30歳のラストクリスマス・1933年。

松下春雄19331225_2.jpg 松下春雄19331225_1.jpg
 人は、突然いなくなる。あとには埋めようのない空白と、むなしさと、虚脱感と、やがて悲哀だけが残る。たいせつな人を亡くすと、それを認めたくないがために葬儀や墓参りさえ拒否したくなる怒りにも似た口惜しさが、いつまでもつづいて抜けない。松下春雄Click!の遺族たちにも、そのような途方もない喪失感が残っただろう。
 山本和男様と松下春雄の長女・彩子様ご夫妻Click!をお訪ねしたとき、1冊の古びた黒皮のアルバムを拝見した。そこには、たいせつなかけがえのない人を亡くした家族たちの、セピア色に変わった想い出の数々が詰まっていた。ページをめくるごとに、運命の1933年(昭和8)暮れへと迫っていく。第14回帝展に『女と野菜』を出品し、それが入選するのをみとどけてから、松下春雄は名古屋に帰郷し、その足で伊勢路を旅してまわっている。そのときの想いを、彼は「伊勢路の旅より」として手記に残した。彼の死後、翌1934年(昭和9)に発行された『パレット』No.35の遺稿から引用してみよう。
  
 二三年来、考へて来もし、又着手して来た、仕事の上のことで、やつと次への進路が開けさうになりました。割切れないところの焦燥が若し転換期の苦労であつたなら、もう少し、それを組敷くだけの勇気を続けねばなりません。私は今百号に女と子供を描いてゐます。その途中なんですから、旅を楽しまないのも無理はありません。作品には外科的手術をほどこしてゐます。かうした断片的な口吻をその作品で、よりはつきりと説明出来るやう、馬力をかけてやりましよう。それが一九三三年の最終の念願であり、又一九三四年の最初の報告でありたいのです。
  
 書かれている「女と子供」の100号とは、絶筆となった大作『母子』のことで、翌1934年(昭和9)の第15回帝展で特選となっている。はたして、東京へともどった松下は、制作途中の『母子』へ手を入れて「外科的手術」をほどこす時間があっただろうか?
 鬼頭鍋三郎Click!によれば、「暮の十二月五日から十九日まで名古屋へ松下が来てゐて、その間僕は三度会つた」(1934年1月12日/名古屋毎日新聞)と証言しているので、そのあと松下は伊勢旅行に出かけていたことがわかる。したがって、松下が東京へともどったのは、おそらく12月23日か24日クリスマスイヴの日あたりではないかと思われる。
 ちなみに、鬼頭鍋三郎は松下と同時期の1932年(昭和7)に、西落合1丁目293番地へアトリエClick!を建てていたはずだが、1933年(昭和8)現在は名古屋の自宅、すなわち名古屋東区千種町元古井29番地にいたことが、上記の証言記事からもはっきりとわかる。
松下春雄アルバム.jpg
伊勢旅行1933.jpg 松下春雄肖像.jpg
 古いアルバムには、松下春雄が自身で撮影したらしい伊勢旅行のスナップ写真がたくさん残されている。彼が生前、最後に見た旅先の風景だ。伊勢の海を写した写真の中に、二見浦の夫婦岩の姿が目につく。船に乗ってめぐるのは、志摩半島あたりのフェリー航路だろうか? 船べりで健康そうに微笑む、いつもの彼の表情に病魔の影は見えない。
 アルバムが「12.25」と記されたページになると、西落合1丁目306番地の松下邸居間に飾られたクリスマスツリーが登場する。ツリーの前で、プレゼントをもらったばかりと思われる長女・彩子様と次女・苓子様、そして同年3月に生れたばかりの長男・泰様が、楽しそうに笑顔で写っている。おそらく娘ふたりへのプレゼントは、毛糸で編んだベレー帽、まだ1歳にも満たない息子にはクマのぬいぐるみだったのではなかろうか? 娘ふたりは、陽当たりのいい縁側から南の庭へ出てうれしそうにはしゃいでおり、これから起きる悲劇の予感はみじんも感じられない。
 そのうちの2枚の写真に、居間のイスに腰をかけてスケッチブックを手にした、松下春雄の生前最後の姿がとらえられている。旅行から帰ったばかりの疲れからか、あるいはすでに体調が悪化していたものか、庭に降りて娘たちといっしょに写真を撮ろうとはしなかったようだ。そのうちの1枚は、まさにスケッチブックへなにかを描いている姿が記録されている。
 松下春雄の横に立つ、白い割烹着姿の女性が淑子夫人だとすれば、カメラを手にして写真を撮っているのは誰だろう。近くに住んでいた、「サンサシオン」仲間の大澤海蔵Click!だろうか。あるいは、割烹着の女性が松下家の女中だとすれば、撮影者は幸福なクリスマスをすごす淑子夫人だ。
松下春雄「母子」1933.jpg
松下家クリスマス1933_1.jpg 松下家クリスマス1933_2.jpg
 伊勢へ旅立つ直前、名古屋で鬼頭鍋三郎と会ったとき、松下春雄は今後の制作予定や表現法について情熱的に語っていたようだ。先に紹介した、名古屋毎日新聞の記事から引用してみよう。
  
 彼れから今度きかされてたものは芸術に対する炎のやうな希望の言葉以外に何もなかつたやうにすら思ふ。数年来につかれた如く口にしてゐたクラシツクとリアルから昨年の帝展製作を境として、彼の芸術へのテーマが非常に生々しい現実へ伸展して来たことも、今度来名第一に彼から聞いたりした、そして大いに彼の芸道に賛成し期待した。尚最近グロツキー(ママ:クロッキー)が如何に製作に役立つかを痛感し僕は何度すゝめられたかわからない程だ。
  
 クリスマスの直後、松下春雄は身体に不調をおぼえて帝大病院稲田内科に入院。6日後の1933年(昭和8)12月31日、急性白血病のために死去している。享年30歳だった。
 松下が急逝する前日の12月30日、名古屋で「マツシタキトク」の電報を受けとった中野安次郎は驚愕する。ついこの間、名古屋へ訪ねてきた松下を自宅に泊め、昔話を懐かしくしたばかりだったからだ。1989年(昭和65)に名古屋画廊が出版した、「松下春雄展」図録から引用してみよう。
  
 (前略) 名古屋へ来ていた松下君が東京へ帰る前の晩、私の家へふらっと寄ってくれました。後で思えば「生き別れ」に来た、ということだったのでしょうか。親しいとはいえいつもはあまりゆっくりすることもなかった松下君ですが、その日は初めて私の家に泊り、様々なことを懐かしそうに語ったのでした。亡くなる前日、私のもとに「マツシタキトク」の電報が入りました。突然のことなので交通事故か何かと思いました。松下君は平素自分のからだを大事にしていました。「今ぼくが死んだら大変なことだ。家族は、明日からでも生活に困るだろう。ぼくは丈夫なほうだけれど、実際からだを大切にしなければいけないね」と言っていたこともありました。
  
松下家クリスマス1933_3.jpg 松下家クリスマス1933_4.jpg
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松下春雄遺作展193402.jpg
 翌1934年(昭和9)1月4日に、西落合1丁目306番地の自宅で告別式が行われている。そして、2月11日から27日にかけ東京府美術館で、光風会主催による「松下春雄遺作展」が開催された。そのときの写真もアルバムには残されており、松下春雄が1930年(昭和5)に制作した『子を抱く』(1930年)の前には、淑子夫人と彩子様、そして鬼頭鍋三郎たち画家仲間が並んでいる。

◆写真上:1933年(昭和8)12月25日のクリスマス、亡くなる6日前に撮られた松下春雄の姿(奥)。
◆写真中上は、山本夫妻がたいせつに保存されている松下春雄アルバム。下左は、最後になった伊勢旅行のスナップ。下右は、大正末ごろに撮られたとみられる松下春雄ポートレート。
◆写真中下は、絶筆となった松下春雄『母子』(1933年)だが現在は行方不明となっている。下左は、クリスマスツリーを前に長女・彩子様(左)と次女・苓子様(右)。下右は、同じく泰様。
◆写真下は、テラスでの彩子様と苓子様で背後には松下春雄の生前最後の姿がとらえられている。は、西落合1丁目306番地の松下邸で行われた葬儀の様子。は、「遺作展」における淑子夫人と彩子様で、男性3人の中央が「サンサシオン」の盟友だった鬼頭鍋三郎。

この記事へのコメント

  • ChinchikoPapa

    こちらでは塩鮭はとても庶民的なメニューで、今朝も食べたばかりですが、国がちがうとずいぶん食文化も変わりますね。nice!をありがとうございました。>Lobyさん
    2012年04月11日 11:18
  • ChinchikoPapa

    映評を読ませていただいて、ちょっと観てみたくなりました。
    nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
    2012年04月11日 11:35
  • ChinchikoPapa

    いつも思うのが、ラプンツェルの長い髪をつたって塔へのぼる魔女や王子ですが、彼女は痛くないんでしょうか?・・・というようなリアリティを考えては、そもそも「童話」は成り立ちませんね。w nice!をありがとうございました。>nikiさん
    2012年04月11日 11:47
  • ChinchikoPapa

    先日の花見は、歩いていれば快適でしたが、立ち止まるととたんに足元から寒さが這い上がってくるような感じでした。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
    2012年04月11日 11:52
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
    2012年04月11日 11:53
  • ChinchikoPapa

    サクラは満開になると、ムッとするような雰囲気を漂わせますが、開きはじめのころは清々しい風情を感じさせてくれます。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
    2012年04月11日 11:56
  • ChinchikoPapa

    ssの音色に絡まるvoのやわらかい感触が、1970年代初めの「クロスオーバー」環境を感じさせてくれます。コリアの「カモメ」と、同時代のアルバムなんですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
    2012年04月11日 12:05
  • ChinchikoPapa

    NHKから代々木公園あたりへ、花を観ながらの散歩も楽しそうです。
    nice!をありがとうございました。>ばんさん
    2012年04月11日 12:57
  • Marigreen

    急性白血病とわかってから、死亡までの時間が短いと思っていたら、そのころはまだいい抗がん剤もなかったんですね。放射線治療はあったのかしら?それにしても30とは若死にですね。これからってときなのに、惜しい。ひごろ丈夫な人が急逝することが多いから、落合氏も「三日前には元気で取材しているのを目撃した人がいるのに訃報が届いた」なんてないように気をつけてください。さだまさしの文句ではないけど、「落合氏は、私より先に死んだらいけない。」
    2012年04月11日 16:52
  • ChinchikoPapa

    小田原の印刷局のサクラはきれいだと話には聞いていましたが、ほんとうに見事ですね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
    2012年04月11日 18:51
  • ChinchikoPapa

    1968年(昭和43)のコインといいますと、わたしが小学生のときに生れた100円玉です。当時、100円あればずいぶん駄菓子が買えました。w nice!をありがとうございました。>sigさん
    2012年04月11日 18:55
  • ChinchikoPapa

    ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>mwainfoさん
    2012年04月11日 18:57
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、コメントとnice!をありがとうございます。
    昭和初期は、放射線治療も抗がん剤もまったく存在しない時代ですね。おそらく、医師は輸液を注入するぐらいで、病勢にはぜんぜん手のつけようがなかったのではないかと思います。
    わたしも、いつ死ぬかわかりませんので(フクシマの放射線を、微量ながら恒常的に浴びつづけていると思いますのでなおさら)、できるだけ充実した日々を送りたいものだと思っています。
    さだまさしは聴かないので、なんのことを言われているのかわかりませんが(「精霊流し」かな?)、おそらくMarigreenさんよりは早く逝きそうです。w
    2012年04月11日 19:04
  • ChinchikoPapa

    コメントのCGIフォームがおかしいですね。
    書きこんでも、みんな消えてしまいます。(4/11 20:00)
    2012年04月11日 20:04
  • ChinchikoPapa

    東京聖十字教会は、まだ見たことがありません。60年代の建物がまだそれほど密ではなく、田畑も多かった当時の環境ではかなり目立つ建築だったでしょうね。nice!をありがとうございました。>opas10さん
    2012年04月11日 23:45
  • ChinchikoPapa

    御前崎灯台は、スラリとかたちのいい立ち姿ですね。
    nice!をありがとうございました。>駅員3さん
    2012年04月11日 23:51
  • ChinchikoPapa

    昔から崎陽軒のシュウマイ弁当は好きですが、特製弁当もうまそうですね。nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
    2012年04月11日 23:53
  • ChinchikoPapa

    お仕事とはいえ「あゆみ」さん、めちゃくちゃ下半身が寒そうです。
    nice!をありがとうございました。>kiyoさん
    2012年04月11日 23:57
  • ChinchikoPapa

    はたはた鍋サイトには、膨大なキャラクターが登録されているのですね。ビックリです。nice!をありがとうございました。>HAtAさん
    2012年04月12日 00:28
  • ChinchikoPapa

    わたしも年をとったら、子ども時代をすごした暖かい神奈川の海辺にもどりたいという願望がありますね。あちらも有史以前から現代まで物語の宝庫ですから、このサイト以上にいろいろ取材や発掘ができそうです。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
    2012年04月12日 10:54
  • Marigreen

    落合氏が「Papaさん」と呼ばれている経緯をやっと読み終えた。私は人がアドヴァイスや提案してくれたことをすぐには実行できないたちだ。だが、最終的にはやり遂げる。落合氏からの宿題もそのうちやってしまうつもりだ。で、私も「Papaさん」と呼ぶべきかどうか迷っている。「落合氏」と呼んでいるのは、何も、自分の独自性を誇示しようと思ってではなく、なんとなくそんな感じがするからなのだ。
    2012年04月13日 10:22
  • ChinchikoPapa

    草原の中にポツンとあるサクラは、それぞれの枝振りや威勢がよくわかって面白いですね。nice!をありがとうございました。>マチャさん
    2012年04月13日 13:07
  • ChinchikoPapa

    Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
    え~と、わたしはなにか宿題をMarigreenさんへ出してましたっけ?^^;
    「落合氏」と書かれますと「いったい誰?」・・・という感触がつきまといますが(もともと地名なので)、「Papaさん」と書かれますと「あっ、わたしのことだ」という条件反射が、この8年ほどの間にできあがっています。w
    2012年04月13日 13:12
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
    2012年04月15日 22:51
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
    2012年04月16日 14:28
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>komekitiさん
    2012年04月16日 14:31
  • ChinchikoPapa

    こちらにも、nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
    2012年04月17日 00:49
  • ChinchikoPapa

    以前の記事にまで、ごていねいにnice!をありがとうございました。>sonicさん
    2012年04月17日 13:35

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