暮れにある方から、1932年(昭和7)7月に出版された大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)をいただいた。先にご紹介した『同志会誌』Click!(1939年)ともども、なかなか手に入らないたいへん貴重な落合地域の資料だ。これは、落合地域をとらえるのに、下落合や上落合ばかりでなく西落合(葛ヶ谷)も忘れずによろしく・・・ということなのかもしれない。w
本書を執筆し編集・発行したのは、昭和初期に住職だった大澤永潤で、当時の住所表記でいえば落合町葛ヶ谷41番地の自性院内に在住していた。また、本書出版の資金を提供したのは、落合町下落合2349番地に「金田印刷所」を経営していた金田次郎という人だ。この地番は、落合地域が東京市街へと編入され淀橋区が成立するとともに、下落合の飛び地から旧・西落合2丁目へと編入された、自性院の西隣りに南北に細長く存在している区画だ。自性院の境内は、かつて下落合字大原(東側)と下落合字大上(西側)とにはさまれた位置にあった。
大澤永潤と金田次郎は、両者とも『自性院縁起と葵陰夜話』の発行と同年、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』には登場していないが、同町誌の自性院の項目から引用してみよう。
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自性院 葛ヶ谷四十一番地
西光山無量寺と号す、本尊阿弥陀如来を安置す。開山は賴誉、天文3年(1534年)四月十三日の起工と云ふ、旧御霊社別当寺である。境内七百九十二坪敢て広しと云ふにあらず、伽藍殿堂も決して立派とはいへぬが、何処やら古寺らしい面影がある、西に観音堂あり正観音を安ず、又子育猫地蔵尊を置く、旧来招き猫地蔵と称されて功徳著しいと云ふので尊信するものが少くない。寺内に和讃講及び光明少年少女会が創設されてゐる、現住職大澤永潤師が民衆済度の主旨を奉じて霊的発展に学徳を傾くるところである。(カッコ内は引用者註)
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いまではニャンコ寺、いや、秘仏・猫地蔵Click!を安置する寺として有名な自性院Click!で、新青梅街道には招きネコの像がシンボルとして置かれており、落合地域にお住まいなら一度は目にした方も多いだろう。わたしも、取材や散歩の途中にときどき立ち寄っており、佐伯祐三Click!の作品『堂(絵馬堂)』Click!探しでは、現・住職の方に親切にしていただきお世話になっている。『自性院縁起と葵陰夜話』は、同寺の縁起物語が記述されているのだが、それとは別にもうひとつ貴重なのは、戦前まで寺に代々伝わってきた記録や、葛ヶ谷周辺の伝承を採集している点だ。
寺の記録には、葛ヶ谷一帯が藤原時代(平安期)末ごろから拓かれており、和田山Click!(現・哲学堂公園界隈)には和田義盛の一族郎党が館をかまえていたという伝承が生きていた。和田義盛は、平安末期から活躍した典型的な坂東武者であり、鎌倉幕府の成立では支柱のひとりとして参画し、初代の侍所(さむらいどころ)別当に任命された人物だ。和田氏の軌跡は神奈川県の鎌倉や三浦のほうに色濃く残るが、落合地域を含むこの一帯にも強い史的印象を残している。
中野区側の字(あざな)である「和田」地名や、豊島区は長崎側の「大和田」地名を鎌倉初期からつづく地名として想定できるとの記事Click!を書いたばかりだが、ひょっとすると自性院が採取していた伝承からすれば、鎌倉期以前より和田家とつながる館がここに存在しており、より古い時代から葛ヶ谷・長崎界隈は開拓されていたことになる。確かに、目白崖線下の下落合を横断する鎌倉街道Click!は、頼朝の奥州戦と同時期の鎌倉初期に建設されているという伝承が残り、また七曲坂Click!には頼朝自身による由来話がいまに伝えられている。したがって、和田氏が鎌倉幕府の創設に参加する以前から、一族がこの地一帯を支配する時期があったとすると、これらの伝承・伝説記録は史的にも文脈的にもツジツマがよく合ってくるのだ。
そして「和田山」はもちろん、「和田」や「大和田」といった後世への根強い地名伝承とともに、平安末期から鎌倉時代の最初期にかけての、野方・落合・長崎地域の姿が透けて見えてきそうだ。ちなみに、周辺遺跡の具体的な発掘調査の側面からいえば、和田山に近い下落合西端の目白学園遺跡Click!(=落合遺跡:旧石器時代から現代までつづく重層遺跡)からは平安期の遺構が、中野区と新宿区が協同で設置している、哲学堂公園の南に接した西落合の妙正寺川公園からは、鎌倉期の遺構(妙正寺川No.1遺跡)がすでに発見されている。したがって、『長崎町誌』(1929年)に見られる鎌倉幕府の執権・北条氏の御家人だったと思われ、「長崎」地名の由来になったとされる長崎氏の登場(鎌倉末期と伝わっている)は、もっとずっとあとの時代のことだ。考古学的な調査がほとんど行なわれず、また野方町側や落合町側に残る伝承・伝説との突き合わせが不十分だった時代に作成された、『長崎町誌』の“限界”だろう。
余談だけれど、『長崎町誌』は周囲の町村(高田町・戸塚町・戸塚村・下戸塚村・落合町など)の各町村誌(町村史)に比べ、明らかに長崎町の町長・町会議員・町役場職員・地域ボス・有力者たちの宣伝顕彰パンフレット(=町誌の私物化と自己顕示メディア化)のような、貧弱で情けない内容となっており、かんじんの長崎町の史跡や伝承、住民の暮らしなど街の具体的な姿があまり見えてこない。ここでは意図的にオミットしているのだが、機会があれば一度ご紹介したい。
そしてもうひとつ、古くは葛ヶ谷村(西落合)の鎮守だった葛ヶ谷御霊社にまつわる伝説が、とびきり面白い。ここには、出雲のスサノオ(牛頭天王)と北斗七星(妙見菩薩)の伝説が残っていたのだ。わたしは以前、下落合の相馬邸Click!にまつわる妙見信仰Click!の記事を書く際、落合地域と周辺域には妙見神(ないしは妙見菩薩)を象徴するような事蹟は見あたらないと考えていた。でも、思わぬところに出雲神スサノオとセットになって、妙見神と習合した妙見菩薩が姿を現したのだ。しかも、葛ヶ谷村の谷戸には「妙見山」までが存在していた。この伝承は平安時代の末期、寛治年間の事跡として記録されている。同書の、「葛ヶ谷の起りと鎮守の事」から引用してみよう。
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尚古へから鎮守境内に牛頭天王と村内の谷戸といふ地に妙見山といふことに就いて伝説があります、牛頭天王には或る書にこの神は具には和魂の神、牛頭大神と申しまして、往古より悉く大地を宰り、人々の貧富病快を任じて諸の疫病神の主であると申されてゐます、この神を信ずるものは疫病を除き、禍を転じて福をお授け下さる神様として信仰されてゐます、又妙見山は妙見菩薩即ち「北斗七星又一説にはこの北斗の一星とありますが、又或書には妙見の功徳を説いて七星とし、総じて北極星をいふとあります」 この菩薩を祀りし地といひ伝へられます、経に「この菩薩を信仰するものは眼精清浄なることを得て善く物を見給ふと故に妙見と称す」とあります、
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現・西落合(葛ヶ谷村)の「谷戸」が、はたしてどの谷間を意味し、「妙見山」がどの丘のことをさしているのかはもはや不明だが、明らかに古い時代のこの地域に根づいていた宗教思想がうかがえる貴重な伝説だ。出雲神と妙見神との結びつきは、なにも明治期に将門相馬家が意識し神田明神Click!などを利用した、“結界”づくりだけではなかった。また、下落合の相馬家Click!にちなんだものかどうかは不明だが、『自性院縁起と葵陰夜話』には「相馬音頭」までが収録されている。
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相馬音頭
竹に雀は仙台さんの御紋 相馬六万石九曜の星
夜遊び帰りに東を見れば ほんに凄コツちやとりの声
なんだ太郎七豆腐の豆よ 天保二枚で百六十
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最後に、葛ヶ谷地域に代々伝わった「歓喜舞踊」を引用しておこう。おそらく江戸期につくられたと思われる、いわゆる「念仏踊り」とか「極楽踊り」と呼ばれる農民たちの舞踊で唄われた歌謡だ。多くの場合、鎮守社の豊年祭や盆踊りの際に、営々と歌い継がれてきているものの一種だ。
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今年世がうて、穂に穂がさいて、殿も百姓も嬉しかろ。
ことしや豊年穂に穂が咲いて、道の小草に金がなる、
揃つた揃つた踊子が揃つた、稲の出穂より尚よく揃つた。
盆踊り舞らば品よく踊れ、品のよいのを嫁にとる。
盆が来てうれし、かはい殿さと肩ならべ、
肩ならべても、末に添ふやら添はぬやら。
踊りをどつて、嫁の口なけりや、
一生後家でも、私しやかまはぬ。
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落合西部の葛ヶ谷(西落合)で唄われた歌謡が、下落合や上落合では唄われなかったとは思えない。おそらく、江戸~明治期にはこの近隣一帯で唄われ、踊られた地付き歌謡なのだろう。
◆写真上:新青梅街道の通り沿いにある、自性院の目印=招きネコ。
◆写真中上:上は、自性院境内から撮影した山門(左)と本堂(右)。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる自性院界隈で、下落合2349番地の「金田印刷所」の屋根も写っているだろう。
◆写真中下:上は、1932年(昭和7)に出版された大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)。下は、同年に撮影されたとみられる本書巻頭に掲載された自性院境内。自性院の「あさひさしゆうひかがやくかつらがや みたのじやうどやぢぞうかんのん」というご詠歌が添えられている。
◆写真下:現在の西落合界隈で、多くの家々が空襲をまぬがれているせいか昭和初期の建築があちこちで見られる。下右は、西落合の西側に隣接する旧・野方町の緑濃い風情。
この記事へのコメント
hanamura
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nice!をありがとうございました。>makimakiさん
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北斗七星(妙見神・菩薩)や妙見山、牛頭天王の事蹟は、平安期末の元号で伝えられていますので、長崎氏が登場する鎌倉幕府の北条執権時代より、かなり前ではないかと思います。
ただ、北斗七星信仰のみを取り上げますと、日本では縄文時代から延々とつづいていますので、平安期よりも以前から伝承されたものかもしれません。落合地域は、旧石器時代から現代まで、ほぼ途切れず地層的に重なって各時代の遺跡が見つかりますから、伝説だけで由来となる起点の時代(この伝承ケースは平安時代)と特定するのは早計のように思えますね。
実は、古代から延々とつづく伝説が、各時代の文化的、あるいは宗教的な影響による衣を着せられて、変節しているのかもしれません。
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アヨアン・イゴカー
私は9月頃より第二の治安維持法と思い、大変な危機感、焦燥感を持っております。報道規制をされているマスメディアに一件、マスメディアの存在意義を問われるのだからもっとしっかりしろ、と苦情のメールをいれましたが、なしのつぶてでした。何とかしたい大問題です。ブログを余り政治的な内容にするのはと考え、躊躇していましたが、今回は奴隷の言語に近い表現ではありますが、書いてしまいました。今後も奴隷の言語は使い続けることになると思います。
ChinchikoPapa
現政府は、どうしても国民を「無知蒙昧」状態においておきたいようですね。フクシマも惨憺たるありさまですが、その内実さえ隠蔽しておきたいのだとすれば、もはや「国家五十年の計」を誤っているといわざるをえません。治安維持法は国民の言動を圧殺し、20年後に国を破滅に導いた「亡国」思想の支柱だったわけですが、法の運用統制を担保する第三者委員会が、ふざけたことにマンガのような現状では、もはやなにをかいわんやです。
わたしは、実は学生時代に政治・経済を専攻していたのですが、あえて現代政治や経済については、ここで多くは触れていません。理由は「面白くない」ないしは「深刻すぎる」し、わたしの思想との齟齬からつい批判的に書かざるをえない・・・という理由からなのですが、今回の法案はあまりにも目にあまる、戦後サイテーの政治現象です。
ChinchikoPapa
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nice!をありがとうございました。>doudesyoさん
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nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
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nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
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nice!をありがとうございました。>komekitiさん
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nice!をありがとうございました。>teftefさん
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nice!をありがとうございました。>redroseさん
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Marigreen
アヨアン・イゴカーさんのブログ開いて見ましたが、どこに特定秘密保護法案のこと書いてあるのかわからなかった。
ChinchikoPapa
原発の課題でもそうですが、国民の多数派を占める意見が議会制にもとづく政府にまったく反映されない・・・というのは、洋の東西を問わず古くて新しい政治学のテーマですね。国民と政府ないしは議会との意思乖離は、60年・70年安保を踏まえても、現在の政府自民党が戦後政治でもっとも大きいと感じます。
政府と官僚たちが、国民を置き去りにして高圧的に“ひとり歩き”している危険な現状から、もはや中国や北朝鮮を嗤えないですね。戦前は、内務省や陸軍の暴走でしたが、政府自民党(「自由民主」なんて党名もおこがましい)は、はたしてどこまで暴走するんでしょうか。
アヨアン・イゴカーさんの緊迫感あふれる記事は、以下の最新記事です。
http://boxtreenh.blog.so-net.ne.jp/2013-12-01
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>sonicさん
etwas
猫地蔵は中学校からの帰りによく中を通ったりしていました。
子供の頃の西落合近辺の記憶といえば、この自性院、葛ヶ谷御霊神社、哲学堂公園、野方給水塔、オリエンタル写真工業、豊島プール、角栄マンション、東長崎の縁日あたりでしょうか。
長崎町誌は地元の大地主さんの影響も強いのでしょうかね。
余談ですが、落合南長崎にできたアイテラスのアイは、その頭文字だよね、と地元では言われているようです…
ChinchikoPapa
当時の西落合一帯は、空襲の被害をあまり受けていませんから、戦前からつづく風景がまだあちこちで見られたのではないでしょうか。
「I」の件は、面白いですね。w ただ、『長崎町誌』にはIさんはそれほど目立って登場しておらず、別の面からの有力者や地域ボスのようです。しかも、日本橋区議会議員とか、長崎地域とはまったく場ちがい筋ちがいの人間が巻頭グラビアで肖像写真を大きく掲載する・・・というのは、ちょっと非常識きわまりない出来ですね。
名所旧跡の紹介がたった3ヵ所で、町内の写真がわずか8点(そのうちの多くが役所や郵便局、学校)というのも、周辺の町誌史に比べますととびぬけて貧弱で、他の写真はすべて有力者や町役場、町議会関連の顔写真というのは、いろいろな地域資料と比べますと、ことさら異様に感じてしまいます。著者の肖像写真が、巻頭グラビアの1枚を飾るというのも初めて見ました。
ChinchikoPapa
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