建築家の吉武東里Click!が、1945年(昭和20)3月に疎開先のふるさと大分で死去したあと、上落合470番地Click!にあった吉武東里邸は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で炎上している。戦後、上落合の邸敷地を処分する際に、遺族が落合第二小学校Click!(現在の落合第五小学校の敷地)へ邸に使われていた大谷石の石材Click!を大量に寄贈した。落二小も同日の空襲で焼けているので、おそらく1日でも早い学校の復興を願っての寄贈だったと思われる。この経緯は、東大の長谷川香様によれば吉武東里のご遺族がハッキリと記憶されていた。
さっそく、昔は落二小だった現在の落合第五小学校を訪ねたところ、中井駅寄りの校庭に接した門脇に、大量の大谷石が保存されているのを見つけた。今回は、落五小の副校長先生にアポイントメントを入れ、それらの石材を間近で観察し、詳細に撮影させていただいたので、島津一郎アトリエClick!に保存されている吉武東里邸の設計図とともにご報告したい。なお、同設計図については、ご遺族の方が近々コピーをとってくださることになっているので、上落合の大きくてオシャレな西洋館・吉武東里邸については、また改めて「訪問」したい。
校長先生をはじめ、この大谷石のいわれをご存じの方は、残念ながら現在の落合第五小学校にはいらっしゃらなかった。お話をさせていただき、過去記事のプリントアウトをご覧になって、むしろビックリされているご様子だった。さっそく校庭を突っきり、大谷石が敷かれた門脇の少し高くなったところへご案内いただく。近くで見ると、大正期に落合地域の住宅建設に用いられた、たとえば下落合の目白文化村Click!や近衛町Click!などで見かける、典型的な大谷石の石材なのが確認できる。しかも、大谷石はほとんどが地面に埋められ、つまり敷石として一面しか露出しておらず、とてもていねいに保存されており、剥落や摩耗などの傷みや風化があまり見られない。
吉武邸は空襲に遭っているので、目白文化村の第四文化村Click!の築垣と同様の焦げ跡を想定していたのだが、いずれの敷石もきれいなまま保存されている。むしろ、空襲の火炎に焼かれず、きれいに残った石材を選び、当時の落二小へ寄贈しているのだろう。これらの石材は、おそらく母屋の基礎となる礎石や、吉武邸の塀に使われていた大谷石ではない。門は大谷石でできていたそうだが、関東大震災Click!時あるいは空襲時に破壊されて倒壊しているそうだ。
設計平面図で確認すると、これらの大谷石は門から玄関へと通じる、当初から吉武邸の敷石に使われていた石材だったと推定できる。吉武邸の設計図面には、これらの大谷石製と思われる敷石が、数えられるだけで50個以上も並んでいる様子が描かれている。もちろん、同設計図は実際に邸が建設される1921年(大正10)以前に制作されているので、竣工時に実際に敷かれていた大谷石の数量とは必ずしも一致しないだろう。そして、大きな邸が全焼しても火災による炎や建物の倒壊などのダメージを受けず、戦後まで比較的良好な状態でそのまま残っていた石材としては、地面に埋められていたこれらエントランス部の敷石にまちがいないだろう。
また、大谷石の表面を細かく観察すると、1本1本ていねいに細かな筋目が入れられているのがわかる。塀や縁石に用いられる大谷石にも、たまにこのような模様(スリット)が入ったものを見かけるのだが、この几帳面な筋目は敷石にする用途であらかじめ選ばれていたと思われ、その上を歩いたときのすべり止め、すなわちスリップ防止の目的で刻まれたものと思われるのだ。
同校の副校長先生によれば、「校庭に接した南側の道路で拡幅工事が予定されており、また校庭の収納庫を拡大する計画もあって、近々これらの石材は廃棄処分にするところでした」・・・というお話をうかがい、ぎりぎり保存へ間に合ったようなのだ。これらの大谷石は、戦前の高名な建築家である吉武東里の邸遺構というばかりでなく、1945年(昭和20)5月25日に行われた上落合への空襲被害を記念する、悲惨な歴史のかけがえのない“証人”ということにもなる。
上落合は、軍事物資の輸送路である西武電鉄Click!の線路も近く、また妙正寺川沿いには中小の工場が建てられていたため(その多くは染物工場Click!だったのだが)、早くからB29による絨毯爆撃の目標にされていた。1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!では、鉄道沿いと妙正寺川沿いが集中的に爆撃され、下落合駅の西側までが延焼している。
このとき、西武線や妙正寺川沿いから北北西へ進路を変えたB29の編隊により、目白文化村の第一・第二・第四文化村が炎上Click!している。そして、5月25日に北から飛来したB29大編隊の絨毯爆撃では、上落合のほぼ全域が焦土と化した。このとき、落合第二小学校や吉武東里邸、その他の家々Click!も延焼している。その歴史をずっと眺めつづけた大谷石の敷石たちは、平和宣言を前面に掲げた新宿区が保存してこそ、これからも大きな意味をもちつづけるだろう。
吉武東里邸が建設された1921年(大正10)という年は、下落合で箱根土地Click!の堤康次郎Click!が第一文化村Click!の造成計画を推進し、近衛文麿Click!から相談を受けた東京土地住宅Click!の三宅勘一が近衛町Click!の構想を固めており、また佐伯祐三Click!と曾宮一念Click!がわずか100mほどの間隔でアトリエを建設していたころだ。それから91年間という膨大な歳月が流れ、落五小学校に残る吉武邸の大谷石は、落合地域の歴史を静かに見つづけてきたことになる。
◆写真上:落合第五小学校に残る、吉武東里邸にあった敷石と思われる大量の大谷石群。
◆写真中上:上は、中井駅近くの妙正寺川沿いに建つ落合第五小学校(元・落合第二小学校敷地)。中は、1932年(昭和7)に撮影された空襲で焼失前の落合第二小学校。下は、1941年(昭和16)に撮影された空中写真にみる吉武東里邸と落合第二小学校の位置関係。
◆写真中下:上は、吉武邸設計平面図の門から玄関にいたるエントランス部に描かれた大谷石による大量の敷石。下は、落合第五小学校の校庭に残る大量の大谷石による敷石。
◆写真下:上は、吉武邸の母屋1F平面図で三角屋根を備えた大きな西洋館だった。東側には大きな柿の木が植えられており、息女の靄子様が近くの大熊喜邦邸Click!へ運んだのはこの「落合柿」の実だろう。中と下は、あまり傷みがみられない落合第五小学校に残る大谷石の敷石。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
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nice!をありがとうございました。>ENOさん
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nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>yamさん
Marigreen
ところで、一番上の写真に写っている人物は誰ですか?
ChinchikoPapa
写っている方々は、わたしの取材の申し入れを快諾くださった、落合第五小学校の先生たちです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
suzuran6
先日、中井駅へ行った時の山手通りの陸橋からしっかりと見ていました。
その時「ここも落合なんだぁ~」と見ていたもので、記憶にあったのです。
戦災を逃れた、いや、戦災を受けた物がきっちりとこういう形で残っているのも凄いのですが、発見したのも凄いですね。
ChinchikoPapa
山手通りの陸橋からは、落合第五小学校の全体がよく見えますね。陸橋からですと、校庭に面した裏門とその脇にある大谷石の列は、ちょうど拡幅された橋桁の下近くになり、フェンスが邪魔をして見えにくいかもしれません。
周辺に高いマンションが増えるにつれ、だんだん落五小も見えにくくなってきましたが、それでも大きな校舎になってからは山手通りから目立つ建物ですね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
opas10
ChinchikoPapa
先生方はご多忙中とは想像しつつ、思いきって落五小へご連絡を入れてよかったと思います。^^
ChinchikoPapa