先ごろ、絵はがき「目白文化村の一部」Click!を入手しご紹介したが、こういう幸運は重なるもので、新宿歴史博物館に収蔵されているものと同一の絵はがき「目白文化村」Click!も、数日後に手に入れることができた。古書店や絵はがき店では、めったに見ることができない稀少なものだが、価格もリーズナブルだった。
新宿歴博に収蔵されている同絵はがきClick!と比較してみると、こちらのほうが焼けが薄くて保存状態も良好だろうか。特に表裏とも白地の部分が変色せず、当初の印刷時の姿をよく残していると思われる。裏面の宛て先は、前回の絵はがき「目白文化村の一部」と同じ大井町で、しかも驚いたことには「市外大井町五六二」と住所までいっしょだ。しかし、宛て名が異なっており先の「U・M殿」に対し、この絵はがきでは「S・U殿」となっている。大井町の同じ地番で同一区画内に住んでいた、ちがう人物への販促絵はがきを、わたしは偶然手に入れてしまったものだろうか。
1銭5厘切手の上に押された消印は、かすれてよく読み取れないが、他の2通と同様に1923年(大正12)の春から初夏にかけ、早稲田局へ投函されたものだと思われる。わたしは前回、箱根土地のDMを扱う業者が早稲田いたのではないか……と想定したが、堤康次郎Click!の出身校である早稲田大学の学生たちに、宛て名書きアルバイトをやらせていた可能性もありそうだ。早大の理工学部建築家の学生に声をかけ、さまざまな建築の設計コンペを実施していたことを考えあわせると、DMアルバイトの可能性はかなり高いようにも思われる。
さて、「大井町五六二」の住民に向け、箱根土地は絵はがき「目白文化村」の異なるバージョンを送付していたことになるのだが、これにより以下のふたつのことを想定することができる。まず、DMのプロモーションは見込み顧客を絞りこんだピンポイント的な送付ではなく、ある地域の住民全体へ「目白文化村」宣伝はがきを大量に送りつける、「ローラー作戦」型の展開であった可能性だ。大井町や大森界隈は学者や文化人、芸術家、勤め人などが数多く住んでおり、ある地域に住む住民へ片っぱしから絵はがきを送りつけていった……という手法だ。当時は、今日ほど個人情報に対するセキュリティ感覚は薄いので、地域住民の名簿などはすぐにも入手できただろう。
もうひとつの可能性は、同じ人物あるいは同じ地域へ繰り返し異なる種類のDMを送りつける、反復宣伝の手法によるプロモーションだ。今回、入手した絵はがき「目白文化村」の消印ははっきりしないが、新宿歴博に保存されている同絵はがきの消印は、1923年(大正12)4月20日の早稲田局消印が押されている。でも、前回ご紹介した絵はがき「目白文化村の一部」には、同年5月22日の早稲田局消印が押されていた。つまり、今回入手したポピュラーな絵はがき「目白文化村」は、1923年(大正12)3月ごろに印刷して翌4月に見込み顧客へ発送し、絵はがき「目白文化村の一部」は同年4月ごろに印刷して、翌5月に同一の見込み顧客あてに発送されたのではないか……という二重送付の可能性だ。
後者の宣伝プロモーションを想定すると、絵はがきの裏面に印刷されたコピー表現のちがいも、自ずと理解できるように思われる。1回めのDMでは、受け取った顧客へ目白文化村Click!のオシャレでハイカラな風情や眺望を感覚的にアピールするコピー表現であり、2回めのDMでは、より具体的な街中の設備や売地の価格をスペック的に記述している。つまり、1回めのDMは顧客に対する“アプローチ”であり、2回めのDMは営業マンにかわっての“トーク”ということになる。堤康次郎自身が、セールスプロモーションを指揮したと思われるのだが、大正期の当時、このような手法は別にめずらしくはなくなっていただろう。ちなみに、ポピュラーな絵はがき「目白文化村」の裏面コピーを再録しておこう。
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ウイルソンは「住居の改善は人生を至幸至福のもたらしむる」と断言致して居ります、目白文化村は健康と趣味生活を基調として計画致しましたが今や瀟洒な郊外都市として立派な東京の地名となつて仕舞ひました。
高台地のこの村は武蔵野の恵まれた風致――欅や楱の自然林、富士の眺め――をそのまゝに道路や下水を完備し水道や電熱設備倶楽部テニスコート相撲柔道場等の設備が整つて居ります。文化村は住宅地として市内以上の設備が整つて居ります。
倦み疲れた心身に常に新鮮な生気を与へ子女の健やかなる発育を遂げる為めに目白文化村の生活は真に有意義のものであります、今回第二期の新拡張を合して文化村は三万五千坪に達しました。
実地御視察の節は本社に御休憩を願ます、土地住宅に関する事は何に依ず御相談に応じます。
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1923年(大正12)の春から初夏にかけ、目白文化村では第一文化村がほぼ完売し、第二文化村の開発に全力を投入していたころだ。第一文化村は、坪10円という超目玉の値付けが好評で売れいきも好調だったが、箱根土地としては全区画を完売しても利幅が少なく、同年の5月から販売がスタートする第二文化村が、この事業の勝負どころだと考えていただろう。第一文化村は大人気につき完売……という状況を醸成したうえで、第二文化村は坪単価を50~70円と一気に吊りあげている。DMによるローラー宣伝、ないしは反復宣伝が功を奏したのか、第二文化村も短期間で売り切ることができた。
さて、もしDMによるプロモーションが後者だった場合、つまり同一の人物や地域に対して時間差で反復のDMを送っていた場合、「目白文化村」の絵はがきセットの可能性は低いといえそうだ。箱根土地は、プロモーションに必要な時期に必要な数だけ同一の絵はがきを印刷し、顧客あてに発送していた公算が高く、最初から絵はがきセットを制作し、その中から任意の絵柄を選んでDMを発送していた……とは考えにくいからだ。
ポピュラーな絵はがき「目白文化村」と、神谷邸を撮影した絵はがき「目白文化村の一部」を比較してみると、サイズが微妙に異なっているのがわかる。ポピュラーな「目白文化村」のほうは、「目白文化村の一部」に比べて横に1mmほど長く、また「目白文化村の一部」のほうは縦に1mmほど長い。すなわち、印刷の紙質(表面)はコート系の用紙でほぼ同一だが、はがき大への裁断サイズがやや異なっているのだ。また、絵はがき「目白文化村の一部」が日本美術写真印刷所の制作に対し、絵はがき「目白文化村」には印刷所の記載がない。両者は、異なる印刷所の仕事による制作物とみるのが自然だろう。
反射原稿として使われた元写真の質が不明なので、ハッキリしたことはいえないのだが、製版技術や印刷技術の上からみれば、日本美術写真印刷所が手がけた「目白文化村の一部」のほうが、かなり出来がいいように見える。印刷に使われている活字も、前者は一部がつぶれるなどして不鮮明だが、後者はくっきりと鮮明で読みやすいのが明らかだ。
◆写真上:第二文化村の販売時期にあわせ、1923年(大正12)4月に発送されたとみられる絵はがき「目白文化村」。写真は、同年早春に撮影されたとみられる第一文化村。
◆写真中上:絵はがき「目白文化村」裏面の、引用される機会も多いコピー。
◆写真中下:上左は、文化村倶楽部で前には見学用の乗合自動車(バス)が停車しているのが見える。バスの車庫は倶楽部前にあった。上右は、女性の設計による関口邸Click!。下は、左より箱根土地のモデルハウスから神谷邸と三角の大屋根が特徴的な渡辺邸Click!。
◆写真下:1945年(昭和20)4月2日、第1次山手空襲Click!の11日前にB29偵察機が爆撃目標規定用に撮影した空中写真Click!の一部に写る目白文化村の第一・第二・第四文化村。先年、米国防総省で発見されたばかりで、落合地域の写真は先の記事Click!を含め当サイトが初公開ではないかと思われる。4月13日の空襲で一部が焼失寸前の、健全な目白文化村の姿をとらえた最後の貴重な写真だ。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>kiyoさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>やってみよう♪さん
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オジロ
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
「目白文化村の一部」ハガキにあります「市内電車」は、おそらく東京市電のことだと思います。江戸川橋または早稲田から目白駅を経由し、文化村前まで市電を通す運動を、箱根土地は府営住宅の住民をも巻きこんで、早い時期からつづけているようです。府営住宅用地の東京府への寄付も、本格的な宅地開発や商店街形成への伏線とともに、どこか「市電めあて」のような気がしないでもないですね。
箱根土地本社の煉瓦ビルを基準にしますと、目白通りのバス停(おそらく市電が通れば電停になるであろう位置)から、南へ200mちょっと(二丁)のところに第一文化村が位置していますので、当局への市電開通の「働きかけ」を「計画」に、「未定」の事案を「予定」にしてしまっているのではないかと思います。(こういうハッタリを、堤はいろいろな側面で見せますね。^^;)
この「市電開通」運動は、箱根土地が下落合から去ってもつづけられ、戦前まであったように聞いています。でも、早稲田通りは高田馬場駅まで市電が敷かれましたが、目白駅まではきませんでしたね。目白崖線の急傾斜を、市電が上るのがつらかったものでしょうか。
オジロ
ChinchikoPapa
「目白文化村の一部」ハガキが発行された1923年(大正12)現在、西武線の計画は目白駅起点で下落合の氷川明神社前の計画駅をすぎると、南の戸塚から上落合へ向け早稲田通り沿いをめざします。また、翌1924年(大正13)9月以降の計画路線図で、ようやく高田馬場が起点になりますが、いまだ「中井駅」という概念はなく、氷川社前の下落合駅の次は、同じく下戸塚と上落合を斜めに横切り、上落合にある現在の東西線・落合駅あたりが2つめの駅に設定されています。つまり、同ハガキが発行された時点では、目白文化村から「二丁」のところに西武鉄道の計画駅はなく、東京市電の誘致運動が存在している……という状況です。
「なかなか売れない第四文化村」の広告は、1926年(大正15)9月の新聞に掲載されていますので、このときはすでに西武線の敷設計画が現実化し、第二文化村の南端からなんとか「二丁」ほどの中井駅へと出られる……という状況が整っていました。ただし、第四文化村からは、たっぷり400m以上(四丁)はありそうですが。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
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nice!をありがとうございました。>きたろうさん
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