バスガールたちのデモを襲った警察は?

目白通り.JPG
 1935年(昭和10)に、ダット乗合自動車Click!(のち東京環状乗合自動車)のバスガールたちが横暴な経営方針と待遇改善(ベア)、そしてより劣悪な労働環境とクビ切りをもたらす王子環状乗合自動車との合併計画に反対して結成した争議団は、同年に目白通りで大規模なデモ行進Click!を行っている。この年代における罷業(ストライキ)やデモは、東京府内では1931年(昭和6)の206件をピークに、1935年(昭和10)には95件と半数以下に急減している。
 特に1931年(昭和6)の「満州事変」以降は、特高警察による徹底した検挙や治安維持法の拡大適用などによる弾圧で、労働運動は壊滅的なダメージを受けた。ダット乗合自動車の争議も逮捕者がつづき、翌年には合併されて東京環状乗合自動車Click!(労組も東京環状乗合自動車労働争議団)の名称で職場が再編され、事業統合による大量のクビ切りも行なわれただろう。小川薫様Click!の母・上原とし様も、目白通りデモへの参加を理由に1年の期限つき解雇通知を受けている。
 日本で交通労組が誕生したのは、実は日本交通労働組合巣鴨支部が置かれた豊島区がもっとも早い時期にあたる。1919年(大正8)に、巣鴨の東京市電気局の職員たちが中核となって結成された。同年9月3日に、時事新報記者・中西伊之助を理事長として旗揚げし、のちの労組再編期に東京交通労働組合(東交労組)と名称を変えて、1940年(昭和15)7月まで存続している。おそらく、ダット乗合自動車の争議団は、東交労組に加盟していたのではないだろうか。1983年(昭和58)に出版された『豊島区史・通史編2』から、日本交通労働組合の発足時の様子を引用してみよう。
  
 支部は各出張所毎に結成され、巣鴨支部は一〇月二五日第五番目の支部として発足した。大塚支部は翌年一月二二日の結成である。さらに組合は自動車従業員、市街電車まで組織をのばし、大塚と同じ日、王子電車従業員による王子支部が誕生した。市外電車で加わったのは王子と玉川の二つである。大正九年二月までに計一三の支部が設立され、四月現在の組合員数六〇三〇人、うち巣鴨六五〇人、大塚三二〇人、王子一〇〇人に上った。
  
 わずか半年の間に、6,000人を超える交通就労者が組合に加盟している。これほど短期間で組合員が集まったのは、劣悪な労働環境や低賃金の問題もあるが、当時はさらに大きな課題が横たわっていた。昭和期に入ると電車や市電、バスなど乗り物の運転手や車掌は子どもたちの「憧れの職業」になっていくが、明治が終わったばかりの大正期には、いまだ乗り物を引く牛馬の役割りと同じような感覚が残り、世間からは職業蔑視の対象となっていたのだ。いまから見れば不思議な感覚だが、明治期の鉄道馬車や馬力の印象が強かったせいもあるのだろう。
 日本交通労働組合の結成宣言には、「吾等勤勉なる労働者が、其の人格を社会的に認識せしむる可き時代が来た」と冒頭でうたっているのを見ても、当時の市電当局や交通企業の経営者が、従業員たちに示していた姿勢をうかがい知ることができる。こうした従業員たちの不満が一気に噴き出したのが、1919年(大正8)の日本交通労働組合結成だった。また、彼らは結成宣言の中で、交通網は人々の往来や物流を支える重要な社会インフラであり、国家的な一大産業であるという自負も見せている。結成宣言の中で示された、「待遇改善要求」の文章から引用してみよう。
  
 工場生産は縦の生産であり、交通生産は横の生産である。(中略) 故に交通労働者は国家的使命をを帯びて居る。(中略) 吾等が生活の実際を見ると、技術の熟練、業務の危険、服務時間の不定は労働者の首位を占めている。而も受くる所の待遇は仰いで父母を養ふを得ず、俯して妻子を育くむを得ない。即ち吾等の運動は精神的にも、物質的にも社会の一員として有ゆる(ママ)機会の均等を要求するに在る。
  
日本交通労働組合「宣言」.jpg
東環乗合自動車労働争議団.jpg
 1928年(昭和3)の三・一五事件Click!および翌1929年(昭和4)の四・一六事件で、日本共産党は壊滅的な打撃を受けていたが、左派系の労組はいまだなんとか健在だった。1931年(昭和6)の「満州事変」をきっかけに、労働運動の再編が起き「国家社会主義」を標榜する右派や中間派の組合が結成される中で、東京の労組がファシズム化や軍国主義化の流れに押されて厳しい状況へと追いこまれていくのは、先にご紹介した争議件数の急減を見ても明らかだ。
 また、争議への参加人数も、『豊島区史・通史編2』によれば1930年(昭和5)のピーク時60,328人から、1935年(昭和10)にはほぼ3分の1の23,311人へと落ちこんでいる。そのような時期に、ダット乗合自動車のバスガールたちによる争議やデモが行われていたのだ。彼女たちが目白通りをデモ行進したとき、当時の法に照らせば合法活動だったにもかかわらず、参加者をデモ隊列から“ゴボウ抜き”にして検束したのは、どのような警察組織だったのだろうか?
 当時の警視庁特高部には、思想、労働、農民、宗教、検閲などの係が置かれていた。この中で、共産党をはじめとする左翼思想を圧殺したのは特高警察思想係(ないしは思想検事)だが、目白通りのデモを弾圧したのは労働係だったと思われる。1935年(昭和10)現在、すでに共産党員や無政府主義者の摘発は終盤を迎えており、特高警察の肥大化した組織や予算を維持するためには、左翼思想の「貯水池」と見られていた労働運動や宗教活動にまで、治安維持法違反の「不逞の輩」を見いだそうとしていた。2012年出版の萩野富士夫『特高警察』(岩波書店)から引用してみよう。
  
 治安維持法による検挙者は司法警察上の「思想犯罪」として検挙されると同時に、「強制的道徳律」という行政警察的な運用を受けていた。しかも行政警察的運用はこれにとどまらず、治安維持法違反を名とする検束・勾留におよんだ。強制捜査だとしても「非合法」な検束・勾留者の人数は、おそらく先の七万人の数倍以上におよぶだろう(略)。特高警察は、それらの人々にも「強制的道徳律」としての治安維持法をもって容赦なく襲いかかり、「不逞の輩」という烙印を押した。
  
バスガール(ダット).jpg バスガール(東環).jpg
特高月報193507.jpg特高資料192005.jpg
 一度肥大化した特高警察の組織は、それに見合う件数の「事件」や「不逞の輩」を摘発し、「成果」を上げなければ維持ができなくなっていく。若槻礼次郎内閣が、ヤクザや暴力団以外に適用する意図はないとしていた「暴力行為等処罰に関する法律」は、さっそく特高警察により合法的な争議やデモ行進などの「暴力行為等」へと適用された。また、行政執行法はまったく違法行為を犯していない人物でも「公安を害する虞(おそれ)ある者」として、逮捕状なしで身柄を予防的に拘禁することができた。おそらく、合法的なバスガールたちのデモを「現行犯」で検挙した特高警察労働係の名目は、上記いずれかの法律だったのではないかと思われる。
 やがて、「左翼運動」や「民主主義運動」「自由主義運動」などどこにも存在していないにもかかわらず、特高警察は存在意味やより大きな成果を誇示するために、無理やりありもしない「事件」をデッチ上げていくことになる。戦時中で最大の弾圧事件となった1942年(昭和17)の「横浜事件」は、明らかに出版社や新聞社などをねらい撃ちにした100%デッチ上げ「事件」だったことが、戦後に行なわれた裁判で次々と明るみに出た。4名の獄死者をだした同事件は、出版社や新聞社の「インテリ」が単に気に食わなかっただけだといわれる。戦後の裁判記録に、神奈川県警特高課の言葉として次のような口述書が残されている。「言え。貴様は殺してしまうんだ。神奈川県特高警察は警視庁とは違うんだ。貴様のような痩せこけたインテリは何人も殺しているのだ」。
 また、「摘発者」を増やし「成果」を上げるために、派出所の巡査にまで特高警察による「特高教育」がなされるようになる。1941年(昭和16)に太平洋戦争がはじまるとともに、「和平」や「厭戦」「反戦」を口にする者(親父が警察に引っぱられたClick!のはこれに相当するだろう)や、キリスト教会をはじめとする欧米宗教への弾圧、身内に戦死者を出した遺族たちの言動に対する徹底した監視、社会科学の関連学術書を読んでいる者、大学の理系以外で勉強をつづけている者、ドイツ(オーストリア)やイタリア以外の小説・音楽を鑑賞する者、はてはJAZZレコードを所持している者までが、「不逞の輩」や「不逞分子」「非国民」として摘発されていくようになる。
1980年代に『スイングジャーナル』へ新版「ジャズの歴史物語」を連載していた油井正一Click!は、「警察によるジャズレコードの押収や没収はなかった」などと書いたが、次号の読者欄などで実際に被害にあった同世代の人たちから誤りを指摘され、たまたま油井正一が警察へ密告されず、幸運にもJAZZレコードが見つからずに押収が「(個人的に)なかった」だけだったことが明らかにされている。
山上嘉吉「検束」1930.jpg
津田青楓「犠牲者」1933.jpg 岡本唐貴「小林多喜二死面」1933.jpg
 おそらく、目白通りで検挙されたダット乗合自動車の労組員は、目白警察署ないしは戸塚警察署へ連行され、拷問を含む手ひどい取り調べを受けているだろう。治安維持法の施行から、特高警察による犠牲者は拷問による虐殺80名、拷問が原因による獄中死114名、劣悪な取り調べや拘禁環境から病気による獄中死1,503名(前掲『特高警察』)にのぼった。戦前・戦中を通じて、全国の刑務所や拘置所、収容所に拘禁されていた「不逞の輩」や「非国民」は膨大な人数にのぼる。

◆写真上:ダット乗合自動車の労組が合法的にデモ行進をしたと思われる、長崎バス通りと目白通りの合流点。目白通りへ出たとたんに、特高警察労働係に指揮された警官隊がデモ隊を襲った。
◆写真中上は、1919年(大正8)に結成された日本交通労働組合の「宣言」。は、おそらく1936年(昭和11)に撮られた東環乗合自動車労働争議団の記念写真。(提供:小川薫様)
◆写真中下上左は、東京環状乗合自動車へ合併される前のダット乗合自動車時代のバスガールたち。上右は、目白橋で撮影された東環乗合自動車時代のバスガールたち。(ともに小川薫様提供) 下左は、日本交通労働組合結成時に作成された特高警察資料。下右は、1935年(昭和10)の『特高月報』7月号の目次で「日本交通労働総連盟の動静」が掲載されている。
◆写真下は、1930年(昭和5)制作のデモ行進で逮捕されるバスガールを描いた山上嘉吉『検束』。は、1933年(昭和8)制作の津田青楓『犠牲者』()と岡本唐貴『小林多喜二死面』()。

この記事へのコメント

  • Marigreen

    私は、集団行動というものが、本来、好きではないのだが、(無責任な付和雷同者とか、数を頼んで暴力行為をする人がいるから)バスガールたちのデモは、至極、尤もですね。
    それにしてもPapaさんのお父様は気骨がありますね。あの時代「反戦」「反軍部」を叫ぶだけでも勇気がいるのに、戦後、殴った警官を謝罪させたなんて、さすがPapaさんのお父様だけありますね。
    2012年07月04日 08:51
  • SILENT

    津田青楓の書「心外無別法」が、手元にあります。
    こんな絵も描かれたんですねー
    2012年07月04日 09:45
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
    戦後、警察官を探しだせたのは人間関係が密な下町で、“顔見知り”だったからでしょうね。たいがいの警察官は、特に戦時中に担当区域でひどいことをしてきた連中は、地元の人間でない限り報復を怖れてさっさと「土地を売った」(逃げてった)でしょうから。
    でも、警官のひどい仕打ちよりも、東京大空襲が迫ったときにさっさと「ふるさと」へ逃げ帰っていった、東京を地元としない寺々の「べらぼー(大バカ)坊主」たちのほうが、よけい腹にすえかねていたのか、何度も繰り返し批判していましたが。w
    2012年07月04日 14:25
  • ChinchikoPapa

    隅田川が一望できるので一度は出かけてみたいですが、やっぱり高くて怖いですね。w nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2012年07月04日 14:27
  • ChinchikoPapa

    わたしが大学に入ったころに出たアルバムですが、ロフト系JAZZの走りのような作品でしょうか。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2012年07月04日 14:34
  • ChinchikoPapa

    親父が風呂で歌う「鎌倉」を聞いて育ったわたしは、いまだに♪七里ヶ浜の~磯伝い~・・・を、「ひちりがはまの~」と歌って笑われます。地元・鎌倉や海岸沿いの街々でも、五六七は「ごーろくひち」だったような気がしますね。w nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2012年07月04日 14:41
  • ChinchikoPapa

    夏は火傷や日焼け、虫刺されにアロエが大活躍する季節ですね。
    nice!をありがとうございました。>ばんさん
    2012年07月04日 14:44
  • ChinchikoPapa

    ハマユウの風情がなつかしいですね。夏の夕方になると、ハマユウの蜜は甘いですから、大きなガがたくさん集まります。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2012年07月04日 14:47
  • ChinchikoPapa

    イデケンさんの優勝とベッピィさんの準優勝、おめでとうございます。すごいですね。^^ nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2012年07月04日 14:50
  • ChinchikoPapa

    『ただ君だけ』は、ちょうど新宿ピカでかかってますね。つい先ごろ映画館にいきましたが、ちがうフロアの映画を観てしまいました。nice!をありがとうございました。>nikiさん
    2012年07月04日 14:56
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    津田青楓の名前は、プロレタリア美術展関連の資料では必ず出てきますね。黒澤明も、目白駅から歩いて長崎大和田の研究所へ通っていたと思いますが、そのあたりのお話を近々まとめて書きたいと思っています。
    2012年07月04日 14:59
  • ChinchikoPapa

    昔の炭鉱労働者の表現ではないですが、「去るも地獄・残るも地獄」的な政治状況になってますね。nice!をありがとうございました。>mwainfoさん
    2012年07月04日 15:07
  • ChinchikoPapa

    下落合(現・中井2丁目)の中井御霊社も、ついこないだ(でもないですがw)の1980年代まで茅葺き屋根だったのを憶えています。nice!をありがとうございました。>tree2さん
    2012年07月04日 15:10
  • ChinchikoPapa

    SF作品はあまり好きではないのですが、ご紹介の映画はちょっと観てみたくなりました。nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
    2012年07月04日 18:29
  • ChinchikoPapa

    イカスミなのかそうではないのか、焼きそばソースの謎は深まるばかりでしょうか。w nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2012年07月04日 18:36
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>marumaruさん
    2012年07月04日 23:37
  • しいなまちお・K

    国産車1号(ダット号)を開発した橋本増治郎氏の年表によると、
    ダット乗合自動車が営業を開始したのが大正12年、
    すなわち関東大震災の年であり、
    長崎村に爆発的に人口が増え始める頃ということでしょうか。
    日本の乗合自動車のルーツは、地方では明治期に遡るようですが
    国産車(ダット)によるそれは、おそらくここが最初と思いたいです。

    小川様のお母様のバスガール時代の数々のお写真は、
    本当にたいへん貴重で、「ダット」から「東京環状」に名称変更する
    (Papaさんの記事ですと昭和7年ということで)
    時期の両方の社名が書かれたバスがそれぞれ見られますね。
    特に、現在の南長崎花咲公園が乗合自動車の車庫だったことを示す
    鉄筋建築のガレージの写真は、同じ建物が私が学生の頃まで
    都バスの社宅(大和寮)として残っていたので感動しました。
    2012年07月05日 04:45
  • ChinchikoPapa

    陸軍の青山練兵場跡に造られた、外苑部の設計や計画過程の物語が面白いですね。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2012年07月05日 10:26
  • ChinchikoPapa

    桐生市およびその周辺と下落合とのつながりを考えますと、聖母病院の裏手=八島さんの前通りに形成された「群馬村」とでもいうべきエリアが浮かんできます。近々、また「星野通り」周辺の記事を書きたいと思っています。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2012年07月05日 10:31
  • ChinchikoPapa

    しいなまちお・Kさん、コメントをありがとうございます。
    おそらく、市電が広範囲に敷かれはじめていた東京市街に比べ、郊外はバス路線のニーズが高かったせいもあるのでしょうね。落合町と長崎町が、昭和初期に協同で目白通りへの市電誘致の働きかけをしているのを見ても、市電が敷かれるまではバス路線で、市電が敷かれたあとは別ルートにバス路線を移設・・・というような経緯が、東京のあちこちで見られていたように思います。
    目白駅から長崎方面へと向かうダット乗合自動車の路線は、おそらくもっとも早い時期からスタートしていたのではないかと思います。それは、目白通り沿いに落合第1~第4府営住宅が建ち、その南側に目白文化村が開発されたころからなのでしょうね。目白通りの同路線とほぼ同時に、省線・高田馬場駅から早稲田を通り若松町方面へと抜ける、もうひとつのダット乗合自動車路線も運行をスタートしているのではないかと思います。また、目白駅から江戸川橋方面までは、江戸川乗合自動車が営業していますが、これもそのころにできたルートなんでしょうね。
    当時は、緑の多い東京郊外を走る、のどかなバス路線だったと思いますが(小川様のアルバムを見てますと、そのような印象が強く湧きます)、東環乗合自動車との合併期あたりを境に、従業員の合理化やリストラなど不当労働行為の嵐が社内を吹き荒れたものでしょうか、労働争議の規模は拡大していったように感じています。
    2012年07月05日 11:30
  • siina machiko

    貴重なお話しをありがとうございます。昭和5年制作のバスガールが逮捕される絵は衝撃です。繰り返し母に聞かされていた話「目の前を行進していた仲間が捕まった」という話がうかんできます。そして「目白警察はすごいよ!」というのも時折きいていました。きっとこの絵のような雰囲気だったのだと思います。私が実際に見ていたわけではないのにこの絵を見た瞬間(Papaさんの写真解説を読む前に)これはバスガールが逮捕されているところかもしれないと感じました。絵の中のバスガールは帽子をかぶっているようにみえますね。母達は帽子はかぶっていないのでどこか別のバス会社ですね。こんな絵があったなど本当に驚きです。
    2012年07月05日 12:06
  • ChinchikoPapa

    土壁と紅く実った柿の木・・・というイメージが、どこかにありますね。
    nice!をありがとうございました。>マチャさん
    2012年07月05日 16:18
  • ChinchikoPapa

    12本の記事で16,000人のビジターというのは、ずこいですね。
    nice!をありがとうございました。>大嶋洋介候補事件被害者の会さん
    2012年07月05日 16:20
  • ChinchikoPapa

    siina machikoさん、コメントをおりがとうございます。
    バスガールの山上嘉吉『検束』は、当時のプロレタリア美術展へ出品された作品です。逮捕されたバスガールが連行されたのは、目白警察署の特高課(係)だったのですね。
    実は、長崎町大和田にありました「造形美術研究所」(のちにプロレタリア美術研究所)で、ダット乗合自動車のバスガールたちがモデルをつとめていたことが判明しています。「バスガール」としてのモデルばかりでなく、いろいろな人物(女性)の“動き”をつかむために、モデル協力をしていたのだと思われます。
    お母様は、この美術研究所について、なにかお話をされていなかったでしょうか? 「そういえば、画家さんのモデルをしたことがあったわ」・・・というようなお話をされていれば、ひょっとしてひょっとするかと思います。岡本唐貴や黒澤明のモデルをしたかもしれませんね。w 近々、同研究所につきましては、記事をアップしようと思っています。
    2012年07月05日 16:32
  • ChinchikoPapa

    伊豆のパノラマ写真が美しいですね。ぜひ、詳しくご紹介くだされ。w
    nice!をありがとうございました。>ENOさん
    2012年07月05日 18:15
  • yogawa55はやぶさ

    旧国鉄の動力車労働組合(動労)のストライキを旧小郡機関区(山口県)で見たことがあります。
    機関車やディーゼルカーに白文字でスローガンが書き込まれ、乗務拒否もあったようです。
    最近、労働争議を見る機会が無くなりました。
    2012年07月05日 21:10
  • ChinchikoPapa

    yogawa55はやぶささん、コメントとnice!をありがとうございます。
    旧「公労協」系の労働組合は、最近はストライキをやっても利用者の共感が得られないと判断しているのか、それとも「もの分かり」がよくなってしまったものか、「労使協議」が先行してまずスト突入はなくなりましたね。
    2012年07月05日 22:29
  • siina machiko

    残念ながら母が絵のモデルをしていたような話はなかったです^^;バスガール仲間にはいたかもしれませんね。(母のバス仲間で一番親しかった人はとても美人で現役時代はもてたという話をよくしていました。)大和田といえば現南長崎2丁目のあたりでしょうか、安達牧場の北側に絵画教室を父親がやっていた同級生がいました。その家のつくりが「長崎アトリエ村」のアトリエ兼住居と同じ造りの家でした。以前いただいた昭和30年の地図にあります。他にも父親が絵画教室をやっていたり広告作成の仕事をしているという同級生がいました。そのお父さん達は多分戦前はアトリエ村で暮らしていたのではないでしょうか。
    2012年07月06日 01:49
  • ChinchikoPapa

    寿司を食って、ドテラを着て踊ってる女の子、かわいいですね。ww
    nice!をありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
    2012年07月06日 13:09
  • ChinchikoPapa

    下落合駅の詳細レポート、楽しく拝見しています。そういえば、洪水防止のため妙正寺川と神田川が落ち合う地点を改造し、地下へ分水流化して通す工事は延々とつづいてました。いまでは高戸橋のたもとへ流れが抜けていますが、あちらが「落合」となりますね。w nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
    2012年07月06日 13:32
  • ChinchikoPapa

    siina machikoさん、コメントをありがとうございます。
    造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)は、1929年(昭和4)に開設されていますので、「アトリエ村」の時代よりはほんの少し前になります。まさに、おっしゃるとおり南長崎2丁目にあり、大勢の画家や画家の卵たちが通ってきていました。安達牧場もすぐ近くですね。
    お母様は、モデルになったのに恥ずかしいから娘にはナイショにされていた・・・とかいうことはないでしょうか。ww
    この研究所がユニークなのは、おそらく日本で初めて「漫画論」の講座および漫画制作の実践授業をカリキュラムに取り入れている点です。戦後のトキワ荘からわずか150mほどのところで、すでに漫画が美術講義のひとつに取り入れられていたんですね。
    日本漫画家連盟の成立(1926年)とともに、画家のアルバイト的な仕事だった漫画は、独立した芸術表現として歩みはじめますが、その端緒となる教育が長崎地域で行なわれていたのは、非常に注目すべき事象です。
    もともと同研究所に通い、当局による弾圧のあとはアトリエ村に住み、戦後は周辺地域に家を建てて住んでいた画家たちは、かなりの数にのぼるのでしょうね。お母様ものぞいたことがあるかもしれない造形美術研究所の記事は、7月中にアップしたいと思っています。w
    2012年07月06日 13:50
  • ChinchikoPapa

    トマトとバジルのマルゲリータへタバスコを多めにかけるのが好きなわたしは、きっと「チリトマ」も好きですね。w nice!をありがとうございました。>Jさん
    2012年07月06日 18:16
  • しいな

    黒沢明も通ったというプロレタリア美術研究所に、漫画のカリキュラムがあったというのは、これまた凄い発見ですね!しかもトキワ荘から150メートル。
    確か、赤塚不二夫が憧れた、あの杉浦茂もアトリエ村の美術学校に通っていたはず。
    ダット乗合自動車のバスガールが、そこのモデルになっていたとか、もう面白すぎます!
    今月中のアップ、なにとぞよろしくお願いします。
    2012年07月06日 18:44
  • ChinchikoPapa

    「横須賀」という地名は神奈川にもありますが、「須賀」という地名がどこか近くにあるのでしょうか。nice!をありがとうございました。>yamさん
    2012年07月06日 22:56
  • ChinchikoPapa

    しいなまちお・Kさん、コメントをありがとうございます。
    造形美術研究所(1929年)→プロレタリア美術研究所(1930年)→東京プロレタリア美術学校(1932年~)という経緯なのですが、しじゅう特高警察の「手入れ」は受けていたものの、最後にはとうとう憲兵隊がやってきて、学校施設や備品調度を破壊しつくしていったようです。
    だから、地元でも印象が薄いのかもしれないのですが、目白駅寄りの道路の角に「プロレタリア美術研究所」への案内看板が建っていたのを、憶えてる方がいらっしゃるようですね。同時代を生きていた方々には、けっこう強い印象を残しているようです。
    先週末、同研究所の跡をはじめ、いろいろ写真撮影をして歩いたり資料集めをしてますので、なんとか7月中には・・・。^^;
    2012年07月06日 23:15
  • sig

    こんばんは。
    特高警察と聞くと、経験がないにもかかわらず戦慄を覚えます。
    今、小林多喜二にも関連する書籍を読んでいるところです。
    2012年07月07日 00:33
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    特高警察については、親父からイヤというほど聞かされていましたので、わたしも実体験はないものの戦慄をおぼえます。次回の記事は、奇しくも小林多喜二の奥さんが下落合へ登場してきます。
    しばらくブログをお留守にされていると思ったら、映像を制作されていたのですね。w
    2012年07月07日 00:51
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2012年07月07日 12:09
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
    2012年07月08日 18:54
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2012年07月09日 00:57
  • アヨアン・イゴカー

    >和平」や「厭戦」「反戦」を口にする者(親父が警察に引っぱられたClick!のはこれに相当するだろう)
    そのようなことがあったのですね。血を感じさせられます。
    それにしても、当時バスガールたちも争議やデモに参加していたのですね。
    2012年07月09日 01:16
  • ChinchikoPapa

    アヨアン・イゴカーさん、nice!とコメントをありがとうございます。
    当時は高等学校(いまの大学の教養課程ですね)に通っていた親父は、別に意志的に「反戦」を唱えたわけでも、また思想的に「和平」を主張したわけでもなく、「(冷静かつ論理的に分析すれば)、どう考えても米国に勝てるわけがない」・・・という趣旨の言葉を口にしただけでした。
    それを、周囲の誰かが特高教育を受けた近くの派出所の巡査へ密告したのでしょうね。わたしなら、巡査のほうではなく「密告者」のほうへ、よけいに腹が立って追及たでしょうが・・・。
    2012年07月09日 10:09

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Excerpt: 洋画家志望だった伊藤ふじ子は、長崎・落合地域とのつながりがひときわ濃い。彼女は1911年(明治44)、山梨県北巨摩郡清哲村(現・韮崎市)に生まれ甲府第一高女を卒業している。同級生には、のちに太宰治Cl..
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Tracked: 2012-07-10 00:01

杉並へ移る画家、杉並から帰る画家。
Excerpt: 昭和初期になると、下落合から新たに開発された現・杉並区各地の文化住宅街へ引っ越す画家や美術家の一群がいる。そのまま杉並へ落ち着いた画家もいれば、そこで死去した画家、あるいは落合地域が恋しくなったものか..
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Tracked: 2012-10-29 00:04

陸軍士官学校で配られた写真。(2)
Excerpt: 1941年(昭和16)12月8日の早朝、「帝国陸海軍ハ今八日未明 西太平洋ニ於テ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」という、ラジオの大本営陸海軍部発表による臨時ニュースで起こされた方々は、落合地域にもたくさんお..
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Tracked: 2013-05-22 00:01

プロレタリア美術家たちが描く「風景」。
Excerpt: 造型美術協会あるいは日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)などを母体として制作されたプロレタリア美術の多くは、思想や運動を直接的に表現する作品が主体だったけれど、中にはそれらを間接的に表現し匂わせる風景..
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Tracked: 2013-06-30 00:02

日本初のマンガ講座講師は八島太郎。
Excerpt: 先年、長崎町大和田1983番地(現・豊島区南長崎)にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)のことをご紹介したが、そこに集った画家たちの風景作品をご紹介した記事Cli..
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Tracked: 2013-09-10 00:20

標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年。
Excerpt: 戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納..
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Tracked: 2014-01-26 00:09

泣いてたまるかの八島太郎(岩松淳)。
Excerpt: 鹿児島の八島太郎展実行委員長の山田みほ子様より、八島太郎(岩松淳)Click!の貴重な資料類をお送りいただいたので、その一部をご紹介しながら、彼の遺した作品類を改めてご紹介したい。現在、八島太郎の作品..
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Tracked: 2014-03-06 00:01

『文化村を襲撃する子供』の短絡な階級観。
Excerpt: 全日本無産者芸術連盟(ナップClick!)が出していた機関誌、1928年(昭和3)の機関誌「戦旗」12月号がめずらしく古本屋で売っていたので、つい購入してしまった。この号は小林多喜二Click!『一九..
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Tracked: 2014-03-27 00:01

マリ子ハ御宅ヘ遊ビニ来ヌ。
Excerpt: 1931年(昭和6)12月、米国人の妻をともないサンフランシスコから太平洋航路で帰国した外務省の参事秘書官・寺崎英成は、しばらく帝国ホテルClick!に滞在したあと、椎名町駅の近く長崎町並木1285番..
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Tracked: 2014-04-14 00:02

上落合の八島太郎(岩松淳)。
Excerpt: 1935年(昭和10)の9月、八島太郎(岩松淳)Click!は新宿通りに面した紀伊国屋書店の2階展示室Click!で、「油絵・漫画・素描個人展覧会」を開いている。このとき、同展のコンパクトな図版が制作..
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Tracked: 2014-05-02 00:01

大家にめぐまれれた中野重治。
Excerpt: 中野重治Click!は、原泉Click!と結婚して上落合48番地、さらには上落合481番地へと転居してくる以前、独身時代に雑司ヶ谷の鬼子母神Click!(きしもじん)近くへ下宿していた時期があった。も..
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Tracked: 2014-06-01 00:01

豊島区が記録したプロレタリア美術学校。
Excerpt: 長崎町大和田1983番地(のち豊島区長崎南町3丁目)にあったプロレタリア美術研究所Click!(旧・造形美術研究所)では、どのような美術に関連する講義が開講されていたのか、あるいは講師陣には八島太郎(..
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Tracked: 2014-07-07 00:01

飯野農夫也の“なめくぢ横丁”生活。
Excerpt: 少し前に、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の“なめくぢ横丁”Click!に住んでいた尾崎一雄Click!について書いたけれど、きょうは尾崎や檀一雄が住んでいた長屋の向かい側、尾崎にもたまに原..
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Tracked: 2014-07-31 00:04

隣りの席だった寺崎マリ子。
Excerpt: 少し前、長崎町並木1285番地(現・長崎1丁目)の大塚彌吉邸の離れに住み、戦後は旧・下落合1丁目430番地で暮らしたエリザベス・ヴァイニングとも親しかったとみられる、外務省の寺崎英成一家Click!に..
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Tracked: 2014-08-09 00:00

国家による身近な“これでもか”統制。
Excerpt: 昭和史というと、あくまで政治的な動向や社会現象(事件)の教科書的な記述が中心となり、人々の身近な生活がどう変化し、大正期とは大きく世相の異なる社会が形成されていったのかを記録する資料や書籍は、案外と数..
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Tracked: 2014-08-12 00:00

美術研究所に架けられた黒澤明の300号。
Excerpt: 八島太郎展実行委員長の山田みほ子様Click!より、再び貴重な資料類をお送りいただいた。その中には、2010年にテレビ東京で放映されたドキュメンタリー『世界を変える100人の日本人』の八島太郎Clic..
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Tracked: 2014-09-02 00:00

学習院昭和寮の寮誌「昭和」。
Excerpt: 下落合406番地にある学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が、近衛町Click!南端のバッケの丘上にあたる帝室林野局敷地跡に建設されたのは、1928年(昭和3)のことだ。翌192..
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Tracked: 2014-11-17 00:51

泥棒は学習院昭和寮にもやってきた。
Excerpt: 1933年(昭和8)2月に発行された学習院昭和寮Click!の寮誌「昭和」第8号Click!には、巻末に「全寮日誌」と第一寮から第四寮まで各寮別に別れた「寮だより」が付属している。昭和寮の内部や学習院..
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Tracked: 2014-12-13 00:00

下落合で死去し大磯で甦ったE.サンダース。
Excerpt: 残された聖母病院の死亡診断書によれば、1946年(昭和21)10月3日の午前11時4分、エリザベス・サンダースは大腸癌のために下落合の聖母病院で死去している。故郷の英国を離れて来日してから、すでに33..
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Tracked: 2015-07-05 00:00

逃げろや逃げろ上落合の吉川英治。
Excerpt: 吉川英治が『宮本武蔵』Click!で描いたのは、物語の前半と後半で武蔵がたどる「剣術」と「剣道」のちがいによって生じた、人としての思想や死生観にもとづく実存の相違なのだろう。「剣道」とは、もちろん今日..
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Tracked: 2015-07-11 00:00

下落合東部のの国防婦人会アルバム。
Excerpt: 下落合にも戦時中、大日本国防婦人会Click!の下落合分会が存在している。国防婦人会の中央幹部たちの顔ぶれをみると、たとえば総本部の役員のうち女性が5名なのに対し、男性は6名(陸軍軍人×5名・海軍軍人..
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Tracked: 2015-08-13 00:01

亀井よし子誘拐事件と下落合駅。
Excerpt: 1954年(昭和29)2月26日に、落合地域を舞台にした奇怪な事件が発生している。松川事件の弁護団(岡林辰雄・大塚一男両弁護士が主体)に参加をしていた弁護団のひとり、松本善明夫妻の家に住みこみの家事手..
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Tracked: 2015-09-09 00:01

米軍に誘拐された男「鹿地事件」。
Excerpt: 1952年(昭和27)12月8日の夜、神宮外苑でひとりの男が米軍の情報機関のジープから、突然放り出されるように解放された。情報機関の工作員は、その男に1年間分の「謝礼」として大金を渡そうとしたが男はそ..
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Tracked: 2015-09-30 00:01

動物で男を分類する矢田津世子。
Excerpt: 下落合の一ノ坂上に住んだ矢田津世子Click!は、大正期の吉屋信子Click!と同じように近未来へ向けた不安を、より具体的な表現で口に(文章化)している。吉屋信子は、関東大震災Click!の直後に戒厳..
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Tracked: 2016-02-12 00:01

下落合に住んでいた柿ノ木坂機関の総帥。
Excerpt: 戦後に起きた米軍のG2あるいはCICと、それら組織に所属する下請けグループによる謀略と思われる出来事で、下落合に関連した事件として松川事件に絡む亀井事件Click!と、さらに帝銀事件Click!につい..
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Tracked: 2016-02-15 00:01

大磯のヨハンセンを諜報・監視せよ。
Excerpt: 今年も、「落合道人」サイトをお読みいただきありがとうございました。来年も、よろしくお願いいたします。今年最後の記事は、戦時中のちょっと長い物語がテーマです。  ★ 1945年(昭和20)の4月13日夜..
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Tracked: 2016-04-04 19:31

第一文化村のアナーキスト詩人・秋山清。
Excerpt: アナーキストで詩人の秋山清は、下落合内を何度か転居したあと(当初は西武線の近くに住んでいたらしい)、下落合4丁目1379番地に住んでだ。この地番は、目白文化村Click!のうち第一文化村の中央にあたる..
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Tracked: 2016-05-03 00:01

矢田津世子の『獄中の記』。
Excerpt: 矢田津世子Click!が遺したノートから、特高に逮捕された記録を詳細につづった『獄中の記』が、1989年(平成元)に発見された。釈放されてから間もなく書かれたとみられ、すべての刑事や看守が実名で書かれ..
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Tracked: 2016-06-26 00:01

上落合の仲間のみなさんサヨナラ。
Excerpt: 日本では、海外への亡命者が他国に比べて少ないといわれるが、まわりを海に囲まれていて運輸手段が不便かつ高価だった戦前なら、なおさら国外への脱出は困難だったろう。戦前、外国と陸つづきで国境が接していた数少..
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Tracked: 2016-10-15 00:00

高田馬場駅の階段でボケる小林多喜二。
Excerpt: 小林多喜二Click!は、少し間をおいてうしろを歩く伊藤ふじ子Click!を笑わせようと、高田馬場駅の階段でわざとボケてみせている。1931年(昭和6)ごろのエピソードと思われるが、小林多喜二はおかし..
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Tracked: 2016-12-11 00:01

思想弾圧の象徴としての豊多摩刑務所。
Excerpt: 後藤慶二Click!が設計し1915年(大正4)に竣工した豊多摩刑務所(中野刑務所)だが、唯一残されている表門の保存が揺れているらしい。野方小学校と沼袋小学校の統合をめぐり、新たな小学校の新校舎建設予..
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Tracked: 2017-01-31 00:00

上落合の妻たちを「支援」する店員。
Excerpt: 下落合の南に拡がる地域、早稲田通りも近い戸塚4丁目593番地(旧・戸塚町上戸塚593番地)に住んだ窪川稲子(佐多稲子)Click!は、1949年(昭和24)に出版した『私の東京地図』の中で、自宅の界隈..
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Tracked: 2017-03-05 00:04

焼け残り沿線住宅に撒かれた米軍ビラ。
Excerpt: 戦争も末期になって、連日、B29の機影が日本の上空へ頻繁に現れるようになると、膨大な量の「伝単」と呼ばれた米軍宣伝ビラ(Propaganda leaflets)が空から撒かれるようになった。その多くは..
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Tracked: 2017-03-08 00:00

ソビエト政権への反乱を禁じる特高。
Excerpt: 『詩戦行』を通じて、劇作家であり小説家でもある飯田豊二とかかわりができた秋山清Click!は、1930年(昭和5)の秋ごろから演劇の世界へと踏みこんでいる。飯田豊二が、アプトン・シンクレア原作の『ボス..
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Tracked: 2017-04-01 00:00

「大和魂」で「聖戦」の佐藤化学研究所。
Excerpt: 下落合に化学研究所を開設し、科学とキリスト教の教義を強引に融合させようとした人物がいる。1924年(大正13)に大学の教授を辞職し、下落合482番地へ佐藤化学研究所を設立した工学博士・佐藤定吉だ。徳島..
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Tracked: 2017-05-25 00:00

淡谷のり子の機先の制し方。
Excerpt: 作曲家の服部良一は戦時中、まったく軍歌をつくろうとせず軍部を煙に巻いてはジャズを平然と演奏していた。一時期は上落合と下落合に家族とともに住み、田口省吾Click!や前田寛治Click!のもとへモデルに..
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Tracked: 2017-06-15 00:00

『蘇州夜曲』じゃなくて『春の唄』。
Excerpt: 下落合に集った沖縄の画家たちについて、仲嶺保輝Click!の回顧エッセイを引用しながらご紹介してきた。その中に、こんな記述がある。1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号(新生美術協会)収..
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Tracked: 2017-06-27 00:00