目白通りを往来した伊藤ふじ子。

赤坂区福吉町.JPG
 洋画家志望だった伊藤ふじ子は、長崎・落合地域とのつながりがひときわ濃い。彼女は1911年(明治44)、山梨県北巨摩郡清哲村(現・韮崎市)に生まれ甲府第一高女を卒業している。同級生には、のちに太宰治Click!の妻となる石原美知子がいた。伊藤ふじ子は、1928年(昭和3)5月に東京へやってきて、知人のつてで石川三四郎・望月百合子Click!の家へ下宿している。そして、絵の勉強をするために文展画家だった小林萬吾の画塾「同舟舎」へと通いはじめた。小林多喜二Click!と知り合い結婚するのは、4年後の1932年(昭和7)のことだ。
 伊藤ふじ子は、絵の勉強をつづけるかたわら、さまざまな職業に就いている。1929年(昭和4)には上野松坂屋の美術課に勤務していたが、すぐにそこを辞めて明治大学事務局に転職している。彼女は明治大学で働きながら、長崎町大和田1983番地にあった「造形美術研究所」へ、おそらく目白駅から歩いて通いはじめた。このころには、小林萬吾の同舟舎で学ぶのはやめてしまっていただろう。東京へきてからわずか1年ほどで、共産主義運動に惹かれたと思われる。
 長崎町大和田にあった造形美術研究所は、三科がプロ芸派と造形(型)派に分裂したあと、造形(型)派の拠点になったところで、1929年4月に同所へ設立されている。伊藤ふじ子が絵を学びに通いだした翌年、1930年(昭和5)6月から「プロレタリア美術研究所」と改名されている。ちなみに、一部資料で「1929年4月にプロレタリア美術研究所が落成」となっているのは、造形美術研究所の誤りだと思われる。当時の地図を確認すると、長崎町荒井1832番地の「中央美術学院/中央美術社」は収録されているが、当然のことながら造形美術研究所あるいはプロレタリア美術研究所は、当局の弾圧下におかれていたので収録されていない。
 1930年(昭和5)の当時、長崎町大和田(椎名町界隈)は、ちょうど大規模な地番変更のまっ最中であり、造形美術研究所=プロレタリア美術研究所の場所を特定するのがむずかしい。落合地域のように、ほぼ同一区画で地番数字が1番台で微妙に変わっていくというような小規模なものではなく、100番台または1000番台の単位でまったく新しい地番がふられているから特定が困難なのだ。ちなみに、1929年(昭和4)と1930年(昭和5)で長崎町大和田1983番地を確認すると、双方が直線距離で300mほど離れている。当時のプロレタリア美術研究所へのアクセスには、「目白駅から徒歩20分」という表現が確認できる。このテーマについては、また改めて今月中に取り上げてみたい。
伊藤ふじ子.jpg 伊藤ふじ子「自画像」1931年頃.jpg
プロレタリア美術研究所.jpg 小林多喜二「静物」(不詳).jpg
 伊藤ふじ子は、明治大学へ勤務するかたわら、日本橋にあった銀座図案社にも非常勤で勤務し、グラフィックデザイナーとして働きはじめた。彼女が担当したクライアントは、東京芝浦電気(現・東芝)の宣伝部だった。ふじ子は演劇にも興味をもちはじめ、労農芸術家聯盟の「文戦劇場」で女優としても舞台に立っている。1931年(昭和6)の春、ふじ子は新宿の果物屋の2階に下宿していたが、そのころ刑務所を出たばかりで保釈中の小林多喜二と親しくなったといわれる。小林多喜二は、ちょうど『オルグ』を執筆中だった。そして、多喜二が“地下”へ潜行中の1932年(昭和7)の春にふたりは結婚している。でも、翌1933年(昭和8)2月20日、多喜二はスパイの手びきで赤坂区福吉町(現・赤坂2丁目)の喫茶店におびきだされて特高警察Click!に逮捕され、築地署で虐殺されてしまった。ふじ子にとっては、わずか1年たらずの結婚生活にすぎなかった。
 伊藤ふじ子は多喜二の死後、小池元子が運営する淀橋区下落合1丁目(現・下落合3丁目)の目白通り南側にあった「クララ洋裁学院」へと通いはじめている。なぜ目白通りの南側だと特定できるのかといえば、1944年(昭和19)の秋から暮れにかけて目白通り南側の幅20mにわたって行われた建物疎開Click!で、クララ洋裁学院がひっかかり解体されているからだ。このころ、伊藤ふじ子は洋裁のほかに和裁や編み物も習っていたと思われ、それは彼女が多喜二の死後、「手に職」をつけてひとりで生きていく決心をしたからだと思われる。しばらくすると、伊藤ふじ子は帝大セツルメントで、近所の女子工員たちを集めて編み物や和裁、洋裁などの教室を開いている。
その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
 クララ洋裁学院は、のちに安部磯雄や吉野作造、片山哲らと社会民衆党の創立にかかわり代議士となる小池四郎が、1923年(大正12)に設立した高田町雑司ヶ谷1117番地(現・西池袋2丁目)の出版社「クララ社」が母体となっている。クララ洋裁学院(のちクララ洋裁研究所)を主催したのは、妻の小池元子だった。自由学園Click!に接して婦人之友社が建つ、坂下の路地を東へ20mほど入ったところ、山手線の線路際に近い位置に出版社と洋裁教室があった。おそらく、生徒数が急増するにつれ池袋の家屋では手狭になったのだろう、昭和初期に下落合1丁目の目白通り沿いに移転している。伊藤ふじ子が、再び目白駅で下りて通学したのは、下落合時代のクララ洋裁学院だ。
クララ社1926.jpg クララ社広告1926.jpg
クララ社周辺住宅街.JPG 婦人之友社.JPG
 そのころ、落合地域にはたくさんのプレタリア美術家が参集していた。当時、上落合に住んでいたプロレタリア漫画家・森熊猛や、下落合に住んでいた秋好一雄も日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)東京支部のメンバーだった。ただし、この時期は特高による徹底的な弾圧で、事実上ヤップは解体寸前にあったようだ。伊藤ふじ子が森熊猛と知り合ったのは、秋好一雄の紹介だったという。彼女は秋好の世話で、下落合の下宿で暮らすようになるのだが、残念ながら上落合の森熊猛の下宿も、下落合の秋好一雄と伊藤ふじ子の下宿も住所がわからない。彼女が風邪を引いて寝こんでいるとき、森熊猛が薬をもって見舞いに訪れプロポーズしたといわれている。
 「思想的な漫画」をめざす森熊猛は、1909年(明治42)生まれで小林多喜二よりも6歳年下だった。札幌の北海中学校へ進学し、左翼美術運動の拠点だった北二条西3丁目の喫茶店「ネヴォ」に出入りしていた。「ネヴォ」には、小林多喜二も出入りしていたようだが、森熊と多喜二が知り合いだったかどうかはわからない。もともと、北海中学は美術活動が盛んで、佐伯祐三Click!と東京美術学校で同期だった、「団栗会」Click!の創立者である二瓶等Click!も同校の出身だ。
 1934年(昭和9)3月、伊藤ふじ子は日本赤色救援会(モップル)に参加していたという理由で特高に逮捕された。モップルとは、左翼運動で特高警察や思想検事に逮捕された活動家を支援するグループだ。留置所から釈放されたあと、彼女は帰るところがなくなり、神楽坂に転居していた森熊猛の下宿を訪ね、そのままふたりはいっしょに暮らしはじめて結婚している。
労働者マンガ1931.jpg 森熊猛・伊藤ふじ子1934.jpg
 伊藤ふじ子は、小林多喜二の分骨を終生大切に保管していたという。多喜二の葬儀に立ち合っていない彼女が、なぜ分骨をもっていたのかは明らかでないが、1981年(昭和56)4月に森熊(伊藤)ふじ子が死去すると、森熊猛はふたりの遺骨を合葬して同一の墓所に納めている。

◆写真上:小林多喜二が特高に逮捕された赤坂区福吉町の裏道界隈だが、道路の拡幅でにぎやかな飲食街となり当時の面影はない。この日から、伊藤ふじ子の運命は大きく変わりはじめた。
◆写真中上上左は、「文戦劇場」に参加していたころと思われる伊藤ふじ子。上右は、1931年(昭和6)ごろに制作された伊藤ふじ子『自画像』。下左は、長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)。下右は、制作年代が不詳の小林多喜二『静物』。
◆写真中下上左は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」にみる雑司ヶ谷1117番地のクララ社。上右は、同地図に掲載されたクララ社販売部の広告。下左は、クララ社があった周辺の住宅街。下右は、雑司ヶ谷1148番地(または上屋敷1148番地)に現存する婦人之友社。
◆写真下は、当時各地で発行されたプロレタリア漫画誌のひとつで1931年(昭和6)制作の『労働者マンガ』。は、1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる森熊猛・(伊藤)ふじ子夫妻。

この記事へのコメント

  • kako

    死んだ男の骨を持っている女を、男性はどのように愛せるものなのでしょう…?
    2012年07月10日 00:46
  • Marigreen

    記事を読み終わって、自分の妻と、妻の前夫の骨を合葬できる森熊猛は、男として器が大きいと思う、と感想を書こうとしていたら、kako様の鋭いコメントが出てて、ギクッ。私はkako様ほど複雑な人間ではないんかなあ。
    2012年07月10日 10:24
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、コメントをありがとうございます。
    葬儀や納骨にも立ち合えていない伊藤ふじ子が、多喜二の分骨をもっていたかどうか「?」なのですが、ひょっとすると中野重治夫人の原泉あたりを通じて入手していたのかなぁ・・・とも想像します。
    当時、仏壇に「前夫」や「前妻」の位牌がある、再婚した家庭もそれほどめずらしくはなかったでしょうから、森熊猛はそんなことにあまりこだわらない性格をしていたんじゃないでしょうか。
    余談ですが、わたしは女優・原泉の大ファンだったりします。w
    2012年07月10日 13:06
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
    「男として器が大きい」というのではなく、森熊猛の思想性に根ざしている感覚のようにも思いますね。おそらく、「妻はわたしの所有物」という感覚からは、当時いちばん遠い位置にいた人物のように思えます。
    森熊と結婚するとき、伊藤ふじ子は多喜二との生活について彼に詳細を話して聞かせているようです。そのあたりの様子を詳しく聞き書きしようと、澤地久枝がずっとアプローチをつづけていましたけれど、伊藤(森熊)ふじ子が固辞して実現しないまま亡くなってしまいましたね。
    もし、澤地久枝の取材が実現していれば、下落合の住居や交流した画家たちの様子なども、詳しく判明していたのではないかと思うと残念です。
    2012年07月10日 13:17
  • ChinchikoPapa

    「お鼠さま」の石像がかわいいですね。すぐ隣りに、「おニャンコさま」の象がほしくなります。w nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2012年07月10日 13:24
  • ChinchikoPapa

    酒樽のデザインやワイン樽を見て歩くだけでも、けっこう楽しめますね。
    nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2012年07月10日 13:26
  • ChinchikoPapa

    子どものころ、海辺の家の庭に大きなハマユウの株がありましたので、この花影は懐かしいですね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2012年07月10日 13:37
  • ChinchikoPapa

    白い面が架かった家の前、夜はあまり通りたくないですね。w
    nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2012年07月10日 13:39
  • ChinchikoPapa

    コンクリートの芯である鉄骨からして、巨大な力でアメみたいに曲がっているのでしょうね。ものすごい力です。nice!をありがとうございました。>nikiさん
    2012年07月10日 13:45
  • ChinchikoPapa

    この新しいドン・チェリーのアルバムは、持っていないですね。おそらく、未聴だと思います。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2012年07月10日 14:02
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
    2012年07月10日 14:02
  • ChinchikoPapa

    東京駅の、往年の姿が美しいですね。つくづく元どおりの東京駅を、両親にも見せてやりたかったと思います。nice!をありがとうございました。>sigさん
    2012年07月10日 17:26
  • ChinchikoPapa

    東日本大震災のあと、「ずっとウソだった」を唄っているのを動画で見たことがあります。nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
    2012年07月10日 17:32
  • Cano

    岩波から出てる間違いの多い「新・日本文壇史」4巻の著者も、澤地久枝のインタビューが空振りに終わったことを残念がっていましたが、彼女の証言があれば小林多喜二の時代のことがもう少し分かっていたでしょうにね。
    2012年07月10日 20:02
  • ChinchikoPapa

    Canoさん、コメントをありがとうございます。
    『新日本文壇史』の「プロレタリア文学の人々」は、小林多喜二の肖像写真に「金龍済」のネームが入っていて、思わずのけぞってしまいました。校正にきびしい岩波にしては、困ったものですね。多喜二の顔をまたく知らない、若い世代が編集部に増えてきているのでしょうか。
    わたしも、澤地久枝の書くはずだったノンフィクション「多喜二」を読んでみたかったです。
    2012年07月10日 21:16
  • kako

    思想と男女の関係は、全然違うような気もしますが…。
    でも、確かに昔は女性がひとりで生きてゆくのは、今よりずっと難しかったでしょうし、死別も多かったでしょうから、そういうケースは多かったのでしょうね。
    森熊猛が多喜二をどのように思っていたかも、彼の行動に大きく影響していたのでしょうか。
    2012年07月10日 21:48
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、コメントをありがとうございます。
    戦後、平野謙が「ハウスキーパー」批判を展開しましたが、思想が“男女関係”を左右し規定(別の意味では破壊)する典型例のように思いますね。もっとも、平野謙は「党」から自身の恋人を他の男の「ハウスキーパー」にするよう指示され、彼女もそれに従ったようですので、よけいに個人的な「恨み骨髄」のような気がしますが・・・。
    ちなみに平野謙は、ウラ取りの確認をせずに伊藤ふじ子は小林多喜二と夫婦を装うための「ハウスキーパー」だと規定し批判していましたが、のちに当人たちの資料などで実際に夫婦だったことが判明し、誤りを訂正して謝罪しているようです。
    ただし、平野謙がその誤りを訂正する文章をどこに書いたものか、わたしは直接読んでいませんので詳しいことはわかりませんが、当時の思想(党活動を継続するための)が男女関係に与えた影響というのは、巨大なものがあったように思います。
    2012年07月11日 10:08
  • ChinchikoPapa

    こちらは、このところピーカンで暑い日々がつづいていますが、こう暑いと梅雨空が懐かしくなります。“雨男”さんの東京出張を希望します。w nice!をありがとうございました。>ねねさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2012年07月11日 10:14
  • ChinchikoPapa

    下落合1丁目の清水川公園近くの踏切際にある、ラーメン屋の店舗が落ち着かないですね。次々とラーメンやつけ麺、トマトラーメン、中華・・・と店が変わるのですが、数年(短いと数ヶ月)で入れかわってしまいます。近所にラーメン好きが少ないのか、立地なのか、それとも味に問題があるのか、「次はなんのラーメン店?」と口の端にのぼるほどです。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2012年07月11日 10:21
  • kako

    Papaさん、ごめんなさい。私が興味があるのは、人の「個人的な恨み骨髄」のほうなんです。
    記録や史実には残らなくても、世の中を動かし、何かを変えるのは、そっちのほうのような気がするので…。
    そのような人の心の動きというものは、おそらく昔も今も、あまり変わらないのではないでしょうか?(だから、人の心を描いた古典作品はおもしろいのですよね)
    2012年07月11日 11:53
  • tree2

    当時の左翼運動にかかわっていた女の人って、驚くほど行動的ですね。
    しかし伊藤野枝もそうだけれど、行動が空回りしている感じもありますね。
    進むべき方向として見据えていたものが、じつは虚像だったのではないか…
    気の毒だけれど、後の世から振り返ってみるとそうも思えます。
    2012年07月11日 13:13
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    平野謙は、よっぽど恋人を他の男に「取られた」のが口惜しかったものでしょうか、わたしの印象では戦前の「党生活」における非人間的な側面として、繰り返ししつこく書いていたように記憶しています。w でも、小林多喜二と伊藤ふじ子夫妻については、ちゃんと元・夫人も健在だったわけですから、事情をちゃんと取材して事実関係を確かめてから書くべきでしたね。
    たぶん、人の心の動きや心理というのは、100年ほどの単位では大きく変わらないのかもしれませんが、思想や宗教や社会規範によって今日から見れば悲劇が「英雄的」行為に、犯罪的行為が「勇気」になったりするのを見るにつけ、男女の関係性や価値観も時代とともに移ろいゆくものではないか・・・などと想像しています。
    2012年07月11日 14:13
  • ChinchikoPapa

    tree2さん、コメントをありがとうございます。
    辻潤と別れてからの伊藤野枝は、文字どおり八面六臂の活躍ですごいですね。伊藤ふじ子も、次々と新しいことに挑戦しつづけ、前を向いて疾走していたようで、そのバイタリティやタフさには驚きます。
    今日の目から見ますと、そうまでしてがんばっていた「党活動」なのに、戦前および戦後を通じて日本共産党のトップが、特高やソ連政府の「スパイM」と「スパイN」だった・・・というのは、あまりの事態の深刻さや悲劇性を通りこして、もはや思わず笑ってしまうしかないほどの虚脱感を、(黄泉の国の)彼らに与えつづけているのではないでしょうか。
    2012年07月11日 14:22
  • ChinchikoPapa

    リプライ漏れです、nice!をありがとうございました。>tree2さん
    2012年07月11日 14:31
  • ChinchikoPapa

    ここ数年の夢として、よく冷えた白ワインを夏の浜辺にねそべりながら・・・というのがあるのですが、なかなか実現できないですね。nice!をありがとうございました。>fumikoさん
    2012年07月11日 14:45
  • ChinchikoPapa

    海と船はいいです。子どものころ、たくさんのプラモデルを作りましたが船の模型がいちばん多かったですね。nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
    2012年07月11日 19:31
  • kako

    そのようなことについて取材されて語る内容に、果たしてどれだけの真があるでしょうか? 言葉で直截に語れないことがあまりに多いので、人は創作に向かい、そこに何かを託すような気もします。
    また、善悪や正邪の「基準」は簡単に変わりますが、人の心だけはそう簡単に変わるものではなく、そのような「基準」では計り知れないものと、私は思います。
    特に、男女の関係と心のありようだけは、どれだけ言葉を尽くしても、当事者にしかわからないという思いがあり、私はPapaさんの今回の記事に興味を持ったのです。

    話は変わりますが、先日、85年ころの出来事や風俗を知りたくて、その年にヒットしていた「金ツマⅢ」のDVDを見たところ、当時の下落合の神田川のほとりが映されていました。主役のひとり、古谷一行が、いしだあゆみと昔、下落合のアパートで同棲していて、そのアパートが今でもあることを発見するというシーンで、確かにその頃の風景…、という気がしました。
    当時、「金ツマ」シリーズは全く見たことがなかったので、初めて見たのですが、今見てもかなり面白かったです(当時は偉そうに、馬鹿にして見なかったんです。そういう年頃だったんで…)。少し見ただけなので全体像はわからないのですが、おそらく二人は学生時代に知り合ったという設定なのでしょうね。
    ちなみにPapaさんは、もしかして、社会科学部のご出身ですか?
    2012年07月11日 21:31
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    うーん、たとえば澤地久枝が取材した二二六事件のように、あるいは吉村昭が取材した「陸奥」爆沈事故のように、少なくともそれまで空白となっていた歴史のある側面は、取材を通じて十分に埋められたのではないかと思います。そこには、さまざまな夫婦や男女関係も登場しますが、それにも増して「事件」時の人間関係や細かな出来事や生活が掘り起こされ、すでに判明している事実と突き合わされ、新たに記録されていく可能性がありますね。
    別にウラ取りのしようがない虚実が不明なエピソード、あるいは多くの年月がたってしまい「整理」されてしまった人の内面、感情や心の動きをインタビューで訊いて、それにどれだけの「真」があるかと問われれば、リアルタイムでの取材とは異なりますので当時の想いとはずいぶん異なり、大幅にズレているかもしれないですね。
    でも、それにも増して当事者が語る言葉というのは、大きな重みをもつと同時に、それまで知られていなかった事実が口の端にのぼったり、あるいは当事者さえ忘れていたことがインタビューをするうちに思いだされたり、どうしてもウラづけが取れなかった人物同士の繋がりがあっさりと解明できたり・・・と、史的に不明だった部分が埋められる可能性がとても高いように思います。
    テーマとなっているのが小説やドラマなどのフィクションではなく、実際に起きた事件なり事実であれば、それを記録し改めて表現する場合、まずなにはさておいても真っ先に行なわなければならないのは、当事者や経験者へのインタビューであり、その事件や史的事実が起きた「現場」へ足を運び現地の人へ話を訊くことだ・・・と考えています。
    この課題は、研究室や書斎の机上で本や資料を拡げ、想像や空想、予断のみで組み立てられた「史実」が、実態や実情から乖離した、いかに脆弱で危うい展開をするものなのか・・・という、このブログのあちこちで書いてきた現象とも、どこかで通じるテーマのような気もします。w
    話はガラリと変わり、わたし、鎌田敏夫が大好きでしてw、残念ながら金妻シリーズはどれも観ていないものの、『過ぎし日のセレナーデ』や『男たちによろしく』は、残業を早めに切りあげて毎週観てました。
    金妻Ⅲの下落合シーンは知らないのですが、ロケ地の写真を掲載したくても、もはやそのアパートはないのでしょうね。1980年代の後半、下落合の住宅街はリニューアルの大波をかぶっていましたので、ちょうどそのころに消滅しているのではないでしょうか。ちなみに、金妻Ⅲの何話めに登場するのでしょう? 今度、観る機会があればチェックしてみます。
    はい、わたしは大学に5年間いたのですが、そのうち4年が社学で1年が文学部聴講です。だから、kakoさんとは2年間かぶっているでしょうか。
    2012年07月12日 11:04
  • ChinchikoPapa

    時代が少し下り、平安末から鎌倉期の仏像になりますと、阿弥陀如来などでは鼻の下のヒゲが浮き彫りにされている作品もあり、それは「ヒゲ」だと想定できるのですが、確かにおっしゃるとおり、それ以前の仏像に見られる口のまわりの表現は、ヒゲではない可能性もありますね。nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
    2012年07月12日 11:12
  • ChinchikoPapa

    東日本の苔が生えた庭は、いま要注意になってまして、1μSv/hを超えるホットスポットがあちこちで見つかっています。苔が水はけを悪くし、放射性物質が堆積しているようですね。nice!をありがとうございました。>マチャさん
    2012年07月12日 13:21
  • ChinchikoPapa

    子どものころ、「P化粧品」のセールスマンはときどき訪ねてきましたが、いまはほとんど周囲で話を聞きません。どうやって、事業を運営しているのでしょう。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2012年07月12日 17:29
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2012年07月14日 12:17
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>くらいふさん
    2012年07月14日 23:45
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2012年07月15日 11:37
  • アヨアン・イゴカー

    >森熊猛はふたりの遺骨を合葬して同一の墓所に納めている

    この感性は、とても詩的だと思います。そうすると美しいであろうと考え、
    その美学に忠実に行動した、そういうことではないかと。
    2012年07月15日 18:27
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    自身の妻と前夫の骨を合葬したのは、森熊(伊藤)ふじ子の遺言でないとすれば、森熊猛の意志なのでしょうね。そのあたりの事情も、インタビューが実現していれば明らかになっていたかと思うと残念です。
    2012年07月15日 22:08
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>yutakamiさん
    2012年07月16日 21:14
  • ChinchikoPapa

    わざわざこちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2012年07月19日 15:27
  • kako

    Papaさん、『金妻Ⅲ』の当該シーンがあるのは第2話です。
    古谷一行が建築会社に勤めていて、新規に建設するビルの現場を見に行くと、昔同棲していたアパートが建設予定地内に入っていた…、つまり、現在の仕事のために取り壊さなければならないという設定でした。
    その近辺の神田川や橋が、結構、尺を使って映されているので、現在は当時と様子が変わっていても、Papaさんがご覧になれば、場所を特定できるのではないかと思います。

    私は国文科だったので、戦後の「近代文学」と「新日本文学」関係者についてなど、授業で仕方なく学びましたが、あまり興味が持てなくて、そのあたりの人で面白いと思えたのは、そこからオンダサレた花田清輝くらいだったんです。
    Papaさんは、疑問や質問に対して、よく知識でコメントされていらっしゃいますが、「動物」な私は、ついつい、本能や人の匂いに触角が傾きます。(うまく説明できないのですけど…。以前にYouTubeにアップされている動画にコメントを書かせていただいたものがあるのですが、もしよろしければ、ご覧になってみてください。Papaさんのブログに、私の勝手なコメントを貼り付けさせていただくのも、ものすごく恐縮なのですが、私は説明的な文章が苦手なので…。)
    http://www.youtube.com/watch?v=nMdBwPCkXGk

    知識はものを考える前提に過ぎないのではないでしょうか?
    2012年07月20日 00:26
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、コメントをありがとうございました。
    『金妻Ⅲ』の下落合シーンは、機会があったら確認してみます。神田川沿いの風景はかなり明確に記憶していますので、おっしゃるようにすぐに判明しそうですね。情報をありがとうございました。
    それから、「知識」についてですが、知識というのは人間がなにか行動を起こしたり、追求したり、表現したりする上での、あるいはより深い知識を得るためのベーシックな“指針”であり“道具”でもあるのだ・・・と捉えています。「知識」を得て「考える」は、あくまでも自己内面での“行為”であり、消化の過程であり、次のステップへの過渡的な前提にすぎない・・・とも思いますね。
    その次のフェーズ、つまりそれをどう活かすのか? どのように応用するのか?・・・というところで、多種多様な実践(研究・表現・人間同士のコミュニケーション等)が生じてくるのだと思います。このサイトも、そのようにして進めてきた、ひとつの実践行為(表現や追求)のひとつであるといえるのかもしれません。
    ・・・と、ここで「知識とはなにか?」と、知識の位置づけをめぐり議論をするつもりはありませんが、少なくともわたしは「詩的」な人間ではなく、どこまでも「散文的」な人間だと思っていますので、おそらくこのお答えにもkakoさんはピンとこない、あるいはご自身の問いかけに対してわたしが「ズレたリプライをしている」と、感じられてしまうのではないでしょうか?w
    Weblog(ブログ)は、日本では私的な「日記」と捉えられることが多いですが、わたしはその名のとおり地域的な「Webの記録」として、このメディアを活用しているつもりです。だから、感情をそのままストレートに書くことはほとんどありませんし、さらに詩的に昇華された表現や、やり取りもきわめて少ないのではないかと思います。換言すれば、「日記に書いておく」ような心情の吐露や、細かな心の動きを当メディア(この「落合道人」)へ書きとめておく必然性、または意味は希薄だとも思っています。
    ・・・といいつつ、ときにどうしても我慢がならず許容できないケースは、感情を露わにして書いてしまってもいますが。w
    2012年07月20日 11:28
  • kako

    Papaさん、コメントをありがとうございます(って、私が書くのはヘンですね)。
    言葉足らずですみません。Papaさんのお書きになる記事について、疑問を差し挟んだつもりはないのですが。

    いったん外に発してしまった言葉というのは、自分の意図とはかかわりなく、他人はいろいろな受け止め方をするものですよね。私も時々、自分では思いもよらない反応が返ってきて、びっくりしますが。
    Papaさんが仰る「詩」という言葉の意味とは少し違うかもしれませんが、私はすべての表現(文章に限らず。また、フィクション、ノンフィクションにかかわらず。たとえば報道なども含めて)には詩が必要だと思っています(「思想」とか、ほかの言葉に言い換えてもいいのかもしれませんが、私は「詩」という言葉が好きです)。
    だから、私にとって、詩のない表現は価値がないのですが、私はPapaさんの書かれる記事には詩があると思っています(だから拝読しています)。

    でも、確かに振り返ってみると、Papaさんのコメントには、時々「???」と思うことがあったかもしれません。
    というようなことを、一読者の私が申し上げることもないのかもしれませんし、以前だったら、「人は人。皆それぞれ違うから…」と思う人間だったんですけど、最近、歳のせいか、それはちょっと違うんじゃないか…、という気がして、言いがかりみたいなことを書きました。
    (仕事でも、たぶん、若い人たちにうるさがられていると思うんですけど…)
    2012年07月20日 22:05
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、ごていねいなコメントをありがとうございます。w
    一度、口に出した言葉や書かれてしまった言語は、必ず本人の思惑や想いをたちどころに離れて、「ひとり歩き」をはじめますね。わたしも、このサイトをやっていて何度かそのような経験をした憶えがあります。
    だから、文章がことさら説明的(散文的)にならずにはいられない側面もあるのかもしれませんが、相手にこちらの想いや姿勢がちゃんと伝わっているのかな?・・・というのは、こういうサイトをやっていますと、もはや「脅迫観念」にも近いような感覚になることがあります。
    その、ちょっと書きすぎ(説明や解説のしすぎ)のような、くどくて長い文章に「詩がある」などといわれますと、かえって面食らい、とまどってしまうのですが、わたしなりの感覚的な言葉からいいますと、どこかで叙事に徹することができず、叙情に流れている文章箇所があちこちに見え隠れしている・・・という自覚は、確かにあります。ただ、それが「詩」があるということなのかどうか、わたしにはわかりません。
    その昔、若いころに言葉の「定義大会」というのをやったことがありまして、ひとつひとつの言葉をきちっと定義して意味を共有・共用しないと、相手と同じ地平や同じ意識で議論ができないじゃん・・・というところから出発した、めんどくさい「すりあわせ」の打ち合わせでした。
    たとえば、「詩」という言葉のとらえ方や規定のし方が、わたしとkakoさんとではおそらく異なるわけですが、それを共通の認識で共有できるまでに演繹化しよう・・・というような試みです。
    ところが、それをやる過程では、たやすく合意や一致をみることがかえって少なく、当然のことながらとらえ方の相違による議論が頻繁に起きるわけで、かえってお互いの言葉に抱く想いや感覚のちがいばかりが、目立って明らかになり、相互で思い知らされた・・・ということがあります。
    いまから思うと、なんてつまらないことをしたものだろうとも思うのですが、その感覚のちがいや意味のとらえ方のちがいこそが、個々の思想であり感覚であり、個性であり、また個々人の「生」そのものじゃないだろうか?・・・ということで落ち着きました。
    だから、どこかで「ちがってあたりまえ」、むしろ「感覚やとらえ方が一致するほうがめずらしい」というような、やや突き放した認識のしかたで、これまで生きてきたような気がしますね。
    2012年07月20日 22:57
  • kako

    Papaさん、私は仕事で書く文章も説明が足りな過ぎとよく言われるので、そういう自覚はあるのですが(いえ、ないのかもしれません。いっこうに治らないんで)、それでも、たまに通じちゃう人はいます。でも、それに安心していると、結構、足をすくわれます。というか、通じちゃうと思っちゃう人たちとだけお付き合いしていると、間違います。

    私が「詩」と言っているのは、ほかの言葉でいうと、たぶん、「その人のオリジナルな視点」というようなことかと思います。だから、「事」でも「情」でも、あまり関係ありません。どんなに事実そのままを伝えようとしても、人の目や耳や脳みそや心を通過したものは、必ずその人独自のフィルターがかかったり、フォーカスされたり、トリミングがされるはずなので。
    というわけで、私が、Papaさんの記事に比べて、コメントに違和感を覚えるというのは、おそらく、それがあまり感じられないということかもしれません。(というようなことは、今まで考えてもいなかったのですが、書いているうちに、そんな気がしてきました。文章って不思議ですね…)

    人と人との関係は、たぶん誤解の上に成立しているので、自分が意図した思いがその通りに伝わるということは、絶対にないのではないでしょうか。でも、「だから、言っても無駄」というものではないし、みんなが同じ考えだったらファッショですよね。

    いったい何の話をしていたのか、すっかり忘れていましたが、実は私は、ふじ子さんと同様に死んだ人の骨を持っていますし(お墓が遠くてなかなか行けないこともあり)、また、死んだ人の後輩にあたる男性とお付き合いしかけた(?)ことがありますが、もう既にこの世に存在しない人の影というのは、どうしようもなく動かしがたいものなのだと思い知りました。また、それは、女性より男性の方が、より強く拘りを持つように思います。
    森熊猛とふじ子さんの間に、決して他人には話せない葛藤がなかったとは、私には絶対に思えないのです。
    だから、「男性はイデオロギーで女が抱けるのか?」ということを、上記の記事を書いたPapaさんに聞いてみたかったのです。(相変わらず、下品でごめんなさい。でも、こういうことを、史実や一般論で語っても、あまり意味はないと思うし、だからと言って、語る価値のないこととも思えないので)
    2012年07月21日 01:23
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも、なんだかテーマがあちこちに飛んでいるので、自分でもなにを話しているのかわからなくなりつつありますがw、ひとついえることは「男性はイデオロギーで女が抱けるのか?」という問いかけに対しては、「さあ、そういう男もいるかもしれないし、いないかもしれないし、森熊猛ケースはそのどちらに当てはまるのかは、想像するしかない」・・・としか答えようがないことです。
    先の澤地久枝の話にもどれば、そのあたりのことも彼女の執拗で徹底したインタビューのことですから、たとえ直接ふたりからそれらしいストレートな回答は得られなくても、いくらかはその関係性が浮き彫りになったのではないかなぁ・・・と、想像するだけなのですが。
    つまり、このテーマも「男は」と、男一般に敷衍化できることなのかどうかは、男全員の意見を聴取したわけではないので、なんともいえないですね・・・としか答えようがない、つまり個々の人々(さまざまな思想や宗教や社会規範を抱える個々別々の人格)が抱える内面のことですので、いちがいに「男は」「女は」とくくれないのではないかと、わたしの感覚では思うのです。
    ちょっと、余談めきますけれど、男の中には「我々が動物の世界からいくらも去っていない肉体と肉体の衝動を持って生きていながら、崇高な精神のための生活を営んでいるという自惚れを持たねば生きてゆけない矛盾の苦しさの悲鳴」をあげる伊藤整のような人もいれば、そうじゃない人もいるかもしれませんが、それらはあくまでも個々の人間の個性によってすべて異なっている・・・というのが、わたしのベーシックとなる認識であり出発点です。もちろん、思いや感覚が共通する人たち=人間関係や集団、多数派、少数派というような現象はあるかもしれませんが・・・。
    これもまた、さらに余談めいてしまいますけれど、どこかへコメントにも書きましたが、福島第一原発事故のあと村上春樹がスペインの講演会で、「国民が知らないうちに原発への発電依存度が3割を超えていた・・・」というような主旨の発言をしたとき、「あん? いったい何言ってるんだ?」となってしまった感覚に近いものを、「◎◎は」という敷衍化された“ひとくくり”の主語に、容易に個々の主体を滅却して語れる彼の姿勢に、非常なうさん臭さを感じてしまった経緯がありました。
    知らなかったのは村上春樹自身であって、他の多くの人々は知っていたかもしれない・・・という想像力(事実、多くの人間が知っていて1981年より反対していたわけで、1987年には新聞広告をめぐり村上春樹にも署名を呼び掛けていたわけですが)が、この男にはない。彼のいう「国民は」は、「1億総特攻」「1億の国民が火の玉となり鬼畜米英を撃滅」せよとわめき散らしていた、1945年(昭和20)以前の軍国主義者による主体設定と、いったいどこが異なるのか?・・・という、人間観ないしは人間性の捉え方をめぐる根本的な疑義ですね。
    「国民全員が特攻なんてバカげてる」と考えるであろう人間のうち、判明しているだけでも7万人以上が刑務所や拘置所、収容所へ入れられ、そのような感覚をもっていそうな十万単位の人間には徹底した監視の目が光っていた・・・という、つい60数年前までのあたかも今日の「北朝鮮」的な日本の状況が、まったく理解されていないのだなぁ・・・と彼の言質に感じてしまったしだいです。
    話がウンと横道に逸れているようですが、わたしが言いたいことは実はズレてはおらず、「(日本)国民は」「日本人は」「男は」「女は」と一般化された主語、個々の主体性を尊重せず(むしろ相対的に否定して)、具体化して語られない視座からの「没主体」設定は、わたしにとっては意味がないとは言わないまでも、どこかうさん臭く感じてしまう“主語”であり、不用意な“ひとくくり”であるという想いを、どこかで強く感じてしまうしだいです。
    2012年07月22日 13:20
  • kako

    Papaさんは、村上春樹氏の想像力の欠如には手厳しいようですが、ご自身には優しいのですね(まあ、多くの人はそうですね。というと、またPapaさんは、「多くの人」という人はいないと仰るのでしょうけれど。私は自身への自戒も込めてそう思います)。
    「人は一人ひとり違う」という流行歌のフレーズのような都合よく、口当たりのよいコピーは、自らの「想像力」を放擲した怠惰であると、私は思っています。
    2012年07月22日 23:24
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、コメントをありがとうございます。
    うーーん、わたしはそうは思わないですね。「キミも同じ日本人じゃないか」、「単一の同じ民族じゃないか」、「同じ男同士だろう」、「たかが女じゃないか」・・・というような、非常に感覚的かつ観念的で不用意な“ひとくくり”や敷衍化によって、これまでどれだけの人々が個=「わたし」を滅却させられ、苦しめられてきたのかを想像し振り返ると、やはり根本的な疑義とともに、その“非主体性”的な響きに強くひっかかってしまうのですよ。
    2012年07月23日 00:03
  • kako

    ふふふ…。ここまで意見がすれ違うと、笑っちゃいますね(ちなみに、私は村上春樹氏の発言が想像力を欠いているとは、まったく思いません)。
    明日から(もう今日ですが)、また暑さが戻ってくるそうです。どうぞ、お体にお気をつけて。お元気で。
    2012年07月23日 00:56
  • ChinchikoPapa

    kakoさん、コメントをありがとうございます。
    村上春樹のケースは想像力の問題ではなく、彼に新聞全段広告への参加を呼びかけた、チェルノブイリ直後の1987年時の運動の際(ちなみに今回の運動に参加している文学者、学者、評論家等のみなさんと一部顔ぶれが重なりますが)、原発への電力依存3割超に対する問いかけとともに、彼はその時点で「知っていた」はずなのですね。このあたりの経緯は、以前SILENTさんへのコメント(村上春樹は大磯ですので)でも書いたことでした。(下記参照)
    http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-05-08
    上記の経緯から、国民=とある一般化された規定(原発依存率30%超を知らなかった)≠わたし=非「国民」?・・・というようなことにもなりかねない敷衍化は、わたしにはどうしても傲慢かつある意味では“政治的”な言質だと思えてしまうのです。
    人間の「主体」のとらえ方=人間観あるいは社会観と、それにもとづく認識論の根本的な相違ですので、きっとどこまでいっても平行線ではないかと、わたしも思います。^^;
    2012年07月23日 14:17

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