これまで、戸塚(十塚/富塚)の早稲田界隈から、平川(江戸期には神田上水流域)に沿い、落合地域をへて百人町(大久保)あるいは柏木(東中野)地域にかけて、おおよそ江戸末期まで「百八塚」Click!(無数の塚)伝承が色濃く残っていたことを書いてきた。その後、農地化や寺社の境内化をまぬがれた前方後円墳や円墳が、早稲田や上落合、百人町に残存していたことも記事にしている。すなわち、早稲田大学キャンパスの富塚古墳Click!(高田富士=前方後円墳)、上落合の大塚古墳Click!(落合富士=おそらく円墳)、そして百人町界隈の金塚古墳Click!、真王稲荷塚古墳、仮称・「百人町」古墳などでいずれも前方後円墳ないしは円墳の古代墳墓だったと思われる。
これらは、江戸期の開発からはまぬがれたが、明治以降の農地開発や宅地造成、道路工事などによって破壊され、いずれも現存していない。(ただし富塚古墳の玄室の一部は水稲荷社の本殿裏に保存) また、江戸期に農地開発によって破壊された古墳は、玄室などから発見された副葬品が近くの寺社へ奉納されている記録がみえている。これら「百八塚」が展開したと思われるエリアで、ほとんどなんの調査もされず陸軍によって明治初期に整地されてしまったのが、戸山ヶ原Click!にいくつも存在した「丘陵」群だ。広大な戸山ヶ原の大半は、江戸期には尾張徳川家の下屋敷であり、その敷地は通称「戸山荘」と呼ばれていた。
寛文年間に造営された戸山荘Click!の回遊式庭園は、千代田城の庭園をしのぐ当時は日本最大の大名庭園だといわれており、今日の北の丸公園の3倍強、小石川後楽園の6倍ほどの広さで、本来は内藤家の庭園だった新宿御苑よりも、まだひとまわり大きい。その地名が示すとおり、戸山には多くの「山」や「丘」が存在していたのだが、今日ではそのほとんどが残っていない。1873年(明治6)に陸軍に接収され、翌年には早くも陸軍戸山学校が設置されて整地工事がスタートしている。つづけて、近衛騎兵連隊Click!をはじめ次々と陸軍施設が市内から移転し、練兵場や運動場、兵舎建設などにより戸山の起伏は徐々に平たん化されていく。
もちろん、そこからなにが出土したのかの記録も残されておらず、たとえ大規模な古墳であると認識されてはいても、関東に「規模の大きな大王クラスの古墳Click!があってはマズイ」という、明治政府(教部省のち文部省)の意向が早々に反映されただろうから、無視され「なかったこと」にされた可能性が高い。江戸期における、この地域の古墳発掘=農地開発によって出土した副葬品の記録が多いのに比べ、明治以降から戦前にかけてはより大きな開発が行われているにもかかわらず、そのような記録は意図的に取られなくなったのか、ピタリと聞かれなくなった。
都内に現存する「幸運」な古墳は、大名庭園の築山Click!として転用されたり、寺社が伽藍や社殿を建設するのに適した台地状境内Click!にされたり、さらには明治以降になると公園の見晴台Click!にされたりしたケースも多い。中でも、大名庭園の築山に流用され、明治以降も庭園が残っていたり公園化された古墳は、ほぼ原形をとどめているので貴重だ。(後楽園事例など) だから、戸山荘の庭園に展開していた築山も、古墳の墳丘をそのまま活用したか、池を掘った土砂をかぶせてより高く盛り上げた可能性がある。平川(現・神田川)の両岸は、戸塚(早稲田)の宝泉寺にゆかりのある昌蓮という人物が、室町期にこれらの墳丘=「百八塚」に祠を奉って歩いたという伝説が残っている。宝泉寺は、目の前に前方後円墳・富塚古墳(高田富士)を仰ぎ見る麓に建っていた寺だ。
いまに伝わる、尾張徳川家の下屋敷が描かれた絵図を参照すると、庭園内に存在していた丘、ないしは古墳の墳丘を思わせる築山や高台が、園内に10か所前後も存在していたことがわかる。もっとも、これらの丘や高台は寛文年間に行われた庭園造成のために、多くの起伏がならされたあとの、かろうじて残されたものなのかもしれないのだが・・・。これらの丘の中で、ほぼそのままの形状で残されているのは玉円峰(通称・箱根山)Click!のみとなっている。玉円峰は、「表御殿御広敷」と呼ばれた巨大な下屋敷の北北西にあり、庭園全体からみると中央やや南寄りに位置している。下屋敷の位置は、のちに陸軍戸山学校や軍楽学校が建設される、大久保通りに近いエリアだ。下屋敷の表門は椎木阪(坂)と呼ばれた、現在の大久保通りに面していた。
一方、庭園の範囲は牛込馬場下町の夏目坂のすぐ西側あたりから、東は現在の明治通りあたりまで、北は早大文学部や学習院女子大のあるエリアから、南は大久保通りまでを包括しており、その面積は旧・牛込区のおよそ6分の1を占めるほどの広さだ。庭園部だけでも、江戸期には16万7,000坪もある広大なものだった。現在にまでこの庭園が保存されていたら、代々木公園と並ぶ東京でも最大クラスの公園となっていただろう。そのあたりの様子を、1933年(昭和8)に発行された『庭園と風景』4月号(日本庭園協会)の「戸山荘の面影」から引用してみよう。
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本園は寛文年間に築造され、十一代将軍家斉時代が其の最盛期であつたらしい。当時細井平洲は「戸山二十五景詩」を賦して園内の勝地を世人に紹介し、園癖将軍家斉自身も「凡て天下の園池は当に此の荘を以て第一とすべし」と折紙をつけたほどであつた。斯様な最盛期を過ぎると此の庭園も漸く衰微に向ひ、安政年間には震災、風害、火災と重なる災害によつて樹木や建物を数多損傷し、大いに其の偉観を失つた。(針ヶ谷鐘吉「戸山荘の面影」より)
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さて、戸山荘の庭園内で築山とみられる、比較的規模の大きな丘陵がみられるのは、下屋敷が建つ位置から北側、あるいは北西側に多い。「大原」と呼ばれた一帯には、北西方向に「乾山」(けんざん)と呼ばれた“山並み”が連なり、反対の南東側には名前のない双子の大きな丘が見えている。「乾山」の山並みは、現在の学習院女子大から戸山高校あたりまで連続しており、もともとは陸軍の練兵場や近衛騎兵連隊の兵舎が連なっていた区画なので、早い時期から整地されてしまってなにも残っていない。また双子山のほうは、東京都の福祉施設となっているが、こちらも近衛騎兵連隊が設置されたとき、丘陵はすべて崩されてしまったのだろう。
下屋敷の北西100mほどのところにある、玉円峰(箱根山)は現存しているけれど、下屋敷の真西にあり五重塔の近くにあった大きめの丘は、やはり陸軍によって崩されており、現在は都営戸山ハイツが建ち並んでいる。また、玉円峰の南東には太田道灌が物見に使った高台があったようなのだが、この丘も陸軍軍医学校Click!の建設で壊されている。
さらに、庭園の中央にあった大きな池「御泉水」の北側にも、堂や社が建ち並ぶ区画があった。このあたりは、池を掘った土砂を積み上げて高台を造成したようにも思えるのだが、その中に「阿弥陀ヶ洞」(洞阿弥陀)という名称があり、かなり気になることについては少し前の記事Click!で触れている。戸山荘に隣接した高田八幡Click!から、江戸期に古墳の羨道とみられる横穴が発見され、以来「穴八幡」Click!と呼ばれるようになったエピソードが残るエリアなのだ。また、「御泉水」際の高台に並ぶ堂や祠は、室町期の昌蓮とどこかでつながっているのかもしれない。
このほかにも、絵図には残されていない丘や地面のふくらみが随所にあったのかもしれないが、いまとなってはそれを知る手がかりはまったく残されていない。かろうじて、戦後の焼け跡写真で露出した地面を眺め、空中考古学的な観察を試みる以外に方法がないのだ。
玉円峰(箱根山)は、その名の通り正円に近い丘陵から江戸期にそう名づけられたと思われるのだが、戦後の1947年(昭和22)に米軍が撮影した焼け跡写真を子細に観察すると、箱根山は正円というよりも、大原の南東部にあった双子山と同様に、ふたつの円墳状のふくらみを庭園造成の際にひとつに統合してしまったか、あるいは前方後円墳の前方部の土砂を後円部にかぶせてしまい、ひとつの「峰」に見立てているようにも見える。発掘調査の記録は一度も見たことがないので、いまだ古墳期の遺構が眠っている「百八塚」の名残りのひとつなのかもしれない。
◆写真上:かつて玉円峰(通称箱根山)と呼ばれた築山を、北側から眺める。
◆写真中上:上は、1887年(明治20)に陸軍によって制作された1/10,000地形図にみる戸山荘跡。すでに大半が陸軍によって整地され、このあと「御泉水」も埋め立てられている。下は、「戸山荘古駅楼絵巻」(作者不詳)に描かれた戸山荘内の風景。
◆写真中下:上は、1920年(大正9)に複写された「戸山荘庭園図」。赤線で囲んだ部分が、丘陵地あるいは高台が存在したエリア。1933年(昭和8)に撮影された玉円峰(下左)と濯桜川跡にできた沼(下右)で、いずれも1933年(昭和8)発行の『庭園と風景』4月号より。
◆写真下:1947年(昭和22)に撮影された、焼け跡の玉円峰(箱根山)と古墳活用の仮定ケース。
この記事へのコメント
hanamura
謂われのある場所では、妄想を膨らませています。
ChinchikoPapa
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興味深い伝承がある場所で、その内容に沿った資料や遺物が実際に見つかると面白いですね。寺社に奉納された出土品で、戦災により失われていないものが、とうに謂れの忘れられたかたちで、まだかなり残っているのではないかと想像しています。
ChinchikoPapa
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nice!をありがとうございました。>sonicさん
PULIN
こういった古墳に何があったのか/あるのか知りたいところですね。
「何か」が見つかったけれど記録も残さず闇に葬られてしまったのか、あるいは記録だけはどこかに極秘の形で収められているのかもしれません。
地方の古墳から銘文などの発見があっても、常に大和の王権との関わりの文脈でしか語られないので、いまだに「皇国史観」的な呪縛にとらわれているように思います。
ChinchikoPapa
明治以降、さんざん東京の古墳を破壊してしまってから、戦後になって結果論的に「巨大な古墳は稀少」などといっても、ぜんぜん納得できないですね。w おそらく神田川(平川)沿いも、ものすごい密度で古墳造営が行なわれた流域ではないかと考えます。
また、人口密集地であるがゆえ、寺院や神社にされてしまった古墳も、相当数にのぼるのではないかと思われます。ちょうど、本堂や本殿を高台(後円丘上)へ建立し、階段状の参道(前方)を設置するにはもってこいの“台地”だったのではないかと想定できますね。
稲荷山古墳の倍墳(砂礫層)から出土した鉄剣に刻印された「大王」を、古代史学者(文献史学者)はなぜ場違いなナラへ結びつけたがるのか、およそ理解に苦しみます。主墳である、稲荷山古墳の被葬者に仕えていた家臣の墓であり、下賜されたのは主墳の被葬者である「大王」だと解釈するのが一義的で自然じゃないかと、別に考古学者や地質学者でなくても感じますね。
近々、大正期に学習院の考古学発掘隊が調査した、「天皇陵」の記事を書きたいと思っています。戦後は、すべての「天皇陵」の発掘調査が宮内庁によって禁止されていますが、この学習院隊の発掘は唯一の例外です。なぜ発掘禁止にしたのかは、同志社大学の研究成果とともに、この学習院隊の科学的な発掘調査が明らかにしてくれていますね。w
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa