以前、目白文化村Click!の第一文化村を中心に1932年(昭和7)に結成された、生活協同組合「同志会」Click!についてご紹介したことがあった。「同志会」は、下落合の東部にあった家庭購買組合Click!と同様、住民たちが出資し協同で購入した食料品や日用品などを、市価よりも1割ほど安く販売していた。同志会の事務所には会員が常駐しており、夜間に調味料や酒を切らしても、会員なら同会販売所へ行けばすぐに購入することができた。
ところが、「同志会」という下落合の地域団体は、目白文化村で生協組合としての同会が成立するはるか以前、東京府が目白通り沿いにプロジェクトを起ち上げていた落合府営住宅Click!のうち、第一府営住宅の建設計画が動きだしていた1911年(明治44)12月に結成準備の集会が開かれ、翌1912年(明治45)1月に総会を開催して発足している。しかも、同会の会則(1922年現在)にあるように当初は「落合村仲町」、つまり旧・下落合2丁目エリア(現・下落合3~4丁目/中落合の一部)の住民たちが中心になって設立した親睦組織だったのだ。
同会の詳細は、たまたま古書店で見つけて手に入れた、1939年(昭和14)出版の『同志会誌』(下落合同志会・編)を参照して初めて知りえたことだ。同書は、新宿区の図書館にも新宿歴史博物館にも収蔵されていない、きわめて貴重な資料だ。つまり、明治期から存在する下落合2丁目界隈を中心とした「同志会」と、1932年(昭和7)より下落合の目白文化村で誕生した「同志会」とは、同名異団体ということになる。これが、下落合の取材過程で、さまざまなややこしい“証言”につながっていたこともわかった。しかも、ふたつの団体は1932年(昭和7)より、下落合東部~中部(下落合の同志会)と下落合中部(文化村の同志会)とでエリアが一部重なっており、目白文化村では双方の「同志会」に加入していた住民がいたかもしれない。
今日的な課題でいうなら、旧・下落合のおもに東部から中部で語られる「同志会」は、関東大震災Click!を境に町会が成立するはるか以前から、自治組織として活動していた明治末期に由来する親睦・互助団体であり、下落合の中部、特に目白文化村を中心に語られる「同志会」は、生活協同組合として昭和初期に誕生した無教会派クリスチャンがベースの互助団体で、重なった地域の住民が「同志会」と証言する場合、はたしてどちらの組織のことなのかを一歩踏みこんで確認しないと、不十分な取材とともにおかしな記事を書いてしまうことになる。特に第三文化村では、双方の「同志会」加入者がいそうなので要注意だ。
エリアが重なり、会員も重複しそうな互助団体で同じ名前を採用する際に、なんらかの問題は起きなかったのだろうか? 特に、明治末期に由来する下落合の同志会は、1932年(昭和7)に目白文化村で同志会が発足したとき、「同じ名前だと、まぎらわしいからダメじゃん! やめてちょ~だい」というような申し入れをしなかったのだろうか。あるいは、東京市内のあちこちには「同志会」を名のる地域団体が数多くあり、ほとんど互助団体の一般名称化していた時代だったので、ことさら問題視されなかったものだろうか。ちなみに、下落合の同志会は毎月会費を徴収したけれど、目白文化村の同志会は入会金のみで会費は徴収していない。
下落合の同志会は、最終的に町会へと併合された1939年(昭和14)の解散当時、同会本部の所在地が「淀橋区下落合2丁目563番地」、つまり地域の金融機関だった落合信用組合Click!のビル内にあり、同信用組合の金融事業もまた同志会が起業したものだ。落合信用組合は、現在の目白病院の西並び、出光ガソリンスタンドの敷地に建っていた、落合地域で暮らす住民向けの金融機関で、同志会が解散したときの役員記念写真は、同信用組合のエントランスで撮影されている。(冒頭写真) つまり、旧・下落合全体からいえば、同志会はおもに現在の山手通りあたりから東側のエリアで暮らす住民たちを中心に結成された、明治末の親睦・互助団体だったのだ。
結成時の同志会は、住民の「互助親睦」と「福利厚生」を目的に、会員79名からスタートしている。でも、会費(1銭/月)を徴収するこのような団体は地域に馴染まず、大正中期までに会員数は漸減していった。ところが、落合府営住宅が目白通り沿いに建設されつづけ、箱根土地Click!による第一文化村の造成がスタートする1921年(大正10)ごろから、同志会の会員数は急増していくことになる。箱根土地の役員・社員たちや、文化村在住の住民名も名簿には見えている。1911年(明治44)12月の発足準備の段階で制定された、当初の会則(案)は次のようなものだった。
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第一条 本会ハ会員互助ノ懇和親睦ヲ保チ其福利ヲ増進スルコトヲ主トシ併セテ公共事業
ノ整備発達ヲ計ルヲ以テ目的トス
第二条 本会ハ落合村住民ノ有志者ヲ以テ組織シ同志会ト称ス
第三条 本会ノ事務所ハ当分ノ内会長ノ宅ニ置ク
第四条 本会ノ事業ハ大略左ノ如シ
-第一項 会員及其家族ニ於テ慶典凶事アリタル場合ニハ其通知ニ依リ慶弔ノ意ヲ表スルコト
-第二項 会員及其家族ニ於テ兵役ニ服スルモノアル場合ニハ其通知ニヨリ相当ノ取扱
ヲナスコト
-第三項 存立小学校ノ生徒ニシテ毎年三月卒業優等生ニハ奨励ノ為メ会員ノ子弟ニ限リ本会
ヨリ賞状ヲ与フルコト 但校長ノ指名ニ依ル
-第四項 会員相互ノ便利ヲ計リ且ツ若シ紛議ヲ生シタル場合ニハ成ルヘク調停セシムルコト
-第五項 村内公共ノ事項ニ就テハ成ルヘク同一ノ方針ヲ取ルコト
第五条 本会ノ事業ハ総会ニ於テ議定ス会議ハ議事規則ニ依ルモノトス 但シ緊急ノ場合ニハ
評議員会ヲ開キ決定シ追テ総会ノ時承認ヲ経ルモノトス
第六条~第八条 (総会および役員選挙の規定のため略)
第九条 第一条ノ趣旨ヲ(ママ)賛同シテ新ニ加入ヲ望ムモノハ官吏名誉職公吏ノ別ナク会員ノ
紹介ヲ以テ之ヲ諾ス 又事情アリテ退会ヲ申出ルモノニハ之ヲ許スト雖モ在会中ノ会費
ハ返戻セサルモノトス
第十条 本会会費ハ当分ノ内毎月金一銭ト定メ最寄幹事ヘ毎月十五日ニ納ムルヘシ 前条
確定ノ上ハ堅ク遵守スヘキモノナリ
明治四十四年十二月 同志会
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会則は、会員数の急増や住環境の大きな変化にともない、1922年(大正11)、1924年(大正13)、1925年(大正14)、1930年(昭和5)、1931年(昭和6)、1932年(昭和7)の都合6回にわたって改正されている。この中で、注目すべき会則改正は、1925年(大正14)に行われた町制移行にともなう大改正だ。最初期の会則第二条の会員規定は、「本会ハ落合村住民ノ有志者ヲ以テ」とされていたものが、1922年(大正11)には「本会ハ落合村仲町住民ノ有志者ヲ以テ」に変更され、1925年(大正14)では「本会ハ落合町二丁目住民ノ有志者ヲ以テ」に変わっている。
つまり、1924年(大正13)の落合町成立とともに、早くも丁目表記Click!が採用されていたのを、ここでも見てとることができる。(御霊下の下落合五丁目規定はいまだハッキリしないが) 従来の「公式記録」では、丁目の住所表示の採用は1932年(昭和7)の郡制廃止と東京市内への編入、すなわち淀橋区が成立すると同時に規定された住所表記のはずだった。ところが、地元の1925年(大正14)の「出前地図」Click!でも、翌1926年(大正15)の「下落合事情明細図」Click!でも、1927年(昭和2)の「1/8,000の落合町市街図」Click!でも、さらに地元の自治団体である同志会の本資料でも、下落合に丁目が存在した事実を確認できる。下落合の丁目表記を、淀橋区の成立とセットにしたがった政治的ないしは事業的な意図をもつ誰か、あるいは行政側の都合が、どこかにあったのではないかと想定できるのだ。わたしには、不動谷Click!の西への「移動」Click!におぼえる気配や“匂い”と、同質のものが感じられる。
さて、『同志会誌』を見ていて、ハッキリした画家の描画ポイントがある。それは、松下春雄Click!が1926年(大正15)に制作した水彩画『愉しき初夏の一隅』Click!だ。広い庭園のような風情の中、芝庭と思われる広場に独特な洋風の四阿(あずまや)のような建築を描いた作品だ。『同志会誌』の巻頭には、1932年(昭和7)に開催された創立20周年の記念写真が掲載されている。同志会の役員メンバーの背後には、松下春雄が描く洋風四阿がはっきりと写っていた。創立20周年の総会は、同年4月10日の午後1時から5時まで豊島園で開催されている。つまり、わたしが第四府営住宅に近接した公園か?・・・と、疑問符のまま宿題にしていた松下春雄の『愉しき初夏の一隅』は、下落合風景ではなく、松下が描く一連の豊島園シリーズに位置づけられる作品だったことがわかる。この洋風四阿は、豊島園の野外劇場に隣接して建てられた野外音楽堂だった。
下落合の同志会は会員数が増え、会の規模が大きくなるにつれて、活動や事業の規模も拡大していった。会員名簿には、下落合に住むふつうの市民から華族までが名前を連ねている。本資料が貴重なのは、年を追って同会に加入していた会員名簿が付属し、住民の推移や慶弔の時期をピンポイントで特定できるからだ。フルネームを記載することさえ「畏れ多」く、「やんごと」なき華族の会員は「〇〇某」などという記述があるのも面白い。下落合753番地の「九条某」Click!をはじめ、このブログではお馴染みの名前が数多く登場してくるのだが、それはまた、別の物語・・・。
◆写真上:1939年(昭和14)4月に、下落合2丁目563番地の同志会本部(落合信用組合)前で撮影された同志会解散の記念写真。背後の信用組合入口には、同会の会旗が見える。
◆写真中上:1939年(昭和14)に出版された、『同志会誌』の表紙(左)と奥付(右)。
◆写真中下:上左は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる落合信用組合(同志会)。上右は、同志会跡の現状。下は、1932年(昭和7)に豊島園の音楽堂で撮影された20周年記念写真。
◆写真下:上は、1926年(大正15)に制作された松下春雄『愉しき初夏の一隅』。下は、おそらく大正末に撮影された豊島園の音楽堂で同園観光絵ハガキに残る1枚。まるで松下春雄のモチーフのように、バラ園で遊ぶ少女たちの姿がとらえられている。
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