下落合へ東西南北から迫る大道路。

十三間通り(新目白通り).JPG
 1944年(昭和19)になると、戦争の激化や資材不足から工事がストップしてたとはいえ、落合地域の住民は、東西南北から直線状に迫ってくる幅員の広い大道路の存在を意識していただろうか。西北と東から迫るのは十三間道路(現・新目白通り)であり、南北から落合地域を東西に分断するように迫るのは改正道路Click!(環六=山手通り)だった。これらの大道路は、まさに落合地域で落ち合うような進め方で工事が進捗していた。
 この時期、北西から迫る十三間道路は、西落合の新青梅街道に到達する地点(現・地下鉄大江戸線・落合南長崎駅あたり)まで、東から迫る十三間道路は早稲田大学の北側、都電の終点であるグランド坂下Click!まで。また、北から迫る改正道路は、すでに目白文化村Click!の第一・第二文化村の東端を削っており、南から迫る改正道路は上落合を東西に分断して、西武電鉄Click!の中井駅へと迫っている。これらの大道路は、既存の道路を拡幅したものとは大きく異なり、郊外住宅地をカーブの少ない真っ直ぐな形状で貫いていた。
 災害時や戦時の火除け地、すなわち防火帯としての役割りも担っていたのだろうが、道幅が十三間(約24m)あるにもかかわらず、早稲田の十三間道路沿いの家々は建物疎開Click!を命じられ、1944年(昭和19)の10月までに道路の北側から神田川までの間に建つ家々が、取り壊されはじめている。これにより、江戸川橋の交差点から早大のグランド坂下、つまり都電の終点・早稲田駅まで50~100mの防火帯36号江戸川線Click!が出現しようとしていた。
 防火帯としての役割のほかに、十三間道路には戦時中から囁かれていたウワサがあった。それは、都内(1943年より東京府→東京都)の陸軍飛行場が爆撃され使用不能になったとき、これら直線状の大道路を戦闘機の代替滑走路として使用する・・・というものだ。国立公文書館の陸軍資料を調べてみても、このウワサの真偽はわからないのだが、中国大陸の幅員の広い道路建設に陸軍が深く関与している状況をみると、あながち兵站や軍事輸送のみを意識した道路建設とは思えないフシがある。国内の、しかも首都圏の大道路であれば、陸軍は工事を認可する過程でさまざまなことを仮定、あるいは構想していると思われるからだ。
十三間通り(北西)1944.jpg
十三間通り(東)1944.jpg
 昔から十三間通り(新目白通りの通称)を通ると、親父はそのたびに何度か「戦時の代替滑走路を意識して造られたんだよなぁ」と口にしていた。また、年配のタクシードライバーからも、わたしが「十三間通りから下落合の氷川社まで」と行き先を告げると、「お客さん、なんで十三間の広くて真っ直ぐな道路にしたか知ってます?」と話しかけられた。「帝都防衛のための戦闘機の滑走路でしょ?」と答えると、「そうなの、だからいい舗装がされてたんだ」・・・と、わたしがタクシーから降りるまでずっと戦時中の想い出話がつづくことになった。
 都内の主な大道路が、代替滑走路の用途として使われるというウワサは、実は戦時中にとどまらない。戦後、連合軍による占領下でも、まったく同じウワサが市民の間で囁かれていた。それは、GHQが都内の主要道路を接収して、“不沈空母”としての代替滑走路にする・・・というものだった。もちろん、米ソ戦を前提とした“構想”だったのだろう。しかも、十三間道路や二十間道路をそのまま使用するのではなく、幅員を100mまで拡幅した広場に近い道路を建設するというもので、明らかにB29やB36の長距離爆撃機を意識したウワサとして流れていた。
改正道路(北)1944.jpg
改正道路(南)1944.jpg
 1984年(昭和59)に出版された、中井英夫『続・黒鳥館戦後日記-西荻窪の青春-』(立風書房)の1947年(昭和22)5月1日の記述に、そのウワサが書きとめられているので引用しよう。
  
 東京のどこそこの道路を百米にひろげて、それは、いざといふ時の滑走路にする為だとか、七百時間以上の飛行経験者はゾクゾク徴用されてゐるとか、いやもう、米ソ戦の噂でもちきり。
  
 火のないところに煙は立たないというが、公式記録には残っていないものの、戦中戦後を通じて東京の大道路を滑走路目的で使用できないだろうか?・・・と考えた、陸軍関係者やGHQの関係筋がいても決しておかしくはないだろう。大きな長距離爆撃機はともかく、当時の戦闘機だったら弾薬や燃料補給の課題さえ解決できれば、十分に離発着ができたと思われるからだ。
道路計画1933.jpg
 いま、十三間通り(新目白通り)沿いでは、電柱をなくす共同溝の設置が急ピッチで進められている。電線や通信線を共同溝へ収容する大規模な工事は、おそらく下落合では1922年(大正11)より造成された目白文化村Click!以来ではないだろうか。文化村では、通信ケーブル(電話線)は収容しきれず地上に残ったけれど、十三間通りの工事はすべてのケーブルを地下へ埋設するようだ。

◆写真上:下落合の南を貫く十三間通りで、右側がケーブル類の共同溝への埋設工事現場。
◆写真中上は、1944年(昭和19)に北西から迫り西落合まできている十三間通り(新目白通り)。は、同年に東側の早稲田から迫る同通り。道路北側の住宅街が同年10月現在、防火帯36号江戸川線建設のための建物疎開で、徐々に解体されているのが見える。
◆写真中下は、1944年(昭和19)に北側から下落合まで達していた改正道路(山手通り)の工事。は、同年に南から上落合を分断し中井駅の手前まできていた改正道路。
◆写真下:1938年(昭和8)の「淀橋区全図」に描かれた、改正道路(山手通り)と十三間通り(新目白通り)の建設予定計画で、現ルートとは微妙に異なっているのが面白い。特に十三間通りは、戸山ヶ原の陸軍施設への物流が意識されたものか、省線・高田馬場駅まで突き抜けている。
十三間道路1978.jpg
十三間道路1976.jpg

この記事へのコメント

  • アヨアン・イゴカー

    >「帝都防衛のための戦闘機の滑走路でしょ?」
    名古屋の100メートル道路も、戦闘機の発着の為、と言うことを聞いたことがあります。
    2012年12月29日 00:13
  • SILENT

    表参道の道路も道幅からか、戦時中滑走路と間違えたグラマンからの機銃掃射があったと、参道近所の八百屋の方から聞いた記憶があります。米軍の航空写真にはどんな記載が、戦時中書かれていたかも興味が湧く道路ですね。
    2012年12月29日 09:48
  • NO14Ruggerman

    私が幼少の頃十三間道路の工事が行われました。
    西武線と並行する部分は十三間道路から曲がると、
    踏切で停車するスペースの確保が難しいから西武線が
    高架になるか地下に潜ると言われていたのですが、
    結局実現せず現状のとおりでした。
    2012年12月29日 14:51
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    実際に隣りの韓国の高速道路では、戦闘機の離着陸実験が行われていますね。鉄道もそうですが、道路の建設でも必ず軍の意向がどこかで反映されているように感じます。
    2012年12月29日 19:38
  • ChinchikoPapa

    大学に入ったばかりのころに出たアルバムですね。当時、D.マレイのアルバムは1枚も持っていなかったと思います。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2012年12月29日 19:41
  • ChinchikoPapa

    シャガールの天井画は残念でした。どこかを修復中か、滅菌の燻蒸中だったものでしょうか? nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2012年12月29日 19:45
  • ChinchikoPapa

    きょうはせっかく晴れて散歩をしたかったのですが、仕事と打ち合わせで1日が終わってしまいました。明日も仕事で、ちょっと年末らしからぬ日々です。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2012年12月29日 19:47
  • ChinchikoPapa

    凡洞というのは、自然にできたトンネルなんでしょうかね。それとも、なんらかの人工的な力が加わったものなのか、ちょっと調べてみたくなります。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2012年12月29日 19:53
  • ChinchikoPapa

    クリスマスのケーキはここ数年、わたしの好きなモンブランにしていたのですが、今年はイチゴのデコレーションケーキにもどされてしまいました。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2012年12月29日 19:55
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    表参道の機銃掃射は、初めて知りました。神宮外苑には、当時から広いスペースがありましたし、もともと以前から青山練兵場の情報記憶とともに、なんらかの軍事施設があると判断されていたものでしょうか。わたしも、米軍が作成した空襲用の作戦地図や空中写真には、どのような記載があるのか知りたいです。
    2012年12月29日 20:46
  • ChinchikoPapa

    スペイン料理は魚介類が多く、わたしの味覚にも合う料理が多いですね。
    nice!をありがとうございました。>CROSTONさん
    2012年12月29日 20:48
  • ChinchikoPapa

    掲載されています原宿のビルで、わたしの親戚の子が学校を出たあと卒制が展示されているというので、一度見に出かけたことがありました。nice!をありがとうございました。>tree2さん
    2012年12月29日 20:51
  • ChinchikoPapa

    NO14Ruggermanさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    1933年(昭和8)当時の計画のままでしたら、十三間道路は西武線をわたって田島橋から栄通りを抜けていきますから、いまでは踏み切りのままだと大渋滞しそうです。w
    わたしの学生時代、グランド坂下から都電が通る明治通り(高戸橋)の交差点まで、舗装も簡易なものであまりクルマが通っておらず、なんらかの工事をしていたような記憶がありますので、江戸川橋から下落合までスムーズに開通したのは、そんな昔ではないようなおぼえがあります。
    わたしも、たまには精密検査をしなければ・・・と思っています。発泡剤+バリウムも胃カメラも、どちらも避けたい検査なんですね。^^;
    2012年12月29日 21:01
  • ChinchikoPapa

    わたしは、明日も仕事が入ってしまったのですが、どうぞよいお年をお迎えください。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2012年12月29日 21:02
  • ChinchikoPapa

    北里研究所本館と宇治山田郵便局の、上品で落ち着いたデザインがステキです。nice!をありがとうございました。>yamさん
    2012年12月29日 22:44
  • ChinchikoPapa

    友だちと、年末にゆっくり飲むのはいいですね。
    nice!をありがとうございました。>tochiさん
    2012年12月29日 22:49
  • NO14Ruggerman

    Papaさん、おっしゃる通りグランド坂下から高戸橋交差点間は
    比較的最近(と言ってももう20年くらい前?いやもっとかも)
    開通した区間ですね。
    西落合1丁目から高戸橋までが先に開通しておりました。
    今は「新目白通り」の名称が定着していますが
    工事中の頃は「十三間道路」又は「放射7号線」と
    大人たちは称していました。
    2012年12月30日 13:10
  • ChinchikoPapa

    証人申請が、うまく裁判所に認められるといいですね。
    nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2012年12月30日 16:16
  • ChinchikoPapa

    世の中には、レッテル貼りや、すぐにカテゴライズしたがる人たちが多いですね。自身で理解不能なことは、そうしておいたほうが安心で気がラクだからでしょう。わたしも、「郷土史研究者」と肩書きつけられてしまうことがありますけれど、わたしは「郷土史」など「研究」しているつもりはさらさらないんですけどね。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
    2012年12月30日 16:21
  • ChinchikoPapa

    NO14Ruggermanさん、重ねてコメントをありがとうございました。
    記事末に、わたしが学生時代と同時期の1978年(昭和53)に撮影された、都電・早稲田駅と十三間通りの写真を掲載しました。新宿歴博が出版した写真集『新宿風景』の1枚です。
    わたしの親父や、タクシードライバーも「十三間道路」あるいは「十三間通り」と呼んでいましたので耳なれており、「新目白通り」という呼称はいまだに馴染めないですね。「どこが目白?」という感覚もありますが(だったら、早稲田通りがあるので落合通りのほうがよかったのに・・・という感覚もw)、目白通りと混同しやすい名称で、典型的なネーミングの失敗作だと思います。現に、いまのタクシードライバーで、新目白通りと目白通りを勘違いする経験が二度ほどありました。
    学生時代に下落合方面へ歩いて帰っていたときは、1978年の写真のようにクルマは走っておらず、人が道路上を歩いていた憶えがあります。わたしも、都電の横をゆっくり歩きながら帰っていました。ときどき、面影橋あたりから北へ折れて、雑司ヶ谷道(新井薬師道)を歩きながら山手線の佐伯ガードへ抜けていきましたね。
    2012年12月30日 16:35
  • ChinchikoPapa

    NO14Ruggermanさん、1970年代後半の早稲田-明治通り間の十三間道路写真を、もう1枚見つけましたのでつづいて掲載しました。こちらは、下戸塚研究会が出版した『我が町の詩・下戸塚』(1976年)からです。
    面影橋あたりから、都電の早稲田駅終点を向いて撮影したものですが、まさにこんな風情のところを歩いて帰っていました。写真の様子からすると、おそらく用地買収が進まなかった区画があって、それで開通してなかったんでしょうね。
    2012年12月30日 17:01
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
    2012年12月30日 17:18
  • ChinchikoPapa

    「けいおん」フィギュア、かわいいですね。w どうぞ、よいお年をお迎えください。nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2012年12月30日 17:20
  • ChinchikoPapa

    sigさん、今年もコメントとnice!をありがとうございました。
    来年もよろしくお願いいたします。どうぞ、よいお年をお迎えください。
    2012年12月30日 19:51
  • fumiko

    ChinchikoPapaさん、ご丁寧なコメントありがとうございました!
    ファミリーのお祝いの場でワインがお役にたてたのはホント嬉しいです。
    ソネ・ブロがご縁で、ChinchikoPapaさんにはたくさんのアドヴァイスをいただきました。私のほうがお礼を言わなければなりません。
    今後ともよろしくお願いいたします。
    良いお年をお迎えください、感謝を込めて
    2012年12月31日 01:41
  • ChinchikoPapa

    fumikoさん、わざわざコメントとnice!をありがとうございます。
    数年、もったいなくてなかなか飲めず、冷暗所で寝かせてしまいましたが、たいへん美味しくいただきました。きょうも、近所の除夜の鐘を聴きながら、しみじみ味わいたいと思います。
    こちらこそ、ほんとうにありがとうございました。
    どうぞ、よいお年をお迎えください。
    2012年12月31日 11:13
  • ChinchikoPapa

    身のまわりで起きた今年の最悪な出来事というのは、やはり金山平三アトリエの喪失でしょうか。日本橋地域に喩えますと、全国から人が集い地元の象徴的な存在だった水天宮が、蠣殻町から消えた・・・というぐらいの残念さです。もっとも、水天宮は同じ日本橋の浜町へ遷座するだけですが、下落合西部=アビラ村(芸術村)の象徴は、二度と元にもどりません。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
    2012年12月31日 11:30
  • ChinchikoPapa

    今年は、仕事は順調だったものの、なにかと周囲へ気をつかってくたびれることが多かったような気がします。よいお年をお迎えください。nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
    2012年12月31日 17:07
  • ChinchikoPapa

    「ジャコ」というのは、関東ではザコ(雑魚)というのですが、瀬戸内のキビナゴの釘煮(佃煮)はうまいですね。ザコと呼ばれるのは、あまりにかわいそうです。nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
    2012年12月31日 17:10
  • SILENT

    落合道人様来年も、興味深いお話お聞かせください。
    くめどもつきぬ幅広い情報の泉、愉しみにしています。
    あと数時間後に始まる新年が明るい話題の多い一年となるよう祈っております。
    2012年12月31日 22:41
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、あけましておめでとうございます。
    リプライが年明けになってしまいました。
    こちらこそ、本年もよろしくお願い申し上げます。
    2013年01月01日 14:12
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2013年01月01日 14:17
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
    2013年01月02日 20:07
  • ChinchikoPapa

    昨年の記事にまで、nice!をありがとうございました。>じみぃさん
    2013年01月04日 13:02
  • etwas

    リンクをたどって来ました。
    私も落合六小に通っていたときに担任の先生から「十三間道路は滑走路としても使うために作った」と聞きましたね。
    あと直接関係のない話かもしれませんが、十三間道路に関する記憶では
    ・昭和47年の時点では中央図書館から東方はまだ工事中だった。
    ・昭和46or47年に地下鉄建設のため?に小学校屋上から測量をしていた。
    ・昭和48年??に自衛隊の演習か何かで戦車が道路を走った。
    子供の頃の記憶でかなり曖昧で申し訳ないです。
    2015年03月04日 14:17
  • ChinchikoPapa

    etwasさん、コメントをありがとうございます。
    またまた、貴重な情報に感謝です。わたしが初めて下落合に足を踏み入れたのは、1974年(昭和49)の高校時代ですので、その直前まで下落合の十三間道路は工事をしていたんですね。
    自衛隊の戦車が、同道路を走ったのは初耳です。下落合界隈で自衛隊の話といいますと、下落合駅前に警察予備隊の宿舎があり、のちに機動隊の宿舎から学生援護会のビルになった……というのは、「桃山」の社長からうかがっています。はたして戦車は、御殿場の北富士演習場へ向けて通行したものでしょうか。
    2015年03月04日 20:14
  • etwas

    本当に戦車だったかと言われるとちょっと自信がありません。もしかしたら装甲車だったかもしれませんね。曖昧な情報で済みません。ネットの検索でも引っかからなくて裏が取れないんですよね。学生援護会のビルはそうでしたか。桃山は入ったことはないのですが、懐かしいです。
    2015年03月05日 01:19
  • ChinchikoPapa

    etwasさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    装甲車ないしはそれに近い車両だとしますと、当時は都内各地で繰り広げられていた学生デモを規制するための、機動隊に装備されていたなんらかの車両の可能性もありそうです。
    下落合駅前の機動隊宿舎は、先日、学生援護会のビルが解体され初めてその敷地の広さに驚いたのですが、60年代は機動隊の関連車両もいっしょに駐留していたと思われます。
    現在は、当時のデモをしていた世代や、規制していた機動隊員の世代の方々が入居する、特養老人ホームになっていますね。なんだか、建物の移り変わりに時代の遷移を感じてしまいます。
    2015年03月05日 10:36
  • ひつじ

    検索していて、このページに辿り着きました。よろしくお願いいたします。

    私も幼いころの記憶で早朝の山手通りを自衛隊が行進していたのを覚えています。

    装甲車や高射砲が池袋方面から新宿方面へ進むのを見ました。幼心にワクワクして見ていましたが、期待する戦車はなかなか現れませんでしたが、何両か見ました。

    一度だけではなく、二度見た記憶があるので間違いないです。
    新目白通りとの交差点から近い、山手通りに面していた自宅の2階窓から見ていました。
    その後、山手通りは拡張整備されたので、もはや当時の家は残っていません。


    窓を開けて見ていたのに寒かった記憶はなく、早朝の朝靄のなかだったと思います。初夏か初秋だったのかもしれません。

    行進を母親が私に見せようと、無理矢理に起こされて見ていました。
    かなり遠い記憶で、多分2、3才のころの記憶と思います。

    私は昭和39年生まれですので、山手通りを戦車が走行していたは昭和41年か42年までのことだと思います。

    戦車などの多数の車両が一般道路を走るので、交通規制はされていましたから、民間の運送業者などには迷惑だったと思います。行進の隊列はかなり長かったです。
    それ以上に、騒音が凄かったと思います。

    戦車はキャタピラに消音ゴムを着けて走行したと、父から聞いたような気がします。それでも早朝に轟音を轟かせて戦車が走るのは近隣住民には迷惑だったのでしょうね。

    因みに私は落合第一小学校、落合中学校に通学しました。
    2015年05月10日 15:59
  • ChinchikoPapa

    ひつじさん、貴重なコメントをありがとうございます。
    夜間あるいは未明に、戦車や装甲車がひっそりと街道を走っていたのは、三菱重工の戦車工場があった大井町から品川あたりでよく聞くエピソードですが、池袋や目白界隈に兵器工場は存在しなかったと思いますので、やはり自衛隊の部隊が移動していたと考えたほうが自然ですね。
    池袋から新宿方面といいますと、市ヶ谷の駐屯地へ向かっていた、あるいは帰隊する途中だったものでしょうか。
    1960年代の半ばに、自営隊員が行進していたというのは、やはり演習帰り、あるいは演習ないしは催事へ参加・合流するために移動していた……という感じがしますね。
    現在でも、新目白通りを走るカーキ色の自衛隊車両を見かけることがありますが、たいがい1~2台のトラックかジープで、隊員の行進や兵器の移動は一度も見たことがありません。
    2015年05月10日 21:26
  • ひつじ

    私が聞いた話だと、当時は自衛隊の観閲式が神宮外苑で行われていたようです。そのために各駐屯地から車両が移動していたようです。
    年1度、早朝に隊列が行進していたようです。山手通りだけではないはずです。
    私が見たのは必ず池袋から新宿方面への行進でした。逆の方向は見た記憶がありません。

    自宅は山手通りと放射7号(新目白通り)の交差点と目白通りまでの間にありました。当時は放射7号と交差点はまだ完成していなかったと思います。幼いころ、放射7号が砂利道で舗装されていなかったように覚えています。


    調べてみると観閲式は昭和47年まで神宮外苑で行われていたようです。そうすると、私が8才まで行進があったことになりますが、そんなに何度も見た記憶はないです。

    私が見たのは朝霞駐屯地からの車両だったのでしょう。

    桃山の社長さんは私もよく存じ上げていました。もう代替わりしていてもしれませんね。割烹は閉店してしまったようですが、美味しかったので残念です。
    2015年05月11日 07:13
  • ChinchikoPapa

    ひつじさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    そうでしたか。現在の中央観閲式は朝霞駐屯地で行われていますけれど、当時は神宮外苑だったのですね。
    わたしが高校時代、初めて下落合に足を踏み入れた1974年の春先には、新目白通りは当然開通していましたけれど(山手通りとの交差点も完成していたと思います)、明治通りから早稲田の都電停留所までは、ところどころに空き地があるだけでできておらず、この記事末に掲載した写真のような状態でした。
    「桃山」の社長さんは、第三文化村の吉田博アトリエ跡(佐伯祐三アトリエの30mほど南の位置です)に住まわれていましたので、近くの喫茶店(カフェ杏奴)でお話をうかがいました。たまに義父母が来たときなど、「桃山」へ料理の出前を注文しますと、ちゃんと料理人がとどけてくれて、最後の仕上げをキッチンでやってくれました。高くて頻繁には食べられませんでしたが、料理の味はうまかったですね。
    2015年05月11日 11:10
  • ひつじ

    ChinchikoPapaさん、懐かしい話題でついつい何度も失礼します。

    1974年ですと、放射7号は完全に完成していましたね。私が5才になる前には完成していたと思いますので、1969年以前のことだと思います。

    中落合2丁目交差点付近の放射7号の開通では、西落合一丁目交差点付近が最後まで民家が残っていたという話を、西落合に住む叔父から聞いたように思います。

    それから1974年だと、下落合の駅前にあるマンションは無くて、空き地だったのではないでしょうか。西部ゴムの跡地と呼んでいたように記憶しています。この空き地で近所の子供は野球をやっていました。74年から75年くらいまでのことだっと思います。私が小学校5、6年生の頃でした。

    この頃までに付近の空き地は消えていきました。カマキリが羽化するような藪が消滅したように思います。

    放射7号は高戸橋の所が開通して飯田橋の方に抜けられるようになったのは、ずっと後のことでしたよね。大学に入ってからだったように思います。もしかすると卒業後だったような気もします。

    また、佐伯アトリエですが、ここが佐伯公園になったのも74年か75年のことだったのではないでしょうか。私が6年生の時だったと思います。ある日突然に、あの細い路地に「佐伯公園」という案内板が掛かったのを覚えています。ストリートビューで確認しましたが、現在の案内板とは違うように思います。当時はあの公園の良さなど全く分からず、面白くない公園という印象しかなく行かなかったです。

    数年前に小学校の同級生と行きましたが、落ち着いた良いところでした。

    カフェ杏奴は覚えてないです。聖母病院の並びにコロッケを売っていた肉屋さんがあったのは覚えています。その辺りに喫茶店があったようにも思いますが、小学生は入らないからなあ。

    最後に2003年頃にご自宅だったか、店舗でだったか忘れましたが桃山の社長さんから聞いたエピソードを書いておきます。多分、桃山が開店した昭和46年頃の話だと思います。聖母病院の方から坂を下ってくる車が、下落合の交差点で事故を起こすことが多発したそうです。

    原因は赤信号無視で突っ込んでくることで、警察の調査では信号無視したドライバーは皆、青信号だったと言ったそうです。

    その錯誤の原因ですが、坂を下ってきた車が信号を確認する時、その背後に桃山の看板が被って見えていたことにあったらしいです。

    昔の桃山の看板は綺麗な青地の看板だったです。
    その青に惑わされて、赤信号が青に見えるということだったらしいのです。

    それで警察署から頼まれて、看板の撤去ということに応じたようです。勿論、桃山さんが不法に設置した看板ではなかったのですが、警察から頼まれては断れなかったと言われていたのを思い出しました。

    大変、興味深いWebサイトを今後も楽しませていただきます。
    2015年05月12日 02:32
  • ChinchikoPapa

    ひつじさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    はい、落合地域における新目白通りは完成していましたが、実は計画名「放射7号線」が全通するのは、おっしゃるとおりずいぶん後年になってからなのです。
    わたしは、落合地域から大学まで歩いて往復していたのですが、下落合から歩き明治通り(環5)まではつづいていましたけれど、そこから先はずっと工事中のままでした。
    この記事の、いちばん下に掲載していますモノクロ写真は、1978年に撮影されたものです。明治通りの入り口から都電の早稲田駅まで、わたしが大学を出る1981年になっても工事をしていました。いまだ解体されない家や、フェンスで囲まれた空き地のままのところが多く、きっと用地買収が遅れに遅れていたのだと思います。
    上記のコメントの中で、NO14Ruggermanさんも書かれていますが、新目白通り(放射7号線)が都電早稲田駅から明治通りまでの工事を終え最終的に完成するのは、わたしも「比較的最近」の感覚がありますね。おそらく、竣工は80年代の半ば以降ではないかと思います。
    駅前の西武ゴム(旧・東京護謨)には、まだなにも建設されていませんでしたね。もちろん、下落合駅も橙色の瓦屋根で、モルタル造りの古い駅舎のままでした。マンションの南側に公園ができ、緑もかなり繁ってきましたので、またカマキリもいるのかもしれません。
    夏の夜、うちのベランダの窓にカブトムシ(♀)が激突し墜落してもがくようになり、神田川にはアユが遡上していますので、また虫たちも増えてきている印象があります。「伝説」となっている、神田川の上をギンヤンマが乱舞する情景を見てみたいものです。
    佐伯公園は、1972年に米子夫人が死去して翌々年に新宿区が買収し、公開されたのは1975年です。わたしが1974年に立ち寄ったときは、米子夫人の死去から1年4か月後のことで、立入禁止のままひっそりとしていて、いまだ公開はされていませんでした。
    聖母病院の北側角にあった肉屋さんは、よく利用してました。学校からの帰り道、お店の前を通るとコロッケやトンカツを揚げる匂いがたまらず、つい買って帰りましたね。いまは、処方箋薬局になっています。
    聖母坂下の「青信号」の話は初耳です。桃山の看板にからみ、そんなエピソードがあったんですね。
    2015年05月12日 11:31

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下落合の「松影道」と「八重垣道」。
Excerpt: のべ1,000万人の読者のみなさん、ご訪問をありがとうございます。 今週の13日(火)の早朝、当ブログへの訪問者(PV)が1,000万人を超えた。落合地域ひいては江戸東京地方の事蹟や物語に、たくさんの..
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Tracked: 2015-01-15 00:00

質屋の看板が目ざわりだった一ノ坂。
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Tracked: 2016-01-22 00:01

大正期からの神高橋はなぜ斜め?
Excerpt: 学生時代から下落合方面への帰路Click!、あるいは仕事の帰り道Click!で帰宅するために、神田川Click!に架かるあちこちの橋をわたってきた。その中で、おそらくわたった回数が多くとても印象的だが..
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Tracked: 2016-02-27 00:01

生産過剰だった関西セメント事業の消費先。
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Tracked: 2016-03-25 00:01

十三間通りの工事あれこれ。(上)
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Tracked: 2016-09-06 00:00