雑司ヶ谷鬼子母神と富士見茶屋。

富士見茶屋「珍々亭」跡.jpg
 ひとつ、下町の視点から見ると、おかしな表現が山手にはあった。「鬼子母神」のことを「きしもじん」と呼称せず、「きしぼじん」と発音することだ。都バスの停留所や都営地下鉄の駅も「きしぼじん」であり、わたしの使っているIMEでは「きしもじん」と入力しても、数年前まではなぜか鬼子母神と変換されなかった。ただし、都バスの運転手さんの中には、「きしもじん」と発音する方を何人か知っている。下谷鬼子母神は、いまも昔も「きしもじん」と発音されている。
 だから、昔から山手の方言では「きしぼじん」と発音し、「きしもじん」は(城)下町Click!特有の方言(東京弁下町言葉Click!)かと思いこんでいた。ところが、1919年(大正8)に出版された山口霞村『高田村誌』(高田村誌編纂所)を参照すると、すべて「きしもじん」とルビがふられている。1931年(昭和6)に出版された『高田町史』(高田町史編集委員会)には、鬼子母神にルビがふられていないのでずっと疑問に思っていたのだ。東京弁での発音は、やはり下町も山手も同じだった。
 おそらく、「も」が「ぼ」と発音されるようになったのは、戦後に新たな住民が移り住むようになってからのことだろう。鬼子母神(威光山法明寺)Click!について、『高田村誌』から引用してみよう。
  
 東都の名蹟雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)の名は全国之を知らざるものなく、帝都の西北郊外の一大史蹟なり、威光山法明寺の名は我名宗の大法燈として千古不滅の光明を放ち、苟も高祖聖人の高徳を仰ぐものにして、此霊境を拝せんことを願はざるは莫し、幽邃の光景、崇高の展望、俗界の耳目を新たにするのみならず、山川は幾多英雄興亡の跡を語り、草木亦懐古の感興を助け真に仙境と称すべし。其略縁起に曰く、/当山は今を去る一千百年の昔、弘仁元年慈覚大師の創立にして、真言宗稲荷山威光寺と称し、源家の御祈祷所なりしが、正嘉元年、宗祖日蓮大士の御弟子、中老僧日源上人当地弘法の砌り、時の座主該宗に帰依し、軽衣授戒し寺を威光山法明寺と改称す、以来宗門弘通の道場として世に知られ、伝燈四十六世六百五十年の今日に及ぶ、
  
 この中で気になるのが、雑司ヶ谷鬼子母神の山号が当初は「稲荷山」と称されていたことだ。おそらく、下落合の雑司ヶ谷道Click!わきにあった小字「摺鉢山」Click!と同様、鬼子母神境内あたり一帯の地図に収録されなかった、昔からの通称的小字ではないか。もちろん「稲荷山」も、「摺鉢山」や「丸山」「双子山」「大塚」などと同様に、代表的な古墳地名のひとつだ。
 やはり、鬼子母神は下町と同様に、この地域ならではの呼称「きしもじん」を尊重したい。ちなみに、IMEでは製品にもよるが2010年ごろから、「きしもじん」でも変換できるようになったらしい。
鬼子母神1919_1.jpg 鬼子母神1857.JPG
 もうひとつ、気になることがあった。目白崖線の張り出した崖上に、江戸期には「富士見茶屋」が見世びらきしていた。清戸道Click!(現・目白通りとほぼ重なる江戸期の街道)を往来する人々が、途中で一服した茶屋だ。練馬方面へと抜ける旅人も利用しただろうし、江戸野菜をつくる近郊農家が江戸市街へ収穫物を運ぶ農民も立ち寄ったかもしれない。この茶屋の名称が、多くの資料には「富士見茶屋」とだけ表記されているので、怪訝に感じていたのだ。
 「富士見茶屋」という呼称は、「峠の茶屋」と同様に一般名称ないしは通称であり、茶屋の名前ではない。「富士見茶屋」は関東地方を中心に、おそらく江戸期には数百軒も存在していただろう。『高田町史』(1931年)をボンヤリ飛ばし読みしていたわたしは、『高田村誌』(1919年)でようやく屋号に気がついた。いわく、「珍珍亭」(ちんちん亭)というのだ。
 どうりで、なかなか屋号を記した現在の資料が存在しないわけだ。わたしのブログで取り上げるのにピッタリな、「珍珍」な名前だったのだ。w 同誌から、「ちんちん」亭の全文を引用してみよう。
  
 下高田村の山手の方、富士見の茶屋といふは藤稲荷Click!より東北三丁余にあり、此処高き事五六丈此の茶屋より真正面に能く芙蓉峰を見ること相対する如し、その外に南西一里斗の間、遠山は農田を眺望し一瞬千里の美景な言語にたえ筆端に尽し難し、此高田村甚広く方二十町余、ところところに小石あり則ち此処を下高田原と称せり此茶屋を珍々亭とか呼ふ、近年何者か芭蕉翁の句を刻みて、碑を建置したり。
 目にかゝる時や殊更五月富士(遊歴雑記)  今は学習院境内とす
  
鬼子母神並木.JPG 鬼子母神本堂.JPG
鬼子母神1919_2.jpg 富士見茶屋「珍々亭」眺望.JPG
 そう、珍珍亭は学習院キャンパスの中にあり、わたしもずいぶん前から訪れている。でも、当時は「富士見茶屋跡」という木製のプレートがあっただけで、「珍珍亭」のことは書いてなかったように記憶している。「珍珍亭」の跡を、もう一度写真に収めに学習院へ出かけたところ、ぴかぴか光るステンレスの立派なプレートが設置されていた。そして、そこには通称「富士見茶屋」の表現とともに、「珍珍亭」の茶屋名もしっかり刻まれていた。
 余談だけれど、富士見茶屋の「ちんちん」は「珍しくて稀有な」という意味で付けられているのだろうが、熊本弁で「ちんちん」は「睦まじい」とか「ごく親しい」という意味になる。「さしより、ちんちん同士んこつなりよりますばい」で、「すぐに、仲睦まじい昔馴染みのようになるでしょう」という意味になるのだが、熊本弁で「ちんちん亭」だと「親睦亭」とか「仲良し亭」というようなニュアンスになり、ちょっとほのぼの系の茶屋のような感じになる。
 考えてみれば、「富士見茶屋」という名称は安藤広重Click!が『富士三十六景』の中の1作として描いた、「雑司ヶや不二見茶や」の印象が強く、それ以来、珍珍亭ではなく富士見茶屋の名称があたかも固有名詞のように拡がっていったのだろう。広重が描いた同作は、珍珍亭から目白崖線沿いに西南西を向いた風景を描いている。手前には、のちに山手線が貫通することになる金久保沢Click!の渓谷への入り口がのぞいており、その向こう側には現在の日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮Click!)の急峻な崖が描かれている。下に通う道は、東の雑司ヶ谷方面へと抜けられる鎌倉街道(雑司ヶ谷道)で、その先には藤稲荷の入り口あたりに茅葺きの家屋が見える。
 『高田村誌』は、12年後に編纂される『高田町史』とはちがった面白い記述や写真が多々みられるので、今度また改めてご紹介したいと考えている。巻末の広告や人物紹介も豊富で、『高田町史』ではうかがい知れなかった、高田(現・目白地域)のさらに古い歴史を教えてくれる。
安藤広重「雑司ヶや不二見茶や」.jpg 藤稲荷バッケ.jpg
 さらに、このサイトでは三代豊国や二代広重が描く「下落合風景」(『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』第30景「落合ほたる」Click!)はご紹介したが、かんじんの安藤広重(初代広重)が描く江戸期の下落合の風情を、いまだ十分にご紹介してこなかった。こちらも、広重の浮世絵(『富士三十六景』と『名所江戸百景』)2作を近々、改めて取り上げたいと考えている。

◆写真上:芭蕉の句碑もみえる、学習院キャンパスの崖っぷちに残る富士見茶屋「珍珍亭」跡。
◆写真中上は、『高田村誌』に掲載された1919年(大正8)ごろの鬼子母神境内。は、1857年(安政4)作成の尾張屋清七版切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」に描かれた鬼子母神。
◆写真中下上左は、代がわりした鬼子母神参道のケヤキ並木の現状。上右は、鬼子母神境内の現状。下左は、『高田村誌』に掲載の1919年(大正8)ごろに撮影された鬼子母神ケヤキ並木。下右は、樹木が成長して眺望がまったくきかなくなった「珍珍亭」跡の尾根筋。
◆写真下は、安藤広重の『富士三十六景』のうち「雑司ヶや不二見茶や」(部分)。は、広重の版画にも描かれている藤稲荷から御留山Click!へとつづく目白崖線のバッケ。
稲荷山1947.jpg
参謀本部地形図1921.jpg Google2012.jpg

この記事へのコメント

  • ばん

    熊本に住んだ事が有りますが忘れました。
    2012年06月04日 03:49
  • ChinchikoPapa

    ばんさん、コメントをありがとうございます。
    おそらく、「ちんちん」は少し前の世代がつかっていた熊本弁ではないかと思います。いまの若い子には通じないかもしれません。江戸期の(城)下町言葉には、熊本弁と近い意味合いとして「ちんちんかも」(男女の仲睦まじいこと)という言葉がありましたね。
    2012年06月04日 16:19
  • ChinchikoPapa

    記事を読ませていただいて、紀伊大島へ出かけてみたくなりました。
    nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2012年06月04日 16:26
  • ChinchikoPapa

    二子玉川園というと、幼稚園時代から通った遊園地をすぐに思い浮かべてしまいます。ちょっとイメージを変えるために、街歩きをしなければいけませんね。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2012年06月04日 16:29
  • ChinchikoPapa

    先年、国分寺から小金井を歩いたとき、CoCoバスを何度か見かけました。新宿区もかわいい区バスを、名所や記念館の間で走らせているのですが、まだ利用したことがないです。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2012年06月04日 16:33
  • ChinchikoPapa

    スカイマークは、かつて一度も利用したことがないので様子がわからないですね。nice!をありがとうございました。>suzuranさん
    2012年06月04日 18:13
  • CLS

    地元の私は、鬼子母神=きしもじんでしたが最近"きしぼじん"と読む人が多いので、口に出すときは「きしぼじん」心の中では、(きしもじん)です

    法明寺の山号(鬼子母神に山号は無いので、法明寺ですね)は法明寺本堂裏にある、威光稲荷に由来するようです

    稲荷山=古墳地名ですか...、実は威光稲荷の東側には、不思議な空間が有りまして、”此所は何処”状態に成ります(パワースポット?)
    一度訪れてみてはいかがでしょうか?

    http://st22.exblog.jp/16431800/
    ↑で紹介されてますが、21枚目の写真に問題の物が写ってます
    2012年06月04日 18:22
  • ChinchikoPapa

    CLSさん、たいへん貴重な情報をありがとうございます。
    「稲荷山」は、少し離れた位置の字なのですね。21枚目の写真、とても強く惹かれました。w 威光稲荷は、まだ一度も立ち寄ってお詣りしたことがありません。これはぜひ一度、出かけてみなければなりませんね。
    1947年(昭和22)に撮影された、焼け跡の雑司ヶ谷界隈の空中写真を見ますと、ちょうど威光稲荷の東側、現在は南池袋小学校の敷地全体に、大きなサークル状ないしは“鍵穴”状のフォルムが写っています。これが、「稲荷山」と呼ばれていた丘陵でしょうか? いまひとつ鮮明さに欠ける写真ですので、高低差までははっきりと把握できないのですが・・・。記事末に、1947年現在の威光稲荷とその周辺域の空中写真を掲載しました。
    神田川流域に造られた、「百八塚」からは少し離れていますので、これは文字どおり大塚(宅地化で崩されたのは惜しいですが)や巣鴨界隈に散在していた、大塚古墳群のグループに属する遺構なのかもしれません。円墳だとしますと、直径が50mをゆうに超えていそうで、南西にのびた部分を「前方」ととらえますと、100m以上の規模はありそうです。
    なにか伝承や物語が伝わっていないかどうか、少し古い資料を調べてみようと思います。とても興味深い情報を、ありがとうございました。
    2012年06月04日 20:04
  • ChinchikoPapa

    写真のカラーが、まぶしくて鮮やかですね。
    nice!をありがとうございました。>himakkoさん
    2012年06月04日 21:11
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>モカさん
    2012年06月04日 21:40
  • ChinchikoPapa

    珪藻土は壁材のイメージが強いのですが、足元のマットも作られているんですね。nice!をありがとうございました。>marumaruさん
    2012年06月04日 21:50
  • ChinchikoPapa

    払えるのに給食費を納めないというのには、腹が立ちますね。
    nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2012年06月05日 09:59
  • ChinchikoPapa

    古い西洋館の柱や手摺の木材は、黒光りして美しいですね。
    nice!をありがとうございました。>DouxSoleilさん
    2012年06月05日 10:01
  • ChinchikoPapa

    わたしには、ビーヴァー・ハリスはちょっと辛いものがありますね。
    nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2012年06月05日 10:07
  • ChinchikoPapa

    最近、神奈川近美は葉山館へ出かけ、鶴岡八幡の本館はご無沙汰してます。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2012年06月05日 10:09
  • ChinchikoPapa

    季節のはざまで体調を崩しやすい時期ですよね。くれぐれもおだいじに!
    nice!をありがとうございました。>nikiさん
    2012年06月05日 10:13
  • SILENT

    きしもじん 面白く興味深いお話ですね
    大磯の唐ヶ原も、とうがはら でなく もろこしがはら
    といつ頃迄呼ばれていたのか不思議です。鴫立庵もデンリュウアンと読むのを知ったときはなるほどと思いました。鏑木清方だか、神田を、かんた と言っていたと呼んだことがありますが。
    2012年06月05日 12:19
  • ChinchikoPapa

    SILENTさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    「唐ヶ原」が「もろほしがはら」と読まれていたのは、少なくとも1970年代前半までは、地元でふつうに呼ばれていました。当時の友人たちも、みな「もろこしがはら」でしたね。
    ところが、1980年代に入ると、おそらく行政が読みにくいとして「とうがはら」に呼称を変えてしまったものか、1990年代初頭には不動産屋で「とうがはら」と言われ、「あん?」と不可解に感じたのを憶えています。当時、東京はせわしないから神奈川県に住みたいという両親の要望で、湘南海岸沿いの物件探しをしていたので、よけいに強く印象に残りました。
    神田は、いまでも「かんた」と発音するお年寄りがいますね。特に、川が流れている地域は濁音で「濁る」のを嫌い、濁音抜きで発音する傾向が江戸期からあったようです。
    2012年06月05日 17:11
  • ChinchikoPapa

    オレンジといいますか、鮮やかなみかん色ですね。オレンジというと、ゆるぎない情熱・・・というようなイメージが浮かびます。w nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2012年06月05日 20:10
  • CLS

    航空写真ありがとうございます、南池小の場所は廃校と成った雑司ヶ谷中学の敷地でっした・
    それ以前は、鬼子母神の別当の地位を法明寺と争ってた大行院(旧東陽坊)
    空襲で焼失した頃は、すでに法明寺に吸収されてたようですが、堂宇の基礎と思われる痕跡が残ってますね。

    威光稲荷の円丘上と周辺の木は、焼失を免れたのか残ってますね
    南池小の敷地は崖線の北と南に跨がってるのですが、確かに南側にサークル状の物が見えますね、まさか爆弾の後?
    豊島区郷土資料館の特別展が豊島の空襲2なので(6/16日まで)見に行ってきましょう
    2012年06月05日 22:58
  • ChinchikoPapa

    CLSさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    わたしは前回のコメントで、威光稲荷の「東」などとボケたことを書いてますが、もちろん「南」側でした。
    これだけの大きさのクレーター、つまり爆撃後に直径50m以上の窪地を造るには、おそらく国立の中島飛行機工場の爆撃に使われた1トン爆弾クラスじゃないとできないのではないかと思います。市街地空襲で通常用いられる250キロ爆弾ではなく、1トン爆弾が同エリアへ落とされたというような伝承がありそうでしょうか。
    空中写真の光線は、下側つまり南から北へと当たっており、建物の影などを考慮に入れますと、サークル状のものは窪地ではなく、逆に丘状の盛り上がりに見えてしまいます。わたしも、すぐにでも調べてみたいのですが、仕事が詰まっていてなかなか手がまわらないのがもどかしいですね。大正期あたりの1/5,000地形図が残っていると、すぐにわかりそうな気もします。
    なにかわかりましたら、ご教示いただければ幸いです。
    2012年06月06日 00:07
  • ChinchikoPapa

    高田馬場駅か目白駅へ歩いてしまうので、西武新宿線はめったに乗らないのですが、たまに乗ると変化しているのがわかります。nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
    2012年06月06日 10:25
  • ChinchikoPapa

    ずいぶん前になりますが、薬師寺の西塔跡に残る心柱の溝に雨水が上までたまるのを待って、東塔が逆さまに映るのを写真に撮ったことがありました。あのときは、雨を待ってけっこう長く滞在しましたね。nice!をありがとうございました。>マチャさん
    2012年06月06日 18:35
  • CLS

    東では無く南ですか?、南池小の現校庭部分を見て”白くなってる部分がサークル?”判断してました(いい加減ですね)(^_^;)

    南側だと現在真乗院と南池小の体育館が建ってる部分でしょうか?
    例の豊島区郷土資料館発行の1/10,000地形図を見ましたが、この付近は南から北に高度を上げていく緩やかな地形です。

    やはり稲荷山は、威光稲荷東側の円丘だと思うのですが?
    昔から大事にされてたようで、本来のご神体は円丘では..

    なお上記地図を見て不思議な記載が有りました、法明寺の位置が、大行院の位置で表示されてる?、大正14年発行の郵便地図では、本来の位置です?、大行院も書かれてるので大正14年時点では、存続してたようです
    2012年06月06日 18:57
  • ChinchikoPapa

    CLSさん、コメントをありがとうございます。
    わかりにくくてすみません。記事末の写真に、サークルと思われる部分の四方に、赤い矢印を加えてみました。ご参照ください。正確には、威光稲荷の南南東にあたる方角になるでしょうか。
    1/10,000地形図を年代別にたどっていきますと、大正末か昭和の最初期ぐらいまで、法明寺の大きな伽藍はこのサークルの真南にあったようですが、1930年(昭和5)の同図では解体されたのか伽藍が消え、代わりにやや西側に寄った位置へ、法明寺のかなり小さくなった本堂と思われる建物が採取されています。
    換言しますと、空中写真のサークル状に見える部分は、大正期まで建っていた法明寺本堂の北側に接する、「裏山」のような位置に当たることになります。1921年(大正10)の地形図を同時に掲載しました。ご参照ください。
    わたしが気になりますのは、山手通りの工事で大塚浅間古墳の浅間稲荷社がそうだったように、または早稲田大学9号館の建設工事で冨塚古墳の水稲荷社がそうだったように、移動する際に墳丘の最上部、あるいは墳丘頂の祠が建立されていた部分を丸ごと切り取って、移動先の境内に改めて奉りなおさなかったか?・・・という点なのです。
    関東地方の古墳(円墳や前方後円墳など)は、川が近い段丘の斜面ないしは丘上に建設されることが多く(おそらく土砂の切り出しが容易で、造営がしやすかったと思われます)、また周濠を設置するには湧水の多い斜面の近くが、利便性が高く適してもいたんでしょうね。
    先の、浅間大塚古墳(上落合)や冨塚古墳(早稲田)は、いまや地上から見ても跡形さえありませんが、空中写真で確認すると、いまだそれらしい痕跡を感じ取ることができます。空襲で焼け野原になった際は、期せずして地表がむき出しになり、昔日の痕跡を発見しやすいという点で、南池袋の「稲荷山」もたいへん気になったしだいです。
    2012年06月06日 22:33
  • CLS

    さらなる貼り付けありがとうございます、やはり最初の部分だったのですね、この場所だと北半分は崖線の上もしくは斜面になりますね(高度差は5,6Mです)

    鬼子母神堂の北側からV字型に道が分かれてるのが、お分かりだと思いますが、西側の道(地形図では”鬼子母神”の字に隠れ、見にくいです)を行くと法明寺、東側を行くと別当寺の大行院です(私の知る限りでは、江戸期の絵ではすべてこのように描かれてます)

    大行院がいつ廃寺に成ったのかは諸説有り、何が正しいのか??
    法明寺が、大行院を吸収後、大行院の堂宇を利用した可能性は有りますので(鬼子母神からの上がりで法明寺より立派?)、明治、大正期は旧大行院の場所に成るかも...

    大正末期で消えたのは関東大震災で、本堂が崩壊したとのことでこれが原因でしょう、昭和7年再建とのことなので、元の場所に再建されたとすれば辻褄が合いますね。

    ちなみに、西側の道を行って、弦巻通りを渡った先に仁王門が有ったのですが、谷中感応寺から移築したそうです。(鼠山感応寺に移築し、取り壊し後に再移築したとの説も有ります)、運慶作の仁王像だったそうですが、戦災で焼失してしまい残念です

    明治、大正期の法明寺の位置はもう少し調べてみます
    2012年06月07日 18:41
  • ChinchikoPapa

    CLSさん、重ねてコメントをありがとうございます。
    稲荷山のエリアは、かなりの高低差がある地点なのですね。下落合の古い字「摺鉢山」が残る地点(やはりハッキリとサークル痕が見てとれます)も、おそらくそれぐらいの高低差がありそうな斜面です。
    「摺鉢山」が消滅したのは、江戸期の早い時期までさかのぼるのかもしれないのですが、おそらく田畑を拡げる目的で整地する際、丘を崩した土砂をどうやら北側にあった斜面に拡げてかぶせ、処理をしたような痕跡がうかがわれます。
    墳丘と思われるこの小山の東側には、戦後になって古墳期末かナラ初期の横穴式古墳群(落合横穴古墳)が発見されているのですが、こちらは斜面に埋まっていたせいか、壊されずに1960年代後半まで残りました。現在は、宅地開発で跡形もありませんが・・・。
    一度、「墳墓域」(つまり死者の居住地として決められたエリア)として使用されますと、ある程度の時代幅をもって墳墓が同一地点に造営されつづける・・・という特徴もありますので、雑司ヶ谷の稲荷山周辺でそのような考古学的な発見がなかったかどうかも、ちょっと気になるところです。
    法明寺は、大震災の被害を受けていたんですね。地形図で見ますと、かなり巨大で立派な伽藍だったように想定できます。追加しました1921年(大正10)の地形図では、鳥居マーク(威光稲荷)の東側に、すでに小山(塚)が存在しているのが、地図の「土堤」記号の描写でハッキリわかりますね。
    鼠山の感応寺から移築された仁王門、戦災で焼失したは残念でした。感応寺伽藍の面影は各地に散ってしまい、なかなか全貌がイメージできないですね。
    また、なにか判明しましたらご教示ください。よろしくお願いいたします。
    2012年06月07日 20:39
  • Marigreen

    私も鬼子母神とは、ゆかりが深いのだが、CLSさんの方がもっと深いようなので、コメントするのはやめときます。失礼だものね。
    今回の記事は珍珍亭のことやら安藤広重のことやら、私の関心事が多かった。珍珍亭って由緒正しいのですね。
    2012年06月08日 17:27
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
    富士見茶屋の「珍々亭」ともうふたつ、江戸期に雑司ヶ谷道沿いの下落合氷川明神の境内にあった茶屋(氷川茶屋?)と、藤稲荷の参道口にあった団子を食わせる茶屋(藤茶屋?)の屋号も不明で、ずいぶん前から探しているんですよね。
    安藤広重の「下落合風景」は、改めてまたご紹介します。
    2012年06月08日 19:49
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2012年06月09日 15:46
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2012年06月09日 16:02
  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2012年06月11日 11:36
  • ChinchikoPapa

    少し前の記事にまで、ごていねいにnice!をありがとうございました。>fumikoさん
    2012年06月11日 12:27
  • ChinchikoPapa

    少し前の記事にまで、わざわざnice!をありがとうございました。>sonicさん
    2012年06月13日 13:00
  • CLS

    南池袋小学校の稲荷山の続報です

    東京メトロ雑司が谷駅の渋谷側改札階とホーム階の間に有る踊り場には、過去に雑司ヶ谷近辺で行われた、発掘調査の概要がパネルで展示されてるのですが、その中に「南池袋小学校に眠る稲荷社の謎」の項が有りました。

    抜粋すると「南池袋小学校地区の調査では、謎の坑道と大量の狐の像が発見されました。
    この場所に稲荷社が有ったとみられ、江戸時代から昭和頃まで、狐の像が奉納され続けた様子が発掘調査明らかに成りました」

    「出土した狐の像、その数は130以上におよびます」
    「「発見された坑道は、折れ曲がりながら稲荷社が有った思われる塚まで続くようです」

    ここで、”塚”に対し??、調べてみると↓が
    http://www.city.toshima.lg.jp/dbps_data/_material_/localhost/120kyoikusomu/010kyoikusomu/kohoshi/sonota-03-25-4.pdf#search=%27%E5%8D%97%E6%B1%A0%E8%A2%8B%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%20%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%27

    ”教育だより豊島”ですね、、どうも南池袋小学校には、今でも塚が残ってるようで、何処に??ですが、この先は今後の楽しみに取っておきましょう
    2012年06月26日 23:28
  • ChinchikoPapa

    CLSさん、コメントをありがとうございます。
    江戸期に掘られた長めのトンネルといいますと、すぐに思い浮かぶのが「発酵蔵」あるいは「貯蔵庫」としての役割りの地下壕ですが、甘酒茶屋や味噌・酒醸造所などの地下に発酵用の横穴が縦横に掘られていた跡は、いまでもときどき市街地からも出土していますね。
    ただ、かなり規模が大きいとなると、なんらかの坑道か宗教的な役割りも考えられそうです。江戸期において、結果的に宗教的な役割りを持つようになった洞穴として、都内では上野の通称「穴稲荷」(花園稲荷社)や早稲田の通称「穴八幡」(高田八幡社)などがありますが、いずれも古墳(前方後円墳ないしは帆立貝式古墳と推定されます)の羨道が江戸期に発見され、その横穴に手を入れて加工し、奥へ神仏を奉ったのが今日の社名縁起だと言われています。
    雑司ヶ谷の稲荷(山)が、江戸期にははたしてどのような姿をしていたのか、とても興味が湧きますが、地下に伸びる横穴が江戸期に造られた(あるいは既存の洞窟を加工した)とすれば、発掘された多くの狐像に絡んで、なんらかの記録や伝承がありそうな気もします。
    南池袋小学校とその周辺の稲荷山界隈で、埴輪片あるいは素焼きのカケラ、さらに玄室の構築に用いられそうな大きめな石材が、どこかで出土していないかどうか、ちょっと気になるところです。
    関東地方の寺社は、境内にしやすい古墳を再造成して建立されている例が、関東大震災時に焼け跡の寺社を数多く調査した鳥居龍蔵の著作などでも明らかですので、洞窟が出現したとなると、ますます「稲荷山」が気がかりになってきてしまいます。w
    貴重な続報をお寄せいただき、ありがとうございました。
    2012年06月27日 16:40
  • ChinchikoPapa

    6月の初めの記事にまで、nice!をありがとうございました。>sigさん
    2012年07月12日 11:42

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