先日、旧・下落合4丁目にある船山馨邸Click!の近隣にお住まいの髙島秀之様より、今年(2014年)3月に出版された著作『聖エルモの火』(中央公論事業出版)をいただいた。同書の巻頭には、1944年(昭和19)11月に制作された刑部人Click!『稲垣米太郎海軍少佐の肖像』(部分)が掲載されている。(冒頭写真) 同書は、サブタイトルに「稲垣米太郎海軍少佐と稲垣孝二海軍中尉の記録」とあるように、高島様の叔父の妻にあたる方の弟たち、すなわち稲垣兄弟をめぐる物語だ。
上掲の『稲垣米太郎海軍少佐の肖像』は、稲垣米太郎が第二水雷戦隊の駆逐艦「巻波」の水雷長として勤務し、1943年(昭和18)2月のブカ島沖夜戦(米軍名はセント・ジョージ岬沖海戦)で戦死したあと、その1周忌を記念して遺族が肖像画を刑部人へ依頼したものらしい。刑部人は、稲垣米太郎の生前の写真を見ながらキャンバスに向かっている。水雷長とは、駆逐艦や巡洋艦で魚雷戦を統括する指揮官のことで、戦死時の稲垣米太郎は海軍大尉だが戦死後に“特進”して少佐となり、刑部人は少佐の襟章で同肖像画を描いている。
また、弟の稲垣孝二中尉は、東北帝大Click!在学中に学徒出陣Click!で召集され海軍航空隊に所属したが、1945年(昭和20)4月に航空機はおろか満足な武器もないなか、フィリピンのルソン島クラーク基地をめぐる戦闘で戦死した。戦死時は少尉だったが、同様に死後中尉に昇級している。クラーク基地周辺での戦闘は、近代的な兵装と重機や工作機械により、たちどころに基地を構築・増強してしまう圧倒的に優勢な米軍に対し、日本軍は兵員にいきわたる銃火器すら不足する状況下でジャングルにひそみ、栄養失調による餓死者とマラリアや赤痢による病死者が続出していった。ちょうど同じころ、レイテ島のジャングルを彷徨っていた大岡昇平が、「近代国家」を名のる日本が精神論や“神話”に振りまわされ、論理的な思考や合理的な思想を軽視する「日本の歴史自身と戦っていたのである」と、のちに『レイテ戦記』で総括したような状況だったのだろう。
髙島秀之様は、残された刑部人『稲垣米太郎海軍少佐の肖像』を頼りに、遠い親戚筋にあたる若い稲垣兄弟の軌跡と、ふたりが参戦して散っていった戦闘とを追跡しつづけるのだが、その綿密な調査の過程をたどる物語が本書の骨子となっている。詳細は、ぜひ同書を手にして読んでいただきたい。わたしは読み終えたあと、どこかドキュメンタリーを観たあとのような感触をおぼえたのだが、著者の髙島様は長年NHKでドュメンタリー番組を手がけてこられたディレクターであり、またプロデューサーでもある。
NHK特集『海ゆかば ソロモン沖水底の墓碑銘』(1978年12月8日放映)は、ソロモン海で撃沈された艦船を水中撮影していくドキュメンタリー番組だが、高島様がディレクター時代に制作したものだ。このときは、近海に眠る駆逐艦「巻波」の水雷長・稲垣米太郎のことを、いまだご存じではなかった。また、米軍に待ち伏せ攻撃されブーゲンビル島のジャングルに墜落した山本五十六Click!の一式陸攻Click!を、初めて映像にとらえたのも高島様の仕事だ。1978年(昭和53)の日米開戦記念日にあたるこの日、学生だったわたしは同ドキュメンタリー番組を、おそらく親父とともに観ている。
ちょっと横道にそれるけれど、NHKで当初の編集構成のまま放映が許されず、同局のディレクターを辞めた龍村仁のドキュメンタリー『CAROL(キャロル)』(1973年)を、5年後の同じ年に、学生だったわたしはどこかの映画館で観た記憶がある。今日、矢沢永吉がCMで首相を演じることなど、想像すらできなかった時代だ。
さて、高島様がわざわざ『聖エルモの火』をお贈りくださったのは、旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)にアトリエClick!を建てて住んだ刑部人Click!をめぐる物語と、高島邸のある丘上ですごされた少年時代を回顧する文章が、同書に掲載されているからだ。その一節を、引用してみよう。
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少年時代、私は刑部人のアトリエに通った。戦後しばらくしてからである。どうして出入りするようになったかは覚えていない。絵を描くことが好きで画帳を持って遊びに行った。/アトリエの入口には洒落たクリーム色のファサードがあった。設計が国会議事堂を手掛けた建築家吉武東里Click!であることは後で知った。/アトリエには制作中の画がイーゼルに掛かり、傍らにはキャンバスが多数収納されていた。画布は、それぞれ100号程もあったろうか、子どもには信じられないぐらいの大きさであった。油絵のテレピン油かリンシードオイルの匂いが充満したアトリエの片隅で、私は小さなスケッチブックを開いて絵を描いていた。画家は時おり覗き込むが何も云わなかった。私は紅茶とケーキが楽しみで、ティータイムが終わると家へ飛んで帰った。
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このような画塾、あるいは画塾までいかない子どもたちの“アトリエ通い”は、下落合のあちこちで行われていたようだ。吉田博Click!のご子孫である吉田隆志様は、七曲坂筋の海洲正太郎Click!アトリエへ通われているし、二科の甲斐仁代Click!も生徒たちを集めては画塾のようなものを開いている。別に経済的に困窮している画家ではなく、比較的裕福な画家も子どもたちをアトリエに入れているので、画家のアトリエが多かった落合地域ならではの“地域ブーム”であり、芸術(家)に直接触れる“習いごと”だったのかもしれない。引きつづき、四ノ坂から五ノ坂あたりの子どもたちの遊びを引用しよう。
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私の住んだ路地の奥には、政治家・永井柳太郎の広壮な邸宅があった。その庭の一角には樹齢200年を超すような楠があって、路地の少年たちはその樹の股10メートルの高さに「トム・ソーヤの小屋」のようなツリーハウスを掛けて溜まり場としていた。/何と良い香りと風の通った小屋であったことか。楠を食草とするアオスジアゲハが群れて飛び、榎も近くにあってオオムラサキやゴマダラチョウも多く、樹々の蜜を吸いにきた。(中略)庭の一角の楠の大木を子どもたちが占領しても、母屋からは遠く視界には入っていなかった。いや、多分見逃してくれていたのだろう。食糧事情も悪く、碌なものは食べていなかったが、遊びには事欠かなかった。/休みには永井柳太郎の次男の永井道雄(社会教育学者・文部大臣 附属49回)とも庭で出会ったことがある。
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高島様は、のちに朝日新聞の論説委員時代の永井道雄と偶然、飛行機で隣り合わせの席になったエピソードも紹介している。文中の永井道雄の項に「附属」とあるのは、東京高等師範学校附属中学校(のち東京教育大学附属中学校・高等学校)の略称だ。今日では、「附属」というと「どこの附属?」となってしまうが、戦前から戦後にかけて「附属」といえば東京高等師範学校附属中学校を意味し、東京では一中Click!と並ぶエリート進学校として広く知られていた。稲垣米太郎も、また著者の高橋秀之様も「附属」の出身だ。ちなみに、稲垣米太郎は「附属」の47回生だが、同期には俳優の芥川比呂志Click!がいた。
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その永井の家の畑の隣に林芙美子Click!の家があった。(林芙美子邸は、今では新宿区の記念館となっている) その頃の落合は畠と森の連続であった。/その芙美子の家の隣が、石段の小径を挟んで刑部人のアトリエだった。芙美子の夫は薔薇づくりを趣味としていて、その薔薇を刑部に届けていたという。刑部の画に薔薇Click!が多いのはその故である。/林家から刑部家へと続く裏山は鬱蒼とした森で、子どもたちの格好の遊び場であった。ある日、みんなで満開の桜の木に登って、枝をちょん切って遊んでいると、恐ろしい形相をした芙美子が下に立っていたことがある。森光子扮する芙美子とは似ても似つかぬ風貌であった。(中略)/永井の家の前には小さな円形の広場があった。今思えば突き当りの路地なのでターンのための車寄せだったのだろう。子どもたちには格好のゴロベースの場であった。その広場に面して作家の吉屋信子Click!の家があった。彼女が鎌倉に移る前である。時おり彼女を見掛けたが、女流作家とは「ブルドッグのような貌をしているナ」と子ども心に思ったものだ。吉屋の家Click!には大きなシュロの樹が4本あり、これにもよく登った。(中略)/隣に作家の船山馨が越してきたのは戦後のことである。それまでは家の北側は畑が続いて、その先に画家の松本竣介Click!のアトリエが見えていた。
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先日、TVで『放浪記』の林芙美子Click!と似ても似つかない森光子の伝記ドラマをやっていたが、こちらも森光子と似ても似つかない仲間由紀恵が演じていたのには驚いた。
島津家Click!が設置した四ノ坂の石段は、高島様が子どものころはかなりすり減っていたようで、30段ほどの階段を自転車で駆け下りる遊びが流行っていたらしい。おそらく、途中で転倒してあちこち擦りむいた子どももいただろう。また、雪が降ると五ノ坂はとたんにゲレンデへ早変わりをしたようだ。今年(2014年)の大雪が降った日、クルマがほとんど通らなくなった下落合の坂道では、あちこちからソリやスノボで遊ぶ子どもたちの歓声が響いていた。下落合の坂道やバッケClick!状の斜面は、佐伯祐三Click!が第四文化村Click!近くの急斜面を描いた『雪景色』Click!から現在まで、時代を超えて子どもたちのゲレンデには最適な風情をしているようだ。
もうひとつ余談だが、1943年(昭和18)現在における稲垣家の住所は、豊島区池袋3丁目1279番地となっている。この住所は、ちょうど豊島師範学校Click!(現・東京芸術劇場)と立教大学の中間点にあたり、昭和初期まで岩崎撚糸場が操業していた敷地だ。工場の郊外移転にともない、住宅地として新たに開発されたエリアなのだろう。以前、三岸節子(吉田節子)Click!の狐塚アトリエClick!でご紹介した上屋敷公園から、北へわずか300mほどのところに位置している。
◆写真上:1944年(昭和19)制作の、刑部人『稲垣米太郎海軍少佐の肖像』(部分)。
◆写真中上:上は、国立公文書館の「第二水雷戦隊行動記録」に残る1942年(昭和17)10月の駆逐艦「巻波」の行動表。下は、米国の画家が描いた戦争画『セント・ジョージ岬沖海戦』。右端に描かれているのは炎上中の駆逐艦「夕霧」だと思われるが、艦隊同士がこれほど近接して砲雷戦をしたとは考えにくく、あくまでも画家のイメージだろう。
◆写真中下:左は、2014年に中央公論事業出版から刊行された髙島秀之『聖エルモの火』の表紙。右は、解体される前に撮影された刑部人アトリエClick!。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)に撮影された四ノ坂から五ノ坂にかけての旧・下落合4丁目界隈。下は、1960年(昭和35)発行の「東京都全住宅案内」(住宅協会)より。
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nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
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nice!をありがとうございました。>Mitchさん(今造ROWINGTEAMさん)
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オジロ
ポール・ラッシュは東京抑留所(菫女学院)に抑留され、第1次日米交換船で帰国しています。なお、先の論文の表3抑留者名簿(1942年2月)のNo3宣教師(立教大学教授)がポール・ラッシュです。また、この本の埼玉抑留所(聖フランシスコ修道院:現さいたま市浦和区)の名簿(1942年10月)にポール・メーヤーの名があり、第2次交換船で帰国したと記載されています。
ChinchikoPapa
さっそく、小宮まゆみ氏の『敵国人抑留 戦時下の外国民間人』(吉川弘文館)を注文しました。先の論文にありました、食糧事情が比較的よかった最初のクリスマスの「七面鳥」は、なんと澤田美喜が差し入れしたものだったんですね。思わぬところで、人と人がつながってとても興味深いです。警備の警察官までが卓球大会に参加していたというのは、まだ日本の戦況に多少なりとも余裕があったころのエピソードでしょうか。
メーヤー牧師の名簿記載が1942年(昭和17)の秋にあるのは、開戦後、下落合の宣教師館で憲兵隊にずっと監禁されてから、約10ヶ月後に収容所へと移されたという当人の手記と時期的に一致します。移送する際に、「近く」のどこかの施設へいったん集められたのかどうかは、相変わらず不明なのですが……。翌1943年(昭和18)の第2次交換船「帝亜丸」で、おそらく妻や娘たちと合流してインドで下船していますので、この点もメーヤー自身の手記と名簿資料とは一致しています。戦後、メーヤーもラッシュもGHQに属して、占領政策へ参画していますね。
オジロ
小宮まゆみ氏の著書の最後のほうに、抑留所への救援物資投下について、屋上にPWと書いて目印にしたと書かれています。聖母病院も同様でした。1994年11月30日付東京新聞に1945年(昭和20年)8月28日に米空母「エセックス」艦載機から撮影された聖母病院の航空写真が掲載されています。聖堂横の木に投下された救援物資のパラシュートが引っ掛かっており、本館の屋上には大きなPW(捕虜、prisoner of war)の文字があります。(この写真は聖母病院地下1階の廊下にも掲示されています)
なお、この本館を設計したのはスイス人のマックス・ヒンデルMax Hinder(1887-1963)です。聖母病院のパンフレット等では長らくドイツ人フィンデルと記載されていました。創立期はフランス語が公用語であったため、フランス語読みでHが抜けてしまったのでしょうか。ちなみに創立期の絵葉書にある「hopital」 はフランス語なので「s」が入っていません。また、ドイツのレーゲンという町で晩年を送ったためドイツ人と間違えたようです。
ChinchikoPapa
ひとりずつ、あるいは家族単位で収容所へ移送していたら効率が悪いので、一度どこかへ集めて一定の人数に達すると、まとめて移送していたんでしょうね。落合地域は戸塚警察署の管内ですから、メーヤー一家の一時収容先も同警察署の可能性がありそうです。
「PW」の文字が写る聖母病院の写真、とても貴重ですね。この文字は、もちろん8月15日以降に書かれたものだと思うのですが、救援物資の入ったドラム缶の投下は敗戦の直前から行われていたようで、いつから聖母病院が収容所だと認識していたか?……というテーマも、もうひとつの興味深い課題です。同じく近海に進出した空母艦載機、あるいは硫黄島からのP51だと思うのですが、聖母病院の屋上へ250キロ爆弾を落としたという伝承が残っています。おそらく、1945年5月25日の第2次山手空襲以降だと思うのですが、この戦闘機(戦爆機)はフィンデル本館を「敵性外国人」が収容されている病院だとは認識していなかったと思われます。同コンクリート建築が厚さ60cmと、要塞並みの仕様をしていたせいか、250キロ爆弾は跳ね返され被害はほとんどなかったようですが……。もちろん、山手空襲の際は聖母病院の北側ぎりぎりまで炎上していますので、3月10日の東京大空襲と同様に、その様子から「病院だから爆撃を避けた」とはとても思えません。
以前にも書きましたが、敗戦前からのドラム缶による救援物資の投下は、パラシュート「有り」(高めの高度)と「無し」(低空飛行)の双方が行なわれていました。1つは、おそらく学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)を中心としたエリアで、パラシュートが山手線の電線にひっかかり電車がストップしています。2つめが聖母病院の周辺域で、ドラム缶をそのまま投下したケースでは、現在の下落合公園の斜向かいにあった、落合歯科医院(幡野医院)の子息がドラム缶の直撃で死亡しています。3つめが、落合第一小学校の周辺へ投下され、パラシュート付きの場合は目白文化村の第一文化村方面まで流れていきました。
つまり、米軍は下落合にある少し大きめな施設の3箇所に救援物資を投下していたわけで、どれが収容所だったのかを知らなかった時期がありそうです。それが判明したのは、「PW」の文字が書かれる8月15日以前からなのか、それとも敗戦後に「PW」が書かれてからなのかがちょっと気になります。もちろん戦争が終わる前は、投下場所へ警官たちが駆けつけて急いで“回収”してまわっていたわけですが、それでも住民たちは中身の魅力的な物資に惹かれ、たくさん集まったといいますね。
「ドイツ人フィンデル」という表記は、当の聖母病院と新宿区の資料からの引用ですが、国籍はスイスなんですね。また、「hopital」の件もご教示ありがとうございます。今度、当該記事の表現を訂正しておきます。(多謝)
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
オジロ
連合軍が課した降伏条件の一つは、「日本政府が全ての戦時捕虜と抑留民間人の収容所にはっきり目立つ印をつけ、全ての収容所の名称、位置、人口の完全なリストを連合軍総司令官に提出すること」で、聖母病院などのPWマークもそのためだったようです。
聖母病院の設計者については1961年の30周年誌でドイツ人フィンデルと誤表記され、それ以降受け継がれてしまったようです。それ以前は不明です。2003年に東京都選定歴史的建造物に指定された際にスイス人「マックス・ヒンデル」と(おそらく東京都の指摘で)訂正され、玄関脇のパネル等はこの名になっています。マックス・ヒンデルについてはぜひ角幸博氏の講演記録「建築家マックス・ヒンデルとヘルヴェチアヒュッテ」をご覧ください。web上で閲覧可能です。
ChinchikoPapa
ドラム缶の投下はB29ではなく、「双発の米軍機」とうかがった記憶があります。ただし、投下したすべての米軍機がそうだったかは不明ですね。また、敗戦直後で焼け野原の落合上空を低空飛行で飛ぶB29を、画家の松本竣介がスケッチしていますが、その機が救援物資を投下した機かどうかまでは不明です。
また、低空飛行の場合はパラシュートなしのドラム缶で、高めの高度を飛行してきた場合は、パラシュート付きのドラム缶と記憶されている方がいます。ただし、パラシュート付きのドラム缶の投下は回数が少なかったものか、記憶されている方が少ないようです。多くの場合、低空飛行で直接ドラム缶をバラまくことが多く、ドラム缶は当然、地上に激突して蓋が壊れ中身が散乱しますから、それをさっそく「いただき」に住民たちが集まったようです。特に、食糧不足で痛切に「もったいない」と感じられたのか、小麦粉や砂糖などの粉類が地上に散乱していたのを克明に憶えておいでの方がいますね。
フィンデル(ヒンデル)の国籍と、「hopital」の表記について、さっそく当該記事に注釈を入れさせていただきました。ありがとうございました。
ChinchikoPapa
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