東京写真工芸社(旧・富士美写真館Click!)の佐藤仁様Click!は、1945年(昭和20)4月13日夜半の目白文化村空襲Click!を目の当たりにされている。戦時下、特に戦争末期の下落合で展開した光景は、思いのほか記憶されている方が少ない。なぜなら、住民たちは徴兵で前線に送られていたり、勤労動員で早朝から深夜まで工場などで働かされたり、あるいは女性や子供なら地方へ疎開していたりするからだ。自宅があるにもかかわらず下落合には不在がちで、戦争末期の“現場の記憶”が欠落していたり、かなり曖昧なケースも多い。
そのような状況下で、1945年(昭和20)4月13日の第一次山手空襲Click!や、5月25日の第二次山手空襲Click!を実際に目の当たりされた“地域の記憶”は、先にご紹介した中沼伸一様の証言Click!とともにきわめて貴重だ。同年4月13日の鉄道や河川沿いの空襲では、物流動脈としての鉄道線路や駅舎、また神田川・妙正寺川沿いに散在している中小規模の工場群をねらった爆撃だと思われるのだが、河川筋から外れた目白文化村Click!の第一文化村と第二文化村の大半が、その余波を受けて炎上している。
以前にも書いたけれど、B29の編隊は妙正寺川沿いを爆撃し、余ったナパーム焼夷弾Click!を川筋から練馬方面へと針路変更する際に、目白文化村上空でバラまいていったのかもしれない。同じ現象は、同年3月10日の東京大空襲Click!でも見られる。近年、情報公開で明らかになった米軍資料では、大川(隅田川)沿いの京橋区・日本橋区・深川区・本所区・浅草区・向島区・荒川区などを絨毯爆撃する計画で、搭載した爆弾や焼夷弾をすべて投下してしまうはずだった。ところが、これらの地域では火災が予想以上に大きく拡がり(爆撃効果が高かったため)、搭載した爆弾や焼夷弾に“余裕”ができてしまった。そこで、本所や深川のさらに外周部である、城東区Click!や向島区東部への反復爆撃が可能になった・・・という事実がある。
米軍は空襲の最中でも、上空から爆撃効果の測定・観察をクールかつ綿密に行っており、すでに炎上している被爆エリアを二重に爆撃してしまうというような、非効率的なことはほとんどしていない。換言すれば、“ムダ弾”を極力使わないようにしているのが、米軍による日本本土への空襲の実態だった。だから、初期の目標を破壊し目的を果たしたと判断すれば、それを別の目標へふり向ける“ゆとり”さえ持っていた。もっとも、機体への被弾による緊急時や、燃料漏れあるいは帰路燃料の残量が少なくなった場合などには、余った焼夷弾や爆弾をそこらへ投棄していくケースも見られたようだ。4月13日の、河川沿いにつづく工場地帯から外れた目白文化村への爆撃は、おそらく余った焼夷弾を“処理”したものではないだろうか。
第一文化村と第二文化村は、翌4月14日の朝まで燃えつづけ、目白通り沿いの落合第二府営住宅Click!まで延焼している。佐藤仁様は、目白通りへと迫る火災を反対側の椎名町5丁目(現・南長崎3丁目)から見ていた。そして、小野田製油所Click!の倉庫裏に積まれたいくつかのドラム缶が、炎に熱せられて大きな音とともに上空へ吹っ飛ぶのを目撃している。おそらく、内部にあった空気が火災で急激に膨張し、ドラム缶ごと大爆発を起こしたものだろう。でも、火災はなんとか収まり、小野田製油所のモダンなタイル張り店舗Click!は焼けずに無事だった。
池袋上空で被弾して撃墜されたか、あるいはB29へ体当たりした迎撃戦闘機の久の湯への墜落Click!も、佐藤様は目撃されている。また、おそらく1945年(昭和20)5月以降の戦闘爆撃機による空襲Click!だろうか、富士美写真館の北東約40~50mに建っていた御子柴邸の東側、椎名町5丁目4109番地あたりに250キロ爆弾が落ちて炸裂した。以前、小川薫様Click!のアルバムからご紹介した防空壕Click!の近くだ。この爆撃により、一家5人が全滅したことも佐藤様はご記憶だった。亡くなったのは、祭りの縁日などで露天商の“地割り”などを取り仕切る「的屋(てきや)」の元締め、今日的にいうならイベントのディレクターのような方の一家だった。
米軍機から250キロ爆弾Click!が投下された際、佐藤仁様のお父様である佐藤孝様は、たまたま撮影機材を手にして着弾地の近くにおり、その目前で爆発が起き爆風で吹き飛ばされた。爆弾の破片は、佐藤孝様の右側頭をかすめたが、防空頭巾を切り裂いただけで負傷はなんとかまぬがれている。そのかわり、爆弾の破片はカメラに当たって傷をつけた。佐藤仁様は、いまでも爆弾の破片痕が残るカメラ機材を大切に保存されている。
佐藤仁様は、撮影の練習のためにスタジオ内で上原慎一郎様とともに何枚も写真を撮られているが、椎名町や下落合など富士美写真館の周辺に拡がる風景や街並みを撮ることはあまりなかったようだ。当時のフィルムは高価であり、気軽に風景写真を撮影するというわけにはいかなかった。練習以外にフィルムを使うと、“師匠”である佐藤孝様からときどき叱られたようだ。
◆写真上:椎名町(現・南長崎)を歩いていると、戦災から焼け残った邸をあちこちで見かける。
◆写真中上:1941年(昭和16)に目白文化村から、椎名町方面を撮影した斜めフカン写真。
◆写真中下:左は、1947年(昭和22)に撮影された小野田製油所と周辺。第二府営住宅は焼け野原であり、製油所の背後まで火災が迫っていたのがわかる。右は、小野田製油所の現状。
◆写真下:ともに、1947年(昭和22)撮影の椎名町5丁目(現・南長崎3丁目)界隈。撮影角度が異なる空中写真で、250キロ爆弾の着弾地付近にはすでにバラックと思われる建物が見える。
この記事へのコメント
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
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ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
siina machiko
Suiton
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
東京写真工芸社をお訪ねしたとき、まず最初にお訊ねしたのがsiina machikoさんからお借りしていたアルバムに写る方々の特定で、その次にうかがったのが250キロ爆弾の着弾地点でした。しかも、当時の富士美写真館からそれほど離れておらず、お父様がたまたま近くにいらして爆風で吹き飛ばされた話をうかがいビックリしたしだいです。もう少し着弾位置がズレていたら、上原家も危なかったですね。
佐藤様は、爆弾の破片が当たったカメラを、たいせつに保管されているそうなのですが、ちょうど取材にうかがったときが七五三の記念写真の予約時期と重なって、お客さんがみえるものですから早めに切り上げさせていただき、被弾したカメラを拝見し損なっています。
写真の右上にある、正方形のものはなんだろう?・・・と思っていました。戦後2年が経過している空中写真ですので、子ども用のプールか何かが造られていたのかな?・・・と想像していたのですが、防火用水だったのですか。しかも、ここが防空壕のあった位置で、その穴を利用して用水プールが建設されたんですね。
いろいろと、椎名町側の戦前の様子や街並みの姿、街角の風情などが、落合地域と同様に頭の中でイメージとして見えてきました。ある街角を眺めたとき、その場の風景や去来した人々が年代をさかのぼって順番に見えるようになると、またさまざまな物語が見えてくるように思います。落合地域では、そのイメージ形成がかなり進捗しているのですが、椎名町(長崎地域)も少しずつ見えるようになると嬉しいのです。
ChinchikoPapa
目白4丁目(当時の目白町4丁目)が空襲された時期といいますと、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲の際ですね。お祖父様の焼失した家は、焼け残った家々が多い4丁目東側の境界線のどこかにあったものでしょうか。記事末に、1947年(昭和22)現在の目白4丁目の焼け跡写真を掲載しました。ご参照ください。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
sig
本筋と離れてごめんなさい。「的屋(てきや)」の元締め、今日的にいうならイベントのディレクター」という個所は言い得て妙。大笑いしてしまいました。
Suiton
ChinchikoPapa
「イベントディレクター」と書いてしまってから、「コーディネーター」のほうが正しかっただろうか?・・・と悩んでおりました。w 「的屋の元締め」という職業を、現代風に表現するのはむずかしいですね。東京では、浅草に現役の女親分がいらっしゃいますね。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
徳川邸の西側に拡がる、焼け跡あたりの写真をクローズアップしてみました。記事末をご参照ください。徳川邸から下落合寄りの一帯は、屋敷林が濃かったせいでしょうか、なんとかかろうじて焼け残っていますが、西側は椎名町あたりまでが焼け野原ですね。
佐伯米子について、お母様がなにかエピソードをご記憶でしたら、ぜひご教示ください。よろしくお願いいたします。
しいなまちお・K
久の湯に迎撃戦闘機?が墜落した話をご両人とも認識だったとは!
また小野田製油のドラム缶爆発の話など克明に、しかも短時間でのレポート、いつもながら驚嘆いたします!
残念!忙しくてPapaさんのブログを見逃していましたので昨日は、その話も聞かず終いでした。
ところで、また宣伝になりますが、赤塚不二夫が住んだトキワ荘の隣の現存するアパート「紫雲荘」を活用したプロジェクトで、
今、紫雲荘に住んでいるマンガ家たちの作品展「マンガ@紫雲荘」が2/1から始まり、2日のNHK首都圏Nワークでも取り上げられました。
(詳細「トキワ荘通り」http://blog.goo.ne.jp/tokiwasou-street)
そのお一人の桐木憲一さんは、つい最近「東京シャッターガール(1)」の単行本を上梓され、大反響、現在アマゾンでは売切れになっていますが、その終章の第25話では、まさに東京写真工芸社をテーマに描れています。是非ご一読をよろしくお願いいたします。
ChinchikoPapa
戦闘機が墜ちてきた事件は、250キロ爆弾が炸裂した件とともに、椎名町ではやはり強烈な記憶として残っているんでしょうね。
落合地域では、その戦闘機が撃墜したものでしょうか、B29が学習院下の国産電機へ墜ちてきた事件と、「敵性外国人」の強制収容所と思われる規模の大きなめぼしい建築めざして、ドラム缶の救援物資が落とされた件が、強い印象とともに語られることが多いようです。
「東京シャッターガール」、ちょっと面白そうですね。w 池袋や長崎地域の名所をまわる、女の子のお話でしょうか。ほんとに品切れで、入荷待ちになっています。入荷したら、ぜひ読んでみますね。
情報をありがとうございました。^^
Suiton
今日母に米子様の話を聞いてみました。自宅の斜め前(徳川邸の隣、現在イチョウに木のある辺り)にお住まいだった画家(山田様)?が米子様のご友人で、そこでお会いした事があるようです。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
山田様という方は、戦後に三岸節子や藤川栄子らと結成した、女流画家協会の関係者のひとりなのかもしれませんね。発足時には、「山田」姓の画家はいませんが、その後、なんらかの関わりをもったメンバーなのかもしれません。女流画家協会は、今日まで活動をつづけていますので。
あるいは、佐伯米子が絵を教えにいっていたお屋敷・・・という可能性もありそうですね。「山田」姓に、ちょっと気をつけておきます。
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
ChinchikoPapa
nice!をありがとうございました。>sonicさん
tama
それと、蛇足ですが、いつも私に椎名町の昔の話を教えてくださる、椎名町教会の初代牧師のお嬢様が、画家の「伊藤廉」の姪になることがわかりびっくりしました。フランスでセザンヌに師事し、留学時代は佐伯祐三のアトリエを訪ねていたようです。
ChinchikoPapa
また、今度も貴重な情報をありがとうございました。おそらく油の詰まったドラム缶が爆発したとき、ものすごい音がしたのでしょうね。同時に、周囲のみなさんは爆音に驚き、その方向をすぐにご覧になったんだと思います。
爆発と同時に油へ引火し、大きな火柱が上がったのかもしれません。それほどの爆発にもかかわらず、目白通りに面した小野田製油所のタイル張りの建物が無事だったのは、おそらくドラム缶の上下の「フタ」がタテに爆発したため、ヨコ方向への被害が比較的軽くて済んだ・・・ということなのかもしれませんね。「火柱」の目撃情報が、タテ方向への爆発を想起させます。
鉄道沿いや駅周辺、河川沿いをねらった4月13日の空襲では、神田川・妙正寺川沿いの住宅街に目白文化村の第一・第二文化村、そして目白通り沿いの第二府営住宅までが延焼していますが、5月25日の絨毯爆撃では、焼け残ったエリアもほとんど焼けてしまったようです。
牧師のお嬢様が伊藤廉の姪というのも、すごい偶然ですね。^^ 伊藤廉は、佐伯の北野中学の先輩にあたる林重義と親しいですので、上落合の寺斉橋近くにあった彼のアトリエも訪ねている可能性が高いです。また、伊藤廉と林重義とは1928年(昭和3)2月、フランスのモランで佐伯祐三と合流してますね。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-06-25