戦後、再生二科会の女性会員第1号になり、のちに同会理事になった藤川栄子Click!は、早くに死去した夫・藤川勇造Click!とともに暮らした戸塚町866番地(高田馬場4丁目)のアトリエへ、1983年(昭和58)11月28日に死去するまで住みつづけた。戦前のアトリエは、1945年(昭和20)の第2次山手空襲Click!で焼失しているが、戦後早々に彼女はアトリエを再建している。
藤川アトリエから、わずか100mほどの西側は空襲の被害をまったく受けておらず、現在でも当時の住宅がまとまって建っているのを見ると、藤川アトリエの焼失がとても残念だ。戦争で、藤川栄子が制作した戦前作品のほとんどが焼失している。その中には、大正末から昭和初期の試行錯誤の時代に、近所の画家たちを模倣して描いた「下落合風景」もあったかもしれない。
焼失する前のアトリエには、数多くの美術家たちが集まって一種の芸術サロン化していた様子がうかがわれる。そのメンバーは、藤川勇造を慕う若い彫刻家だったり、藤川栄子つながりの若い洋画家たちだった。当時の様子を、彫刻家・堀内正和の『藤川栄子さんのこと』から引用してみよう。同文章は、1985年(昭和60)に開催された「藤川栄子回顧展」の図録へ執筆されたものだ。
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勇造は作家として優れていただけでなく、若い後輩たちから敬愛される包容力ゆたかな人柄だったので、彼のもとには彫刻家ばかりでなく画家その他の美術関係者が数多く集まって来た。勇造は朝早くから夕刻までアトリエにこもり『面会謝絶』で制作に打ちこむが、午後6時以降はそれら若者たちの来訪を心よく(ママ)迎え入れたので、アトリエに続く応接室はいつも賑やかであった。その和やかで芸術的な雰囲気の中で交わされる会話に栄子さんは進んで加わり、美術家たちの習性に馴れ親しみ、広く新しい知識を吸収して教養を高め、洋画家としての矜持を身につけていった。
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藤川勇造の親友だった安井曾太郎Click!のもとに、夫の奨めで弟子入りをしていた藤川栄子だが、戸塚町のアトリエでは1930年協会Click!のメンバーたちと盛んに交流している。また、藤川栄子はしばしば下落合の佐伯祐三アトリエClick!を訪れ、佐伯米子Click!らとともにイーゼルを並べてキャンバスに向かう姿が目撃されている。1927年(昭和2)の第14回二科展では、彼女の『サボのある静物』が初入選をはたしている。同作品を二科展で観た1930年協会の木下孝則Click!は、「善くつっこんで描いている。主観の勝った力強さが人の気持を引く。この室で偉才を放っている」と評している。また、『サボのある静物』には帝展の大久保作次郎Click!も注目したようだ。
1930年協会のメンバーに埋めつくされた藤川アトリエの様子を、二科会理事だった山尾薫明が『私と藤川栄子さん』という文章に記録している。山尾薫明は、四国のおカネ持ちから洋画の収集を依頼され、困ったあげく高松出身の藤川勇造・栄子夫妻へ相談に出かけたのが機縁となって、藤川アトリエを頻繁に訪れるようになった。その様子を、同図録から引用してみよう。
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私は当惑して藤川夫妻に相談に行った。その頃藤川夫妻のアトリエは新進気鋭の洋行帰りの佐伯祐三、里見勝蔵、前田寛治、中山魏、林武等の芸術論争の場で、栄子さんは、その世話役で新しい日本画壇発祥の温床になっていた。藤川夫妻は私に安井(曾太郎)、梅原(龍三郎)、坂本(繁二郎)以外の絵は購入してはならぬと言われ、3人の作家を私に紹介され、10年がかりで各約20点、その他ルオー、マチス、ボナール等が収集できた。(カッコ内は引用者註)
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当時、下落合や上落合などに住んでいた1930年協会のメンバーが、こぞって藤川アトリエに集合していた様子が垣間見える。1935年(昭和10)に夫・勇造が急死すると、藤川栄子は4歳の子どもを抱えて途方に暮れたと思うのだが、彼女は絵の道をあきらめなかった。その頑固さ、生真面目な一途さが、のちの表現をめぐる推移や仕事全体のベースに強く感じられる。
藤川栄子が、上落合に住んでいた壺井栄Click!や村山籌子Click!、窪川稲子(佐多稲子Click!)と親しいことに、わたしはずっと不思議さを感じていた。美術分野の仲間ならともかく、彼女たちはみな文学畑の人々だ。壺井栄は、藤川栄子(旧姓・坪井栄)と同姓同名であり、「あら、わたしとあなた、同じ名前よ!」と快活で明るい藤川栄子がまず壺井栄と親しくなり、その後、村山籌子や窪川稲子らを紹介されて交流するようになったものかと想像していた。でも、どうやらその想定はまちがっていたようだ。なぜなら、藤川アトリエの近くには教師になった彼女の姉・坪井操の家があり、労働争議を支援するなど左翼運動に加わっていたからだ。
★その後、本名が「岩井栄」の壺井栄は、1938年(昭和13)発行の「文藝」9月号に掲載された『大根の葉』で作者名を「坪井栄」と誤植され、藤川栄子の本名「坪井栄」と混同された可能性のあることが判明Click!している。
藤川栄子は、高松高等女学校を卒業すると、姉・操が父親を説き伏せて奈良女子高等師範学校に入学している。でも、音楽会に出かけて寄宿舎の門限に遅れ、同校をすぐに退学。先に東京へ出ていた姉・操を頼って、栄子も上京し日本女子大学へ入学するが気に入らず、わずか1ヶ月ほどで退学。1920年(大正9)の20歳のとき、藤川栄子は早稲田大学文学部へ聴講生として入学した。同大学は気に入ったようで、聴講過程だった3年間を無事修了している。早大時代の彼女の師には、坪内逍遥Click!や窪田空穂、西條八十Click!などがいる。
この経歴を見てもわかるように、結婚前の藤川栄子(当時は坪井栄)は姉からの影響が強く、美術分野ではなく文学畑の教育を受けてきていることがわかる。おそらく、藤川アトリエから200mとちょっと、同じ戸塚町に住んでいた教師の姉・坪井操から、壺井栄や窪川稲子、村山籌子たちを、なんらかの地域サークルを通じて紹介された可能性がきわめて高いと思われるのだ。そして、藤川栄子にはもともと文学の素養があるので、彼女たちと急速に親しくなったとみられる。姉・坪井操が死去したときの様子を、藤川栄子自身の文章『姉のこと』から引用してみよう。
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姉の方は、東京と奈良の女高師を、両方同時にパスした。上京を選び理科を卒業した。私は奈良を中退、藤川勇造と結婚した。高田馬場で二丁ほど離れて、姉は家を借りて住んでいた。/何のいきさつだったか、しばらくして、少し年下のある劇作家と一緒になった。/姉が死んだのは、昭和七年か八年かだった。千葉の近郊の小さな町で、すぐ遠浅の海が見えるところだった。一年あまりの、胸の療養も甲斐なく結末をつげたのだ。/もうだめだ、という霧の夕暮れ、私は最後の見舞いに行った。(中略) 「サヨナラ・・・姉さんよ! ベニなんかつけなくたって、まだお前の頬ぺたは赤いや! ホコリはなるだけ吸わぬ様におしよ。」/姉の病気は、熱のあった風邪をかまわず、雨の中を一週間、ストライキの応援に駈けずったのがきっかけだったと憶えている。
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藤川栄子の文章を読むと、姉・坪井操のうしろ姿をいつも見ていたような感触をおぼえる。姉を追いかけ、超えようとして超えられないコンプレックスのような感情を、彼女はいつも抱いていたものだろうか? 姉・操が住んでいたのは、藤川アトリエから「二丁」(約220m)ほどのところだから、同じ戸塚町上戸塚内(現・高田馬場3~4丁目)だったことはまちがいない。ひょっとすると、窪川稲子(佐多稲子)宅の近くだったものか? 戸塚町593番地の窪川稲子宅は、藤川アトリエから西へ直線距離で220mほど、早稲田通りを西進した通り沿いの右手にあった。
戦後の1946年(昭和21)、女流画家協会の設立から盟友となった藤川栄子と三岸節子Click!だが、1983年(昭和58)の夏、ふたりはそろって重い病気にかかり入院している。同図録に掲載された、三岸節子の文章『無邪気な栄子さん』から引用してみよう。
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亡くなる前に一度逢いましょうと、しきりと電話で二人は話しあった。/栄子さんは私の住む大磯の山の上へすぐ飛んでくると言う。しかし栄子さんの家のある高田の馬場から、私の長女の住んでいる所へ行ったとき「あなたの所に行きましょう。」と。不便な大磯に御老体に来て頂くのは恐縮である。私も、もう歩くのが不自由で、一人では出ることができない。近くにいる娘といっしょに行きますと。/こんな老人同士が腹の病気で、私は順天堂病院に、藤川さんは慶応病院に突然入院したのである。/幸い私は大手術のあと退院して静養中、藤川さんがお亡くなりになった。まったく衝撃的な驚きであった。/逢いたかった。話すことが山のようにあった。藤川さんでなくては理解してもらえないことがあまりにも多くあった。それがもう永久に失われた。/藤川栄子さんは可愛い人である。驚くほど無邪気だった。/私はよく藤川さんが雄弁にまくしたてるのをあっけにとられて、アレヨアレヨと舌を巻いて聞くことがいくたびあったことだろう。
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ふたりは性格的に正反対のようで、だからこそ死ぬまでウマが合ったのだろう。藤川栄子は生真面目、どこまでも理詰めかつ雄弁で論理的にものごとをとらえる性格をしていたが、三岸節子はそうではなかったようだ。だからこそ、三岸は彼女を「可愛い人」だと思いつづけたのだろう。
◆写真上:藤川栄子アトリエ跡の近くに残る住宅街で、大正末から昭和初期の雰囲気が漂う。
◆写真中上:1947年(昭和22/左)と1974年(昭和49/右)の空中写真にみる藤川栄子アトリエ。
◆写真中下:上左は、1918年(大正7)の高松高等女学校卒業時における藤川栄子。上右は、1928年(昭和3)に撮影された戸塚町866番地の画室における藤川栄子。下は、藤川栄子が制作した『三人の裸婦』(1936年/左)と『働く婦人達』(1942年/右)で、いずれも当時の二科展出品作だが1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲で焼失したと思われる。
◆写真下:上左は、1967年(昭和42)に描かれた藤川栄子『三人の構図』。上右は、1980年(昭和55)制作の藤川栄子『秋』。下は、生涯を通じて親しかった藤川栄子(左)と三岸節子(右)。
この記事へのコメント
niki
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きっと、藤川栄子の姉・操は優秀で両親にも大切にされ、期待されて育ったんでしょうね。「それに比べて、あなたは・・・」と、栄子は家庭で言われつづけたのかもしれません。
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Marigreen
tree2
ChinchikoPapa
できれば、わたしのブログを分析している時間がおありなら、ぜひ次の本を書くことをお奨めしちゃうのですが・・・。w
このサイトの最初のころにも書いたのですが、「過去は未来を照射する」という言葉があります。似たような言葉で「歴史は繰り返す」というのもありますが、わたしは人の歴史はスパイラル状に進展していくものと捉えていますので、「繰り返す」ことはありえないと考えています。でも、同じ人間世界のことですから、似たような現象は繰り返し起きる可能性が高いという意味で、「過去は未来を照射する」という言葉は好きですね。
このサイトの記事を読まれることで、少しでも日常生活をやや異なる角度から新鮮に見直してみたり、たまに別の角度や視点から改めてモノを眺めてみたり、少し過去の出来事から少し未来のことを想像してみたりすることが可能だとすれば幸いで、作者冥利に尽きるというものです。<(__;)>
ChinchikoPapa
わたしも、藤川栄子は戦前の力強い作品のほうが好きですね。ただ惜しいことに、作品の多くは高田馬場で焼けてしまい、いまや画像しか残っていないものが多いようです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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ひの
藤川栄子さんの一人娘がヨウコ(多分洋子)さんです。
で、ヨウコさんと大村連さん(九段高校の絵の先生)が結婚され同じ場所で絵を教えられていました。
私も子供の頃半年ぐらい習っていました。
で、場所は、今の
高田馬場4丁目28−13 Y・O.マンションかそのとなりぐらいだと思います。
なのでトップの写真は絶対に違います。
私が習っていた時、50年ぐらい前は平屋でした。
ChinchikoPapa
はい、トップの写真は藤川栄子アトリエではありません。もともと藤川勇造が1933年(昭和8)に建てた彫刻アトリエ(その2年後に亡くなりますが)と、妻のための絵画アトリエは、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲で焼失しています。
冒頭の写真は、記事末の写真解説にも書きましたように「藤川栄子アトリエ跡の近くに残る住宅街」です。シチズン時計工場(戦時中は大日本時計工場)と隣りの日之教教団本部あたりを境に、東から伸びた空襲の延焼はストップしており、写真はアトリエ西側の「近く」で焼け残った、近代建築の住宅を撮影したものです。
なお、藤川勇造アトリエ+藤川栄子アトリエの写真は入手していますので、いずれ改めてご紹介したいと考えています。
ひの
了解です。