下落合2096番地にアトリエをかまえた松本竣介Click!の文章にも、宮崎モデル紹介所は登場している。1940年(昭和15)に発行された『石田新一追悼集』の松本竣介「思出の石田君」から引用してみよう。
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(昭和)六年の春から(太平洋美術学校)午前選科人体部のモデルのポーズは大抵石田君と僕とできめるやうになつてゐて、良いモデルを探すために二人で毎日曜モデル屋宮崎へ行くのだつた。その頃の石田君は何でも一度僕の意見をたゝいた上、耳の不自由な僕をあちこち引廻してくれた。僕が自由にいろんなことのやれたのは石田君がついてゐてくれたからだった。(カッコ内引用者註)
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下落合667番地の第三文化村Click!にアトリエClick!を建てて住んだ、太平洋画会の吉田博Click!は、1909年(明治42)に大作『精華』を仕上げるために、モデル探しでさんざん苦労をしている。上品さを求める顔の部分は、富山新聞の記者が紹介してくれた料理屋の女中「お玉」★をスケッチするために、わざわざ北陸まで旅行して制作している。また、身体はモデルたちをとっかえひっかえスケッチしたが、気に入った「美術標本」になかなか出会えず、完成までに9人ものモデルを雇用している。宮崎モデル紹介所は、このような画家の窮状を解消し、モデル探しを効率化する願ってもない存在になっていった。
★kingetsureikouさんより、モデルは高級料亭にいた「玉太郎」という芸妓だと、コメント欄でご教示いただいた。それがなぜ、「料理屋の女中」に化けて語られる資料が多いのか、ちょっと気になるモデルエピソードだ。
では、浅尾丁策が見た宮崎モデル紹介所についての証言を聞いてみよう。ちなみに、東京美術学校の門前にある浅尾の沸雲堂から、宮崎モデル紹介所へは丘上の道つづきでモデル坂(三浦坂)は通らない。また、浅尾が見た情景は昭和初期のものであり、宮崎菊はとうに死去して息子の宮崎幾太郎があとを継いでいた時代であり、同モデル紹介所は菊の時代にも増して事業が繁盛していたころだ。1983年(昭和58)に芸術新聞社から発行された、美術誌『アートトップ』4月号から浅尾の証言を引用してみよう。
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谷中大通りの一乗寺の先の床屋の細い道をウネウネと一丁程行った突当りの左側に、薄汚れた平家の素人家で看板も出ていない。平素はほとんど人通りのない小路だが、日曜日のモデル市(毎週日曜日の午前中、仕事の欲しいモデルさんが参集していて、モデルさんを雇いたい画家達は自分の好みに合ったモデル嬢を宮崎を仲介として契約する仕組み、従ってウィークデイに行くとモデルさんを見ることが出来ない)の日は、美しく着飾った若い娘さん達が、淋しい小路に花を咲かせる。そして看板なしでも宮崎の家はすぐわかる。開け放しの玄関入口の一坪程の土間は、綺麗な靴や下駄、きたない履物が乱雑にぬぎ捨てられている。/土間を上った十五、六畳敷の和室は、モデルさんをよく見えるようにと、硝子張りのトップライトを設けてあるが、あまり明るくない。室のまわりに宴会でもするように座布団を敷いてモデルさんが二十人程座っている。契約のすんだ者は、お客さんと一緒に帰ってゆく。多分どこかでお茶でも飲んで行くのだろう。こうして昼過ぎまでは、入替り立替り(ママ)賑やかだ。そして午後はまた淋しいもとの小路にかえる。
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モデルの需要は、画家たちが風景画を描きにくい冬場や、さまざまな美術展が集中する夏から秋にかけてがピークだったようだ。当時のモデル料を見てみると、大正時代に限ればヌードが半日で45銭、着衣が半日で25銭であり、宮崎モデル紹介所には1週間ごとに仲介料として10銭を納入する決まりだった。
つまり、画家のもとへ5日間通ってヌードモデルが手にする金額は2円25銭であり、そのうちの5%弱(4.44%)である10銭を手数料で支払うという契約だ。また、昭和初期にはヌードが半日で1円20銭、着衣で1円、子どものモデルで80銭ほどだったようで、たとえばヌードモデルが1週間仕事をすると6円を稼ぐことになり、その5%弱ということで30銭ほどが宮崎モデル事務所へ支払われたことになる。
大正期の宮崎モデル紹介所は、常に100人を超えるモデルを抱えており、ひとりのモデルが支払う仲介料はわずかでも、トータルではかなりの金額を売り上げていたことになる。宮崎菊の収入は、高級官吏並みだったという証言もあるようだ。彼女は、息子の幾太郎へ事業をまかせるようになると、同業者を束ねるモデル協会づくりに奔走している。また、モデルの質を向上させるため、さまざまな技術の習得や教育に力を入れた。彼女が呼びかけて結成したモデル協会は、東京美術学校をはじめ画家たちの間では大きな信用を得て、モデルという職業と「モデル事務所」がいかがわしい商売ではなく、美術の創作には欠かせない存在であり仕事であることを、死ぬまで訴えつづけている。
宮崎モデル紹介所の隆盛を目のあたりにした美術界には、その後、次々とモデル事務所が登場してくることになる。前掲の勅使河原純『裸体画の黎明』から引用してみよう。
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宮崎のほか、黒田清輝の「昔語り」に登場する仲居のお栄などは、自らモデルを発掘していた早い例である。だがその後の斡旋者については、必ずしもよく分かっていないようだ。牛込で「仏蘭西ナヲイ」を開店した直井是子、田園調布に「南郊モデル紹介所」を作った小林源太郎、「目白モデル紹介所」から独立した北村久、「Pour Vousモデル紹介所」主人の浅尾丁策等の名前がわずかに思い起こされるに過ぎない。
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先の浅尾丁策自身も、一時期はモデル紹介業に進出していたことがわかる。また、落合地域に大勢の画家たちが住んでいた関係から、目白にもモデル紹介所が存在していた。目白モデル紹介所は、おそらく戦後からの開業ではないだろうか。
1915年(大正4)7月に、宮崎菊が72歳で死去すると、宮崎モデル紹介所の経営は息子・幾太郎の代に移った。事業はますます繁盛をつづけたが、1941年(昭和16)に幾太郎が死去して、元モデルの妻である宮崎吉能が引き継ぐと急に経営が思わしくなくなった。日本が対米戦争へと向かう暗い世相から、モデルを雇って裸体を描く悠長な画家が激減したことも、その経営に大きく響いているのだろう。宮崎モデル紹介所が凋落する様子を、1987年(昭和62)に筑摩書房から出版された種村季弘・編『東京百話―人の巻―』から、勅使河原純の文章を引用しよう。
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後に残された吉能に大勢の娘達をとりしきる力はない。いつしか彼女は、ベレー帽を被り髭を生やした絵描きを家へ引き入れ、同棲し始めていた。この佐渡出身の米田という画家は、ちゃっかりと幾太郎の着物を着て、真っ昼間から飲んだくれているような、ふしだらな男であった。事業はほとんど顧みず、家も犬猫が荒らすにまかせ、金目のものは片っ端から持ち出しては酒代にかえた。稼ぎ手のモデルも一人二人と減り、開店休業のような状態に追い込まれてからやっと吉能は男と手を切った。しかしもはや店の立て直しはならず、彼女は人目を憚るように土地屋敷を売り払って、どこともなく引っ越していった。
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黒田清輝をはじめ岡田三郎助Click!、藤島武二Click!、小林萬吾、長原孝太郎など、明治から大正にかけて洋画壇を代表する画家たちのご用達だった宮崎モデル紹介所は、こうして親子2代にわたる45年の歴史に幕を閉じた。
宮崎モデル紹介所の存在は、美術界のビジネスへ刺激を与えたばかりではない。昭和に入ると、モデル派遣や仲介業には美術界とはまったく別の新たな市場が拓けてくる。デパートなどで開催される催事へ出演する、いわゆるファッションショーのマネキンガールを皮切りに、ガソリンスタンドでニコッと笑いながら給油をするガソリンガール、デパートの売り場やエレベーター乗務へ派遣されるデパートガールなど、さまざまな分野で見目麗しいモデルたちが求められるようになった。
中でも、次々と東京に建設された百貨店(デパート)のマネキンガール(いわゆるファッションモデル)の需要は高く、日本で最初のファッションショーは1927年(昭和2)9月に日本橋三越Click!で開催されている。このとき、ファッションモデルをつとめたのは新派女優の水谷八重子Click!で、いまだ専業のファッションモデルなど存在しなかった。日本初の本格的なファッションモデル事務所は1929年(昭和4)3月、米国から前年に帰国していた山野千枝子が丸の内の丸ビルに創設した「日本マネキン倶楽部」だ。山野千枝子は、おそらく米国方式を見習ってコミッション(15~20%?)を設定したのだろう、その高すぎる歩合をめぐって同マネキン倶楽部のモデルたちは、ほどなくストライキに突入している。
1926年(大正15)に出版された『婦人職業うらおもて』という本には、当時の美術モデルの様子が詳しく書かれているようなのだが、古書店では一度も見かけたことがない。大正末の出版なので、おそらくマネキンガールは「婦人職業」にいまだ登場してはいないだろう。美術モデルは、おカネに困窮している女性や、別の仕事をもちながらそれだけでは生活できない女性たちが主流だったのに対し、マネキンガールは夫が帝大出身の裕福な家庭の既婚者がほとんどを占めていたと伝えられている。
◆写真上:宮崎モデル紹介所があった、谷中坂町95番地にある行き止まりの路地。同モデル紹介所は、路地の突当り左手にあったと思われる。
◆写真中上:モデル探しにさんざん苦労をし、顔+ボディで計10人のモデルを使用した1909年(明治42)制作の吉田博『精華』(東京国立博物館蔵)。
◆写真中下:1930年(昭和5)発行の『美術新論』より、明治期の女性モデル(左)と1907年(明治40)に『南風』を制作中の和田三造(中央)と男性モデルたち(右)。
◆写真下:上左は、領玄寺と宮崎モデル紹介所があった路地(右側)。上右は、沸雲堂の浅尾丁策の手もとにあった宮崎モデル紹介所の古帳簿。(同著『谷中人物叢話・金四郎三代記』より) 下左は、路地の突当たりの現状。下右は、日曜日になるとモデルたちが参集して列をなした路地を北側から眺めた様子。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>栗さん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>kaminews100さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>シルフさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>opas10さん
kako
(美術モデルから商業モデルへと、時代の流れとして見ていらっしゃる視点など…)
さらに深く知りたいような気がするのですが、何が知りたいのか、頭の中がまとまったら、質問させていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
ChinchikoPapa
明治から大正期のモデルといえば「美術標本」が主ですが、昭和期にはいると俄然、さまざまな分野へモデルが登場してきますね。ただ、今日でいうところのファッションモデルは続々と現れますが、いわゆる広告宣伝専門の撮影モデル(スチールモデル)は、あまり見かけません。
広告用に撮られていたキャラクターは、ほとんどが映画や舞台で人気のある女優で、専門モデルが活躍する環境がいまだ少なかったんでしょうね。したがって、現在ではあたりまえな業務である広告のモデルオーディションも、当時はあまり行われていなかったように思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>redroseさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ベッピィさん(今造ROWINGTEAMさん)
kako
まだ、もやもやと思っているだけなのですが、この流れは、現在のいわゆる「派遣社員」などにも繋がるところがあるのかな…、などとぼんやり思ったりしまして。
今のようにどんな業種でも「ハケン」が常態化する以前も、たとえばスーパーの試食販売の仕事などは、舞台女優の卵さんなどが紹介所に登録してやっていたように思います。(今は押しも押されもせぬ女優になった学生時代の友人もやっていました)
というような意味で、女性の職業として、教員とか医師などの資格商売とは別の「女性であること」を生かして世の中の需要に応え、道を拓いていった源流でもあるのかな、と。
ただ、人類最古の職業と紙一重という目で見られ、差別されたりもしたでしょうから、今も続く(あるいは永遠に続く)性差の問題とも関わるところがあるかな、とも。
なんか、とりとめなくてすみません。
もう少し的を絞って伺えそうになったら、また質問させていただきます。
ChinchikoPapa
sig
ChinchikoPapa
大正期以前は、成人した大多数の女性が、生涯を飢えずに暮らしていくためには、「結婚」というかたちで男性に寄りかかる以外、ほとんど手段がなかった時代ですから、まず生活の基盤となる経済的な自立をどうするか? 「結婚」という形態に縛られず自由に生きるにはどうすればいいのか?……というのは、日々はおろか生涯を通じての切実な課題だったでしょうね。
それが徐々に整っていったのが、戦前戦後を通じての「昭和」という時代ではなかったかと思いますが、ある意味でそれがどんな手段にせよ、生活基盤がある程度整備され保証されると、今度はその社会の「組織」や体制の「論理」、経済の「法則」や「しがらみ」に絡めとられて生きなければならなくなり、経済的な自立によって得られたはずの生き方の「自由」が、逆にひどく「拘束」されていることに気づく……という、二律背反的に捉えられているのが現状のような気がします。
いまや、ハードな労働環境からオフの時間さえ満足に休まらず、ときにひどいケースでは自身の思想や信条まで、企業に譲歩せざるをえないような要求を突きつけられて(これは男も同様だと思いますが)、まるで自立と引き換えに(結果的に)「自由」を売り渡してしまったように感じている方も、決して少なくないんじゃないかと感じます。
現象面で見れば、ますます「男」や「結婚」が面倒になるどころか、それが仕事=人生の足を引っぱる足枷のように感じられ、自身の精神的にも肉体的にも「損」になるばかりだと感じられ、ましてや子供を育てるとなれば、独身者に比べて膨大な経済的負担や損失を覚悟しなければならない(国家や社会の支援はあまりあてにできない)……ともなれば、現代社会の仕組みからしますと、結婚をしない女性が急増するのは必然であり当然だ……とも思えてきてしまいます。
派遣業(口入れ業)は、江戸期から発達した独特な仕組みですが、いちいち足を棒にして仕事を探さなくてもいい反面、雇用側に都合のいい労働力プール=産業予備軍として位置づけられるのは、昔も今も変わらないですね。好況期には、この仕組みをうまく利用することで、効率的に仕事をしてそれなりの収入を得ることができますけれど、不況時には低賃金化と短期雇用の常態化で、雇用側に便利な本来の役割りが“ムキ出し”になり、労働力側には非常につらい仕組みだと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
昭和初期は「ガール」流行りで、モダンやマル=エンガールのほか、円タクガールにショップガール、ステッキガール、ワンサガールなんてのもいますね。w
マネキンガールは時事通信社の手記資料があるのみですが、三越が女優を起用したのに対し、高島屋はマネキンガールを雇ったのが嚆矢のようですね。そのプロデュース(1928年)をしたのが、記事中に書いた米国帰りの山野千枝子だったようです。これはビジネスになると感じた彼女は、翌年の春に丸の内へ「日本マネキン倶楽部」を設立していますね。
ChinchikoPapa
オジロ
ChinchikoPapa
『婦人職業うらおもて』は、何年も前から入手したかったのですが、古書市場にはなかなか出てこないですね。ただ、出てくるととんでもなく高い価格がつきそうで怖いですが……。
最近、ようやく国会図書館のデジタルライブラリーで公開されましたけれど、「婦人職業研究会」の「同人識」という人たちはおそらく男の編集者たちで、どこか当時の保守的な眼差しをはらみつつ、半面、巻末に女性専門の職業学校や職業紹介所を紹介して、新しい時代の「婦人」の仕事を紹介する……など、なんとなくアンビバレントな雰囲気が感じられます。
戦時中、少なくなった男性の代わりに、女性が期せずしてあらゆる職業へ「進出」していきますけれど、大正末の当時はまだまだ当局によって禁止されていた職業が、女の周囲にはたくさん存在していたのでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
kingetsureikou
ChinchikoPapa
ご教示ありがとうございます。いくつかの資料で、記者紹介のモデルは料屋の「女中」(吉田博の年譜にも記載されているでしょうか?)と書かれていますが、こういうところの齟齬には敏感に反応してしまうわたしです。w 北陸の「高級料亭にいた<玉太郎>という芸妓」が、なぜ東京では料理屋の「女中」として語られているのか、少なからず興味が湧いてきますね。
文中に、注釈を追加させていただきます。ありがとうございました。