近くに自由学園明日館Click!があるせいか、下落合でもなにかと馴染みのあるF.L.ライトClick!だが、彼が設計した帝国ホテルの新館は、さまざまな建築資料や歴史本にも取り上げられ紹介されている。その独特な外観と内部の特異な意匠は、いまでも研究書が書きつがれるほど強いインパクトを持っていた。帝国ホテル(新館)は1918年(大正7)に起工され、5年後の1922年(大正11)秋にはほぼ竣工し営業がスタートしている。翌年の関東大震災Click!で多大な被害を受け、建物内のあちこちを大幅に修復しているけれど、それ以前のホテルの内部、特に客室の様子はどのようなものだったのだろうか? きょうは、1922年(大正11)に営業を開始した直後の、帝国ホテル新館の様子を客室に“宿泊”しながらレポートしてみたい。
帝国ホテルの新館がオープンするとき、同ホテルは社員教育をイチからやり直している。それまでの帝国ホテルは、「貴族的」かつ「官僚的」な社員の態度で一般人からはひどく敬遠されていた。「新築落成と共に飽くまでも民衆本位に平民化し、一般旅客の便はもとより、一種の社交機関として広く社会に提供」するために、それまでの営業方針を大きく転換したのだ。その方針にもとづき、マスコミ各社に声をかけて帝国ホテルへの宿泊ルポの掲載まで依頼している。
1922年(大正11)に発行された『主婦之友』9月号には、「社命」で帝国ホテルに宿泊した女性記者のルポルタージュ「新築の帝国ホテルに泊まる記」が掲載されている。「つる子」と名乗る記者は、ホテル内では高くも安くもないふつうの部屋に宿泊するのだが、副題に「生活に対する思ひ切つた設備を実見して」とあるように、おもに客室やホテル全体の設備に関心が高かったようだ。特に、当時ではまだめずらしかった、さまざまな電気設備への関心が高い。これは、同誌の記者としては一般の家庭設備Click!への応用や、家電製品の普及Click!への関心の高さからきているのだろう。また、当時の『主婦之友』Click!が大きなテーマとしていた、合理的で健康的な「文化生活」あるいは効率的で清潔な「文化住宅」Click!の視点から、主婦の家事における手間の削減や仕事のリードタイム短縮の課題とも、どこかで結びついていたと思われる。
帝国ホテル新館の地下には、11,000Vの電流が流れる太い電線が引かれていた。変圧器を通じて200Vの電流はおもに炊事用に、100Vは照明用に使用されている。11,000Vの電線が通う地下室の真上が、一度に約2,500人ほどの料理を作れる半地下の炊事場になっていて食堂が隣接していた。炊事場には、肉や魚介類を保存する電気冷凍庫や冷蔵庫が備えられている。料理には火力は用いず、すべてが電気製品による煮炊きだった。
野菜の自動皮むき機をはじめ、一度に250個の卵を泡立てられる電気泡立て器、電動挽肉機、自動食器洗い機などすべてが電気による最新設備を導入しており、600人の宿泊客でもシェフはわずか20人にすぎなかった。記者は、玄関のフロントのことを「帳場」と表現しているが、食堂はホテル玄関を入ってすぐ正面にあった。館内はすべて電気で賄われており、喫煙用のマッチのみが唯一の火の気だった。開業直後の、帝国ホテル新館を運営する金谷支配人から話を聞いてみよう。
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本当の落成は十月か十一月ごろになりませう。デンビー卿の入京のため已むなく工事中を無理に開館しました訳で、まだ大宴会場や舞台などは工事中です。何しろライト技師は天才の人で、これだけの大建築のデザインをするのに、もとより大体のことはちやんと定められてゐますが、部分的に亘つては、その時々に湧いて来る思想と興味でずんずん運んでゆくのです。そして気に入らぬところがあるとすぐ打ち壊してしまひ、更に新たにデザインするといふ風で、すべてを芸術家気質で通すのですから、自然工事も予定以上に長引きます。(中略)建築についてはいろいろの批評がありますが、今までの様式を一切排し、すべて氏の独創からから生み出されたもので、氏は「五十年か七十年後にはかうした建築が人々の趣味と生活にぴつたりして来るであらう」といつてゐられます。室内に石や煉瓦がそのままに露出されてゐるので、ある人は、まるで家の中だか道路だか分らぬといひます。劇場の装飾なども、まるい団子石を積み重ねてあるので、滑らかな大理石を見馴れた眼には、一寸きたならしく感じられるかも知れません。(中略)夜の光はすべて測光を利用し、天井から煌かに垂れ下がるランプなどは一つも用ひてありません。広間でも食堂でも、四隅にある燈籠風の柱の中に電燈をひいてあるので、柱の透しを通して軟かい燈りが流れ出るのです。この柱には通気管もひいてあつて、冬はここから暖かい空気が送り出されるやうになつてゐます。しかしこのホテルの最も誇りとする特長は、電気の応用であります。煙草用のマッチの他、こゝには火の気はみぢんもありません。
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『主婦之友』の記者は読者へ、ぜひ同ホテルの調理場の設備を参観するように奨めている。それほど、調理場の電気設備が当時としては“革命的”だったことがわかる。
では、新築まもない帝国ホテル新館の客室の様子を見てみよう。記者はツインルームに宿泊するのだけれど、これがなかなか個性的で「おや?」と感じるスペースだ。家具や調度の配置も、今日の目から見ればかなり奇妙に映る。特に2台のベッドやデスクの配置、ソファやサイドテーブルの位置が妙なのは、当時の「合理的」あるいは「効率化」の考え方が透けて見えて面白い。
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重々しい広間から暗い廊下を幾曲りしてその部屋に入ると、世界が一変したやうな、明るさと軽さとが、私を待つてゐました。寝床(ベッド)も椅子も垂幕(カーテン)も、一様にローズ色の塩瀬で張られ、机と扉は素木そのまゝの色を、天井と壁は薄い根岸で塗つてある、その皆が一度に明るく私の眼に入つて来たのでした。それは本当に人の心を仲々と愉快にする部屋でした。畳をしけば十枚以上になりませう、片隅にベッドが設けられ、その前に机が据ゑてあります。机はいれこになつてゐて、仕事でもして場所をとる場合は、中の小さい方を引出せば二倍の大きさになります。一室に五脚づつ備へてある椅子の位置に少しの無駄がなく、またベッドに腰かけたまゝで机に向ふことができるやうに、机とベッドとの距離が近くしてあるのも大変便利です。片隅を鍵の手に仕切つて、浴室をとり、浴室への入口に面して押入と洋服箪笥風のものが取りつけてあります。
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室内のイラストも添えられているのだが、いまから見ればどう考えてもベッドの配置がおかしい。ベッドに座りながら机に向かうくらいなら、ちゃんと机は壁につけ、イスに座って書き物をしたほうが合理的だろう。しかも、ベッドの前で“いれこ”の机を拡げてしまったら最後、奥のベッドで寝ている人は、どうやってトイレに行けばいいのだろう? 机の上に一度乗って飛び下りるか、ベッドのフットボードをハードルのように飛び越えなければならない。
これは、それまでの日本旅館の習慣がどこかに残っていたものだろうか? 旅館では、畳に敷いた布団の上部に書き物机がくることが多く、寝るときは机上のスタンドを枕元に下ろして読書をしたりする。だから、寝る前に机で書き物や読書をしていても、すぐに横になれるデスクサイドの寝床はけっこう便利だったと思われるのだ。考え方によってはとても不精な習慣なのだが、その感覚を帝国ホテルの室内レイアウトにまで持ちこんだものだろうか。
また、ひとりがけのソファの位置も妙だ。ふたりがソファに座り、くつろぎながら会話をしようとすると、ずいぶんと遠いのだ。サイドテーブルに載ったものを取ろうとしても、またタバコの灰を灰皿へ落とすにしても、いちいち立ち上がらなければ用を足せない。わたしがこんな部屋に宿泊することになったら、妙なお守札や霊除け札が貼ってないことを確かめたうえで、家具や調度の配置をすべて直したくなってしまうに違いない。床面に固定されていたわけでもなさそうなので、きっと配置換えをした宿泊客がけっこういたのではないだろうか?
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最もよく考へてあるのは電燈で、私はこの室を見渡したところ電燈らしいものは見当りませんから、燈はと訊くと、ボーイは押入に取付けてあるボタンをつゝ押しました。同時に部屋いつぱいに軟かい光が照りだされたものゝ、天井は依然として元のまゝで、何処からも電球らしいものは現れません。しかしそれはよく注意して見ると、机の傍に立てゝある高い脚のついた花台風のなかゝら、電光が射出してゐるのでありました。上から受ける光は隅々を隈なく照らすことができないばかりか、眼にも害があります。それで反対に下から上にと光を放射するやうに工風(ママ)したもので、丼のやうに深い反射鏡を上向きにしてその中に電球を取りつけ、反射鏡も電球も外面からは見えぬやうに箱でかくしてあるのです。かうした光線は部屋ぢうを同じ光度で軟かく照らし、陰影といふものを一切つくらないために、読書するにも書物をするにも大変都合がよいのであります。日本風の宿屋なれば、それ布団だ、団扇だ、お茶だ、宿帳をと、女中や番頭が入り交り立ち替わり顔を出すうへ、隣室の客への気兼ねもあつて、帯一つ解くのさへ遠慮しなくてはなりませんが、西洋間の有難さは、内からピンと錠をかければ、もう一城の一廓の主人、横にならうと縦にならうと誰に会釈もいりません。栓一つねぢれば湯でも水でも自由に出るし、卓上電話も扇風機もあり、机上にはインキから用紙までが取揃へて備へてありますから、人手を借りる必要は殆どありません。
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記者は、ほかにも食堂やダンスホールを利用したり、千人収容の劇場などを見学してまわっている。ホテルのグリルはいまだ工事中で、劇場の舞台と同時に完成が予定されていた。また、地下のショッピング街も、1922年(大正11)9月現在はいまだオープン前の状態だった。
「私共はどんな労をも惜しんではなりません。けれどもこゝのホテルには何となく官僚的な臭ひがついてゐます。今それを根本から打破すること」を推進中であると語る金谷支配人は、主婦たちへひとつの提案をした。お茶1杯で、遠慮なく何時間いてもいいので「御婦人方の社交機関」としてぜひ遊びにきてほしいと訴求している。そして、競合他社として「(日本橋)三越の食堂よりはずつと静か」だと付け加えている。こうして、その気になったわたしの祖母なんかが連れ立って、日本橋から帝国ホテルまでムダな井戸端会議をしに、わざわざ出かけていくようになったのだ。きっと、ほどなくレストランや喫茶室は日本橋三越の食堂なみにうるさくなり、金谷支配人は頭を抱えたにちがいない。
◆写真上:1935年(昭和10)にカラー映画フィルムで撮影された、帝国ホテルの新館(ライト館)。
◆写真中上:大正末から昭和初期にかけて発行された、東京名所の「帝国ホテル」絵葉書。
◆写真中下:1922年(大正11)に『主婦之友』9月号へ掲載された、関東大震災により館内が大きなダメージを受ける前の、帝国ホテル新館の初期館内の様子。
◆写真下:『主婦之友』の記者が宿泊した、帝国ホテル新館開業時のツインルームの様子。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>SORIさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
SILENT
二十年以上前に明治村に出かけた頃は、帝国ホテルの団子石(大谷石)の欠片しか積み上げられていませんでしたが、数年目の明治村ではロビーが立派に再現されていました。照明の適度な暗さは間接照明の見事な仕掛けからくるのですね。葉山でライトの弟子が設計した洋館も帝国ホテルそっくりの外観で懐かしかったです。今はホテルに限らず照明が明るすぎ、暗い廊下や玄関から室内に入り明るい空間に驚く事が無くなりましたね。どこかアジアのエキゾチックなリゾートホテルを思わせるホテルだったんですね。ライト設計の照明器具や椅子達が好きですね。実況本当にありがとうございました。
Marigreen
ChinchikoPapa
東京オリンピックの前ぐらいでしょうか、わたしは帝国ホテルのライト館へ親父に連れられて出かけているらしいのですが、ハッキリとした記憶がありません。きっと、新館建設で解体するというような発表があったので、壊される前に・・・と訪れたようにも思います。きっと戦前、祖母に連れられてきた、懐かしい場所のひとつでもあったんでしょうね。
当時、親父は東京の記念的な建物めぐり散歩を集中的にやっていて、帝国ホテルもその中のひとつだったと思うのですが、小学校低学年のわたしには印象が薄いです。ドーム屋根にのぼったニコライ堂や、アンモナイトの化石があちこちにあった三越旧館はハッキリと憶えているのに、帝国ホテルは子どもの興味を惹くテーマが、ほとんどなかったんでしょう。w
現在なら、くまなく館内を覗いてまわりそうなのですが、当時は東京のあちこちで見られる洋館建築のひとつ・・・ぐらいにしか思ってなかったようです。
先日、近くにあるライトの自由学園明日館へ散歩がてら寄ったのですが、実際に現役で使われている姿で、帝国ホテルのライト館もハッキリ記憶に残しておきたかったと感じました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
当時は、石炭による火力発電とダム湖による水力発電がメインでした。たとえば、新宿北部の落合地域や戸塚地域を例にとりますと、山梨県の水力発電所で発電された電気が、「東京電燈谷村線」という高圧鉄塔・電線ルートを通じて目白変電所へと運ばれ、そこから変圧されて各家庭へ供給されていました。もっとも、それだけでなくいろいろな電線ルートが入りこんでいましたが・・・。
原子力発電所がミサイル攻撃を受けたら、そもそも「国防」もなにもあったもんじゃないよ・・・というのは、1981年ごろの反核・反原発運動から言われてました。それが、当時の政府自民党から現在の政府民主党にいたるまで、まったく聞く耳もたぬで通じないのですね。
いまの迎撃ミサイルの命中精度は70-80%前後といわれていますが(この数字も米軍によって水増しされているという話も聞こえて来ます)、同一原発に3発のミサイルが同時に撃ち込まれれば、そのうちの1発は確率論的にいえば、迎撃ミスにより命中する可能性がきわめて高ことになります。
「日本殺すにゃ刃物はいらぬ、原発数ヵ所にミサイルを撃ちゃいい」・・・とは、1980年代前半の戯れ歌です。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>thisisajinさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
Marigreen
ChinchikoPapa
「ハイカラ」というのとは、ちょっとちがいますね。東日本橋の祖母の家での生活は、長谷川時雨の実家と同様に純和風ですから、非日常を楽しむときには、思い切りふだんとは異なる生活をする(ハレを楽しむ)・・・という感覚でしょうか。このテーマは昔、目黒雅叙園の記事でも書きましたが、「ハレ環境では、大野暮もその場限りで許容される」という、下町の感覚やお約束にどこか通じるものを感じます。
親父が建物めぐりをしたのは、子どものころから生活で体験したことのない「ハイカラ」環境に、あこがれていたのはまちがいなさそうですが。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
opas10
ChinchikoPapa
周りじゅうが振りまわされ、開業するまではヒヤヒヤものだったんでしょうか。w 大震災で被害を受けたとき、また「様子を見に行く」などという連絡が米国から入ったりしたら、金谷支配人は青くなったかもしれませんね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>八犬伝さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
tree2
廊下から宴会場から、大谷石の微妙な凹凸で構成されており、迷宮に迷いこんだような、夢の中のような雰囲気。結婚式なんかほっぽり出し、建物の中を探検しておくんだったと後悔してます。
しかし、廊下と宴会場の間に小さい段差があったはず。自由学園がそうですよね。料理をワゴンで運ぶことはできません。あの華麗な建築が消え去る運目にあったのは、こんなことも理由の一つかと…でも、惜しい。
ChinchikoPapa
貴重なご記憶ですね。わたしは、内部の様子をほとんどまったく憶えていません。書かれている大谷石の凸凹や、まるで塀のような壁がつづいている様子が、大正期の人々にはまるで街頭のように感じられ、「路上のつづき」のように思えたものでしょうか。
わたしは、子どものころに歩いたり利用したりした建物を、かなわぬ夢ながら、つくづく「現在の眼差し」のまま見てみたかった・・・と感じています。自由学園を見るたびに感じるのですが、その場所でそのまま使われつづけている建物と、記念物として保存展示されてしまったものとでは、やはり存在感というかリアリティがぜんぜんちがうな・・・とも感じますね。
ChinchikoPapa