全方位マーケティングの日本橋三越。

日本橋三越1.JPG
 先日、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が発行した、1928年(昭和3)の「戦旗」12月号Click!を手に入れたのだが、ひととおり目を通していて疲れてしまった。当時の左翼運動の熱気は伝わってくるのだけれど、全編にわたってマルクスだの革命だの、レーニンがどうしたのこうしたのを読んでいるといい加減ウンザリしてくる。同誌は、戦前の共産党における文化部門の機関誌なので、基本的に一般の広告は掲載されておらず、たまに掲載されていても左翼関連の本を発行している出版社のみなので、誌面に変化もなくつまらないのだ。
 たとえば、それらの出版社には『マルクス学教科書』を扱う小日向台町のマルクス書房(まんまじゃん/爆!)や、『労農日記』を出版していた早稲田鶴巻町の希望閣、『マルクス主義への道』を出していた神田の上野書店、『無産者グラフ』発行の芝にあった無産者新聞、『階級戦の先頭を往く』を出版した東五軒町の前衛書房、『帝国主義叢書』シリーズを発行していた神楽坂の叢文閣……と、作品や記事の間に登場するのはこんな広告ばかりなので、よけいに疲れてしまうのだ。でも、同誌を巻末近くまで読み進んだとき、いきなり噴き出して爆笑してしまった。
 東五軒町の前衛書房が、「統一戦線の声は全無産階級の戦野を圧してゐる……」ではじまる、力強い手描きのスミベタ白ヌキ文字で『階級戦の先頭を往く』を宣伝している前ページに、「御歳暮大売出し」のキャッチフレーズとともに、「何方(どなた)様もお喜びの三越の品」とボディにうたう日本橋三越の広告が掲載されていたからだ。ww
 一般企業の媒体広告では、ただひとつ日本橋三越Click!が出稿している。もう、華族様だろうがブルジョアジー様だろうが、プロレタリアート様だろうが、三越を訪れる人はすべて「お客様大明神」であり、三越がキライでケチをつけるお客様も店の勉強になるたいせつなお客様だ……と、往年の日比翁助Click!の徹底した経営思想が、昭和初期まで生きていたとしか思えない。
 しかも、1928年(昭和3)は「三・一五事件」Click!の大弾圧があった年であり、それでも日本橋三越は「戦旗」への出稿をやめてはいない。共産党=プロレタリアートと日本橋三越、このニッチなマーケティングを是認し、広告を出稿していた宣伝部にはどのような人物がいたのだろか?
  
 御歳暮大売出し ―十二月一日より全店一斉に開催―
 御歳暮の御贈答には何方(どなた)様もお喜びの三越の品をお用(つか)い遊ばすに限ります。三越では「御歳暮御贈答用品大売出し」を催して、お恰好品を各種豊富に取揃へます。何卒御用命の程偏(ひとえ)に御願ひ申上げます。
 品券:三越の商品券は御贈答用として、最も理想的で贈るに御便利、受けて御重宝で御座います。
                            東京市日本橋 三 越
  
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 だが、このコピーでは「戦旗」を定期購読して目を通すような、プロレタリアートのお客様には響いたとは到底思えない。コピーの文面が、ブルジョアジーあるいはプチブルのお客様向けの表現のままになっているからだ。「戦旗」の読者層をきちんと意識した、ターゲティングがまったくなされていない。今日的な広告宣伝の視点からすれば、媒体広告は制作過程で各媒体の読者層を意識した(セグメント化した)ビジュアルおよびコピー表現によって、正確かつ明確な表現の差別化を行なわなければ、アピール性や訴求力が低下し出稿する意味(投資効果)がない…ということになる。そこで、「戦旗」向けにはどのようなキャッチやコピーが有効なのだろう?
 まず、お客様と同じ課題を三越も共有しているという、読者層との間に共感を醸成する表現が必要不可欠だ。それには、読者の琴線に触れるリーチの長い語彙や、少し先の生活を考慮したリアルな表現、購買欲をくすぐるちょっとしたキャンペーンをフックにするのが有効だと思われる。
  
 年越し戦の御勝利は三越の御贈答品でお祝ひ ―十二月一日より全店一斉に開催―
 御世話になつた御指導のあの御方へ、御闘争勝利にはお喜びの三越の品をお用い遊ばすに限ります。三越では赤い腕章の売子を売場へ多数配置し、御声掛け頂ければお恰好品を各種豊富に取揃へます。また御希望の方には、赤い熨斗紙も御用意して御配送致します。何卒御用命の程偏に御願ひ申上ます。
 商品券:三越の商品券は御贈答用として、最も理想的で贈るに御便利、頻繁に御引越しされ地下へ御潜行される御方にも御重宝で御座います。
  
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 また、お客様専用に期間限定の特別商品を開発し、それを宣伝の大きな目玉にすえて集客するという手法も考えられる。贈答品一般ではなく、読者層の生活環境へ密着し、特化した商品の品ぞろえをアピールする手法だ。特に歳末は、1月早々にスタートするベア闘争への準備、そしてベアのあとにつづくメーデーを意識した時期でもあり、鏡びらきならぬ「旗びらき」のときに必要な用品をたくさん想定することができるだろう。
 この大量需要が見こめる、春の商機を逃す手はない。下落合の田島橋北詰めに、専用の大きな染色工場Click!をもっていた、三越ならではのサービスが展開できるだろう。そして、「戦旗」の読者であるプロレタリアートのお客様に寄り添い、おしなべて同層には冷淡な他のデパートとの差別化を強く意識したプロモーションが不可欠だ。三・一五事件を経験している多くの「戦旗」読者やプロレタリアートのお客様には、大江戸(おえど)からの大店(おおだな)・三井越後屋の支援は力強く響くだろう。
  
 上質な赤旗染の御贈答は三越へ ―十二月一日より全店一斉に開催―
 XXの故郷仏国より直輸入いたし高級布地に、下落合の三越専用染物工場で露国の紅染料を用ひて仕上た、雨でも嵐でも色落せず翻つゞける赤旗の御贈答御用命は三越へ遊ばすに限ります。XXXの御勝利とXXXXを御XXの際には、「XXXX大売出し」を催して、お恰好品を各種豊富に取揃へます。何卒御用命の程偏に御願ひ申上げます。
 商品:三越の商品券は御贈答用に、町中での御連絡や地下御生活にも御重宝で御座います。商品券御贈答お申込みにつき、御XXに最適な赤ひ鉢巻二本御進呈申上ます。
             尚、伏字は警察の御客様より御指導御鞭撻に依ります。
  
 三越と伊勢丹が経営統合してしばらくたつが、日本橋の三井越後屋と神田の伊勢丹波屋(のちに新宿へ移転Click!)は、江戸期から呉服店の老舗であり、もともと日本橋と神田とで気のあういいコンビなのかもしれない。両店は、明治以降にやってきた新参の呉服店(デパート)とは、東京では一線を画する存在だ。ひょっとすると三越の意思決定層に、明治期から「戦旗」が出版された昭和初期まで、薩長基盤の政治体制がことごとく気に入らない江戸東京人がいたのかもしれない。だから、三越ならではの「お客様大明神」思想とあいまって、「戦旗」に肩入れしたくなったものだろうか。
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安藤広重「する賀てふ」.jpg
 わたしの義母は、日本橋三越に履物を脱ぎ、室内履きに履きかえて上がった幼児期の記憶があるという。来店する顧客は、三越ギライだろうが物見遊山のひやかしだろうが、「ブルジョアジー」だろうが「プロレタリアート」だろうが差別しない経営思想は、現在までつづいているのだろうか。もっとも、高級品が多い今日の三越では、「戦旗」の読者はずいぶんと入りづらいにちがいない。

◆写真上:日本橋川から見あげた日本橋三越で、神田の伊勢丹波屋と並ぶ江戸の老舗だ。
◆写真中上:こんな広告がならぶ「戦旗」誌面に、いきなり三越の広告は登場する。
◆写真中下:1928年(昭和3)の「戦旗」12月号に掲載された、日本橋三越の媒体広告。
◆写真下は、変わらず日本橋北詰めにある三越本店の現状。は、江戸期に描かれた日本橋駿河町の三井越後屋。安藤広重Click!による『名所江戸百景』Click!第8景の「する賀てふ(駿河町)」(部分)で、三井越後屋は「現銀掛値なし」の庶民の味方で他店とは異なり安売り店として繁盛した。

この記事へのコメント

  • SILENT

    赤旗の商魂逞しき、日本橋の老舗。神田の老舗が新宿追分への進出。両社に先輩と、伯父が宣伝部におりました。どちらもどんな考えで、宣伝文句など考えていたかと思うと愉快になりました。
    黄金のイメージの老舗は、敷居が高く古風過ぎるので肌に合わないのですが。
    2014年05月05日 02:39
  • kiyo

    東京の買い物というと、『三越』というイメージの両親は、上京時に連れてきて貰うと、必ず、三越の寄っていましたので、
    必然的に、幼少時のデパートのイメージは日本橋三越本店でした。
    偶に、銀座三越があったのは、回りの風景の違い、都電のある風景が微かに記憶に残るのですが。
    日本橋三越というよりも、このころの店舗の特徴で憶えているのが、
    各店舗のガラスショーケースに触ると、感電かと思う程の静電気だったのか、ビリビリって電気を感じたことです。
    その後、ある時期からピタッとなくなりましたので、
    ガラスケース内の電灯・蛍光灯のアースの問題だったのではと思っています。
    2014年05月05日 08:06
  • ChinchikoPapa

    『BROWN RICE』の民族音楽風サウンドは、70年代にJAZZを聴きはじめた方の中には、大好きで目がない方がいるんでしょうね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2014年05月05日 20:29
  • ChinchikoPapa

    親父は「メンタム」といってました。わたしは「メンソレ」といってますが、「メンソーレ」って琉球語みたいですが。nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
    2014年05月05日 20:33
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    「戦旗」の三越広告に興味をもって、戦前のいろいろな古雑誌の三越広告を改めて見直してみたのですが、コピーとデザインはほぼ同じでした。同一の版下あるいは製版フィルムを大量につくり、各雑誌のサイズごと、いっせいに配布していたのでしょうね。
    戦後の宣伝や広報の部門は、おそらくまったくちがう広告手法で制作しているのでしょうが、媒体ごとにそれほど強く特化した表現はあまり見たことがありません。ターゲティングよりも、常にコーポレートイメージを優先し強く押し出しているんでしょうね。
    2014年05月05日 20:51
  • ChinchikoPapa

    妙な声を出しながら妙な“シナ”をつくる若水ヤエ子、そういえば知らないうちに見かけなくなった女優です。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
    2014年05月05日 20:57
  • ChinchikoPapa

    相模湾のサバ寿司に、北陸のマス寿司には目がありません。
    nice!をありがとうございました。>りぼんさん
    2014年05月05日 21:00
  • ChinchikoPapa

    女子の「道歌」があれば、ちょっと見てみたい気がします。現代だと、「道」の障害になる男子の「上皮」が詠まれてしまうでしょうか。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2014年05月05日 21:14
  • ChinchikoPapa

    地元のCATVで、地域の祭りが中継されるのはいいですね。
    nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2014年05月05日 21:23
  • ChinchikoPapa

    kiyoさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    わたしも、子どものころから三越へ出かける機会がもっとも多かったと思うのですが、もちろん買い物よりもレストランと化石探しが楽しみでした。当時は、地下鉄の「三越前駅」から大理石が壁面に使われていましたので、化石探しはそこからはじまりました。
    ガラスのショーケースに触れるとビリビリは、わたしにも経験があります。ケースに装備された照明器具から、少なからずケースのフレームへ漏電してたんでしょうね。わたしは、オモチャ売り場に置かれたモデルガンのケースの前で、よくシビレていたのを憶えています。よほど身体を近づけて、興味津々で覗きこんでいたんでしょうね。w
    2014年05月05日 21:42
  • ChinchikoPapa

    わたしは仕事で画面見つづけの眼を休めるために、連休はゴロゴロしている予定だったのですが、家のアナログ映像をデジタル化する作業を課されて、やっぱり画面を見つづけてしまいました。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
    2014年05月05日 21:52
  • ChinchikoPapa

    携帯端末+バーチャルキーボードは、一時期ちょっと惹かれていたのですが、周囲が暗めでないと使えないので断念した憶えがあります。nice!をありがとうございました。>tonomaru521さん
    2014年05月05日 22:01
  • ChinchikoPapa

    古河邸1Fのコーヒー屋は、いまだ入りそびれています。
    nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2014年05月05日 22:04
  • ChinchikoPapa

    近ごろの男子に「度胸」がないのは、裏返せば大切に育てられているせいか自尊心が野放図に高すぎるような気もします。フラれることはありえないし自分自身でも許せない……という感触でしょうか。nice!をありがとうございました。>makimakiさん
    2014年05月05日 22:13
  • ChinchikoPapa

    弱い揺れだとまず目をさまさないのですが、今朝の地震はさすがに起きました。キッチンの棚のストッパーが、東日本大震災以来めずらしく全ロックされましたね。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2014年05月05日 22:19
  • ChinchikoPapa

    松島トモ子が、仲よくツキノワグマと風呂に入っているシーンは爆笑してしまいました。w nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
    2014年05月05日 22:22
  • ChinchikoPapa

    サクラの季節の仁和寺は、残念ながらまだ一度も出かけたことがありません。写真をありがとうございました。nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2014年05月05日 22:28
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>げいなうさん
    2014年05月05日 22:31
  • ChinchikoPapa

    さすがに揺れで目がさめましたが、TVをつけてそのまま再び寝てしまいました。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年05月05日 22:34
  • ChinchikoPapa

    「作業」用に長時間の音楽番組は、同時録音をしたくなりますね。
    nice!をありがとうございました。>やってみよう♪さん
    2014年05月05日 22:38
  • sig

    大店は表は主義主張の異なる階層にもみんな平等に接するように見せかけながら、実は内部ではかなりしたたかな計算で利益を生むべく、臨機応変に対応していたのではないかと言う気もします。例えば外商部などは相手次第という商売ではないかと思います。
    2014年05月05日 23:37
  • うたぞー

    三越と「戦旗」の組み合わせはすごいですね。僕はこの事実を平成の時代によみがえらせたパパさんがすごいと思います。
    この広告を読んだ大学生、学校の教職員、あるいは共産党員や活動家と言われる人たちはどんな感想を持ったのでしょうか。三越で買い物をしてみたいと率直に思ったのであればおもしろいですね。
    そういえば今は家から出ることのなくなった92歳になる祖母が、往年は三越の大ファンでありました。大分から名古屋に出てくると、必ず買い物に行っていました。あの包装紙が大好きだと言います。
    2014年05月06日 00:06
  • kako

    久しぶりに覗かせていただきました。これは、滅茶苦茶おもしろいお話ですね。
    私はこのようなことについて特に調べたこともなければ、知識を持っているわけでもないので、ふと思っただけなのですが、例えばこれは、『戦旗』側が広告収入による活動資金調達のために三越に出稿依頼したというようなことは考えられないでしょうか?(大杉栄が後藤新平の懐をアテにしたように…? 三越側には、『戦旗』の読者の懐をアテにする必要はなさそうな気もするので…)
    2014年05月06日 01:39
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    戦前における大手デパートの販売戦略や広告戦略は、なかなか資料として公表されていないのか、ほとんど見かけないですね。日比翁助のように、対外的な企業姿勢の情報はありますが、具体的な内部の事業や業務の実際を記録した資料は見たことがありません。
    内部では、かなりシビアな取引きや商売をしていなければ、21世紀の今日まで生き残れないでしょうね。
    2014年05月06日 20:58
  • ChinchikoPapa

    最近、近くの喫茶店で習った鶏のささみのミンチとラッキョウのスライスを混ぜた、トーストサンドに凝っています。nice!をありがとうございました。>siriusさん
    2014年05月06日 21:01
  • ChinchikoPapa

    うたぞーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    ひとつの媒体効果として、おっしゃるとおり『戦旗』を読んでる「インテリ層」への集客効果をねらった……という解釈もできそうです。おカネに余裕のない労働者が、毎月欠かさず『戦旗』をコンスタントに購読できていたかどうかは疑問ですが、少なくとも当時の芸術派とプロレタリア派に二分されていた文学者(と文学ファン)をはじめ、学者、研究者、教育者、さらにはさまざまな分野の文筆業者(と編集者)たちは、まちがいなく一応は目を通していたでしょうから、それらの読者へ向けていたのかもしれませんね。
    しかも、定期購読をしていた読者層も、上記の職業の人たちと少なからず重なってくると思いますので、そのあたり、三越の広報部もマーケットを読んでいた可能性がありますね。
    うちの親から上の世代も、日本橋三越が大好きだったようです。子どものころ、家の中でよく赤白の包装紙を見かけました。
    2014年05月06日 21:29
  • ChinchikoPapa

    今年は雨が降ったり冷えたりしましたので、夜桜は見損なってしまいました。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2014年05月06日 21:31
  • ChinchikoPapa

    きょうは目のビタミン不足を補うため、外出先でうなぎを食べたのですが、数日前の暖かさから一転、肌寒い1日でした。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
    2014年05月06日 21:35
  • ChinchikoPapa

    きょうはシャツ姿で出かけたのですが、風が吹くと震えあがりました。
    nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年05月06日 21:38
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、コメントをありがとうございます。
    『戦旗』側からの広告営業ですが、そのあたりがとても微妙ですね。この号が三・一五事件のあった年、同事件からそれほど時間のたっていない時期に発行されていることから、『戦旗』側からの広告取りが強引だった場合、当局へ格好の“手入れ”の口実(恐喝でも強請でも、どんな理由でも特高はつけ放題だったと思います)を与えることになりますので、ちょっと考えにくいところです。
    造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)が、なぜか丸ノ内の三菱レンガビル街(東京の一等地)にもともと研究施設が存在しており、どこかでほんのりと三菱とのつながりが感じられるように、『戦旗』編集部もどこかで三越(あるいは三井)とのパイプが存在したものでしょうか。そのあたり、まず資料が残っていそうもありませんので、不明としかいいようがありませんね。
    2014年05月06日 22:01
  • kako

    左翼と権力者との密やかな関係、労働者階級と富裕階級との関係の裏側…、みたいな話になんか魅かれてしまうんです(性格がねじ曲がっているのかも…)。
    お金持ちのお嬢様が貧しい労働者階級の青年に恋してしまう話とか、その逆とか、昔からいっぱいありますよね。人は利益の有無を超えて潜在的に自分と真逆の立場のものに魅かれるところがあるような…。
    時代的にも興味あるところなので、私もこの三越と『戦旗』の関係、ちょっと探ってみようかな…、と思います。
    いつも面白い話題を読ませていただき、ありがとうございます。
    2014年05月07日 02:00
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    当時の雑誌を見ますと、ありとあらゆるテーマや思想の専門誌、地域性の強いメディア、子どもから大人までのあらゆる媒体へ、三越は広告を出稿していますので、ひょっとすると「媒体選び」をあえてやらず、広告掲載の「ローラー作戦」を展開していたのかもしれません。裏返せば、それほど広告費が潤沢で、なおかつデパートの“雄”としての沽券にこだわった……ということかもしれませんね。
    少し前にご紹介した加藤道夫の『襤褸と宝石』が、まったく正反対の立場の男女が惹かれあっている……という物語の典型作でしょうか。米国映画の『襤褸と宝石』は、観たことがありませんが。
    2014年05月07日 11:46
  • ChinchikoPapa

    アベリティーフとしてのシャンパンは、酸味の強いものが好きです。ノドごしもさわやかで、ご飯が美味しく食べられますね。nice!をありがとうございました。>fumikoさん
    2014年05月07日 11:50
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>einsさん
    2014年05月07日 11:52
  • ChinchikoPapa

    この季節になると、海岸で無性にボーッとしていたくなります。
    nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
    2014年05月07日 14:52
  • kako

    Papaさん、ご教示ありがとうございます。
    「三越」「戦旗」双方の思惑も非常に興味あるところですが、当時の一般の人たちの「三越」ブランドや共産党に対するイメージにも興味を引かれます。
    漱石が1914年の日記に、カミさんの悪口として「松屋、三越の売出にはきっと出掛ける。そうして自分のものを色々買って来る。」と書いていますが(漱石はそれなりに収入はあったものの、子だくさん、親戚たくさん、弟子たくさんで、決して生活に余裕があったわけではないので、経済の感覚は庶民とほぼ同じだと思うのですが)、大正~戦前の頃の様々な立場の人たちの「三越」に象徴されるもの(単に高級品、贅沢品というだけでなく、夢とか、未来への希望とか、文明とか、明るさとか…?)と、「共産党」に象徴されるもの(厳しい現実、格差、戦争に向かう時代の空気など…?)への視線や感覚を窺い知れるようなものがありましたら、是非ご紹介ください。
    2014年05月07日 23:43
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
    2014年05月08日 11:13
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、コメントをありがとうございます。
    戦前、つまり親たちの世代における三越ブランドには、圧倒的なものがありましたね。三越に品物を卸している、あるいは商品を提供している店は、それだけで信用された時代です。
    時代的な背景とともに、そんな三越の姿を描いた本は、たとえば嶺隆・著『今日は帝劇明日は三越』(中公新書)がありますね。また、三越の歴史を各時代とともに掘り下げた本には、楠本浩志・著『三越物語』(TBSブリタニカ)があります。
    『戦旗』がらみの共産党については、この雑誌自体が文芸誌の性格が色濃いですので、非合法時代の共産党の動向を含めて、プロレタリア文学関連の書籍がよくまとまって書かれているのではないかと思います。
    たとえば、詳しいところでは山田清三郎・著『プロレタリア文学史』(理論社)や、最近では川西政明・著『新日本文壇史/第4巻』(プロレタリア文学の人々)(岩波書店)などがあります。落合地域は、プロレタリア文学者が数多く住んでいましたので、目白学園女子短期大学・編著『落合文士村』(双文社出版)にも詳しいですね。
    ほかにも、新しい書籍がいろいろ出ていると思いますが、上記の著作の中で、三越については『今日は帝劇明日は三越』(中公新書)の参考文献リストが、共産党や『戦旗』などについては『新日本文壇史/第4巻』(岩波書店)の参考文献リストあたりが、より詳しく知ることができる資料の手がかりになるのではないかと思います。
    2014年05月08日 11:44
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2014年05月08日 11:50
  • kako

    Papaさん、ご教示ありがとうございます。
    勉強します。^^
    今のようにメディアが発達していなかった時代の空気って、どのように作られていたのか、何かいろいろ興味がわいてきました。
    引き続き、面白い切り口の記事を楽しみにしています。
    2014年05月09日 01:19
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、わざわざリプライをありがとうございます。
    ひとつ、書き忘れていました。美術的な側面から「プロレタリア芸術」を知るには、1967年出版の古本になってしまいますが岡本唐貴/松山文雄・共著『日本プロレタリア美術史』が、いちばんよくまとまっているかと思います。共産党やその芸術部門の動向も、詳しく記録されています。同書は、非常にいい用紙を使っているので、いまでもきれいな本が多いですね。
    2014年05月09日 11:59
  • ChinchikoPapa

    少し以前の記事まで、ごていねいにnice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2014年05月11日 23:36
  • ChinchikoPapa

    朝なかなか開かない踏み切りに、やむなく歩道橋をわたっているので、西武線の地下化はうらやましいですね。nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
    2014年05月15日 16:56

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