昭和史というと、あくまで政治的な動向や社会現象(事件)の教科書的な記述が中心となり、人々の身近な生活がどう変化し、大正期とは大きく世相の異なる社会が形成されていったのかを記録する資料や書籍は、案外と数が少ない。換言すれば、少しずつ国民の生活がどうやって縛られていき、最終的には国家の破滅という日本史上では前代未聞の「亡国」状況を迎えるにいたったかの、具体的な生活感をともなう記録があまり見あたらない。有名なところでは、大林宣彦が撮影した『転校生(おれがあいつでういつがおれで)』(1982年)や『はるか、ノスタルジィ』(1993年)の原作者である、山中恒の『ボクら少国民』シリーズあたりだろうか。たいがいの昭和史は、「満州事変」や「二二六事件」、「日独伊三国軍事同盟」など政治的な出来事や事件にスポットをあてており、卑近で些末な生活の動きに触れることが少ない。
先日、偶然に古書店で見つけた、1939年(昭和14)に下落合同志会から出版された『同志会誌』Click!を読んでいると、昭和に入ってからの生活が短期間で急変していく様子が感じられる記述が多い。ことに、1931年(昭和6)の「満州事変」以降の記述から、まるで不協和音がふくらんでいく新ウィーン楽派の作品のように、町内の自治・互助組織だったはずの同志会Click!の活動が、いつのまにか国家の出先執行機関へと変貌し、政策を地域へ浸透・強制・徹底させ監視する代行機関へと変節していく様子が記録されている。その背景には、国民の生活に直結するどのような政策ないしは社会的な動向が存在したのか、改めて昭和史から目につくものをひろってみよう。昭和史年表は、こちらでもご紹介済みの現代書館から出版された、里中哲彦『黙って働き 笑って納税』Click!(2013年)の巻末資料をベースに、わたしなりに表現を変えて引用している。
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◎1933年(昭和8)
04月 新国定教科書が用いられ「サクラガサイタ」から「ヘイタイ ススメ」へ。
06月 大阪で「ゴー・ストップ事件」。陸軍兵士と警官が、軍車両の信号無視をめぐってケンカとなり、目撃証言者の「自殺」もからんで警察から軍隊への異議表明も困難に。
◎1934年(昭和9)
05月 出版物とレコード内容の取り締まり強化(出版法改正公布)。
06月 陸軍が「国防色」をカーキ色と指定し、被服統一運動をスタート。
08月 家庭内における「パパ、ママ」呼称を、文部大臣が日本語をつかえと非難。
10月 警視庁が、学生および未成年者のカフェ入店を禁止。
◎1935年(昭和10)
05月 憲兵隊が安藤広重Click!の浮世絵「阿波鳴門」を要塞地帯法違反で発禁処分。以降、写実的な江戸期の浮世絵風景画はすべて発禁処分の対象に。
06月 東京市が、子どもへの「有害」紙芝居の内容を統制。
◎1936年(昭和11)
04月 東京市教育局が、教員同士の職場結婚を全面禁止。
05月 内務省が、国民や団体による政府への陳情活動を禁止。
06月 内務省が、渡辺はま子の歌謡曲を「いやらしい」と発禁処分。
◎1937年(昭和12)
04月 わずか9日間で防空法成立。国民が内実をよく知らないまま、防空(空襲に備えた防衛体制)に関する国民の動員・監視・捕捉(敵機発見)の義務化が進行。
06月 勝太郎の「江戸情緒小唄」を、内務省が「不貞」として発禁処分。
07月 国民にラジオ体操を奨励(半強制)し、小学校では強制義務化。横浜市で、女性職員の化粧時のアイシャドウとアイブロウを全面禁止。
08月 映画の巻頭に「挙国一致」「銃後を守れ」など標語挿入がスタート。
10月 軍機保護法改正により、国民にも「秘密保護」Click!義務づけ。同時に政府は、全国各家庭へ「我々は何をなすべきか」、朝鮮では「皇国臣民の誓詞」のパンフを配布。
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1937年(昭和12)までの、これら国民へ向けた細かな強要や統制をピックアップするとキリがない。それぞれひとつひとつの現象には、その場限りの「もっともらしい」理由がつけられて、大きな反発を受けにくいよう、ジリジリとまるで真綿でクビを絞めるように、あるいは多くの国民が気づかぬうちに、事態が進行していったのが想像できる。その陰には、常に陸軍と内務省(ことに特高警察Click!)の影がつきまとっているのだが、個々の小さな出来事を1本の流れとして見ると、迫りくる「国民精神総動員」体制へ向けた異議異論を沈黙させるための仕組みづくりであり、恫喝であり、圧力であり、ひとつひとつが伏線や布石であったことがまざまざと見えてくる。
筑紫哲也の「遺言」ではないが、「この国はまさに進行性の癌に罹っている」状況だったろう。大日本帝国の破滅と、国土を焦土と化す破局的な「亡国」の淵へ向け、まるで自ら矯正バランスを失い、滅亡への定向進化をつづける巨大生物のように、為政者は「亡国」思想の徹底へ狂奔しつづけることになる。「一億総特攻」が叫ばれるまで、あとわずか8年ほどしか残していない。
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◎1938年(昭和13)
01月 警視庁は、パーマネントの設備のある理髪店の新設を禁止。
02月 警視庁は、繁華街にいた学生3千人以上を「学業怠業」を理由に検挙。
04月 政府は、家庭内で使用する炭火やマッチにまで灯火管制法を適用して規制。
07月 政府は国民に向け、一汁一菜の食事運動を提唱。
09月 政府は、俳優や歌手にサインを求める行為を禁止。
10月 名古屋市は、市職員の丸刈り以外の髪形を全面禁止。
◎1939年(昭和14)
04月 米が全面配給制に。映画の製作・配給が政府の許可制に。
05月 能「大原行幸」(平家物語)の上演を「不敬」だと禁止。
06月 学生の長髪、女子のパーマを全面禁止。店舗のネオンサイン禁止。
09月 政府が「結婚十訓」を発表し、子どもをつくらない夫婦を事実上非難。警視庁は、「外国劇団の招聘は面白くない」などという理由で海外劇団の上演禁止。
10月 政府は、国民の白米食の禁止と缶詰めの使用を禁止。
◎1940年(昭和15)
03月 内務省は、外国風の名前を持つ芸能人などへ改名を強制。
06月 文部省は、学校の修学旅行の制限を通達。のち、全面禁止。
08月 徳島警察は、白米を食べていた50戸の家庭を摘発。
11月 政府は、「国民が着るべき服装」を規定し男女へ強要。
12月 戦時により、65歳以上の者は足手まといになるので東京から退去するよう命令。
◎1941年(昭和16)
01月 東條英機が「戦陣訓」を通達。当初は軍人に対しての「生きて虜囚の辱めを受けず」だが、国民にも事実上強制力をもつようになり、のちに戦地で膨大な民間人が自決。
05月 「肉なし日」を設置し、月に2回は肉の不売を実施。
09月 家庭にある金属類の回収令発布。隣組や町会による相互監視のもと、鍋釜や調度品、アクセサリー類にいたるまで強制的に供出。
12月 天気予報の全面禁止。米国映画上映を全面禁止。
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ここにはとても書ききれないが、1941年(昭和16)12月8日の日米開戦まで、ほぼ毎月のように国民に向けたなんらかの規制・禁止令が発令されている。そして、それに従わない者や違反者は「非国民」というレッテル貼りとともに、どしどしと警察や憲兵隊によって摘発・検挙されていった。現代の眼から見れば、上記のような施策を実施しなければ戦争を維持・継続できない国家が、なぜ欧米諸国を敵にまわして「勝てる」という妄想を抱いたのか不可思議きわまりないのだが、政府による暴力を背景にした言論封殺とプロパガンダの反復徹底、「非国民」たちの収監と圧殺、「少国民」たちへの洗脳教育などにより、多くの国民が視野狭窄のもと熱病のような高揚意識とともに、幻想を抱いてしまったとしかいいようがない。それは、あたかも「無慈悲な鉄槌を下し(米国を)殲滅する」と絶叫する、今日の北朝鮮のような社会とまったく同質のものだろう。
もちろん、「そんなバカな! なに考えてるんだい?」と思うクールな観察眼をもち、少なくとも理性的で論理性を備えた軍人や市民たちも大勢いたはずなのだが(今日の北朝鮮にも、少なからず存在するはずなのだが)、そのような国民は知らないうち、あるいは小さな“気づき”だけを重ねるうちに、自身の手足ががんじがらめにしばられているのを知り、改めて愕然としただろう。なにか異議や不満を口にしようものなら、即座に逮捕・拘禁されるという現実に、少しずつこの国がおかしくなりはじめた過去をもう一度反芻し、これから突き進んでいくであろう破滅への道に慄然として、暗澹たる想いにとらわれた人々は、残された当時の記録類を読んでも決して少なくはない。
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◎1942年(昭和17)
01月 塩や水産物が配給制に。ガスの使用制限開始。
02月 婦人標準服(モンペ)を指定。衣料品や調味料の切符制実施。
06月 米に加え、麦、パン、イモ、麺類も配給制に。
07月 寺院の鐘や銅像などの回収がスタート。
11月 東京で野菜類の登録制販売が開始。
12月 政府は、「海ゆかば」を「国民歌」としてすべての集会で歌うよう強制。
◎1943年(昭和18)
01月 内務省は、JAZZなど「敵性音楽」の演奏およびレコードを全面禁止。
02月 英語の使用を禁止。綿、帽子、傘、蚊帳などが配給制に。
06月 政府は、就業時間制限の撤廃と女性・児童の危険労働への就業を認可。
08月 政府は、長袖の和服とダブルの背広の製造を全面禁止。全国のバスの車体カラーを、政府指定による3色のいずれかへ塗り替えるよう指示。
09月 上野動物園の「猛獣」殺害処分。男は、販売員・車掌・理髪師として働くことを禁止。東京で金属非常回収工作隊を組織し、施設や家庭から無理やり金属を回収。
10月 全国の学徒出陣・動員がスタート。
12月 全国の競馬を全面禁止。
◎1944年(昭和19)
01月 農家におけるスイカとメロンの作つけを禁止。
02月 屋台の営業を全面禁止。
03月 各地の歌舞伎座が閉鎖。宝塚劇団の休演決定。警視庁により、東京の高級レストラン、バー、酒場などが次々と強制閉店。
04月 100km以上の国内移動・旅行が許可制に。
08月 軍需省が「物的国力の崩壊」を報告。家庭用の砂糖配給を停止。政府は、国民総武装を閣議決定し米軍の攻撃に備えて「竹槍訓練」スタート。
11月 全国各地で食用ドングリの採集を開始。
12月 政府は、ペットの犬と猫の強制供出を決定。毛皮は衣類、肉は食用に。
◎1945年(昭和20)
01月 イモの緊急増産を閣議決定。
03月 松根から採れる油が航空機燃料に精製できるとの虚報から、全国的な松根採集運動に多くの国民が動員されたが、当時の技術では不可能だった。
06月 本土決戦のため15歳以上の男子、17歳以上の女子は国民義勇戦闘隊に編成。
07月 政府は、ドングリの最終目標を500万石と設定。東京で、「雑草の食べ方」講習会がスタート。イモを盗んだ工員を殺害した容疑者が不起訴に。
08月 政府は、原子爆弾の備えとして白い服を着て物陰に隠れるよう指示。
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もはや、縄文時代(丸山三内遺跡など)よりも、よほど貧しい食生活になってしまった大日本帝国に、当然のことながら未来はなかった。1945年(昭和20)1月、戦況劣勢を挽回する新兵器開発について戦時議会で質問を受けた技術院総裁の八木秀次は、「まもなく新兵器の神風が吹く」※と答弁している。冗談のようだが、現実に議事録にも残るふざけた妄言だ。これは、技術者としてせいいっぱいの皮肉のつもりなのか、それとも大マジメにそう考えていたのかは別にして、破滅へと突き進む「亡国」思想を象徴するようなコトバだ。
※コメント欄でオジロさんよりご指摘のように、同趣旨の文脈で八木秀次は議会答弁をしていません。記事下に掲載した戦時議会議事録の全文と、コメント欄をご参照ください。
◆写真上:1941年(昭和16)に陸軍が撮影した、落合地域(上落合・下落合西部・西落合)の斜めフカン写真。以前にご紹介Click!したものとは、別角度のめずらしい写真。
◆写真中上:下落合の南側、戸山ヶ原Click!にいまだ残る陸軍施設のコンクリート廃墟。
◆写真中下:上は、東京駅の北ウィングにそのまま残る空襲で焼け落ちた内壁。下は、戦後すぐのころに撮影された戦災で焼け落ちたままの東京駅舎。
◆写真下:上左は、陸軍が指定したカーキ色の「国民服」。上右は、戦地へ送られた慰問袋。下は、空襲に備えた防護団Click!の監視員Click!が使用した防空双眼鏡。
この記事へのコメント
kako
嘘八百の戦争映画に涙している方たちには特に。。。。。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
上の年表は、実はほんの一部だけだと思います。政府や自治体レベルだけでなく、各町会や一般警察(特高除く)、防護団、消防団、隣組などの末端組織まで含めると、生活面における膨大な禁止令や規則・規制がかけられていますね。
こちらでも何度かご紹介している、無住建物や別邸、空き家・空きアパートは即座に取り壊しというのも、防護団と消防団が中心となった施策です。
また、上記の年表のようにまとめてしまうと、「禁止」あるいは「全面禁止」が決定される以前は、「許可」されていたようにとらえられがちですが、実は徹底した抑圧により「禁止」令が出されるはるか以前から、とうに実質禁止だった項目も多いですね。たとえば「英語禁止」は、発令されたのが1943年2月ですが、東条さんが「ワシントン靴店」の店名を無理やり変更させられたのは、開戦直後の1942年からでした。
ほぼ、自治体や警察などの「指導」が行われ、規制や禁止が全面的に行き渡ってから、政府が追認するように“発令”する……というケースも多かったように思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
kako
それは今でも、会社とか、学校とか、どこかの議会といった閉鎖的な空間では普通に行われていることなのかも…。
外の世界を見ず、限られた世界の中で、皆で同じ方向を向いて、指図されるままに行動するのは、心地よいことなのかもしれないですね。その先にあるのが取り返しのつかない大きな悲劇だと気付くときまでは…。
ChinchikoPapa
ずいぶん前に『お笑い北朝鮮』(ダイヤモンド社)という本が出たことがありましたけれど、当時の多くの書評でもいわれたように天にツバするがごとくで、まったく北朝鮮を笑えないですね。「将軍様のお力」と「新兵器の神風」との間で、果たしてどれほどの非科学・非論理的かつ観念論的なその「思想」性に差異が認められるものなのか、社会科学の側面から研究している学者は、けっこう存在してそうです。
kakoさんがおっしゃるように、人文科学の側面からはE.フロムあたりの領域が、いちばん近しい研究分野でしょうか。
オジロ
八木氏は戦後、日本社会党の参議院議員として、「原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議案」を発議し、趣旨説明をして全会一致で可決されています。広島と長崎の原爆に八木氏の開発した八木アンテナが搭載されていたことを本人が知ったのはずっと後になってからのことだといわれています。
kako
私はもう、ただぼんやりと思っただけなんですが…。
私は会社組織からドロップアウトしてしまった人間ですが、個人で仕事をしていても、やはり会社の方たちとお付き合いはしなければならないわけで、そうすると、いろいろな会社で、組織の外の人間には理解不能なことが普通に行われていることを目撃したりしてしまい…。
最近のLINEのトラブルのニュースなんかを見るにつけても、閉じた世界で行われていることって、私にはわからないなあ…と。
実際、小学生の頃にはいじめの輪に加わらなかったためにいじめられたこともあるし、多分、そっち側に入った方が心地いいのだろうし、そっちの輪に入らなかったら命の危険があるような状況になったら、私もやっぱり、そっちにいってしまうのかなあ…などと、御記事を読みつつ、思ったりしていました。
でも、今の日本の空気はいやだと感じている人が結構いるようなので、あの戦争と同じことは繰り返さないだろうと信じたいです。
ChinchikoPapa
さて、本からのいい加減な又引きと原資料の未確認は、誤った情報を伝えてしまいますね。ご指摘、ありがとうございました。さっそく、文中に注釈を追加させていただきました。結果から言いますと、技術院総裁の八木秀次は、1945年1月24日の戦時議会において、「まもなく新兵器の神風が吹く」という趣旨の発言は行っていません。(反省)
しかし、オジロさんが引用されている箇所は、Wikipediaの「八木秀次」にも引用されている答弁の冒頭部分であり、答弁全体のごく一部、わずか10分の1の答弁内容にすぎません。記事の下に、三木武夫の質問全文と八木総裁の答弁全文を掲載しましたが、オジロさんが書かれているのは答弁冒頭の“入り”の部分(赤で網がけした部分)であり、この文脈が八木総裁の答弁の全体趣旨=本筋でもないですね。
八木総裁の答弁趣旨は……
(必中の決戦兵器が誕生しないことに対し国民諸君が)「何ヤラ戦局ヲ見テ、聊カ気ヲ落シテ居ルト云フヤウナ形ヲ見マスガ、ソレハ多分生活ノ困難等カラ来ルノデアリマセウガ、物資ニ於テ窮屈デアルノハ戦時中当然ノコトデアル、ソレニ耐エ得ル精神力ヲ持ツテ居ルト言ハレマスガ、他ニ我等ガ十分信頼シテ、我ガ国ガ非常ニ優レタ力ヲ余シテ持ツテ居ルト云フコトヲ知ラナイ人達ガアルノデアリマス、(中略) 我々科学技術ニ携ハリマス全国数万ノ者ノ心ニハ、同ジ感ジガ漲ツテ居ルト信ジマシテ、今後急速ニ戦力トシテ現ハレテ来ルコトヲ固ク信ズルモノデアリマス(拍手)」
……という、「決戦兵器」開発の経緯や経過の困難さをエンエンと説明したあと、三木委員の質問に対して、上記議事録の最後の2段の21行にわたる結語部分、改めて国民への精神論の押しつけと、技術者の間には「神風特攻隊」の精神と「同ジ感ジガ漲ツテ居ル」ということを「信ジ」ていること、同時に「決戦兵器」の「急速」な登場を「信ズル」という、きわめて情緒的な収斂のさせ方にあると思われますが……。
八木総裁の答弁には、何度も会場から拍手が起きており、「帝国議会という場でよくここまで述べたと思います」というような状況や答弁趣旨には、どう贔屓目にみても思えません。むしろ、全体の印象としては「神風が吹く」とは言わないまでも、その答弁結語から精神論に終始しているのは明らかだと思いますね。
ChinchikoPapa
わたしも、かなり早めに組織から独立していますので、あまりその内部における人間関係の綾や、腹芸のようなネゴシエーションの機微など、よくわからない部分が多いですね。内部では、いろいろなトラブルや課題を抱えているのでしょうが、そのような雰囲気を察知すると、なんとなく人々の気配や応対の変化で感じたりします。
さて、わたしも舛添東京都知事と同様にw、記者会見で自由な意見を述べただけで特高がやってくるような社会、ブログに自由なことを書いただけで特高に検束されたりする社会には我慢できませんので、あらゆる手段を尽くして抵抗したいと思いますね。
ChinchikoPapa
オジロ
アヨアン・イゴカー
そして、残念ながら現在の違憲状態にある首相とその内閣と与党は、同様用の道筋を作ろうとしているように見えます。当時と同様に、金融マフィアによって正当化された理屈を基に。
ChinchikoPapa
先ほどまで、1945年1月22日から3月25日にかけての、衆貴両院における予算委員会、建議委員会、請願委員会、その他小委員会における八木技術院総裁の全答弁を読んでいたのですが、新兵器(あるいは決戦兵器とも)の開発が遅々として進まないことについて、さんざん委員たちから突っこまれ、イライラしている様子がよく伝わってきます。
それにともない、答弁内容もさらに抽象度が増し精神論あるいは情緒的な表現が増えていきますが、反対に実際の技術や開発の話になると俄然、生気を取りもどしたように具体的かつ論理的に答弁しています。
そもそも技術院は、実際に技術・研究所を抱え、技術者や研究者の動向を実地に管理しているわけではなく、国内に存在する軍官民を問わない技術研究機関の、いわば情報集積・管理機関であり、また技術研究の動向をにらんでそれらを適宜ディレクションしたりする監督局のような役所ですので、委員たちから兵器開発の具体的な突っこみを受けると、実際の現場が見えていないぶん、また陸海軍の研究所は軍機が多すぎて情報がなかなか技術院へ上がってこないぶん、答弁内容がどんどん曖昧化・抽象化せざるをえなかった状況がよくわかります。
衆議院予算委の質疑応答では、特にしつこい委員がいて八木総裁はキレる一歩前ぐらいまでいっているようですが、議長が「悪意はないと思いますので……」と、とりなしている様子までが記録されています。きっと、オジロさんも書かれているように、議事録に残らないところでは、いろいろなことを発言していたのではないかな?……と思いますね。
記事中の貴重なご指摘を、ありがとうございました。今後は時間のある限り、できるだけ原典に当たってから書くようにいたします。
ChinchikoPapa
今日の新聞に、ちょっとありえない「徴兵制」の見出しが出ていて、少子化にともなう現実問題として議論されているのに慄然とします。大正期の日本がそうだったように、コツコツと積み上げてきた立憲制・議会制民主主義を前提とした主権在民(大正期はやや性格の異なる政治基盤のもとでデモクラシーと呼ばれましたね)が、アッという間に壊されていく過程を目の当たりにしているのかもしれません。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
古田 宙
こんな時代は二度と繰り返したくないと。
最近仏映画「大いなる幻影」を見直したのですが、追手をのがれるジャン・ギャバン扮する男が、こんな愚かな戦争はまっぴらだ、と呟くシーンを見て涙が出てきました。
ChinchikoPapa
上記の年表を眺めていますと、同じとは言わないまでも、よく似た流れが現在でもいくつか起きているのがわかりますね。
東京が故郷ではない島崎藤村が、大磯へ転居するのは65歳以上の人々に対する東京退去命令がきっかけですが、東京生まれの人でも町会や警視庁などからの圧力を受け、郊外あるいは府外へ転居せざるを得なかった人たちもたくさんいそうです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>okin-02さん
Marigreen
八木秀次さんの言動に対するオジロさんとPapaさんの応酬は面白かった。一つの言動は全体との関連で読まないといけないということとか、その言われた言葉の背景にある状況を考えた上で、解釈しなければならないということかなと思った。
ChinchikoPapa
おそらく、若い世代の比率が急減する2030年前後から(いまの政治状況がつづけばの話ですが)、「徴兵制」は非常にリアルなテーマとして浮上してきそうです。
いま現在、赤ん坊の子たちから、戦前のような「予備役」兵までを考慮すれば10代の子たちまで含まるでしょうか。徴兵制以前に教育現場で「軍事教練」が復活して、「有事」の際にはいつでも徴兵・動員できる「予備役」兵の確保が先かもしれませんが……。それほど、危うい状況だと思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
Nylaicanai
ここから学んでこそ、人としての価値があると思います。
ChinchikoPapa
現在の視点から見ますと、もう狂っているとしか見えないのですが、当時はこれらの動向に対してそれほど不自然さや疑問を感じず、むしろ進んで諾々と国家の言いなりになる人々が大勢いたことを考えると、非常に怖いですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa