1973年(昭和48)に万里村ゆき子が詩を書き、まるでロシアのヒクメットによる現代バレエのような『愛の伝説』Click!とタイトルされた同作には、坂田晃一が曲をつけている。『愛の伝説』を唄ったのは、いまやグループそのものが“伝説化”してしまった「まがじん」という5人組だ。
夕暮れどきに、目白崖線に拡がった下落合の丘上や斜面の坂道に立っていると、南に見える新宿全体がこの歌詞のとおり、まるで湖の底に沈んだ街のように見えることがある。新宿の街がオレンジ色に包まれ、やがてはブルーの薄闇に沈んでいく瞬間だ。ちょうど、横尾忠則がデザインしたアルバムジャケットClick!のような趣きなのだが、横尾はニューヨークのビル街を“アガルタ”の首都シャンバラに見立てたのに対し、万理村ゆき子は新宿の街々を湖底に沈めてみせた。
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たそがれの都会はブルーな湖
青ざめた車が泳いでいくよ
帰る空なくした悲しげな鳩が
公園の片隅震えて鳴くよ
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1973年(昭和48)当時は、東京の空や空気、河川などがもっとも汚れていた時代Click!で、万理村ゆき子には公園や広場などにいるドバトたちの群れが、気持ちよく飛べるような本来の空には見えなかったのだろう。やや窪地になった新宿の牛込柳町交差点では、連日のように光化学スモッグ注意報が出て、午前10時だというのにまるで午後3時ぐらいの弱々しい陽射しだったのを憶えている。「帰る空」をなくしているのは、ハトばかりでなく人も同様で、とても人間の住むところじゃねえや・・・などという言葉Click!が、東京市街地のあちこちから聞こえてきた時代だった。ちなみに、下落合にはドバトの数は少なく、「デデーポッポー」のキジバト(ヤマバト)を多く見かける。
また、この歌詞には、夢や希望を抱いて東京へとやってきた、当時の若い子たちの心情もこめられているように感じる。70年代の前半は、フーテンやヒッピーに象徴されるように、自分がなぜ存在しここにいるのか、いまなにをやっているのか?・・・の意味に迷い、多くの若い子たちが歩みをゆるめ、しばらく立ちどまって考えた時代のように思える。それは、さまざまな社会的な矛盾や悲惨な破綻を目の前にし、理想と現実との乖離感にひるんだ瞬間でもあったのだろう。万理村ゆき子がどこの出身かは知らないけれど、おめおめとこのまま故郷へともどることはできないが、東京にも自身のアイデンティティの根を下ろせる場所がどこにも見つからない・・・という哀しみだ。
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こがらしの都会はつめたい湖
灰色の三日月映しているよ
微笑を忘れた魚たちの群れが
地下鉄の入り口流れていくよ
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わたしは、東京が冷たいなどとはまったく思わないし、むしろよその街よりもよっぽどおせっかいで人情にあつい側面があると思うのだが(地域にもよるのかもしれないが)、それは東京に「あこがれて」やってきた若い子たちにはわからない感覚だろう。これは東京地方だけでなく、おそらくどこの街にも共通するもので、わたしがたとえば名古屋や大阪に住み、いくら馴染んで溶けこもうと努力をしたところで、言語Click!や風俗習慣、食べものの味など生活文化ひとつとってみても、どこかで、いつまでも疎外感をおぼえつづけるであろう感覚にも通じることではないだろうか。
その昔、わたしがまだ大学3年生なのにもかかわらず、気が早くておせっかいで面倒みがよくてはしゃぎすぎな、小津映画Click!によく登場する杉村春子Click!役のような親戚が、「お嫁さんにどうかしら?」などと写真とともに縁談をもってくる、どこかおっちょこちょいでざっかけなく、はしっこくて憎めない土地、それが江戸東京の街だと思っている。
「都会は灰色」とは、70年代によくいわれたフレーズなのだが、確かにビルや道路の多くは当時もいまも灰色をしているのだけれどw、この土地の人間にしてみれば、多くの場合「東京は灰色だ」とも「砂漠だ」とも思わない。なぜなら、その土地に営々と築かれて眠る物語が、先祖たちが残した軌跡の数々が、たとえいまは灰色のビルに遮られていたとしても、どこからか透けて垣間見ることができるからだ。それは、東京へとやってきた若い子たちの多くが、自身の先祖たちが静かに眠り、父母が暮らす生まれ育った故郷を、灰色で砂漠だなどとは、およそ思わないのと同じた。
『愛の伝説』は、1973年(昭和48)から翌年にかけて放映された、ドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV開局20周年記念作品)の主題歌に採用されたが、このドラマの中で下落合の斜面にある家のベランダから、富士女子短期大学(当時)の時計塔Click!を前景に、高層ビルが見える新宿の空を見上げながら、「あなたは東京の空の悪口ばかりいうけど、わたしの故郷の空よ。わたしが生まれ育った空だわ」、あるいは同様に「都会が冷たいなんていうけど、それはウソよ」と、乃手育ちの夏子(浅丘ルリ子)に託していわせる脚本家の想いは、どこか万理村ゆき子がつくった主題歌の詩へ向けた、東京人側からの強情なリプライのような気がしてならないのだ。
◆写真:下落合からの新宿方面の眺望で、歌詞のとおり「ブルーな湖」に調整してみた。
★昔、実家近くに住んでいて親父も好きだった、準レギュラーの加東大介が出てくる1973年12月1日の第9回「父と娘」です。牛乳瓶の底のようなメガネをかけた不動産屋役の梅津栄は、京の公家言葉を研究し現代の舞台や映画に「おじゃる」言葉を復活させた、有名な俳優で書家です。また、アトリエに朝倉理恵がコーヒーを飲みにきて、挿入歌を唄うシーンもこの回。近くのアパートへ、引っ越しの荷物を運ぶリアカーが、藤村俊二とともにすべり落ちていく坂道は、相馬坂よりも傾斜が急な久七坂だったでしょうか。少し大きめのスピーカーか低音が再生できるヘッドホンで聴くと、街の低周波ノイズまでが豊かに響いて、40年前のリアルな下落合サウンドが楽しめます。
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この記事へのコメント
くーぺ
子供心に中野良子さんがキレイな女性だなぁ・・・と
思っていました。
今も「愛の伝説」はたまに聴いていますが、
当時よりも現代に合った詩のように思います。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>kiyoさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ソネブロをやめられるのは残念ですが、Webにアメブロにと・・・これからもご活躍ください。
ここの他の記事のコメント欄からも、当時の中野良子の人気は、とびぬけて高かったことがうかがえますね。みなさん、彼女の面影や演技を強く印象に残しておいでのようです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>redroseさん
古田
この数年(十年余)で西新宿のビル群との距離がずいぶん遠くなってしまったようで、いささか悲しくなりました。
都内の空気は少しは綺麗になっているのでしょうか?
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
西新宿との間に建物が増えるほど、だんだん遠ざかってる気がしますね。神田川の水質と同様に、少しでも大気が清浄化していると思いたいです。確かに、富士山が見える日は急増しているようですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ぼんさんさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
kako
一時、一つ屋根の下に暮らした血縁のある人、ない人たちが、やがて皆、それぞれの道を歩き出すということを既に知っていて、このシーンの音を聴いていると、この「決断」が、その最初の小さな一歩だったのかな…、と思ったりしました。
このドラマの家族の形は、今思うと、ものすごく先見性があったのかもしれないですね。
子どもの頃、夏休みに友達が「田舎に行ってきた」というのを聞くと、その感覚がよくわからなくて、不思議な気持ちになりました。
東京の人間には、自分の道を歩き始めたら、もう帰る場所はないですね…。
Marigreen
ChinchikoPapa
戦前からつづく「家」制度や、山村聰のセリフにある「家族を引っぱる家長といった存在」が、ようやく70年代に入って急速に崩壊をしはじめ、新たな家庭像あるいは家族像といったものが形成されようとしていた、ちょうどそんな過渡期のドラマだったんじゃないかな・・・と、改めて振り返ると思います。
だから、いま聞いても家庭的なテーマや登場する課題にあまり古びた感じがせず、改めて「家庭とは、家族とはなにか?」を考えさせてくれる、現在も「進行中のドラマ」である・・・というような感触になるのではないかと思うのです。大正期に建てられた下落合の大きな西洋館が、立ち退きで解体されるというのも非常に暗示的ですね。
夏休みに、「田舎」へ行ける子がうらやましかった時期がありますね。いまでは、夏休みになると東京が空いて嬉しい・・・と思うのですが。w
ChinchikoPapa
Marigreenさんがあの大学ではなく、東京大学のほうに通われていたら、またちがった「東京」のイメージができていたのかもしれませんね。
うちの親の世代では、どこか東京大空襲の前に東京から逃げ出した人たち(学童疎開は別ですが)を、根本的に信用していないところが見えました。これは、どこか「大江戸の恥はかきすて」みたいな感覚、「あとは野となれ知らないよ」というような感覚に通じるものを、薄っすらと感じていたからでしょうか。
カネはせっせと東京で稼ぐけど、いざとなったら「土地を売る」(逃げていく)人たちの姿は、どこにも行くところのない地付きの人間からすれば、とても卑怯に見えるんだと思います。ちょうど、景色のいいところをリゾート開発し、人が集まらず採算がとれなくなったら尻ぬぐいもせずサッと引き上げて、あとには自然破壊の無残な廃墟だけが残っている・・・というような、やりっぱなしで壊しっぱなしの無責任なディベロッパーのような姿にも、どこか重なって見えていたんじゃないかと。
中野良子ファンは、女性よりも男のほうが多そうですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
suzuran6
札幌の小学生にとってはひどい街だなぁ~と・・・
今暮らしている東京の空気は意外ときれいなんですよね。ただ、人が多すぎてたまに嫌になることはありますが…
牛込北町の交差点、以前私も少しだけ記事にしたことがありますが、鉛中毒の疑いがあった頃に作られた不思議な信号がまだありますが、そろそろ普通の信号になるのでしょうか?もう少しで、外苑東通りの拡幅がこの交差点まで出来そうですので・・・
ChinchikoPapa
排ガスや排煙による、空気が文字どおりかすんでしまうスモッグは、さすがに70年代の半ばになると少しずつ少なくなってきたように感じたのですが、目には見えないで突然襲われる光化学スモッグのほうは、注意報がかなりあとまで出つづけていたのを憶えています。
そういえば、ずいぶん前に柳町界隈で住民の健康診断から、「鉛中毒」の騒ぎがありましたね。あれも、70年代前半だったように記憶しています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sig
ラジオドラマなんて聞いたことがなかったなあ。自分に関係のあるところがドラマの舞台なら聞いたと思いますが、録音までは気が付かないでしょうね。声だけのドラマを聴くのもいいものですね。
ChinchikoPapa
早くDVDが出てくれないものかと首長で待っているのですが、いろいろと権利問題がたいへんなようで、どうやら絶望的のようです。当時、TVの出力I/Fへバナナ端子を差し、ウォークマン側の入力ミニジャックを手作りして、つなげ、録音していたように記憶しています。
子桜インコ
こんなにたくさんの貴重な言葉が書いてあるのに・・・・
もったいないです。まぼろしの「さよなら・今日は」のようになってしまうのは残念です。また訪問します。ご活躍を。
ChinchikoPapa
「カフェ杏奴」が閉店したのは、昨年(2013年)の2月でした。実は昨年の暮れに、栃木県の足利駅近くの商店街で、新たに「カフェ杏奴」はスタートしています。w もし近くへお出かけの際は、お寄りになってみてください。
http://cafeannu.com/
本の予定はありませんが、洋画家・松下春雄の下落合風景画集(非売品)は、いま計画中です。さて、佐伯祐三の同画集のようにうまく編集できるかどうか、企画を詰めているところです。
それから、今年はこのブログの読者の方からのリクエストで、「海を見たい!」の“予告編”をアップする予定です。なにか、海とからめた記事で掲載したいと考えています。
子桜インコ
そう言えば、最近は忘れかけられた名作がDVDになって発売という事があるようですね。売っているのは本屋さん。。。。そんな機会が訪れてくれるとよいですね。今年は少しのんびり過ごしたいので落合道人様のブログ時々訪れることにします。下落合ファンとして。
子桜インコ
ChinchikoPapa
考えてみますと、グランド劇場の「二丁目三番地」「三丁目四番地」「さよなら・今日は」…の流れのDVDが、1作も出ていないことに気づきます。80年代の作品は販売されているのに、70年代の諸作がいまだお蔵入りしたままなのは寂しいですね。
近々、2005年11月26日の記事にコメントをお寄せいただいたhisaさんのリクエストで、第18回「海を見たい!」の予告編を掲載予定です。偶然にも、hisaさんのガールフレンドが心臓病で、退院後に下落合の聖母病院近くへ住まわれたとうかがいました。おふたりで、ドラマを観られていたそうですが、視聴者側にもさまざまなドラマがあった作品です。ぜひ、DVD化を実現してほしいですね。
wataru joma
ChinchikoPapa
この第9話は、「洋二」の引っ越しに絡んで下落合の急坂が映り、わたしにとっても興味深い回でした。ドラマのスタート時にロケが行われたのは相馬坂ですが、引っ越し荷物を運ぶ坂はさらに傾斜が急な、別の坂だったように記憶しています。
wataru joma
美しいものは、どこか悲しげだといいますが、理恵さんの歌声にもそれを感じます。このシーンを見たのは高校生の頃で、私の中でずっと残っていました。アップ、本当に感謝します。
ChinchikoPapa
またそのうち、なにかのテーマにかけて“予告編”をアップしますね。もうすぐ春ですから、北陸の海岸を旅した「能登路の姉妹」をアップしましょうか。「夏子」と「緑」は、早春の北陸へ向かう列車に乗るために、目白駅から上野へ向かったと思うのですが、近々、大正期の目白駅について書きたいと思っていますので、その記事の下へでも…。^^