少し前にご紹介した、1936年(昭和11)落成の黒田小学校Click!(のち文京区立第五中学校)の新校舎が現存し、ちょうどいま解体されるところだというので見に出かけた。同校舎は戦後、黒田小学校から第五中学校へと変わっているのだが、窓枠をアルミサッシに入れ替えただけでほとんどそのまま使われつづけてきた。でも、わたしが多大な興味を抱いたのは元・黒田小の校舎ではなく、大江戸(おえど)の千代田城や市街地(おもに東部地域)へ配水されていた、神田上水Click!の開渠遺構がそのまま発見されたので、ぜひ見学してみたくなったのだ。
椿山Click!の下、関口の大堰Click!手前から分岐した神田上水は、小日向Click!の崖線下を開渠のまま流れつづけ、やがて水戸徳川家の上屋敷内(現・後楽園Click!とその周辺域)へと注いでいた。邸内で暗渠(水道管)となり、外濠の水道橋Click!をへて千代田城内へと給水され、さらには神田、日本橋、京橋、銀座界隈、また上野や秋葉原、少し遅れて本所、深川、浅草方面まで水道網は拡がりつづけた。関口大堰から下流は江戸川Click!と呼ばれ、舩河原橋Click!から外濠へと注いでいる。
小日向崖線の下を流れていた神田上水(通称「白堀」)が、元・黒田小学校の解体工事現場から、ほぼそのままのかたちで出土したのだ。1899年(明治32)に淀橋浄水場Click!が完成すると、神田上水は廃止されてしまうのだが(水道網は明治末まで使われた)、その際に「白堀」は壊されて撤去されたと想定されていた。特に黒田小学校は、関東大震災Click!後の耐火コンクリート建築のため、基礎工事が行われたのと同時に「白堀」もとうに破壊されたと思われていた。ところが、堀を覆うように土砂がかぶせられただけで、黒田小学校のモダンな鉄筋コンクリート校舎はその上に建てられていたことになる。先日の記事で掲載した写真の中で、ちょうど同校のプールが写る真下あたりで神田上水の遺構が発見されている。
大江戸の市街地は、水道(すいど)が網の目のように張りめぐらされた、当時のロンドンと並ぶ上水道インフラClick!が完備された都市だった。(城)下町Click!には、水道の「井戸」はあったが地下水を汲みあげる生活用水としての井戸は存在していない。江戸湾が近い各町内では、井戸を掘っても潮気を含んでいるので、しょっぱくて役に立たなかった。通常よりも深く掘って、例外的に真水を掘り当てた白木屋呉服店Click!(のち東急百貨店)の「白木井戸」、神田の銀川岸「主水の井戸」、日本橋の「三日月の井戸」(馬喰町)と「山伏の井戸」(久松町)、浅草観音堂の「御供の井戸」、そして亀戸の「亀井戸」(梅屋敷内Click!)などが必然的に評判を呼んでいる。
一方、武家が多く居住した山手では、あちこちで井戸が掘られ、豊富な湧き水が生活用水として利用された。山手といっても、(城)下町としての旧・山手市街のことで、初期の東京15区でいうと千代田城のすぐ西側や北側がほとんどだ。それら旧・山手の井戸の中でも、とりわけ水質がよく美味しい水は「名水」と呼ばれ、大江戸じゅうの人気を集めていた。
江戸期には、水道網の普及が遅れた大川(隅田川)東岸の本所や深川エリアでは、「水売り」のエピソードが数多く残っているけれど、旧・山手の「名水」を江戸の街で売り歩く「水売り」あるいは「水屋」も存在していたように思う。当時の高級料亭が、水道の水を使わず「名水」を取り寄せているのでもわかるように、水道はあくまで市中どこででも手に入る御留川(神田上水)の水であり、「名水」はその土地ならではの清廉な泉や湧き水ということで、おのずと価値づけが異なっていたのだろう。有名な料亭・八百膳では、店の水道水を使わず客を待たせたまま、わざわざ神田上水や玉川上水の上流域で水を汲ませて運び料理を出した・・・なんて逸話Click!も残っている。
江戸期の「名水」と呼ばれた旧・山手の井戸には、以下のようなものがある。
大江戸の市街地に限定せず、朱引き墨引きの江戸府内全域を対象とした「名水」選びが行なわれていたら、おそらく落合地域や高田、戸塚各地に掘られた井戸のいくつかも、「名水」の仲間入りをしていたかもしれない。いまでこそ、地表がアスファルトやコンクリートで覆われClick!、地下水脈の位置が戦前よりもかなり下がっていると思われるのだが、1960年代でさえバッケClick!(崖線の急斜面)に鉄パイプを突き刺しただけで、清廉な水が噴き出した土地柄だ。東京の井戸水は、おしなべてやわらかで美味しい。富士山の火山灰である関東ローム層に濾過された、この土地ならではの独特なうま味をもっている。下落合の井戸や、泉の湧き水も同質の味わいだ。
夏は冷たく、冬は温かい水を供給してくれる井戸は、いま、防災用の飲料水確保の目的であちこちに残されている。中村彝Click!アトリエの復元Click!でも、もともと彝が掘らせたのとほぼ同じ位置(台所の北側)に、改めて防災用も兼ねた井戸が設置される予定だ。冷蔵庫がなかった時代、夏場は生モノを井戸深くに吊るして保管していたようだが、高田馬場に掘られた特別冷たい井戸の「冷蔵庫」で、とんでもない騒ぎが持ち上がるのだけれど、それはまた、別の物語・・・。
◆写真上:小日向の崖線斜面に建つ、1936年(昭和11)築の旧・黒田小学校の耐火校舎。
◆写真中上:上は、1852年(嘉永5)に制作された尾張屋清七版「礫川牛込小日向」切絵図。下左は、窓枠がアルミサッシになっただけで元の姿を残す旧・黒田小学校の校舎。下右は、同小学校のプール跡の地下から初めて発見された神田上水の開渠(白堀)の発掘現場。
◆写真中下:同発掘の現場で、文京区文化財保護審議会は「白堀」遺構の保存を発表している。
◆写真下:上左は、下落合の舟橋邸Click!庭先に残る井戸。上右は、向島百花園に残る庭井戸。下左は、和田山の哲学堂Click!に残る井戸。下右は、青山の梅窓院(青山氏菩提寺)に残る井戸。
この記事へのコメント
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大磯でも水不足の時は平塚から、水売りが来たという話がありますが、何時の時代の事でしょうか。海水浴客が多い夏には水不足も多く、井戸水も使えない場所があり大井戸に集まったと言う事も聞きました。震災以後井戸掘りが繁盛と昨日の朝のNHKのニュースにもありました。3000円位の自家製井戸掘り工具で井戸を掘った人も出て来て興味深かったです。
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うちも家の裏に井戸がほしいのですが、うっかり素人が掘ると湧水状になって止らなくなり、家が水没すると怖いですのでw、家族ともども思案中です。
大磯へ平塚から水売りがきたのは、相模川の総合開発が進んで神奈川県南部の水不足が解消される前、昭和20年代以前のような気がします。わたしが虹ヶ浜に住んでいたころ、第三次相模川総合開発で貯水池が次々と上流域に造られていましたが、すでにそのころには東京西部へ水を援助するほどの余裕ができていました。
大磯の井戸といいますと、地福寺のやわらかい井戸水をすぐに思い浮かべます。味覚の敏感な方なら、「しょっぱい」と感じるかもしれないほど、ナトリウム分の多そうな水ですが、大磯に出かけると必ず立ち寄って味見をするのが習慣になってしまいました。
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nice!をありがとうございました。>ENOさん
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nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
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1枚にまとめた、輸入のお得盤がでてましたね。ジャケットのデザインは、当初とはまったくちがっていたと思いますが・・・。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
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