最近、西武新宿線に乗っていると、緊急停車をすることが多いそうだ。わたしは山手線のどちらかの駅まで歩いてしまうので、西武線の情報には案外うとかったりするのだが、同線を利用する方によれば、線路に入りこんだ人影を見た運転士が急ブレーキをかけるらしい。遮断機が下りている踏み切りで、電車の通過が待ちきれずにバーをくぐってわたってしまうのだろう、「危ないねえ」といったら、「それが、ちがうんだな」というのだ。
どうやら踏み切りのないところでも、線路内で人影を見かけては急停車するらしい。昭和初期ではないので、遊んでいた子供が線路内に入りこむClick!わけがないし、酔っぱらったオジサンが線路へフラフラと立ち入るには、線路沿いに柵がめぐらしてあるのでむずかしいだろう。また、作業をしている保線要員の人影であれば、あらかじめ運転士にその情報が伝わっているはずで、徐行はするかもしれないが緊急停車はしないと思われる。さらに、誰かが自殺目的Click!で線路内へ侵入したのなら、もっと騒ぎClick!が大きくなっているはずだ。入りこんだ人物を保護して線路外へ退去させない限り、電車は長時間ストップしたままになるだろう。でも、運転士が見た人影は一過性のものらしく、停車はほんのわずかな時間だけで、再びすぐに発車するらしい。でも、これって考えようによっては、ちょっと怖い話だ。
「線路」が気になり、大正期から昭和初期にかけて語られていた鉄道沿いの怪談を探してみたのだが、落合地域における線路や鉄道に関連した伝承は発見できなかった。そのかわり、落合地域がらみで中央線の東中野あたりをめぐる、怪(あやかし)が記録されていたのでご紹介したい。時代は、おそらく大正期と昭和初期ではないかと思われるのだが、上落合のすぐ南側に住んでいた男性ふたりによる人魂(ひとだま)の証言だ。1989年(平成元)に中野区教育委員会から発行された、『口承文芸調査報告書 続中野の昔話・伝説・世間話』から引用してみよう。ちなみに、語っているのは古くからの地付きの方と、関東大震災Click!後に東中野へ転居してきた方のふたりで、ともに明治生まれの男性だ。
▼
A:あたしは、一回(人魂が飛んだのを)味わっています。それはね、そこの火葬場があるでしょ、落合の火葬場、ねっ、あすこの裏に雑木林が。そこを右からね、こっちからいうとね、右から左へ、すうーっと、ね、あれは気持ち悪いですなあ。青白い。
B:いや青でない、黄色い、黄色いですよ。黄色っぽくてね、ふわふわふわふらーっと、こう行くのね。一ぺん見たんですよ、東中野の駅の上で。東中野の駅の南。見たのは、そうですねぇ、あすこへ来てからだから、かなり前ですね。川添町に長くいてね、関東大震災後に来たんですから、震災から十年ぐらい経ってからですね。/線路来て、向こっ側(かわ)に、東から西へ飛んできたんですよ。先は丸いですよ、ずっと後ろ、尾をひいてますね。ふわふわふわふわっと、こう行く、こいつは気持ち悪かったな。とにかくね……。
A:青っぽい、なんというかね、とにかくね……。
B:こうなって、尾をひいてるでしょう。まるでね、ラッキョウの頭ぁ通るのと同(おんな)しようなんで、あれがね、ふわふわふわふわっと。
A:飛んだあと、だれか死んだことは聞かない。とにかく、雑木林にね、ぶつかると、ふわっとなくなっちゃったの。
B:あたしのは、どこへ飛んで行ったんだか知らない。お寺さんかなにか訪ねて行ったんだろうと思うけどね。東から来てね、西へ、飛んで、先がこんなんで、こうなんですよ、尾をひいてんのが、そうすると、ふわふわふわっと、こう来るんですよ。
A:そう、ちょうどおたまじゃくしみたいの、ねっ。/「人魂が飛ぶと人が死ぬ」と、それはよく言うね、魂が脱けるって。
B:魂が脱けてくんだとかなんとかってね。それじゃ、みんなね、今の時期になって、そんな飛んだら、人間が多いんだから一面飛んでるって。
A:結局、そういうふうに、結びつけるのね。人魂が飛んだから人が死んだということは言わない。/全く、あれ見たときは、実際、足がすくんじゃったよ。八つ。その時分だったろうなあ。
▲
少し重複が多くくどい会話で、どこか相手のいってることを聞いているようで聞いておらず、話がかみ合っていないじいちゃんたちの証言なのだが、Aさんは1910年(明治43)生まれで大正時代に落合地域で目撃した怪談を、Bさんは1892年(明治25)生まれで大震災後に東中野へ転居し、昭和初期の駅周辺で目撃した怪異現象を語っている。
火葬場は、上落合842番地に住んだ尾崎翠Click!が『地下室のアントン』で、「火葬場の煙突の背後は、ただちに星につらなっている」と書いた、江戸期からつづく落合火葬場Click!のことだが、その周辺で人魂とカネ玉Click!の伝承や目撃証言がきわめて多い。また、大正期以降は寺々も増え、墓地なども多くなっているので、このような人魂はなんらかの物理的な発光現象Click!だと思われる。ただし、リンの燃焼Click!やプラズマなどの物理現象を想定してもよくわからない、玄関先の火柱や狐火Click!、墓地の怪火のたぐいは原因が不明で、そのような怪(あやかし)はこの近くに住んでいるらしい稲川淳二Click!の領域だ。そういえば、彼の怪談に「落合のアパート」Click!というのがあった。
また、落合地域の西隣りにあたる上高田に、つい最近まで「雪女郎」の伝承があるのには驚いた。大雪が降った夜、「雪女郎」に誘い出されて外出し、そのまま道に迷って凍死するという怪談だ。それは、大人への戒めではなく、子どもへの教育話として語られていたようだ。炭焼き小屋があるような、どこかの山中に残る伝説ではなく、東京郊外にも「雪女」伝説が語り継がれてきている。確かに、大久保村西大久保265番地へ住んだ小泉八雲が採集した怪談『雪女』(1904年)は、「武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた」ではじまっているので、案外、旧・豊多摩郡(新宿区・中野区・渋谷区・杉並区)のこのあたりの話なのかもしれない。同資料から、1913年(大正2)生まれの上高田に住む男性が語る、「雪女郎」の一節を引用してみよう。
▼
それでねぇ、今から考えてみますとねぇ、なるほどそうかなと思うんですけれども、こういう木がねぇ、こういわゆる、もっと大きいですけれどもね。みんな雪のその、あれを真っ白にかぶって、そいで、人間が立っているようなね、感じのあれが非常にねぇ、みんな木々はそうなってるでしょ。/で、外へ出ると雪女郎に連れてかれて、そいであのぅ、帰れなくなってしまう。自分の家へ帰る道、わかんなくなってしまう。そいで朝んなってね、よく冷たくなって、子どもが死んでることがあるから、夜は、雪の降った夜は、決して外へ出ちゃいけないって、いうことはねぇ、雪女郎の話としてね。/これはね、やはり、子どものねぇ、子どもは寝ぼけが多いんですって。寝ぼけが多いですからねぇ、ですから、中味は雪の降ったようすを見ようなんてんで、それで、寝ぼけて外へ出て、それでそのまま凍死しちゃう子が、おそらくいたんだそうですね。/で、そういうことの戒めとして、雪女郎がいて、おいでおいでをしてね、そいで、それに招かれて行って、そうすっと、翌日の朝まで帰れなくって、朝、捜してみたらですね、冷たくなって死んでたと。
▲
現在の新宿や渋谷の街中へ、まちがって雪女郎さんが迷いこんでしまったら、その透き通るような白い肌からタレントかキャバクラのスカウトに目をつけられ、さっそく事務所へ連れこまれてギャランティーの交渉でもはじまってしまいそうだ。雪の森で迷った若い木こりでも死へ誘(いざな)おうと、久しぶりにやってきた角筈村や渋谷村のあまりの変わりように、雪女郎さんは驚愕してその場で凍りついてしまうのではないだろうか。
◆写真上:上高田の桜ヶ池不動堂に残る、かなり小さくなってしまった桜ヶ池。
◆写真中上:左は、1941年(昭和16)に斜めフカンでとらえられた落合火葬場で、尾崎翠が眺めた白い煙突が見えている。右は、当時の面影が皆無な現在の落合斎場。
◆写真中下:左は、1936年(昭和11)に撮影された東中野駅。右は、東中野駅の東側に残る「柏木駅」時代からと思われる線路擁壁。
◆写真下:上・中は、1968年(昭和43)に公開された鎌倉期が舞台の『怪談雪女郎』(大映)で、藤村志保の雪女と原泉Click!の社(やしろ)の巫女との対決が怖いのだ。下は、最近の雪女さんのお仕事でアブラムシ退治の派遣フマキラー家政婦で稼いでいるらしい。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
オジロ
ChinchikoPapa
小泉八雲ファンというか「怪談」フリークというべきか、松江まで彼の軌跡を追いかけたわたしとしては、ちょっと語らせてください。青梅市の「雪おんな縁の地」碑は、もちろん承知しています。
まず、「雪女」が語られているのは東・西・南・北いずれの多摩郡ばかりでなく、練馬地域を中心とした豊島郡各地の伝承も東京地方では非常に有名です。それは、登場人物が「木こり」や「炭焼き」、「農民」、「行商」とさまざまですが、雪女に命を助けられ、やがて彼女が嫁にきて、最後に“It was I,I,I!”と消えていく経緯もそっくりです。
それが、八雲が住んでいた大久保村、つまり地元である豊多摩郡でも語られていたことが、まず、わたしにとってはひとつの驚きなんです。つまり、八雲は「西多摩郡調布村」の人たちから「雪女」の物語を聞いたらしい以前に、地元でプロトタイプとなる同伝承を、近所の古老や知人たちから採取している可能性が高いことになります。あるいは、市谷富久町時代に、すでに耳にしていたかもしれません。
それは、「むじな」が物語上で元赤坂の「紀国坂」という場所へピンポイントに設定されてはいるものの、この怪談話は赤坂ばかりでなく、実は同様の話が本所にも深川にも、また四谷にも麹町にも……と江戸東京じゅうで語られ展開していたはずで、八雲は赤坂の事例のみで物語化したとは思えないからです。ひょっとすると、わたしが知らないだけでタヌキやハクビシンの多い、落合地域にもあるのかもしれませんね。w それらの伝承の中からもっとも彼にとって印象深かった話、あるいは作家“好み”の(うら寂しい)場所として、象徴的に「紀国坂」を選んで物語へと昇華させている可能性が高いのです。
八雲は「雪女」においても、いくつかの物語(あるいはその断片)を集めたうえで、改めて再構成して抽象化しているのではないか?……という感触が、わたしにはあります。すなわち、物語をまとめる上で、彼にとっては伝承話がもっとも印象深かった「多摩郡調布村」を舞台に、明治期まで伝わる近隣の多彩な伝承の情景や切片を組み合わせ、作品としての「雪女」を構成しているのではないかということですね。だから、基盤となった素材(伝承)の中には、近所で採取した豊多摩郡の話も含まれているのではないか…?、もともと新聞記者だった彼が、集めた素材を料理する際のそれが方法論ではなかったか…?、というのがわたしの八雲作品観なのです。
「紀国坂」や「多摩郡調布村」の伝承を単一採取しただけで、さっそくそれを怪談作品に仕立ててる……とは、江戸東京という随所で囁かれ、語り継がれてきた類似する「怪談」環境と、小泉八雲の創作過程とからは想像しにくいように感じます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>てるせさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
オジロ
ところでChinchikoPapaさまは松江の小泉八雲記念館を訪ねられているのですね。1933年に建てられた最初の記念館(洋館)は山口蚊象の設計であったのに、風致地区にふさわしくないという理由で取り壊されてしまい、なんとも残念なことです。
ChinchikoPapa
はい、1970年代の後半から80年代初めにかけ、松江北高と松江南高の双方に友人がいたものですから、集中して松江を訪れた時期がありました。ベージュ色に塗られた、どこかギリシャ風のモダンな小泉八雲記念館は、山口蚊象の作品だったのですね。むしろ、現在の武家屋敷つながりでデザインされた、純和風な記念館のほうに馴染みが薄いです。
それほど窮屈な敷地ではありませんでしたので、堀に面した側を和風の門や塀に改造して「風致」に配慮し、内部に西洋館を残してもよかったような気がします。山口蚊象の作品だと知るにつけ、ちょっともったいないことをしましたね。
湿度が高い夏に出かけることが多かったのですが、小泉八雲記念館でいろいろ拝観して涼んだあと、並びの蕎麦屋へ寄って出雲蕎麦をすすり、そのあと明々庵で松江城の天守を眺めながら一服するのが、わたしのお気に入りのコースでした。w
sig
ChinchikoPapa
長岡の花火大会はため息が出るほど、ほんとうに見事ですね。
江戸期は四谷大木戸を一歩出ると、おそらく田畑や山林が拡がる田園風景や、どこまでも連なる丘陵の風景が拡がっていたでしょうから、山小屋や農家では秋の夜長に、冬の囲炉裏端で、多彩な物語が語り継がれていたんでしょうね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
オジロ
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>かずもんさん
ChinchikoPapa
目白町3丁目3502番地というのは、「目白美術館」や「太古八」のちょうど裏側、路地を入った左手の地番ですね。小泉八雲記念館と同じ1933年に、戸塚町(現・高田馬場)の藤川勇造・栄子アトリエも設計しているようですので、どこかで二科人脈との強力なつながりがありそうです。
上落合の吉武東里が、近所の刑部人アトリエや島津一郎アトリエを設計しているのと同様に、高田・落合・戸塚各町の一円で、山口蚊象の芸術家たちとの交流がうかがわれますね。
ChinchikoPapa
Marigreen
ChinchikoPapa
上田秋成は、ずっと大坂の人だと思うのですが、なにか江戸東京に関わりのあるエピソードがありましたっけ? 小泉八雲は、落合地域のすぐ南側に住んでいたし、雪女はまさに旧・豊多摩郡(落合村含む)に残る怪談として取り上げたんですけれど……。
ひょっとすると、上田秋成は生涯、江戸へ一度も来たことがないんじゃないかと。ただ、ここでも落合散歩で取り上げた大田蜀山人とは、交流があったようですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa