陸軍士官学校で配られた写真。(6)

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 陸軍士官学校(陸士)へ入学された方のお宅に眠っていた、写真資料をシリーズ連載でご紹介してきているが、有償配布された写真Click!には、訓練や演習、分列行進などを撮影したスナップ写真の割合いがもっとも多い。これらの写真は、演習が実施されるたびに、陸士専属の写真部カメラマンが部隊に随行するかたちで演習場を駆けまわり、シャッターを切ったものだろう。
 写真にとらえられている、雑木林や草原、あるいはやや起伏のある風景は、ちょうど落合地域の南から山手線をはさんで東にかけて拡がっていた戸山ヶ原Click!がそうであったように、おそらく座間(相武台)に移転した学校の周辺に確保された、軍事訓練や演習専用の広大な敷地だと思われる。これらの写真が保存されているのは、士官候補生である所有者自身が参加した演習だったからであり、また参加しているご本人か、あるいは同期の友人たちが画面に写っているので、演習が終わったあとの配布時に購入されているのだろう。
 写真には、中隊または小隊ごとに分かれて行われた歩兵戦の訓練から、野戦砲や重・軽機関銃を使った戦闘訓練、1937年(昭和12)に開発された九七式重戦車を投入した戦車戦の演習、所沢の陸軍航空隊と連携した空陸共同戦の演習、弾薬などを運搬する兵站(へいたん)訓練、防空機関砲や高射砲を使った防空演習など、訓練教育の内容はきわめて多岐にわたっている。写真を保存されていた陸士出身の方は、のちに陸軍航空士官学校へと進まれるので、陸軍の戦闘機や爆撃機、偵察機、練習機などの機影をとらえたものも多い。
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 そこに写されている光景は、うちのアルバムに保存された親父の軍事教練などとはまったく異なり、本格的な模擬戦闘そのものだ。親父の学生時代に行われた軍事教練は、陸軍の御殿場演習場で実施されたものだが、小銃の扱いと射撃、ほかにはせいぜい迫撃砲と軽機関銃の射撃訓練ぐらいだったのが、教練の記念写真Click!からうかがえる。だが、陸士の戦闘訓練は、当時の陸軍が保有していたさまざまな種類の兵器が登場している。
 演習の写真を、4~8枚ほどコラージュした記念絵はがきも作成され、学生たちに販売されている。これらの絵はがきには、兵器を大きくとらえた写真は用いられていないので、家族へあてた一般の郵便などに使われていたのだろう。遠景写真が多い絵はがきなのだが、あるいは兵器の微妙な箇所に修正が加えられている可能性があるかもしれない。海軍の写真では、自身が乗り組んでいる軍艦の艦影や艦隊写真が多いのだが、装備している兵器はもちろん艦体に描かれた記号類、艦影の背後に写る風景までが、あちこち修正され消されているケースが多い。風景を消すのは、おそらく母港や艦隊編成などを知られないようにするためだろう。
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 陸士の演習や訓練写真が保存されていた茶色の封筒には、士官候補生として子どもを陸士に入学させていた親の名前が記載されているものもあるので、おそらく親もとへの演習写真の頒布も行なわれたと思われる。前回ご紹介Click!した、学課や校内行事などの様子をとらえた写真などとともに、親もとへは「陸士で元気にやっています」という、学校生活の報告的な意味合いもあったのかもしれない。設定された学課の参観日や、特別に親が子どもに会いにいく機会は、一般の学校に比べればかなり少なかったのではないかと思われる。
 陸士の演習写真はスナップ風のものがほとんどだが、プリントサイズはキャビネ判あるいは手札判が多く、戦前には多かったいわゆるハーフサイズの小さなプリントは存在していない。もともと学生本人や親もとへの頒布を前提としているので、手札判以上のサイズで焼かれていたものだろう。品質のいい印画紙が使われているせいか、現在でも画像が褪せているものが少なく、きわめて鮮明なまま保存され、当時の様子や現場の雰囲気がたいへんリアルに感じられる。
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 6回にわたってご紹介してきた、戦前・戦中を通じて陸士で配布されためずらしい写真だが、このサイトに掲載できたのはおそらく全体の10分の1以下にすぎない。それほど膨大な写真類が、知り合いの方の家に敗戦で廃棄されることなく、長期間にわたって保存されてきた。これらの貴重な写真は、歴史のビジュアルな証言そのものであり、当時、戦争へ向かって突き進んでいた日本そのものの姿にほかならない。これからも、できれば永久に保存していただきたいものだ。

◆写真上:座間(相武台)の丘陵地帯で、行軍演習する陸士の士官候補生たち。
◆写真中上:いずれも、中隊あるいは小隊ごとに分かれた行軍・戦闘演習の様子。
◆写真中下中左は、所沢の陸軍航空隊に所属する戦闘機ないしは攻撃機も参加した演習の様子。中右は、サーチライトで夜空を照らした対空砲火の夜間演習。は、演習に参加したとみられる防空機甲部隊でトラックのうしろにあるのは高射機関砲とみられる。
◆写真下:いずれも、九七式重戦車の機甲部隊による戦車戦の演習。砲塔のうしろに立ちながら搭乗する人物は、戦車の操縦や部隊の陣形などを指示する教官と思われる。

この記事へのコメント

  • tree2

    保存してくれる機関の目当てはありますか? JCIIとか。
    2013年08月20日 00:22
  • アヨアン・イゴカー

    貴重な写真ですね。是非、しっかりと保存して頂きたいものです。
    2013年08月20日 08:29
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mogさん
    2013年08月20日 10:24
  • ChinchikoPapa

    tree2さん、コメントとnice!をありがとうございます。
    公的な保存施設ですと、自治体の資料室や都中央図書館、あるいは国会図書館でしょうか。ただ、収蔵されたままなかなか公開されない事態を避けるためには、いつでもどこからでも参照できる、ちゃんとした画像データベースを整備している機関のほうがいいかもしれませんね。
    2013年08月20日 10:29
  • ChinchikoPapa

    大学を出た直後ぐらいに、リリースされたアルバムですね。仕事が多忙で聴きそびれています。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2013年08月20日 10:32
  • ChinchikoPapa

    あまりに価格が安い料理だと、品質がちょっと気になります。
    nice!をありがとうございました。>tomuyamu9nさん
    2013年08月20日 10:35
  • ChinchikoPapa

    サトウハチローというと、椎名林檎の「りんこのうた」じゃないほうの、親の世代がよく口にしていた「リンゴの唄」でしょうか。nice!をありがとうございました。>鬼瓦ごん子さん
    2013年08月20日 10:41
  • ChinchikoPapa

    下落合の林泉園沿いで暮らしていたバイニング夫人は、大磯にも住んでいたんですね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2013年08月20日 10:48
  • ChinchikoPapa

    今年の夏は、あちこちで満開のサルスベリを見かけました。
    nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2013年08月20日 10:50
  • ChinchikoPapa

    五十鈴神社は、室町時代に勧請されているんですね。丸森伊勢前から遷座しているのは、当時に起きたやはり津波の鎮めのためでしょうか。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2013年08月20日 11:13
  • ChinchikoPapa

    落合地域の崖線擁壁は、先日の房州石は例外的ですが、大正期の大谷石によるものが多いですね。つづいて、大粒の玉砂利をふんだんに混ぜた大正末あたりのコンクリートでしょうか。現在でも、そのまま利用されているケースがまま見られます。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2013年08月20日 11:20
  • ChinchikoPapa

    昼間から賑やかな「夜店市」、楽しそうですねえ。
    nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
    2013年08月20日 11:27
  • ChinchikoPapa

    大きな滝は豪壮でいいのですが、いくつかの段差のある滝も、いろいろな水音が複雑に交叉して響くので飽きませんね。nice!をありがとうございました。>yamさん
    2013年08月20日 11:32
  • ChinchikoPapa

    「氷カフェ」というのが、目についてしまいました。味わってみたいですね。
    nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2013年08月20日 11:34
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
    2013年08月20日 11:36
  • ChinchikoPapa

    今年は、まだ夏休みをとれません。このまま秋へと突入でしょうか。(汗)
    nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2013年08月20日 11:40
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    『陸軍登戸研究所』は、ぜひ観たい記録映画です。同時に、戸山ヶ原の東部にあった防疫研究室については、繰り返し記事に書いていますが、いまだ手つかずになっている戸山ヶ原の西部、着弾地の南側にあった、陸軍科学技術研究所についても詳しく調べてみたいですね。
    2013年08月20日 11:49
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
    2013年08月20日 11:52
  • ChinchikoPapa

    わたしの地方では「おみおつけ」といいますが、夕食には必ず飲むようにしています。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
    2013年08月20日 15:09
  • ChinchikoPapa

    季節によって、湯船につかるつからないが決まるようです。夏は、やはりシャワーのみの入浴が多いですね。nice!をありがとうございました。>ばんさん
    2013年08月20日 15:13
  • ChinchikoPapa

    「組織」が足手まといだと感じたとき、わたしも独立を考えました。
    nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
    2013年08月20日 19:09
  • ChinchikoPapa

    記事を拝見してると、なんだかプラモデルを組み立てたくなってきますね。わたしの場合は船なんですが・・・。nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
    2013年08月20日 19:11
  • sig

    すごいですね。実戦さながらの光景ですね。これでは いやがうえにも士気が高まったことでしょう。
    2013年08月20日 22:58
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    リアルな戦闘訓練ですが、海軍と同様に「敵」「味方」に分かれての演習だったものでしょうか。事前の図上演習も含め、記録が残っていれば詳細な「演習施行要項」まで知りたいですね。
    2013年08月20日 23:45
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>どらいさん
    2013年08月21日 12:59
  • ChinchikoPapa

    8月のはじめでしょうか、新聞で「追いだし部屋」の連載記事が掲載されていました。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2013年08月21日 13:01
  • ChinchikoPapa

    白山の「おとら」は、何度か書きました1923年(大正12)の女子美下宿=関東大震災時の三岸節子下宿に近いのではないかと思います。nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2013年08月21日 13:06
  • ChinchikoPapa

    渚まで50mだったせいか、クルマではなくバイクや自転車のサイドにボードを積んで、海にやってくる近所の人たちのほうが多かったように思います。nice!をありがとうございました。>くーぺさん
    2013年08月21日 13:19
  • Marigreen

    恥を忍んで打ち明けますと、亡父は陸士出身なんですよ。それが戦後裁判官なんて、節操がなさすぎますよね。まだ同期の方で生きておられる人もいて、父が亡くなった時お悔やみの葉書を下さったりするのを見ると、貴重な証言が書かれています。
    2013年08月21日 18:33
  • ChinchikoPapa

    冬期はグラウンドが積雪で、練習しにくい地方の高校ががんばって残っていますね。nice!をありがとうございました。>alba0101さん
    2013年08月21日 18:54
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
    陸士と海軍兵学校は、戦時中でも学科の授業は中断していなかったようですので、勤労動員や兵役で授業停止になっていた旧制中学・高等学校生に比べ、戦後すぐの大学受験ではずいぶん有利だったらしいと、先だて写真の所有者の方にうかがいました。
    小銃を六法全書に持ちかえて、それだけでもお父様はほんとうに幸福だったと思いますよ。
    2013年08月21日 19:08
  • ChinchikoPapa

    鮮やかなカラーフィルムです。モノクロではなくカラーだと、当時の空気感がリアルに感じられますね。貴重な映像と、nice!をありがとうございました。>さつきさん
    2013年08月22日 09:57
  • ChinchikoPapa

    土用の丑の日に食べそこなっていた「う」を、わたしも今週食べに出かけました。nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
    2013年08月22日 10:00
  • ChinchikoPapa

    このところ毎日、夕立と夏雷がありますね。
    nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
    2013年08月22日 17:20
  • うたぞー

    米軍ほどではなかったでしょうが、あの時代の貧しかった日本が
    こんな軍備をととのえていたかと思うと、どれだけ無理をしていた
    のかと思います。
    2013年08月25日 00:46
  • ChinchikoPapa

    風を感じられる、渡り廊下がすてきですね。
    nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2013年08月25日 18:13
  • ChinchikoPapa

    うたぞーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    この写真が撮られたと思われる1941年(昭和16)前後は、軍事費が国家予算の7割を超えていますね。ほとんど軍隊のために、税金が徴収されているような状況です。
    2013年08月25日 18:17
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>くらいふさん
    2013年08月25日 18:27

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Excerpt: 1941年(昭和16)10月、近衛文麿Click!が首相を辞任し東條英機Click!が跡を継ぐと、この国は日本史上でもかつてない犠牲の惨禍と、「亡国」の危機をともなう破局の結末へ向け、まっしぐらに突き..
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