歴史はいろいろな事を教えてくれます。あなたは家系をどこまで正しく遡れますか。きっとどこかでChinchikoPapaさんの御祖先とも祖先同士遭っているのでしょうね。ちなみに我が家系は根っからの江戸っ子です。
    2015年01月13日 07:04
  • ChinchikoPapa

    はなさん、コメントをありがとうございます。
    落合や渋谷には、「宇田川さん」がとても多いですね。ちょっと余談ですが、「ウタ(uta)」というのは原日本語で「(穀物を)搗く/精白(粉)する」という意味がありますので、谷間を流れる河川沿いに展開した、精米(麦)所/製粉所=水車施設などの事業主と、どこかで深く関わっているのではないか……などと想像しています。
    うちの家系は、江戸期に作られたものが関東大震災のときまであったようですが、西側の横山町からの延焼で滅失しています。ただし、わたしはいまや口承となってしまったそれを、ほとんど信用していません。大昔は、どうやら北関東(ひょっとすると古墳期の上毛野勢力の末裔?w)に住んでいたということですが、鎌倉期かあるいは室町期になって南関東(南武蔵)に出てきているようです。(南へ移動した詳細な時期は不明です) このあたりの伝承は、特に粉飾らしいものもなくてリアルに感じます。
    ただし、それ以前あるいはそれ以降の経緯については、江戸期の系図屋さんが思いっきり「想像力」をふくらませ、出身の地域別による多彩なケーススタディを想定した、膨大な系図マニュアル資料を駆使して作成したものでしょうから、どこかで誰も彼もが清和源氏ないしは桓武平氏へとたどれてしまうか、あるいは北朝・南朝の流れへと結びついていきそうです。w
    これらの系図屋さんは、大江戸での市場競合が激しくなると、地方の町や村へも次々に進出して営業活動を行いますので、「平氏の落人部落」や「流刑皇族・貴族の末裔」などの伝説形成などに、ずいぶん寄与しているのではないかと想像しています。
    1000年以上も前、日本の5%にも満たない支配層へ、なぜ全国に展開し経済基盤を形成していた、95%以上もの人口=一般の人々がこぞって帰着してしまうのか、史学的にみても歴史人口学的にみても、ちょっと理解を超えていますので、わたしの場合は「家系」なるものは横目でチラッと参考はしますが、ほとんど重視はしてないんですよ。
    換言しますと、先祖が古墳期に南武蔵勢力と同盟していた上毛野地域の大王だろうが、出雲から亡命してきた大鍛冶(タタラ)の匠だろうが、群馬(目黒・馬畦)経営に失敗し飢えて南武蔵へ逃げてきた馬牧場主だろうが、わたしにとっては、まあ、どうでもいいことなんです。
    江戸へ住むようになったのは、墓からたどれる限りは寛永年間ですから、関ヶ原戦から30-40年すぎたあたりですね。ただ、墓を深川へ建立して納骨したのがその時期ですので、それ以前からいたのかもしれませんが詳細は不明です。
    はなさんの家系とも、おっしゃるとおり大江戸のどこかで交叉して、遺伝子レベルで共通の因子を持っているのかもしれませんね。
    2015年01月13日 13:58

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