1935年(昭和10)に、ダット乗合自動車Click!(のち東京環状乗合自動車)のバスガールたちが横暴な経営方針と待遇改善(ベア)、そしてより劣悪な労働環境とクビ切りをもたらす王子環状乗合自動車との合併計画に反対して結成した争議団は、同年に目白通りで大規模なデモ行進Click!を行っている。この年代における罷業(ストライキ)やデモは、東京府内では1931年(昭和6)の206件をピークに、1935年(昭和10)には95件と半数以下に急減している。
特に1931年(昭和6)の「満州事変」以降は、特高警察による徹底した検挙や治安維持法の拡大適用などによる弾圧で、労働運動は壊滅的なダメージを受けた。ダット乗合自動車の争議も逮捕者がつづき、翌年には合併されて東京環状乗合自動車Click!(労組も東京環状乗合自動車労働争議団)の名称で職場が再編され、事業統合による大量のクビ切りも行なわれただろう。小川薫様Click!の母・上原とし様も、目白通りデモへの参加を理由に1年の期限つき解雇通知を受けている。
日本で交通労組が誕生したのは、実は日本交通労働組合巣鴨支部が置かれた豊島区がもっとも早い時期にあたる。1919年(大正8)に、巣鴨の東京市電気局の職員たちが中核となって結成された。同年9月3日に、時事新報記者・中西伊之助を理事長として旗揚げし、のちの労組再編期に東京交通労働組合(東交労組)と名称を変えて、1940年(昭和15)7月まで存続している。おそらく、ダット乗合自動車の争議団は、東交労組に加盟していたのではないだろうか。1983年(昭和58)に出版された『豊島区史・通史編2』から、日本交通労働組合の発足時の様子を引用してみよう。
▼
支部は各出張所毎に結成され、巣鴨支部は一〇月二五日第五番目の支部として発足した。大塚支部は翌年一月二二日の結成である。さらに組合は自動車従業員、市街電車まで組織をのばし、大塚と同じ日、王子電車従業員による王子支部が誕生した。市外電車で加わったのは王子と玉川の二つである。大正九年二月までに計一三の支部が設立され、四月現在の組合員数六〇三〇人、うち巣鴨六五〇人、大塚三二〇人、王子一〇〇人に上った。
▲
わずか半年の間に、6,000人を超える交通就労者が組合に加盟している。これほど短期間で組合員が集まったのは、劣悪な労働環境や低賃金の問題もあるが、当時はさらに大きな課題が横たわっていた。昭和期に入ると電車や市電、バスなど乗り物の運転手や車掌は子どもたちの「憧れの職業」になっていくが、明治が終わったばかりの大正期には、いまだ乗り物を引く牛馬の役割りと同じような感覚が残り、世間からは職業蔑視の対象となっていたのだ。いまから見れば不思議な感覚だが、明治期の鉄道馬車や馬力の印象が強かったせいもあるのだろう。
日本交通労働組合の結成宣言には、「吾等勤勉なる労働者が、其の人格を社会的に認識せしむる可き時代が来た」と冒頭でうたっているのを見ても、当時の市電当局や交通企業の経営者が、従業員たちに示していた姿勢をうかがい知ることができる。こうした従業員たちの不満が一気に噴き出したのが、1919年(大正8)の日本交通労働組合結成だった。また、彼らは結成宣言の中で、交通網は人々の往来や物流を支える重要な社会インフラであり、国家的な一大産業であるという自負も見せている。結成宣言の中で示された、「待遇改善要求」の文章から引用してみよう。
▼
工場生産は縦の生産であり、交通生産は横の生産である。(中略) 故に交通労働者は国家的使命をを帯びて居る。(中略) 吾等が生活の実際を見ると、技術の熟練、業務の危険、服務時間の不定は労働者の首位を占めている。而も受くる所の待遇は仰いで父母を養ふを得ず、俯して妻子を育くむを得ない。即ち吾等の運動は精神的にも、物質的にも社会の一員として有ゆる(ママ)機会の均等を要求するに在る。
▲

1928年(昭和3)の三・一五事件Click!および翌1929年(昭和4)の四・一六事件で、日本共産党は壊滅的な打撃を受けていたが、左派系の労組はいまだなんとか健在だった。1931年(昭和6)の「満州事変」をきっかけに、労働運動の再編が起き「国家社会主義」を標榜する右派や中間派の組合が結成される中で、東京の労組がファシズム化や軍国主義化の流れに押されて厳しい状況へと追いこまれていくのは、先にご紹介した争議件数の急減を見ても明らかだ。
また、争議への参加人数も、『豊島区史・通史編2』によれば1930年(昭和5)のピーク時60,328人から、1935年(昭和10)にはほぼ3分の1の23,311人へと落ちこんでいる。そのような時期に、ダット乗合自動車のバスガールたちによる争議やデモが行われていたのだ。彼女たちが目白通りをデモ行進したとき、当時の法に照らせば合法活動だったにもかかわらず、参加者をデモ隊列から“ゴボウ抜き”にして検束したのは、どのような警察組織だったのだろうか?
当時の警視庁特高部には、思想、労働、農民、宗教、検閲などの係が置かれていた。この中で、共産党をはじめとする左翼思想を圧殺したのは特高警察思想係(ないしは思想検事)だが、目白通りのデモを弾圧したのは労働係だったと思われる。1935年(昭和10)現在、すでに共産党員や無政府主義者の摘発は終盤を迎えており、特高警察の肥大化した組織や予算を維持するためには、左翼思想の「貯水池」と見られていた労働運動や宗教活動にまで、治安維持法違反の「不逞の輩」を見いだそうとしていた。2012年出版の萩野富士夫『特高警察』(岩波書店)から引用してみよう。
▼
治安維持法による検挙者は司法警察上の「思想犯罪」として検挙されると同時に、「強制的道徳律」という行政警察的な運用を受けていた。しかも行政警察的運用はこれにとどまらず、治安維持法違反を名とする検束・勾留におよんだ。強制捜査だとしても「非合法」な検束・勾留者の人数は、おそらく先の七万人の数倍以上におよぶだろう(略)。特高警察は、それらの人々にも「強制的道徳律」としての治安維持法をもって容赦なく襲いかかり、「不逞の輩」という烙印を押した。
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一度肥大化した特高警察の組織は、それに見合う件数の「事件」や「不逞の輩」を摘発し、「成果」を上げなければ維持ができなくなっていく。若槻礼次郎内閣が、ヤクザや暴力団以外に適用する意図はないとしていた「暴力行為等処罰に関する法律」は、さっそく特高警察により合法的な争議やデモ行進などの「暴力行為等」へと適用された。また、行政執行法はまったく違法行為を犯していない人物でも「公安を害する虞(おそれ)ある者」として、逮捕状なしで身柄を予防的に拘禁することができた。おそらく、合法的なバスガールたちのデモを「現行犯」で検挙した特高警察労働係の名目は、上記いずれかの法律だったのではないかと思われる。
やがて、「左翼運動」や「民主主義運動」「自由主義運動」などどこにも存在していないにもかかわらず、特高警察は存在意味やより大きな成果を誇示するために、無理やりありもしない「事件」をデッチ上げていくことになる。戦時中で最大の弾圧事件となった1942年(昭和17)の「横浜事件」は、明らかに出版社や新聞社などをねらい撃ちにした100%デッチ上げ「事件」だったことが、戦後に行なわれた裁判で次々と明るみに出た。4名の獄死者をだした同事件は、出版社や新聞社の「インテリ」が単に気に食わなかっただけだといわれる。戦後の裁判記録に、神奈川県警特高課の言葉として次のような口述書が残されている。「言え。貴様は殺してしまうんだ。神奈川県特高警察は警視庁とは違うんだ。貴様のような痩せこけたインテリは何人も殺しているのだ」。
また、「摘発者」を増やし「成果」を上げるために、派出所の巡査にまで特高警察による「特高教育」がなされるようになる。1941年(昭和16)に太平洋戦争がはじまるとともに、「和平」や「厭戦」「反戦」を口にする者(親父が警察に引っぱられたClick!のはこれに相当するだろう)や、キリスト教会をはじめとする欧米宗教への弾圧、身内に戦死者を出した遺族たちの言動に対する徹底した監視、社会科学の関連学術書を読んでいる者、大学の理系以外で勉強をつづけている者、ドイツ(オーストリア)やイタリア以外の小説・音楽を鑑賞する者、はてはJAZZレコードを所持している者※までが、「不逞の輩」や「不逞分子」「非国民」として摘発されていくようになる。
※1980年代に『スイングジャーナル』へ新版「ジャズの歴史物語」を連載していた油井正一Click!は、「警察によるジャズレコードの押収や没収はなかった」などと書いたが、次号の読者欄などで実際に被害にあった同世代の人たちから誤りを指摘され、たまたま油井正一が警察へ密告されず、幸運にもJAZZレコードが見つからずに押収が「(個人的に)なかった」だけだったことが明らかにされている。

おそらく、目白通りで検挙されたダット乗合自動車の労組員は、目白警察署ないしは戸塚警察署へ連行され、拷問を含む手ひどい取り調べを受けているだろう。治安維持法の施行から、特高警察による犠牲者は拷問による虐殺80名、拷問が原因による獄中死114名、劣悪な取り調べや拘禁環境から病気による獄中死1,503名(前掲『特高警察』)にのぼった。戦前・戦中を通じて、全国の刑務所や拘置所、収容所に拘禁されていた「不逞の輩」や「非国民」は膨大な人数にのぼる。
◆写真上:ダット乗合自動車の労組が合法的にデモ行進をしたと思われる、長崎バス通りと目白通りの合流点。目白通りへ出たとたんに、特高警察労働係に指揮された警官隊がデモ隊を襲った。
◆写真中上:上は、1919年(大正8)に結成された日本交通労働組合の「宣言」。下は、おそらく1936年(昭和11)に撮られた東環乗合自動車労働争議団の記念写真。(提供:小川薫様)
◆写真中下:上左は、東京環状乗合自動車へ合併される前のダット乗合自動車時代のバスガールたち。上右は、目白橋で撮影された東環乗合自動車時代のバスガールたち。(ともに小川薫様提供) 下左は、日本交通労働組合結成時に作成された特高警察資料。下右は、1935年(昭和10)の『特高月報』7月号の目次で「日本交通労働総連盟の動静」が掲載されている。
◆写真下:上は、1930年(昭和5)制作のデモ行進で逮捕されるバスガールを描いた山上嘉吉『検束』。下は、1933年(昭和8)制作の津田青楓『犠牲者』(左)と岡本唐貴『小林多喜二死面』(右)。
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この記事へのコメント
Marigreen
それにしてもPapaさんのお父様は気骨がありますね。あの時代「反戦」「反軍部」を叫ぶだけでも勇気がいるのに、戦後、殴った警官を謝罪させたなんて、さすがPapaさんのお父様だけありますね。
SILENT
こんな絵も描かれたんですねー
ChinchikoPapa
戦後、警察官を探しだせたのは人間関係が密な下町で、“顔見知り”だったからでしょうね。たいがいの警察官は、特に戦時中に担当区域でひどいことをしてきた連中は、地元の人間でない限り報復を怖れてさっさと「土地を売った」(逃げてった)でしょうから。
でも、警官のひどい仕打ちよりも、東京大空襲が迫ったときにさっさと「ふるさと」へ逃げ帰っていった、東京を地元としない寺々の「べらぼー(大バカ)坊主」たちのほうが、よけい腹にすえかねていたのか、何度も繰り返し批判していましたが。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ばんさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
津田青楓の名前は、プロレタリア美術展関連の資料では必ず出てきますね。黒澤明も、目白駅から歩いて長崎大和田の研究所へ通っていたと思いますが、そのあたりのお話を近々まとめて書きたいと思っています。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
しいなまちお・K
ダット乗合自動車が営業を開始したのが大正12年、
すなわち関東大震災の年であり、
長崎村に爆発的に人口が増え始める頃ということでしょうか。
日本の乗合自動車のルーツは、地方では明治期に遡るようですが
国産車(ダット)によるそれは、おそらくここが最初と思いたいです。
小川様のお母様のバスガール時代の数々のお写真は、
本当にたいへん貴重で、「ダット」から「東京環状」に名称変更する
(Papaさんの記事ですと昭和7年ということで)
時期の両方の社名が書かれたバスがそれぞれ見られますね。
特に、現在の南長崎花咲公園が乗合自動車の車庫だったことを示す
鉄筋建築のガレージの写真は、同じ建物が私が学生の頃まで
都バスの社宅(大和寮)として残っていたので感動しました。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
おそらく、市電が広範囲に敷かれはじめていた東京市街に比べ、郊外はバス路線のニーズが高かったせいもあるのでしょうね。落合町と長崎町が、昭和初期に協同で目白通りへの市電誘致の働きかけをしているのを見ても、市電が敷かれるまではバス路線で、市電が敷かれたあとは別ルートにバス路線を移設・・・というような経緯が、東京のあちこちで見られていたように思います。
目白駅から長崎方面へと向かうダット乗合自動車の路線は、おそらくもっとも早い時期からスタートしていたのではないかと思います。それは、目白通り沿いに落合第1~第4府営住宅が建ち、その南側に目白文化村が開発されたころからなのでしょうね。目白通りの同路線とほぼ同時に、省線・高田馬場駅から早稲田を通り若松町方面へと抜ける、もうひとつのダット乗合自動車路線も運行をスタートしているのではないかと思います。また、目白駅から江戸川橋方面までは、江戸川乗合自動車が営業していますが、これもそのころにできたルートなんでしょうね。
当時は、緑の多い東京郊外を走る、のどかなバス路線だったと思いますが(小川様のアルバムを見てますと、そのような印象が強く湧きます)、東環乗合自動車との合併期あたりを境に、従業員の合理化やリストラなど不当労働行為の嵐が社内を吹き荒れたものでしょうか、労働争議の規模は拡大していったように感じています。
siina machiko
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>マチャさん
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>大嶋洋介候補事件被害者の会さん
ChinchikoPapa
バスガールの山上嘉吉『検束』は、当時のプロレタリア美術展へ出品された作品です。逮捕されたバスガールが連行されたのは、目白警察署の特高課(係)だったのですね。
実は、長崎町大和田にありました「造形美術研究所」(のちにプロレタリア美術研究所)で、ダット乗合自動車のバスガールたちがモデルをつとめていたことが判明しています。「バスガール」としてのモデルばかりでなく、いろいろな人物(女性)の“動き”をつかむために、モデル協力をしていたのだと思われます。
お母様は、この美術研究所について、なにかお話をされていなかったでしょうか? 「そういえば、画家さんのモデルをしたことがあったわ」・・・というようなお話をされていれば、ひょっとしてひょっとするかと思います。岡本唐貴や黒澤明のモデルをしたかもしれませんね。w 近々、同研究所につきましては、記事をアップしようと思っています。
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>ENOさん
yogawa55はやぶさ
機関車やディーゼルカーに白文字でスローガンが書き込まれ、乗務拒否もあったようです。
最近、労働争議を見る機会が無くなりました。
ChinchikoPapa
旧「公労協」系の労働組合は、最近はストライキをやっても利用者の共感が得られないと判断しているのか、それとも「もの分かり」がよくなってしまったものか、「労使協議」が先行してまずスト突入はなくなりましたね。
siina machiko
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)は、1929年(昭和4)に開設されていますので、「アトリエ村」の時代よりはほんの少し前になります。まさに、おっしゃるとおり南長崎2丁目にあり、大勢の画家や画家の卵たちが通ってきていました。安達牧場もすぐ近くですね。
お母様は、モデルになったのに恥ずかしいから娘にはナイショにされていた・・・とかいうことはないでしょうか。ww
この研究所がユニークなのは、おそらく日本で初めて「漫画論」の講座および漫画制作の実践授業をカリキュラムに取り入れている点です。戦後のトキワ荘からわずか150mほどのところで、すでに漫画が美術講義のひとつに取り入れられていたんですね。
日本漫画家連盟の成立(1926年)とともに、画家のアルバイト的な仕事だった漫画は、独立した芸術表現として歩みはじめますが、その端緒となる教育が長崎地域で行なわれていたのは、非常に注目すべき事象です。
もともと同研究所に通い、当局による弾圧のあとはアトリエ村に住み、戦後は周辺地域に家を建てて住んでいた画家たちは、かなりの数にのぼるのでしょうね。お母様ものぞいたことがあるかもしれない造形美術研究所の記事は、7月中にアップしたいと思っています。w
ChinchikoPapa
しいな
確か、赤塚不二夫が憧れた、あの杉浦茂もアトリエ村の美術学校に通っていたはず。
ダット乗合自動車のバスガールが、そこのモデルになっていたとか、もう面白すぎます!
今月中のアップ、なにとぞよろしくお願いします。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
造形美術研究所(1929年)→プロレタリア美術研究所(1930年)→東京プロレタリア美術学校(1932年~)という経緯なのですが、しじゅう特高警察の「手入れ」は受けていたものの、最後にはとうとう憲兵隊がやってきて、学校施設や備品調度を破壊しつくしていったようです。
だから、地元でも印象が薄いのかもしれないのですが、目白駅寄りの道路の角に「プロレタリア美術研究所」への案内看板が建っていたのを、憶えてる方がいらっしゃるようですね。同時代を生きていた方々には、けっこう強い印象を残しているようです。
先週末、同研究所の跡をはじめ、いろいろ写真撮影をして歩いたり資料集めをしてますので、なんとか7月中には・・・。^^;
sig
特高警察と聞くと、経験がないにもかかわらず戦慄を覚えます。
今、小林多喜二にも関連する書籍を読んでいるところです。
ChinchikoPapa
特高警察については、親父からイヤというほど聞かされていましたので、わたしも実体験はないものの戦慄をおぼえます。次回の記事は、奇しくも小林多喜二の奥さんが下落合へ登場してきます。
しばらくブログをお留守にされていると思ったら、映像を制作されていたのですね。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
アヨアン・イゴカー
そのようなことがあったのですね。血を感じさせられます。
それにしても、当時バスガールたちも争議やデモに参加していたのですね。
ChinchikoPapa
当時は高等学校(いまの大学の教養課程ですね)に通っていた親父は、別に意志的に「反戦」を唱えたわけでも、また思想的に「和平」を主張したわけでもなく、「(冷静かつ論理的に分析すれば)、どう考えても米国に勝てるわけがない」・・・という趣旨の言葉を口にしただけでした。
それを、周囲の誰かが特高教育を受けた近くの派出所の巡査へ密告したのでしょうね。わたしなら、巡査のほうではなく「密告者」のほうへ、よけいに腹が立って追及たでしょうが・・・。