先日、外山卯三郎Click!のご子孫である”次作”様、および笠原吉太郎Click!のご子孫である山中典子様Click!より、相次いで貴重な資料をお送りいただいたのでご紹介したい。先年の「佐伯祐三―下落合の風景―」展の際、江崎晴城様Click!を通じて曾宮一念Click!の長女・夕見様Click!、三岸好太郎・節子夫妻Click!の長女・陽子様Click!および孫の山本愛子様Click!、そして山本様を通じて児島善三郎Click!のご子孫などのみなさまから、貴重な資料や写真類を提供いただいており、さながら当サイトが落合地域をベースにした1930年協会、あるいは独立美術協会へ参加していた画家たちの、ご子孫“同窓会”のような楽しい雰囲気になっている。
外山卯三郎のご子孫である”次作”様からは、外山卯三郎と詩人・野口米次郎の長女・野口一二三(ひふみ)との結婚式の資料をお送りいただいた。結婚前の一二三夫人は、下落合679番地の笠原アトリエへ絵を習いに通っていた笠原吉太郎の弟子のひとりであり、徳川邸Click!のある西坂のすぐ山麓、下落合1146番地に自宅および自身のアトリエClick!があった外山卯三郎とは、笠原邸で出逢っている可能性が高い。同時に、一二三夫人は1930年協会の画家たちと、笠原吉太郎や外山卯三郎を通じて知り合っていると思われる。
のちに、1930年協会の後継画会である独立美術協会に関連する記念写真に、同協会の画家たちに混じって外山卯三郎のみならず、一二三夫人の姿が見られるのもそれをうかがわせるのだ。田上義也の設計で、外山夫妻が井荻にライト風の家を建てて新婚生活をスタートしたとき、近くには下落合630番地から転居してきた里見勝蔵Click!も、ほぼ同時に家を建てて住んでいる。
外山卯三郎のご子孫である”次作”様によれば、井荻の杉並区神戸町114番地にあった外山邸は、戦時中、空襲で直撃弾を受けて炎上しており、全焼した焼け跡の中から発掘されたのが、外山卯三郎と一二三夫人の結婚式における記帳簿だった。結婚式は、1928年(昭和3)11月3日に帝国ホテルで、与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻の媒酌で行われている。記帳簿は、挙式あるいは披露宴に出席した人々の名前が連著されているが、これはほん一部であり列席者のすべてではいだろう。文学関係の出席者が圧倒的に多いのは、一二三夫人の父が高名な詩人だったせいであり、その中には挙式の翌月(同年12月)に1930年協会の会員となる中山巍(たかし)の名前があるが、ほかの主要画家たちが見あたらず、この記帳簿がほんの一部であることをうかがわせる。
1928年(昭和3)の当時、同じ建築家に依頼し、井荻の神戸町の数軒隣りへいっしょに家を建てるほど親しかった里見勝蔵Click!の名前が見えないのは、記帳簿のほかの部分が焼失してしまっているせいだろうか。この年、佐伯祐三Click!が生きて帰国していたとすれば、米子夫人Click!とともに当然式へ出席していたはずだ。結婚式が行われた11月といえば、下落合1146番地の外山卯三郎アトリエへ、佐伯の第2次滞仏作品が船便で日本へ到着し、そのほとんどが搬入された10月から、わずか1ヶ月しか経過していない。下落合661番地の佐伯アトリエClick!は、佐伯からアトリエを借りた鈴木誠Click!が仕事に使用しており、佐伯の第2次滞仏作品を保管するスペースがないため、ほぼ全作品が下落合1146番地の外山アトリエで保存されている。外山夫妻の挙式のときも、ひょっとすると外山アトリエには佐伯の作品がいまだ山積みになっていたのかもしれない。このとき、外山アトリエを訪れた人々は、おそらく目を見はっただろう。
さて、記帳の名前を追っていくと、笠原吉太郎に関連のあると思われる「笠原光子」の名前が見えている。さっそく山中典子様へお訊ねしたところ、笠原吉太郎の長男・義男様の妻である光子夫人であることが判明した。ひょっとすると、光子夫人と野口一二三は笠原吉太郎について絵を習っていた、お互い弟子仲間だった可能性もある。あるいは、笠原家へ通ううちに野口一二三と光子夫人は急速に親しくなったものだろうか。笠原光子とは別に、現存する記帳簿には見えないが、一二三夫人の師である笠原吉太郎と美寿夫人Click!の署名も、どこかにあったにちがいない。
笠原吉太郎の孫娘にあたる山中典子様からは、笠原作品の貴重なカラー画面をお送りいただいた。親族が集まってパーティを開いた際、ホテル内で行われた笠原吉太郎ミニ展覧会での陳列作品を撮影した写真とのことで、ほとんどモノクロでしか見ることができなかった笠原作品を、カラーの画面でみることができる。風景や静物、室内をモチーフにした画面だが、風景画は描かれた人々の風俗や建物の様子などから、中国旅行(「満州」)における一連の作品群のようだ。それに対して、静物画や室内風景は、下落合の笠原アトリエで描かれたもののように思える。ちなみに、笠原吉太郎は1933年(昭和8)に、「満州」でも個展を開催している。
風景画には、モチーフに道路土手へうがたれたとみられるコンクリートのガードや、寺院ないしは廟と思われる古い伽藍、レンガ造りの住宅の隣りでなんらかの商いをする店舗、川をまたぐ鉄橋や河川敷の鉄塔などが描かれている。どこか異国情緒が感じられる画面なので、昭和初期に「満州」へ旅行したときのスケッチをタブローにしたものだろう。
作品の中で、フラッシュが反射して見にくい画面なのだが、居間ないしは寝室のように見える洋室を描いた室内作品は、笠原邸の内部を描いたものだろうか。手前と奥には椅子が置かれ、床にはマガジンラックないしはワゴンのようなものが見えている。正面にあるドア横の壁には、コートか浴衣のような衣類が架かっている。風が室内に吹きこんでいるのだろうか、画面右端のカーテンがややふくらんでいる。射光は左手前からあたっており、左手には大きな窓があるとみられる。
外山卯三郎・一二三夫妻は、結婚後しばらくは下落合にいたようだが、翌1929年(昭和4)に井荻の新居が完成すると、さっそく引っ越している。杉並区神戸町114番地に田上義也の設計で竣工した外山邸は、以前にこちらでもご紹介Click!しているが、どうやら敷地の場所をまちがえていたようだ。1930年(昭和5)に発行された「井荻町全図」の地番採取に、すっかり騙されてしまったらしい。外山邸は、先に特定した敷地の北側に建っていた可能性が高い。ひとつは、現存する外山邸の外観写真が、空中写真にとらえられた邸と一致しないこと。ふたつめは、外山邸が空襲で全焼したことが判明したのだが、以前に特定した邸は戦後まで焼けていないからだ。外山邸の貴重な写真類も入手しているので、このテーマについてはまた、改めて記事に書いてみたい。
◆写真上:中国北部(旧・満州)の、街角を描いたとみられる笠原吉太郎『風景A』(以下仮題)。
◆写真中上:上左は、1978年(昭和53)1月25日に外山卯三郎が75歳の誕生日を迎えた際、戦災で焼けた邸跡から発見された一二三夫人との結婚式の記帳簿について記した覚え書。上右・中は、文学界のそうそうたるメンバーの署名が並ぶ記帳簿。その中には、おそらく一二三夫人と仲よしだったとみられる笠原光子の署名も見える。下左は、1930年協会のスポークスマン的な存在だったころの外山卯三郎。下右は、笠原吉太郎の画弟子だった一二三夫人。
◆写真中下:上・下左は、1932年(昭和7)ごろに中国の風景を描かれたとみられる笠原吉太郎『風景B』『風景C』『風景D』。下右は、笠原邸の室内を描いた可能性がある同『室内風景』。
◆写真下:上・下左は、筆を使わずペインティングナイフのみで描かれたマチエールClick!がよくわかる笠原吉太郎『静物A』『静物B』で、大量の絵具を消費する厚塗りの描写だ。下右は、いつも貴重な資料をお送りいただく笠原吉太郎・美寿夫妻の三女・昌代様の長女・山中典子様。
この記事へのコメント
NO14Ruggerman
落四小学校時代同学年同窓生だったことが判って驚きました。
尤も一度も会話を交わしたことがなかったので全く記憶に
無いのですが・・・
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
ChinchikoPapa
鈴木誠のお孫さんは、おふたりのお嬢さんしか存じ上げないのですが、孫息子さんもいらしたんですね。落四小時代は、鈴木誠アトリエの母屋のほうから通われていたのでしょうが、なんだか中村彝アトリエ記念館になってみますと、不思議な感覚にとらわれますね。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>くらいふさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
NO14Ruggerman
つまりふたりのお嬢さんのどちらかだと思います。
中村彝アトリエが記念館になった話題からそんな
ことが判明したのでした。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
あっ、ではお会いしたことがあるかもしれません。
落一と落四の小学校は、画家のご子孫がずいぶん通われていますね。
kako
どこかで見たことがある気がしたのは、以前のPapaさんの記事でした。
この人は、なぜ忘れられているのでしょう…?
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
フランスの留学からもどったあと、しばらく宮内省で図案の仕事をしており、画家としてのスタートが遅かったせいもあるかもしれないですね。個展は、大正末からずっと開催していますが、1930年協会へ参加した昭和初期にはすでに40代でしたので、フォーブが中心の同協会の画家たちの中では異色の存在でした。また、日米戦争の前後から絵筆をとらなくなり、戦後は制作をほとんどしていませんので、よけいに印象が薄れてしまったのかもしれません。
ただ、当時は下落合の高良武久・高良とみ夫妻のように、固定ファンが各地にいたようですので、絵は全国あちこちに散らばって残っているのではないかと思います。佐伯祐三も、戦後高名になって以来、作品があちこちから出てきていますから(今でも発見されつづけてますね)、もう少し知名度が上がれば多くの作品が見つけられそうですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sig
ChinchikoPapa
このサイトをスタートしたときには、想像だにしえなかった展開ですね。ただ、ここが乃手ではなく江戸東京の(城)下町ブログのままでいたら、どんなコミュニティが生まれていたものか、ちょっと惜しい気もします。
ところで、わたしも最近気づいたのですが、ブログの登録容量が1GBから、知らぬ間に5倍の5GBまで拡張されていますね。動画を登録される機会の多い、sigさんの「時計仕掛けの昭和館」の本館・別館サイトにも、スケーラブルな余裕が生まれたのではないでしょうか。w
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ぼんさんさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>yamさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>sonicさん