陸軍士官学校で有償配布された写真類Click!には、おそらく学生たちの親もとへとどける学校生活を撮影した写真類が混じっている。そこでは、武道で身体を鍛える様子や、学生たちが演習へ参加する様子、さらに修学旅行先で撮られたと思われる写真などがある。
写真をお貸しいただいた、陸士出身である将校のご子息によれば、親たちが陸士を訪問すると、その日はいつもの学業や日課は免除になり、親を学校の敷地内あちこちへ案内してまわれたそうだ。おそらく、ふだん親しくしている同期の友人たちにも紹介ができたのだろう。ただし、日米戦が激しくなってくると、国内の移動さえままならなくなるので、おそらく陸士を訪問する親たちは激減しているのではないかとみられる。
陸士に入学すると、まず入校式が行なわれる。支給された陸軍の軍服を着て、同期の新入生たちと校庭に並び、校長や教官たちから入校の訓示や学校生活の心得などを聞かされる。(写真①) つづいて、校長や副校長らの騎乗査閲(写真②)が行なわれ、それが終了すると入寮とともに班あるいは級ごと寮室(兵舎)が割り当てられ、陸軍兵士としての装備一式が支給されて学校生活がはじまる。(写真③) 陸軍の士官をめざす学校なので、当然のことながら学課と同等の比重で、きびしい軍事訓練にも重点がおかれるカリキュラムだった。
起床は早く、朝礼ではおそらく軍人勅諭の奉読とともに、東方遥拝が行なわれたと思われる。修学旅行先の宿舎においてだろうか、カーキ色の軍服ではなく白い寝巻のような装いで、東方遥拝(おそらく万歳三唱)をしているめずらしい写真が残されている。(写真④) その旅行先だろうか、海辺の桟橋で釣りをしたり(写真⑤)、浜辺にテントを張って海水浴をしている記念写真(写真⑦)もある。また旅行先か演習中だろうか、班ないしは級ごとに集まって飯盒炊爨(はんごうすいさん)をする光景もとらえられている。(写真⑥) これらの写真は、おそらく悲惨な戦争の記憶とはまったく切り離された、楽しい思い出の数々として士官候補生たちの中に残っていたのではなかろうか。
校内写真では、おそらくこの写真を保存されていた士官候補生も参加されている、武道場における剣道大会の競技場を撮影したもの(写真⑧)や、父兄(ふけい=戦前は戸主である父親と嫡子である長男が「家」を代表する人間という意味から、「父母」とは呼ばれず「父兄」と表現された。中国や朝鮮半島における儒教思想を、そのまま踏襲した明治政府教部省→文部省による男尊女卑教育の非「原日本」的で象徴的な用語)の授業参観日に撮影されたとみられる、陸士の学科授業がとらえられていて興味深い。(冒頭写真) 黒板の上には、「忠君愛国」の扁額がかかげられ、教壇の教官に向かって学生のひとりがなにかを朗読している様子が写っている。
机の配置や人々の姿勢、中央に置かれた箱のようなものなどの様子から、なにかの模擬訓練(試験)のようなのだが、おそらく陸士出身の方がこの写真を見れば、すぐにピンとくる光景だろう。手前に座る人々は、士官候補生の親たちだと思われ、みんな紋付袴や背広で正装して参観していた様子がうかがえる。この親たちの中には、1941年(昭和20)12月8日の太平洋戦争の開始とともに、子どもを陸士に入れたのを後悔した人も少なからずいたにちがいない。
陸士の予科か本科は不明だが、卒業式と思われる写真類(写真⑨⑩⑪)も残されている。この写真類を保存されていた元・陸軍士官の方は、専攻が航空士官なので兵科は課されず、原隊を決められただけでそのまま陸軍航空士官学校へと進まれているのだろう。航空士官は、習得する知識や技術が他の専門科よりもかなり多いため、上等兵から伍長へと昇進する半年間の兵科が全面的に免除されていた。あるいは、卒業写真とみられる光景は、本科の航空士官学校を修業したあと、座間の陸士で行われた卒業式なのかもしれない。
陸士を卒業すると、原隊(士官や兵士が退役まで所属する地域の師団各部隊)へ入隊する。その入隊式をとらえた写真(写真⑫⑬)も、数葉残されている。代々木練兵場(現・代々木公園など)のように見える場所で、入隊式は行われていたようだ。ただし、写真を保存されていた方は航空士官なので勤務は東京市街地ではなく、飛行場のある部隊へ即座に配属されたのだろう。
陸士の写真類には、学科の授業風景はきわめて少なく、ことに実戦さながらに行なわれた各種演習の様子を撮影したものが多い。次回は、陸士があった座間(相武台)の原野や雑木林で行われたとみられる、士官候補生たちの戦闘訓練の様子をご紹介したい。
◆写真上:父母たちによる参観日に撮影されたとみられる、教室における学科の授業風景。
◆写真中上:上の①②は、陸士入校式の様子。下の③は、兵舎と変らない寮室の様子。
◆写真中下:上左の④は、修学旅行先とみられる朝の東方遥拝(万歳三唱)。上右の⑤は、同じく旅行先での自由時間に撮られたとみられる岸壁釣り。中の⑥は、わたしもボーイスカウトでさんざんやらされた飯盒炊爨。下の⑦は、海岸で撮影された水練の記念写真。
◆写真下:上左の⑧は、剣道大会の様子。上右の⑨と中の⑩⑪は、陸士の卒業式を撮影したとみられる写真。下の⑫⑬は、代々木練兵場らしい場所で行われた入隊式の様子。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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nice!をありがとうございました。>ばんさん
sig
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
写真をお借りした方への取材や、陸軍士官学校関連の資料を調べて書いてはいますが、おそらく誤りや勘違いもあるんじゃないかと思います。実際に陸士へ在籍されて方に、校正していただけるといいのですが・・・。
うたぞー
だったのでしょうね。この写真の方々がどれだけ戦後まで生きながらえたか
わかりませんが、多くの優秀な人々を戦争で失ったのは大昔の話では
ないのだなぁと写真が残っていることを見て思います。
ChinchikoPapa
今朝、陸士を出られた方のご子息とメールのやり取りをしたのですが、戦争も末期になると中・高等学校ではすべて授業や講義が停止され、生徒・学生たちは学徒動員や勤労動員で学習どころではなかったのですが、陸士では基礎学習や各科目の教養課程がそのまま継続されていたそうです。だから、敗戦時には一般の生徒・学生と比べ、学力差が歴然としていたといいます。
したがって、1946年(昭和21)に実施された戦後初めての大学入試のとき、動員されて満足に勉強をさせてもらえなかった一般の受験生が不利にならないよう、陸士出身者の合格枠をかなり限定的にしたようです。それだけ、一般の学校の生徒・学生に比べて、戦時中の陸士は教育面で優遇されていた・・・ということでしょうか。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>CROSTONさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>yamさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>くーぺさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
アヨアン・イゴカー
父親の世代の人々がどのような生活を当時していたのか、知りたいと思っています。そういえば、いつだったか、何枚かの白黒写真で、一式陸攻が並んだものを見たことがあります。あれは、誰が持っていたのか。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
このような写真は、おそらく、わたしの次の世代になると「燃えるゴミ」としてあっさり棄てられてしまう可能性が高いように思います。戦争・戦災の写真類も含め、少しでもデジタルデータ化して後世に伝えていきたいものですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
さいたまのエヴァブラウン
将来的にはBL小説を書こうと思っています。
日本は、世界的に有名な同性愛大国であります。
その歴史は、奈良・平安時代に始まり、戦国時代には蒼穹の武人の恋「衆道」が確立され、江戸時代には庶民層に広がり、明治時代になり西欧人とキリスト教文化の渡来により、下火になりましたが、
男色のさかんな薩摩藩の男性が政治の中枢に入ったため、軍関係の学校や旧制高校などで、復活しました。これは戦争が終わるまで、
継続されたそうです。
現在 ~戦時下における性的マイノリティーについて~
~近代における男性同性愛文化と実態について~
を研究をしています。
色々な方の戦争従軍記・旧陸海軍将校・兵の回顧録を読むと、
旧軍では同性愛は御法度ではなく、表に出る事はないのですが、暗黙の了解で容認されていたようです。この時代西欧諸国では同性愛は犯罪として扱われ、ナチス・ドイツではユダヤ人同様、同性愛者は強制収容所へ入れていました。それを考えたなら、日本人は性愛に関してはアジア的なおおらかさを持っていた偉大な民族だと思うのです。
今回の陸軍士官学校の写真は、貴重な記録でもあります。
あと10年で、実際に軍に入営した戦争体験者がいなくなるのですから、貴重な体験談や実話は文章として残すべきですよね。
ChinchikoPapa
一連の写真は、陸軍航空士官学校で配布または販売されたものですが、いまやたいへん貴重な資料ですね。廃棄されずに、よく現代まで保存されたものだと思います。
確かに、日本は同性愛に関しては史的にも寛容なように見えますね。僧、小姓、陰間と時代を問わず、それらしい人物が登場してきますけれど、欧米のように突き詰めて白黒ハッキリ究明することなく、「まあ、あるのかもしれないな」とか「あっても不思議じゃないな」というような、曖昧性を残したまま語られることが多いようです。
こういうところ、アジアの大陸系新モンゴロイドとは異なるポリネシア系古モンゴロイド(原日本)の寛容的でおおらかな文化が、どこかで活きているのかもしれませんね。
藤田三男
ChinchikoPapa
陸軍士官学校は、時代とともに分校化(たとえば「航空」領域)され校舎も変遷しますので、正確に規定するのは専門家でないと難しいかと思います。こちらでご紹介したシリーズ写真は、出所がハッキリしていて所持していた方の経歴や保存形態も明確なケースです。正確な調査・規定となりますと、防衛省資料室(新宿区市谷本村町5-1)へ相談されるのが確実ではないかと思います。