松下春雄アトリエを拝見する。

西落合アトリエ1.jpg
 「下落合を描いた画家たち・吉武東里」は、ネット掲載について所有者の方の最終確認がまだということですので、許可をいただけしだい再掲します。ということで、急遽登場する記事は・・・。
  
 西落合1丁目306番地(のち303番地)の松下春雄邸Click!には、建物が2棟建っていた。蔦植物(おそらくバラだろう)をはわせる、アーチが設けられた門のある東側が母屋で、西側の少し小さめな建物がアトリエだった。1932年(昭和7)に阿佐ヶ谷から落合地域にもどった松下春雄は、このアトリエで晩年の代表作を次々と生みだすことになる。
 山本和男・彩子ご夫妻のもとにある松下春雄アルバムClick!には、アトリエで撮影した写真が数多く貼られているが、下落合1385番地から転居し阿佐ヶ谷520番地に借りていたアトリエと、2年後に落合地域へもどったときに新築した落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地)のアトリエ写真が混在している。それらの写真には、アトリエで制作された絵も撮影されているので、それらの作品を見きわめながら松下アトリエを拝見していきたい。
 まず、阿佐ヶ谷のアトリエと想定できる写真には、1930年(昭和5)に帝展へ入選した『母子』の写るものが数葉ある。次女の苓子様が、生まれて間もないころの写真類だ。『母子』(100号Fか)の現物を実際に観たことはないのだが、かなり巨大な画面だったのがわかる。松下春雄の背丈ほどもある大きなサイズで、キャンバスを支えるイーゼルがほとんど見えない。
 同作に限らず、水彩から油彩へと転向し、展覧会への応募をめざす松下春雄の画面は巨大なものが多い。もちろん、100号以上のキャンパスサイズは、帝展での展示スペースを意識したものだろう。阿佐ヶ谷のアトリエでは、大作を載せたイーゼル背後の壁面に、15号あるいは20号とみられる作品群(おそらく静物画や肖像画だろう)が架けられているのが見てとれるが、それらの画面が“小品”に見えるほど、展覧会への出品作がケタちがいに大きかったのがわかる。
阿佐ヶ谷アトリエ1.jpg 阿佐ヶ谷アトリエ2.jpg
阿佐ヶ谷アトリエ3.jpg 阿佐ヶ谷アトリエ4.jpg
西落合アトリエ2.jpg
 次に、1932年(昭和7)の5月に竣工したと思われる、西落合のアトリエを見てみよう。松下邸は、当時の洋館建築では一般的だったコンクリートの基礎に下見板張りの外壁、その上がスタッコ仕上げの壁に軽いスレートの屋根が載るデザインだったように見える。アトリエも、母屋とおそろいの意匠だったのだろう。まず、ここで制作に取り組んでいるのは『機織』だ。同年10月に完成直後と思われる、アトリエ内の写真が残されている。やはり巨大な画面で、かたわらに立つ松下春雄が小さく見える。同作は200号Mのようだから、松下春雄の身長は165cmほどだろうか。
 また、翌1933年(昭和8)前半に制作された『二人のポーズ』の写真も、モデルの写真とともに残されていた。この記念写真が貴重なのは、松下が2名のモデルを同時に描いているのではなく、まずひとりずつの習作を描き、それをのちに大画面へ合体して“構成”している点だ。『二人のポーズ』の画面左側のモデルを描いた、まったく同じポーズの習作とみられる15号作品が、モデルを撮影した写真の背後にとらえられている。おそらく『二人のポーズ』の画面右側のモデルのみを描いた、15~20号サイズの習作も同時に存在していたと思われるのだ。
 また、松下アトリエで仕事をする洋画グループ「サンサシオン」Click!の盟友だった鬼頭鍋三郎Click!をとらえた写真も残されていた。鬼頭は松下と同時期の1932年(昭和7)、葛ヶ谷293番地(のち西落合1丁目293番地)にアトリエClick!を建てていたはずだが、長女・彩子様によれば当初は小さな家だったので、しょっちゅう松下アトリエを借りに訪れていたらしい。鬼頭は画面にウシを描いているので、西落合の松下アトリエに近い「東京牧場」Click!、すなわち安達牧場Click!か足立牧場、あるいは長崎バス通りClick!の先にある籾山牧場Click!へ、西落合から写生に出かけているのかもしれない。
西落合アトリエ3.jpg
西落合アトリエ4.jpg
西落合アトリエ5.JPG
 アトリエのイスに、淑子夫人を座らせて撮影した写真もある。淑子夫人もまた、松下春雄のモデルを頻繁につとめていた。静物モチーフにすると思われる花瓶の活花の背後に、200号額が置かれる閑散としたアトリエ内は、作品を展覧会に搬出したあとの光景だろうか。
 さらに、1932年(昭和7)に撮影されたとみられる、淑子夫人が彩子様を抱き、松下春雄が次女・苓子様を抱っこする、よく知られた家族写真もある。背後に架けられた大作は、同年に制作された『女と子』(100号F)だろう。このとき、淑子夫人のお腹には、翌年3月に生まれる予定の長男・泰様がいたはずだ。子供たちが胸に抱く人形は、前年のクリスマスプレゼントだろうか?
 野外で「下落合風景」を制作する、松下春雄のめずらしい写真も残されていた。1928年(昭和3)に制作された『草原』の仕事をしており、年代から写生場所はまちがいなく下落合1385番地のアトリエ周辺、おそらく目白文化村Click!の第一文化村からそれほど遠くない場所だと思われる。緑が濃い林間の風情なので、目白文化村の西側にあった森の一画か、あるいはアビラ村Click!の斜面近くに拡がる林のひとつだろうか。松下春雄の図録で縮小された画面を見ただけではわからなかったが、『草原』もかなり大きな画面で、たっぷり50号はありそうだ。
 松下春雄の「下落合風景」を制作中の姿は、必然的に少し遅れて同シリーズに取り組みはじめる、第1次滞仏から帰国した佐伯祐三Click!の姿をほうふつとさせる。もっとも、佐伯は絵具があちこちに染みついた、ボロボロの浮浪者のような汚い服に下駄ばきで野外写生をしていたのに対し、松下春雄はとてもオシャレなルパシカ姿に、大きめのハンチングをかぶっているのが印象的だ。
西落合アトリエ6.jpg 西落合アトリエ7.jpg
西落合アトリエ8.jpg 松下春雄野外写生1.jpg
松下春雄野外写生2.jpg
 1928年(昭和3)の9月13日(木)に、松下は完成間近な『草原』を文化村近くで制作していることが、アルバム写真から判明した。東京気象台の記録によれば、前日は小雨もよいの天候だったが当日は快晴となっており、うるさいほどのセミしぐれとともに残暑もきびしかったと思われる。

◆写真上:1933年(昭和8)8月15日、仕事の合間に西落合アトリエの窓から顔をだす松下春雄。
◆写真中上上左は、阿佐ヶ谷アトリエの前で生まれて間もない次女・苓子様と。上右は、搬出直前と思われる『母子』のかたわらに立つ松下春雄。は、1930年(昭和5)に撮影された阿佐ヶ谷のアトリエ内部の様子と完成した『母子』。は、1932年(昭和7)に西落合のアトリエで撮影された家族の肖像で、背後には同年に完成した『女と子』が見えている。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に西落合のアトリエで完成した『機織』のかたわらに立つ松下春雄。は、アトリエのイスに座る淑子夫人。は、松下アトリエで仕事をする鬼頭鍋三郎。
◆写真下上左は、『二人のポーズ』のモデルと左奥には同作の習作と思われる作品が見える。上右は、1933年(昭和8)に撮影されたとみられる完成した『二人のポーズ』と松下春雄。中左は、『二人のポーズ』とイスに座るモデル。中右は、野外写生をする松下春雄。は、1928年(昭和3)9月13日に同年の第9回帝展に入選した「下落合風景」の1作『草原』を描く松下春雄。

この記事へのコメント

  • Marigreen

    吉武東里の記事を読んでいた筈なのに、ちょっと座を外して戻ってくると、影も形もない。過去の記事を間違えて読んでたのかとクリックしても内容が違う。とうとう私も焼きが回って、あらぬものが見えるようになった、と落胆していると、松下春雄の記事の最初に「所有者の最終確認が得られず、再掲する」とあったのでほっとした。
    2012年05月08日 15:01
  • ChinchikoPapa

    みなさん決勝進出と準決勝進出、おめでとうございます。ベッピィさんはすごいですね。nice!をありがとうございました。>キャプさん(今造ROWINGTEAMさん)
    2012年05月08日 15:12
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、二度目のコメントをありがとうございます。^^;
    実は、すでに前回いただいたコメントへお返事を差し上げているのですが、再掲載まで少しお時間をください。<(__)>
    吉武東里「落合風景」の所有者の方へ、近々連絡をとっていただくことになっていますので、許可をいただけしだいもう一度、改めてこちらへ掲載させていただきます。
    2012年05月08日 15:18
  • ChinchikoPapa

    ブログを2本というのは、わたしも経験ありますがけっこうな負荷ですよね。
    nice!をありがとうございました。>ソラさん
    2012年05月08日 17:37
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
    2012年05月08日 17:38
  • ChinchikoPapa

    Impulse!レーベルがこのネルソン・アルバムを出したとき、コルトレーンはいまだ「ビレッジ・バンガード」のライブを録音してたんですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2012年05月08日 19:59
  • ChinchikoPapa

    「聖」と「俗」、「静」と「動」、「黙」と「騒」の対照風景が面白いですね。
    nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2012年05月08日 21:55
  • YANAGIHARA

    先日はいろいろご教示頂きまして、ありがとうございました。
    「地図で見る新宿区の移り変わり」の小さな赤丸の件、新宿博物館でお教え頂き、発行しておられる人文社さんにおたずねしましたところ、以下のようなお返事を頂きました。
    <お尋ねの「地図で見る新宿区の移り変わり」の赤丸ですが、
    ページ数がわからないので、こちらでページを判断して確認しました。
    P356ですと郵便局です。P372ですとポストです。>
    昭和16年の戸塚町市街図ではポストで間違いないようです。
    ありがとうございました!
    2012年05月09日 12:03
  • ChinchikoPapa

    築地本願寺の「動物階段」は大好きで、ウシがいちばん好きです。w
    nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2012年05月09日 13:27
  • ChinchikoPapa

    わたしも先日、高速バスを利用したばかりですが、新宿駅前から京都までドライバーはひとりでした。距離的には、500kmとちょっとありますね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2012年05月09日 13:29
  • ChinchikoPapa

    前回、マンズワインと大黒葡萄酒を結びつけて記述してしまいましたが、大黒葡萄酒はメルシャンワインでしたね。あわて者ですのでご容赦ください。nice!をありがとうございました。>fumikoさん
    2012年05月09日 13:30
  • ChinchikoPapa

    なにが好きって、オバケとネコがいっしょに楽しめる「化け猫」ほど大好きなものはありません。今年に入って、平木浮世絵美術館の化け猫に会いに、三度もかよってしまいました。w nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
    2012年05月09日 13:33
  • ChinchikoPapa

    YANAGIHARAさん、コメントをありがとうございます。
    やっぱり、ポストでしたね。わざわざ情報をありがとうございました。
    もうひとつ、ポストや郵便局と同時にわかったことがあります。郵便局の前にポストがあるのは当然なのですが、商店の前にポストがある場合、ポストを置いた手前の店が、切手や収入印紙を売る「簡易郵便局」的な存在だったことが、P394-395およびP396-397の「落合町市街図」から読み取れます。
    先の記事でも触れましたが、下落合607番地に開店していた食料雑貨の「高幸商店」では、切手や収入印紙も販売していましたけれど、その店先にポストが設置されていたのがはっきりしました。
    何気ない地図の記号表現ですが、いろいろなことが読みとれて面白いですね。ありがとうございました。
    2012年05月09日 13:51
  • ChinchikoPapa

    1987年、チェルノブイリ原発事故の悲惨さから「原発をやめよう」の新聞全段広告(実際は全30Dではなく、フォントを小さくして全15Dだったと思います)を、作家や学者、評論家などが発起人になって、さまざまな分野の人たちへ賛同を呼びかけたことがありました。
    特に、電力の3割を原発で・・・が具現化しようとしていた時期でしたので、チェルノブイリの事故と合わせ、よけいに危機感をおぼえての行動だったと記憶しています。結果、とてつもなく大勢の作家や学者の方々が、新聞紙上へ虫メガネが必要なほどの小さな名前を連ねたわけですが、わたしが印象に残っているのは、村上春樹氏が何度かの呼びかけを一貫して、完全にシカトしつづけたことです。
    でも、先年のスペイン講演で「国民が知らないうちに原発による発電が3割に」という表現をしているのに、心底あきれガッカリしました。なぜ「国民が」と安易に敷衍化できるのか、「知らないうちに」ではなく1987年に知っていたはずだ・・・と。
    百歩譲って呼びかけが耳に入らず「知らなかった」としても、「わたしが知らないうちに」とすべきであって、なぜ「国民が」という一般化が容易にできてしまうのか、昨年来、村上春樹氏には疑問だらけになっています。
    nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2012年05月09日 14:21
  • ChinchikoPapa

    仲里依紗の「とーっとっと?」は好きですね。w
    nice!をありがとうございました。>yutakamiさん
    2012年05月09日 23:43
  • ChinchikoPapa

    休日出勤手当も残業代も、低めの額を一律で定額支給(はみ出た労働時間は「サービス残業」)というのは、明らかに不当労働行為ですね。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
    2012年05月09日 23:48
  • sig

    こんにちは。
    ポイントがずれますが、画家が制作中の写真を撮るのはどういった心境でしょうね。この豊富な写真で見る限り、写真の中の絵はほとんど仕上がっているかその直前のような気がします。ラストの写真は、仕上がったものを野外に出し、わざわざ制作中の様子を演じているような・・・。いずれにしても松下春雄の場合はやはり記念写真なのでしょうね。
    2012年05月10日 11:48
  • ChinchikoPapa

    二色=丹色=錦というつながりは、とても興味深いですね。平氏の旗色は丹色(赤)ですから、実際に丹を採取していた地域でないとすれば、どこかで物語がつながっているのかもしれません。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2012年05月10日 19:12
  • ChinchikoPapa

    ビリー・ジョエルが63歳なのも驚きですが、レオン・ラッセルがお元気なのにはビックリです。彼の演奏を収めたアルバムが、何枚か棚のどこかにありました。nice!をありがとうございました。>マチャさん
    2012年05月10日 19:18
  • ChinchikoPapa

    九段の燈台は、もともと神田明神の境内(東南端)にあった江戸期の燈台を、明治になって九段の高台に移して新築したものですが、当時の浮世絵そのままの風情が残っていて楽しいですね。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2012年05月10日 19:27
  • ChinchikoPapa

    sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    この時期の松下春雄は、水彩画家から油彩画家へと転向している真っ最中ですので、おそらく入念な仕上げをしているんでしょうね。おっしゃるとおり、作品はほとんど完成しかかっているように見えますが、まだ自在に使い切れていない油絵具の表現に、いろいろ不満や不便をおぼえていたものでしょうか。なかなか、「完成した」という意識を持てなかったのかもしれません。
    先日、松下春雄のアルバムを拝見してから感じていたのですが、彼の周囲、おそらくかなり親しい友人で、同じ下落合で暮らしていた仲間に、カメラマニアがいたとにらんでいます。家族だけで撮影したにしては、家族全員が写っている写真がけっこうありますので、大澤海蔵か春山行夫、あるいは鬼頭鍋三郎かはまだわかりませんが、相当なカメラ好きがいたと思います。
    2012年05月10日 19:37
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
    2012年05月11日 10:07
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2012年05月16日 21:52

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