造型美術協会あるいは日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)などを母体として制作されたプロレタリア美術の多くは、思想や運動を直接的に表現する作品が主体だったけれど、中にはそれらを間接的に表現し匂わせる風景画も制作されている。労働者や農民がこぶしを振り挙げたり、仲間が特高に検挙されるのを「同志、あとは引き受けた!」というような直截的な表現に比べ、それらは相対的に「大人しく」、批評会で階級的な自覚や煮つめ方が足りない・・・などと批判されたりするのだが、中国の文革時にあまた描かれた作品や、北朝鮮のアジプロ絵画を想起させるような「そのまんま」表現に比べれば、まだ鑑賞者の想像力を大きく刺激してくれる。
プロレタリア美術展が開かれるたびに、ヤップなどの幹部を中心に批評会が開かれ、絵画的な技巧の問題よりも思想的ないしは政治的なスタンスが優先されて批判されたり、あるいは作者自身が「自己批判」したりするのだが、そのやり取りを読んでいると、はからずも戦争画Click!を描いた画家と軍当局とのやり取りの“陰画”のように思えてきてしまう。国家や特定のイデオロギーが芸術を強力に支配・統制しようとすると、それは抑圧する側(国家権力)と抑圧される側(反体制勢力)とを問わず、はからずも同じ“表情”をみせるということだろうか。
戦後の1961年(昭和36)に、『日本プロレタリア美術史』(造形社)の編集委員会による元・プロレタリア美術家たちに向けて行われたアンケートで、鳥居敏文は「政治的偏向が強すぎたように思います。大きい意味の政治性よりも、その時々の運動に引きまわされすぎたように思います」と回答し、須山計一は「当時のフオーヴイズムなどとの関係を製作の上ではっきりむすびつけることができなかった」と振りかえり、寺島貞志は「何よりもあのような非デモクラチックな組織によって美術は育たないし芸術家の創意が著しく阻害されていた」と書いている。
造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)における美術教育も行われたが、イデオロギー上の“理論”や政治性に重きが置かれすぎて“実技”が相対的に軽視されたものか、プロレタリア美術の多くは基礎的なデッサン力からして稚拙なことが、当の批評会などでも何度か指摘されている。つまり、頭でっかちの美術で実力がそれにともなっていない・・・という問題だ。この課題は、毎年開かれたプロレタリア美術展の批評会を通じても、大なり小なり言及されている。
造形美術研究所(プロレタリア美術研究所)を中心に描かれた作品の中には、近くのダット乗合自動車Click!のバスガールたちClick!にモデルを依頼してたりして(おそらく人物デッサンの実技だろう)、長崎地域あるいは目白通り沿いなどの情景がかなり存在していたのではないかと思っている。でも、多くの作品が特高や憲兵隊に没収され、破却され、行方不明になっている現状では作品自体を目にすることができない。そこで、1928年(昭和3)から開催されていたプロレタリア美術展の出品目録を当たれば、どのような情景がどこで描かれていたのか、ある程度は想定できるだろう。ことさら運動のアジプロ的なタイトルではなく、たとえば平山鉄夫の『新宿駅構内』(1928年)のように、作品が描かれた場所を示唆するタイトルがあれば、おのずと特定できるわけだ。
1928年(昭和3)の第1回プロレタリア美術展から、1932年(昭和7)の弾圧によって最後となった第5回展にいたるまでの出展リストに目を通していくと、さっそく第1回展に大筆敏夫の『長崎村の農民』(1928年)を見つけることができる。「長崎村」と表現されているが、もちろん長崎村は1926年(大正15)より町制へと移行しており、作品が描かれる2年前から長崎町になっていた。おそらく、当時の一般的な地元在住の意識から、あえてタイトルにそう付けたものだろう。落合村も1924年(大正13)から町制に移行しているにもかかわらず、多くの住民たちは昭和初期まで相変わらず「落合村」Click!と表現していたのと同じ感覚だ。
地名の入ったタイトルは、5回の展覧会を通じて多く見かけるのだが、大半は争議が行われていた工場や職場などがある地名であり、また住友セメントや鐘淵紡績などの企業名を入れたタイトルも目立つ。地名としては、村川弥五郎『千住風景』(1928年)や平山鉄夫『新宿駅構内』(1928年)、『隅田川』(1929年)、竹本賢三『石川島』(同)、伏木清治『芝浦』(1930年)など当時の工場地域のものが多いが、単なる『風景』あるいは『工場風景』というタイトルも多数あるので、プロレタリア美術研究所の周辺にモチーフを求めた風景画も、何点か混じっているように感じられる。
ちなみに、1929年(昭和4)に開催された第2回展へ黒澤明は『建築現場に於ける集会』、『農民習作』、『帝国主義戦争反対』、『農民組合へ』、『労働組合へ』の5点を出品しているが、この中で『建築現場に於ける集会』と『農民習作』などが、いかにも造成中だった郊外の新興住宅地や、隣接する農村の姿をほうふつとさせるタイトルとなっている。以下、同年の第2回展における矢部友衛の「展覧会評」から黒澤明の作品評について引用してみよう。(『日本プロレタリア美術史』より)
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黒澤明 1農夫習作 2建築現場における(ママ)集会
作者は非常にテクニシャンである。その事はかってにないであろう、あの膨大な水彩画を見ても解るようにその達者な仕上げに驚かされるであろう。/だが、そのテクニックが、まだアカデミックの形式上に立っているということが何よりの欠点である。/でも氏の最近の働きは題材を見ても解るように非常に進出的態度であるから、次回の展覧会にあっては、そのたくみなテクニックに伴なって内容にまで突き進んでかち得たものを見られるものと期待をもつものである。
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黒澤明は、造形美術研究所の時代から岡本唐貴に付いて絵を勉強をしているので、当初から基礎をみっちり叩きこまれたと思われる。評文は一見、褒めているようないいまわしになっているが、アカデミックなテクニックと表面(うわっ面)ばかりで内容がない・・・といっているに等しい。矢部友衛の批評はいずれも辛辣なものが多いが、黒澤作品評をオブラートに包んでいるのは岡本唐貴の教え子だと、やはりはばかったせいもあるのだろうか。
長崎大和田や五郎窪の周辺では、ダット乗合自動車(のち東京環状乗合自動車Click!)の労働組合が結成されるなど、労働運動が比較的盛んだった地域のようだ。また、隣接する農村地帯へもオルグが入り、周辺では農民運動も芽生えはじめていたのではないだろうか。そのような環境へ、1929年(昭和4)に造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)が建設されていた。
第2回展へ出品している黒澤明は、当然、岡本唐貴が講師をつとめる造形美術研究所へも通ってきていただろう。目白駅から、目白通りを下落合方向へ歩いて、目白(長崎)バス通りの二叉路Click!も近い造形美術研究所へと通う、当時としては180cmの大男をご記憶の方はいないだろうか? 彼の5作品に登場する、「農民」「労働組合」「農民組合」「建築現場」などは、いずれも長崎地域、あるいはその周辺の情景である可能性が高いように思われるのだが。
◆写真上:目白通りから長崎バス通りの二叉路の手前を北へ折れ、長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所へと向かう路地で、道の左手には日ノ出湯が開業していた。
◆写真中上:いずれも1929年(昭和4)の第2回プロレタリア美術展へ出品された作品で、竹本賢三『石川島』(上)、山上嘉吉『四・一六』(下左)、岡本唐貴『争議団の工場襲撃』(下右)。
◆写真中下:上は、1929年(昭和4)制作の矢部友衛『労働葬』。下は、1930年(昭和5)に起きた東京市電争議でデモをする運転士や市電ガールを描いた小野沢亘『市電従業員のデモ』。
◆写真下:左は、岡本唐貴が制作した第2回プロレタリア美術展のポスター(1929年)。右は、大恐慌であふれる失業者へ保険の必要性をアピールする黒澤明『失業保険を作れ』(1929年)。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>sigさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
hanamura
言ってるコトは、まぁ、イイけどねぇ。(大変勉強になりました。)
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
こんな絵、誰も(労働者も市民もw)、自宅の居間に架けておきたくないですねえ。美をめでるどころか、ソワソワとまったく落ち着きません。戦争画とともに、美術とはなにか?…を考えさせてくれる作品群です。
ただ、いつでしたか黒澤明と宮崎駿が対談したときに、大勢の人々(群衆)の画面構成についてのやり取りがあったように記憶しているのですが、黒澤はおもに戦国時代を舞台にした映画作品の絵コンテに、このころの表現体験が非常に役立っているのではないか?・・・という感触をおぼえました。
当時の美術評にもあるように、黒澤の絵の技量は比較的高く、描写や構成力に優れていたことが、のちの映画制作(特に画面構成)へそのまま活かされているのはまちがいなさそうです。宮崎駿は、黒澤の上記のような絵画体験を十分に意識した問いかけだったように思います。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>redroseさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ベッピィさん(今造ROWINGTEAMさん)
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
Marigreen
ところでミスタービーンをちかごろ見ていないですが、どうしているかご存知ありませんか?
ChinchikoPapa
わたしは、風刺や揶揄レベルの「皮肉な笑い」は嫌いではないので、チャップリンは好きですよ。むしろ、純粋な「喜劇」(そのようなものが存在すればですが)のほうが、“笑い”という文化や伝統、歴史などの地域性に直接左右されやすく、かえって“笑い”を一般化しづらくて普遍性を持ちにくいんじゃないかと思います。これは、別に国のちがいに限らず、国内の地域における“笑い”感覚についても言えると思うのですが・・・。
ミスタービーンという人のことは、残念ながら作品も見たことがないし、現在どうしてるかは知りません。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
こちらにも、nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
うたぞー
ようなものが多く、絵を見ていてもそのことを思い出します。
しかしながら、本当に残酷な第二次世界大戦を経て、その文学や
絵画で語られる残酷さが、人間の想像の世界のものでしかないことが
わかりました。そしてその潮流は大きく変わったのではないかと自分なりに
思いました。資本家と労働者の対立は憎しみもないのに殺し合うことに
比べたら平和なことのように思えたことが戦後日本の高度経済成長を
もたらしたというのは言い過ぎでしょうか。
ChinchikoPapa
戦前は、おそらくわたしたちが暮らしている現在の社会状況(あるいは戦後の・・・と言い換えてもいいのかもしれませんが)とは、まったく異なる様相を呈していたようにも思います。行路人(行き倒れ)や餓死者などの数で比較するのは、社会比較としては部分的かつ単純ではありますが、社会保障の概念も含め、戦前と戦後とでは大きく異なっていますね。
戦後の高度経済成長により、経済基盤の“パイ”が大きくなったぶん、生活がとても豊かになりましたけれど、さまざまなヒズミや矛盾が生じているのも、社会の現象面から見れば少なくありません。戦前のように、はっきりとした階級観では割り切れない複雑な社会になったぶん、逆説的な言い方をしますと、それだけ課題の根が見えにくく、かつ把握しづらくなっている・・・とも言えるのかもしれません。
それらの矛盾やヒズミを、限りなく最小に抑えていくのがこれからの社会づくりであり、生活の基盤づくりだとすれば、ことさら騒がしいアジテーションや形式主義的なプロパガンダは不要だとしても、まだまだやるべきことはたくさんある・・・そんな感触を覚えますね。
ChinchikoPapa
山田みほ子
ChinchikoPapa
造形美術研究所=プロレタリア美術研究所は長崎町にありましたので、アリトエ村など芸術家たちの軌跡を追いかけ記録している、豊島区が保存・展示先としてはふさわしいのではないかと思います。
ちょっと、豊島区の美術史に詳しい美術家の方に相談してみますね。少しお時間をいただければ幸いです。なお、わたしへのご連絡は、以下のメールアドレスへ送信いただければとどきます。
tomohiro.kita@gmail.com
ChinchikoPapa
もう少し、資料の詳細をご教示いただければとのお返事でした。また、来週早々にも、豊島区の関連機関へ問い合せをしていただけることになりました。
ちょうどいま、旧・長崎町の北端(旧・平和小学校跡地)に、美術(アトリエ村等)や漫画(トキワ荘)などを中心にした、地域の複合資料展示施設を建設中です。保存先としては、資料保存や収蔵庫もしっかりとしている、そこがもっともふさわしいのではないか・・・というお話でした。
もし、お差し支えなければ、上記のメールアドレスまで所有されています資料類の少し詳しい情報をいただければと存じます。
よろしくお願い申し上げます。
鶴丸光世
大月源二さん、松山文雄さん、岡本唐貴さん、矢部友衛さん等の話しがでたり、よく拙宅にお見えになっていた記憶があります。
小学生の頃、日本橋の丸善で丸木位里さん、赤松俊子さんの原爆の図展を父につれられて行き強烈な印象が残っております。その後この作品が世界的な評価を受けることになってゆきました。
父は戦後、1945年3月10日の東京大空襲の翌日、当時住んでいた神田須田町から徒歩で浅草付近までスケッチブックをもって戦災直後の惨状を描きとめ、それをもとに煙で目が見えなくなった父親の手を引く幼子の絵を描きました。この作品はいま、江戸博物館に所蔵展示されています。
ChinchikoPapa
1928年(昭和3)の第1回プロレタリア美術展から出品されている、川端画学校からナップへと進まれた鶴岡昭彦画伯ですね。モスクワで開催された「国際美術オリンピヤード」展(1932年)にも、作品が選ばれて出品されたと、手もとに記録にはあります。
神田界隈は、3月10日の東京大空襲以前から、上野とともに部分的な空襲を受けていたエリアですので、ずっと神田須田町に住まわれていたとすればたいへんだったかと思います。
江戸東京博物館に収蔵されているのは、『父と娘』でしたね。わたしは、いまだ実際に拝見したことはないのですが、空襲をテーマにした資料等で何度か観たことがあります。今度、同博物館で展示される機会がありましたら、ぜひ実物の画面を拝見したいですね。
ChinchikoPapa
「鶴岡昭彦画伯」は、もちろん鶴丸昭彦画伯の誤入力です。
いつまでもつづく夏のせいか、いまごろ気づきました。
お詫び申し上げます。