わたしは音楽が好きなのだが、それを聞くためのオーディオ装置にも興味をもってきた。大きなエンクロージャに、ジーメンスのコアキシャルユニット(同軸2ウェイ)をぶちこんで自作したこともあるのだけれど、30代後半からは、クラシックはタンノイにJAZZはJBLへと収斂してきた。アンプは、上杉研究所のプリとATMのパワーとで、やわらかい管球式のものを愛用してきた。もっとも、アンプもスピーカーも家族に邪魔扱いされて、現在は音の嗜好もかなり変化してきている。サウンドに関する影響は、やはりJAZZとクラシックの双方を聴く『音の素描』の著書でも有名な、オーディオ評論家の菅野沖彦から影響を受けたものだ。もっとも、わたしは音楽のコンテンツが好きなのであって、決して機械好きではないのだが・・・。
菅野沖彦は、マッキントッシュ(McIntosh)党として有名なのだが、わたしはとびきり高価な同社の製品には手がとどかない。だから、影響を受けたのは機器としてのオーディオではなく、音のとらえ方あるいはサウンドの味わい方・・・とでもいうべきだろうか。ちなみに、オーディオ好きな人が「マッキントッシュ」と聞けば、PCClick!ではなくアンプやスピーカーを一義的にイメージするだろう。わたしもアップル社から同機が発売されたとき、「なんで米国の老舗オーディオブランド?」と不可解に感じたのを憶えている。菅野沖彦は、どちらかといえばレンジの広大な伸びのある明るいサウンド(JBLやMcIntosh)でJAZZやクラシックを聴き、たまにまとまりのある同軸かワンホーンのスピーカーで、ヴォーカルや小編成ないしはソロのクラシックを楽しむのがお好きなようだ。
そのパイプをくゆらすお馴染みの菅野沖彦が、三岸節子Click!と独立美術協会へともに参加し、戦後に「別居結婚」をしていた洋画家・菅野圭介の甥であることを、三岸好太郎Click!・節子夫妻の孫にあたる山本愛子様からうかがって、わたしはわが耳を疑った。しかも、鷺宮にある三岸アトリエClick!の螺旋階段で、三岸節子と菅野圭介の親族たちとともに、いまだ白髪ではなく若々しい菅野沖彦が写っている写真にも、改めて気がついた。この写真は、これまで何度も繰り返し別々の書籍や資料で見ていたのだが、おもに三岸節子と菅野圭介を注視していたため、まったく気づかなかったのだ。人と人は、いったいどこでどうつながってくるかわからない。
菅野沖彦は、叔父の菅野圭介から大きな影響を受けたとみられる。音楽の趣味はもちろん、絵画を通じての芸術観や、ブライヤーパイプの趣味までそっくりだ。その様子を、わたしの本棚から1980年代末の愛読書だった、菅野沖彦『音の素描』(音楽之友社)から引用してみよう。
▼
私は小さい時から音楽が大好きだった。また大好きだった人の一人に“タッタ叔父ちゃん”と呼んでいた叔父がいたが、この人は絵画きであった。京都大学の仏文をあと数ヵ月というところで退学して、フランスへ行き、ブラックやフランドランに指導を受けて画家になった。独立美術協会の会員であった。/大変な音楽好きの叔父で、自分が絵を画く時には必ずといってよいほどレコードをかけていたようだ。ゆりかごに入っていた頃の私は、母が姑の仕事を手伝っていたため、いつも、この叔父にミルクと一緒に預けられていたらしく、家で仕事をする叔父が子守役を引き受けてくれたのだという。この叔父がレコードをかけると、きまって私は“タッター、タッター”と音楽に合わせて口ずさみ、ゆりかごをゆらせながら、遊んでいたところから、いつとはなしに“タッタ叔父ちゃん”と呼ぶようになったのである。/どう考えても、私の音楽への興味はこの頃の叔父の影響によるものらしく、音楽の想い出と、この叔父とは私の頭の中で結びついて離れない。「フランダースの古城」、「ノルマンディの秋」、「パイプと大きなコンポチェ」、「蔵王」、「安良里の海」などと題された叔父の作品も、この想い出とは切っても切れない。この叔父には、私の幼年期、少年期、青年期を通じていつも大きな影響を与えられ続けたのである。 (同書「道は遥かなり」より)
▲
菅野沖彦から、サウンドの味わい方について大きな影響を受けていると思われるわたしは、間接的に菅野圭介の趣味の影響を受けていることになるのだけれど、わたしは残念ながらこの画家が好きではない。作品は別にして、三岸節子と戦前の独立美術協会時代、あるいは戦後の「別居結婚」時代に彼女や子どもたちを殴ったり、長女・陽子様がこしらえた料理を気に食わずにちゃぶ台ごとひっくり返したりと、自立できていないメメしい男の代表選手のような行為を繰り返しているからだ。自身ではなにもしないで他者に寄りかかるが、人が作ったものや他者の行為・行動には不満や文句をいい、他人事ないしは傍観者的なヒョ~ロンをたれたりカンシャクを起こしたりするというのは、没主体的でヒキョーかつ情けない男に象徴的な行状だからだ。メシが食いたけりゃ、自分で好きなものを作ればいいだけの話だろう。
ただし、わたしは菅野圭介の作品はキライではない。愛知の一宮市三岸節子記念美術館Click!の堤直子様より、同美術館で開催された貴重な『菅野圭介展』図録をお送りいただいた。さっそく拝見すると、彼の風景画には強く惹きつけられる。美術界では「マンネリ化した」といわれて冷遇され、画商たちにも見放された後半生の手馴れた表現のものがいいと思う。特に、茨城の鹿島灘の砂丘へ住みついていたとき、あるいは晩年に神奈川の葉山海岸にアトリエを建てて暮らし海を眺めながら描いた作品は、妙な技巧や衒気、“色気”などなくて素直でストレートに美しく、見とれてしまう。菅野沖彦は、好きな叔父のもとへ遊びにいくと、何度か繰り返し聞かされている。
▼
「芸術の勉強はアカデミックなものではない。音楽学校へ行くとか行かないとかいうことと、音楽家になるということは無関係だ。この叔父ちゃんを見ろ、絵の勉強に学校などへ行ったことはない。なる奴はなる。なれる奴はなれる」
「同じことだ、絵も音楽も。しっかりした技術の裏づけがない芸術は人を感動させることはできないぞ。俺の絵だって、いきなり、あんなデフォルメされたものを描いているのではない。俺にもデッサンを猛勉強した時代もある。似顔だって画けるぞ。学校へ行くよりも一人で勉強することは厳しい。強制されずに自分を自分で訓練することはな。しかし、学校へ行ったって先生まかせで勉強できるものではないぞ。結局は同じことだ。音楽学校卒業、美術学校卒業なんていうのは、あんまの免状じゃないんで、音楽家や画家になることとは無関係のものなんだ」 (同上)
▲
1968年(昭和43)3月に、菅野圭介は末期の食道癌のため何度めかの入院をする。病床で彼は、好きな音楽を聴きたいといいだした。つきっきりで看病していた、叔母(独立美術協会の洋画家・須藤美玲子で、のちに圭介のあとを追って2ヶ月たらずのうちに自裁)から、「タッタが音楽を聴きたがっているから、なんとか病室でレコードをかけられないだろうか」・・・という相談を受け、菅野沖彦はさっそく手持ちのレコードと小型のプレーヤーをもって、3月2日に駆けつけている。
▼
早速、私は小型の再生装置とタッタの好きなレコード、ショパンのバラードやマズルカ、そしてノクターンの数々、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲のいくつか、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタのアルバムを車に積んでかけつけたのであった。病室でのタッタは、まさに骨と皮という表現しかできないほど小さくなり、痛々しい有様だった。食べものは、すべて喉の途中からつながれた管で外へ出され胃にはなにも入らないという。 (同上)
▲
菅野圭介は、天井に白い紙を貼りつけて、病院のベッドに仰臥しながら空想のイメージで絵を描いていた。病院の天井も白くて四角だったのだが、改めて四角い有限の画面を設定しないと絵がイメージできない画家に、菅野沖彦は少なからずショックを受けている。
菅野沖彦が持ちこんだレコードの中から、ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』と、ピアノソナタ第32番(作品111 ハ短調)の第2楽章を繰り返し聴いては、白紙のキャンバスにイメージで絵を描きつづけていた。きっと、菅野沖彦のことだから気をきかせて、叔父の時代にはもっともポピュラーだったワルター・ギーゼキング盤(ベートーヴェン)やクララ・ハスキル盤(ショパン)など、叔父の耳馴れたレコードを持参したものだろう。菅野圭介は、菅野沖彦が音楽とともに見舞った2日後の3月4日に、天井のキャンバスへ心で絵を描きつづけながら死去している。まだ53歳だった。
わたしは学生時代、ヘタクソなJAZZピアノをいたずらしていたことがあった。メロディラインまではなんとか弾けるものの、いざインプロヴィゼーションになるととたんに支離滅裂で破たんし、メチャクチャになるという、とんでもない「フリーJAZZピアノ」だったのだが、その練習に使っていたのが菅野沖彦の弟である、JAZZピアニストの菅野邦彦が監修した教本だった。おそらく、菅野邦彦もまた、叔父・菅野圭介から多大な影響を受けていたと思うのだが、それはまた、別の物語。
◆写真上:冬になると、管球式のプリアンプやパワーアンプとネコの相性は抜群にいいようだ。
◆写真中上:マッキントッシュ社の代表的な製品で、パワーアンプのMC2102(左)とスピーカーシステムXRT22s(右)。ともに菅野沖彦好みのノビノビとした明るいサウンドで、ことにアンプのインジケータのカラーは「マッキンブルー」と呼ばれオーディオ好きの憧れだった。
◆写真中下:左は、戦後間もないころの撮影とみられる鷺宮・三岸アトリエの螺旋階段にすわる菅野圭介。右は、1988年(昭和53)に自宅オーディオルームで撮影された菅野沖彦。
◆写真下:左は、2010~2011年(平成22~23)に横須賀美術館や一宮市三岸節子記念美術館などで開催された「菅野圭介展 色彩は夢を見よ」図録。右は、1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された菅野沖彦『音の素描』で、発売と同時に手に入れた憶えがある。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>opas10さん
古田宙
私はライブに敵うものはない、という考えでして、コンサートホール通いを続けております。きのうはオペラシティのホールでこのところ気にいっている東響の定期を聴きました。最近人気演目のサンサーンス『オルガン付き』は、オルガンもよく響いて聴き応えがありましたよ。
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>SORIさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
ChinchikoPapa
アコースティックの、あのお腹の底にまで響く音の風は、生演奏でなければなかなか味わえませんね。これは、クラシックでもJAZZでも同じだと思います。
ホールのでの生演奏は、その空間の特性によってサウンドが大きく左右されますが、オーディオサウンドは自分の好みの部屋で、音楽を好きな味わいに“調整”できる・・・という楽しみがあるかと思います。ただし、その基準となるのは、自分が聴いた好きなホールでの、好きな演奏家による、好きな音色のリアリティへ近づけるための工夫・・・ということになるのでしょうね。
ただ、スピーカーを除いてそのほとんどがデジタル機器になってしまった現在、好みの“サウンド創り”の幅が、アナログ時代に比べずいぶん狭まっているように感じてしまいます。不思議なことに、20世紀のアナログ録音をデジタル機器で聴いても、なかなか「いい音」で鳴ってくれないのは確かで、録音とメディアと再生機器の相性・・・というテーマも、少なからず大きいのではないかと思ってしまいますね。
ChinchikoPapa
フランスから帰国後に開いた、菅野圭介の個展へ出かけた児島善三郎は、作品を観終わったあと作者の前にきて、「よい絵を観させてもらいました」と深々とおじぎをしたそうです。
わたしは、どちらかといえば展覧会や画商(マーケット)を意識していない、晩年作に惹かれるのですが、菅野ファンはどうやら独立美術協会時代の作品へ思い入れがあるようです。確かに、当時の出展作品と並べてみますと、その表現は新鮮ですね。
アトリエで音楽を聴きながら制作したといいますが、なぜか、静寂感や静謐感が漂う画面が多いように感じます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
東 寛雄
今、私は終活の最終段階にある。三岸節子の画集も人手に渡る。これが最後だからと初めて解説文を読んで大発見、彼女は43歳で「菅野圭介」と結婚とある。もしや、と早速検索したら「菅野沖彦は甥」との記載で間違いなくその人物と判明した。だが、それよりもあの菅野沖彦がこんな場面で引用されるほどの有名人だったとは。卒業名簿の職業欄は「ジャズ評論家」、同窓会には来ないから何をしていたか誰も知らない。今度は菅野沖彦を検索したら、老衰により86歳で死去とあり、特徴のある目はそのままに、少しほほが膨らんで、いかにも大家然とした立派な風貌の写真があった。
菅野画伯は京大に入学しながら下宿で絵ばかり描いていて除籍になった。そこから絵に専念、26歳で2年間のパリ留学とある。ライカはこの時のお土産だろう。それにしても授業に出ぬまま24歳まで大学に残り、画業に転じれば2年後には花のパリへ。帰国時には高価なお土産。日本が貧乏だった昭和10年のころ、何十日も船に揺られての大旅行、現地では高名な画家の指導を受けたりと、ずいぶん余裕のある話だ。いったいこのお金はどこから出ているのだろう。圭介の父、つまりは沖彦君のおじいさんは大商人というわけでなく、早稲田大学の英語教授である。
画集の解説を読み進めば、昭和23年に三岸節子が結婚した圭介画伯を「今や忘れられた画家」と評しいている。彼が帰国して画壇に登場したころは斬新な表現が人々を魅了して大きな注目を集めたが、以後はマンネリ化したとかで、表舞台から消えていたようだ。だから「みずゑ」にも登場しなかったのだろうし、もし紹介されたとしても、あの画風は私の好みではないから記憶に残らなかっただろう。菅野圭介のWikipediaには、菅野沖彦の著作「天井に張られた白い紙」の一項がある。クリックしたら抜粋が出てきた。なるほど、画伯と沖彦君の間にはこんな濃密な世界が広がっていたのか。(続く)
東 寛雄
あれやこれやと検索しながら遭遇したのが落合道人のブログだ。そこで更なる驚きとなった。落合道人氏は長女のお孫さんから鷺宮のアトリエで撮影された圭介画伯との写真を見せてもらったという。私が長年探していた人物が笑みを含んだ表情でこちらを見ているではないか。三岸節子が没してもう何十年、若き日の結婚話など遠い、遠い出来事と思っていたら、つい昨日の出来事のように感じられた。この結婚時代は我々の中学、高校と重なる。沖彦君は父親と似た年代のこの叔父を慕いながらから、この世の関するあれやこれやの知識をさずかっていたのだろう。
以上のような次第で、貴ブログからは驚きの発見や貴重な情報をたくさん頂き、深謝いたします。
蛇足ながら、この歳までライカの一件を忘れずにいたのは、この世で巡り合った数多くの人物の中で菅野沖彦君は忘れがたい人物の一人だったこと、友人知人の大半があの世の住人となって、ゴルフも飲み会も昔話となってしまった今では、私は時間の大半を絵を描くことに使い、絵仲間と集ってはお絵描き談義に花を咲かせるのが大の楽しみ、そんな状況によるものと思っております。 ありがとうございました。
ChinchikoPapa
菅野沖彦は、わたしが音楽の再生音にこだわっていた30~40代のころに私淑していた“先生”でして、また彼の弟のピアニスト・菅野邦彦も、ピアノ教本を介しての学生時代の“先生”でした。わたしはそれまで、両氏が兄弟だということを知らずに、「名前が似てるな」ぐらいにしか意識していなかったのはうかつすぎますね。
菅野沖彦は、わたしの時代ですとJAZZ評論家というよりは、JAZZとクラシックを再生するオーディオ評論家のイメージが強く、実際のJAZZ専門誌や「StereoSound」に代表されるオーディオ専門誌では、機器の評価に徹していた印象があります。評論を掲載する音楽誌に合わせ、試聴盤にはJAZZとクラシック、あるいはポップスというようにジャンルを使い分けていましたね。
すでにご覧になったかもしれませんが、菅野沖彦については他にも記事を書いています。拙い記事ですが、よろしければご笑覧ください・
●「レコード演奏家」という趣味と概念。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2020-01-03
●久しぶりに「Stereo Sound」を眺めると。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2017-09-19
また、菅野圭介も独立美術の画家で、三岸節子の再婚相手だったというぐらいの知識しかなかったのですが、三岸アトリエで撮影された叔父と甥がならぶ写真に気づき、改めて一驚したしだいです。菅野圭介は一時期、神奈川県の海辺にアトリエをかまえていますが、そのころの作品がことさら展覧会を意識した力みもとれて、私的には好きな表現時期になります。
菅野家の叔父と甥が写った、バウハウス様式の三岸アトリエ(国登録有形文化財)ですが、先般、保存が本決まりになったようで喜んだばかりだったりします。先週、以下の記事末に報告を入れておりました。末尾の三岸好太郎人形が写る画面は、まさに菅野圭介がしゃがんでいる位置とほぼ同じ位置にあたる、三岸アトリエの螺旋階段です。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2024-05-30